ダイナーⅡ

平山夢明

ダイナーⅡ

11

〈川沿いを辿るな〉というマルキリの言葉も、喉の渇きには勝てなかった。
 歩き始めこそ斜面を登り、稜線と思しき部分を目指していたのだが、そのうちに喉が直に絞られるような渇きに咳もできなくなってしまった。

 どこかに水場があるかもしれない、もしかしたら登山者に遭遇できるかもしれないと進んだが、藪漕ぎもされず伸び放題の森の中では、自分がどちらに向かっているのかも見当がつかなくなっていた。そのうち、自分はもしかすると同じ場所でぐるぐると大きな円を描いているだけではないかと思うと、胸が悪くなるような吐き気さえ起きた。

 あるところで、下方に川の水がキラキラと光っているのを見た途端、わたしのなかの結界が「プツン」と切れた。そのまま斜面を落ちるように下ると、そのまま川岸に駆け込み、思いきり水を飲んだ。そこでザックのなかにあったキャラメルを口にすると、しばらくは何もする気がなくなってしまい、繁茂する樹で狭くなった空を見上げていた。

 彼らは今頃、どこにいったのだろう......。そんなことを考えていると、猛烈な空腹に襲われた。わたしは、あとひとつだけ、あとひとつだけと自分に云い聞かせるようにしながら、次々とキャラメルを口に入れていた。気づくと12粒入りの箱には4粒が残るだけだった。強烈な甘さに喉が渇き、また水を飲んだ。なんだか全身の筋肉と骨が緩んでしまったようで、力が入らない。近場に落ちていた枝を拾うと無理に起き上がり、下流を目指すことにした。とりあえず、川沿いであれば水の心配は要らないのだ。それに、沢登りや渓流釣りの人にも出会えるかもしれない。

〈莫迦みたい......莫迦みたいだっ〉と、歩くたび、いつのまにかお経のように呟いていた。マルキリに今さらのように腹が立っていた。もちろん、パピを使って自分をおびきよせた九十九、それにも増して、今となっては浅はかとしか云いようのない自分に一番腹が立っていた。年甲斐もなくボンベロに再会できるなどと信じた自分が恥ずかしく、惨めだった。

 そんな莫迦なことが起きるはずがないのだ。菊千代が助かったのはあの状況下で敵の的にならなかったからだし、ましてや動物だ。死体と見られていたはずの九十九もまた同じ。あの猛烈な爆発と戦闘をくぐり抜け、敵が血眼になって斃(たお)そうとしていた彼が生きていられる確率は、素人の自分から見ても限りなくゼロに近い。
 ──きっと、わたしは間違っていたんだ。
 冷静にとらえれば、彼がわたしに遺した最期の台詞は、あの時点における彼の精一杯のプライドだったことがわかる。それはわかっていたのに、事件の興奮や時間の経過やらによって、現実をロマンスでくるんだ自分は愚か者だった。

 もし無事に山を下りることができて店に戻れたら、トトとサトミと温泉に行き、地元の有名店なんかで食事をしよう。パッと憂さ晴らしをしたら、それからは自分は自分の未来(みち)を進んだ方が良い。九十九がわたしをどう利用したいのか想像もつかないけど、唯一ハッキリしているのは、わたしはあそこで生きることを望んでもいないし、望まれてもいないということ。パピやダフがどんな経緯(いきさつ)で、あの奇妙な旅を続けているのか気になるし、気の毒にも思うけれど......。
 それに、マルキリや廃屋でジョーを拷問していた男たち、あの杣(そま)小屋のようななかで死んでいった男たちが、どう関わっているのか気になるけれど、でも......。

 わたしはなぜか両手を広げて見ていた。
 知らず知らずのうちに、あの風変わりなバイト──キャンティーンに売り飛ばされるきっかけとなった悪夢に手を出したのと同じことを繰り返していたんだ。そのことが何よりも腹立たしかった。

 川沿いは飲み水の不安がないという利点もあったけど、逆に足場が悪いという難点もあった。踏むとぐらぐらする石ばかりだし、揺れずにそのまま沈み込むようなものもある。どちらにせよ、そのたびに転ばぬようバランスを取らなくてはならない。ロクな食事も睡眠もとらずに歩き続けるのは苦痛でしかなく、すでに倒れている枝をまたぐのも困難なほど太股はカチカチになり、信じられないほど重くなっていた。それに気がつくと、躯のあちこちが痛痒い。躯を洗っていないせいだと思っていたが、水を飲もうと川に差し出した手を見て驚いた。肘の内側から手首にかけて、赤い発疹がびっしりとできていたのだ。触れるとむず痒いところと、刺すように痛むところがある。わたしは水の中に手を入れて熱を冷ました。
  
 森では都会とは別の音がずっとしている。川のせせらぎもそうだが、風に揺れる枝の音、また何かの気配のようなものを感じることもあった。それが単なる疲労による幻覚なのか、それとも実際に何かがいるのかはまったくわからなかったし、いま此処に至っては別にどうでもよくなっていた。後から考えると、この辺りからわたしの脳味噌は疲労のあまり〈空っぽ〉になっていたのだと思う。でなければ、あんな滝を下ろうとは思わなかったはずだし、マルキリの言葉を思い出していたはずだったからだ。

 突然、水の音が大きくなったような気がして前を見ると、川が消えていた。いや、正確にはボッキリと折られたように先が見えなくなっていたのだ。近づくとそこは絶壁と云ってもいいほどの崖で、水が野放図に落下していた。
〈たき......〉
 わたしは、ネットの写真で見たことのある光景を前に自分が呟くのを聞いた。別のルートを探して見回すと、マルキリを背負って登ったような抉られた岸がある。腹這いになりながらなんとかよじ登れば、繁茂している森の中に戻ることはできそうだったが、あまりにも素早く易々と落下していく水を眺めていると、川は楽ちんに感じられた。それに、長い間かけて抉られているであろう滝壺に溜まった水がクッションになって、自分程度ならば受け止めてくれるようにも思えた。わたしは飛び込む気などさらさらなかったが、崖の縁に近寄り、しげしげと見入った。

〈どうする?〉
 自分に聞く。口に出した時点でやることは決まっていた。崖に生えている蔓や枝や岩を手がかりにして下りるのだ。そして、もし何かの弾みで滑るようなことがあったら、渾身の力で滝に飛び込めば良い。そうすれば、水のベッドが受け止めてくれるだろう。それなりの衝撃はあるだろうが、酷いことにはならないはずだ。

〈よし。やってやる〉
 ザックを背負い直し、紐を躯にきつく縛りつける。そして崖の左側、滝に一番近いところに生えていた木を頼りに下りることにした。まずは縁に腰掛ける。足の下はズッポ抜けていた。三階のベランダから見下ろした感覚に近いような気がした。深呼吸すると空が見えた。もうそろそろ暮れかけている。森の夜が早いことは学んでいた。五分後にはあの川岸を歩いているんだと自分に云い聞かせ、わたしは躯をズリ降ろした。

 が──後悔は思ってもない形で訪れた。上から見たときにはわからなかったが、崖は途中で仰け反り、斜面(オーバーハング)になっていた。つまり、抉れているのだ。当然、下るとなると手がかり足がかりがまったくないことになる。苔か黴でぬらついた岩を握ったまま、わたしは動けなくなった。戻るルートなど考えもせず適当に掴み下りてきたのと、下りでは楽々と掴むことのできた枝のすべてが手を離すと向きを上にしてしまうので〈下から掴み直すには〉手が届かなくなるのだ。

 わたしは不細工なヤモリのように、岸壁に張りついて動けなくなっていた。壁伝いに震動が伝わってくる。眼下の地面はまだ遠かった。それに段ボール大の岩もごろついていた。すでに転び損なって爪先を何度もぶつけていたわたしは、川の石が街の石の何倍も硬くて痛いことが身に沁みていた。あんな中に落下したら、それこそ全身を骨折したまま息絶えることになる。
〈魚の餌や獣の糞になりたくなかったら......〉マルキリの言葉と侮ったような顔が浮かんだ。だが、痙攣を始め、いまにも枝を離してしまいそうな腕を見ると怒る気力も失せていた。
「どうすりゃいいのよ!」わたしは叫んでいた。「どうすれば!」
 その時、滝の音に混じって上から音がした。顔を向けることはできなかったが、あきらかに川の音とは別の音──人の声かもしれない──がした。もしかすると、無謀にも崖を下ろうとしている自分を登山者か猟師が見かけ、助けにきてくれたのかもしれない。音は近づいていた。
「ここよ!」わたしは力の限り叫んだ。「助けて!」
 その瞬間、ゾッとした。
〈助けて〉と口にした途端、自分と世界が対等ではなくなってしまった。必死に握っていた自分という実体が溶解していくような感じ。自分を急激に無力な赤ん坊だと甘やかに認めていく居心地の良さ。ここからは同じことをずっと叫び続けるだけ、そんな想像を止めることができなかった。わたしは完全に恐怖に支配されていた。

「たすけてぇ! おねがい! たすけてぇ!」
 わたしは莫迦のように叫ぶ自分の声を聞いた。壁に顔を擦りつけるようにして見上げ、ぽっかりと暢気(のんき)に浮かんだ雲を遮って、汚れた帽子の先が、日焼けした顔が現れるのを懇願した。今ではハッキリと男の人らしい声がしていた。わたしを捜しているようだ。すぐそこの滝の落下口あたりまで声はきていた。

「ここよ! ここ!」ありったけの力を振り絞って、わたしは叫んだ。
 その刹那、黒い影がのっそりと姿を現した。そして、呆気に取られているわたしの目前を勢いよく滝壺に向かって落ちていった──朽ち木だった。
 真ん中を洞(うろ)にしたパイプのような幹が底石に当たり、どんどろどんどろと音を立てて転がっていっただけだった。

 苦笑も出なかった。文字通り莫迦みたいな死がゆっくりとわたしに覆い被さろうとしていた。キャンティーンから生き延びたのに。あんなにボンベロが守ってくれたのに......。
 落下した自分のイメージがぽつぽつと泡(あぶく)のように浮かんでは消えた。両足を岩の鋭い角に叩きつけ、体内から聞こえるくぐもったボキッという音を聞きながら焼けつくような痛みに悲鳴をあげることもできず、血反吐を吐きながら苦悶する自分。信じられない場所から白い千歳飴のように突き出している骨に目を丸くしている自分。膝や肘が間違った方向に折れているのを半笑いしながら眺めている自分。

 手が自分のものではなくなっていた。もう自分が何かを掴んでいるのかいないのかさえ感覚がなかった。
〈面白かったぜ......オオバカナコ〉
 突然、あの人の声が聴こえた。
〈次はもっと旨く焼け〉
 何かがわたしのなかで弾けた。頭にかかっていた膜が剥がれ、突然、周囲の音や視界がクリアになった。無意識に深呼吸をしていた。
 見ると、五十センチほど先に子犬の頭ぐらいの出っぱりがあった。あそこから滝壺に飛び込めば......運が良ければ......生きられる。でも、そのためには二度ジャンプしなくてはならない。いや、そうじゃないんだ。二度、ジャンプを成功させなくてはならない。

 下を見ると、先ほどの朽ち木が静かに川岸に打ち寄せられて止まるのが見えた。砕けたり、折れたりしている気配はなかった。滝壺は深い。見事に二段ジャンプができれば......もし飛距離が足りず、出っぱりの手前で落ちれば剣山のような岩塊の餌食だ。
 やり直しはきかない。駄目なら野垂れ死に。

 そうだ。わたしはまだやり残していることがある。あの人に完璧な〈ボンベロの背中(ボンベロズ・バック)〉を食べさせなくちゃいけないんだ。
「そうだった......そうだった」口に出していた。「そうなのよ......そうよ」

 わたしは子犬の出っぱりだけを睨んだ。

* * * * * * * * * * * * * * * * * * * 

『ダイナーⅡ』をより楽しむために、未読の方はぜひ『ダイナー』から!
〈主演〉藤原竜也×〈監督〉蜷川実花のタッグが話題の映画『Diner ダイナー』(2019年公開)の原作本はこちらです↓

bunkoDINER_S.jpgのサムネイル画像のサムネイル画像のサムネイル画像のサムネイル画像のサムネイル画像のサムネイル画像

Profile

平山夢明

1961年、神奈川県川崎市生まれ。1994年にノンフィクション『異常快楽殺人』を発表、注目を集め、1996年に『SINKER──沈むもの』で小説家としてもデビュー。2006年には短篇「独白するユニバーサル横メルカトル」で日本推理作家協会賞を受賞。2007年、同タイトルを冠した短編集が「このミステリーがすごい!」第1位に選ばれた。2010年『ダイナー』で第28回日本冒険小説協会大賞と第13回大藪春彦賞をダブル受賞。2017年より「週刊ヤングジャンプ」にてコミック化され、大人気連載中。

Pick Up Book

  • かがみの孤城
  • i
  • 私のスポットライト
  • ビオレタ

Pick Up Book

  • かがみの孤城
  • i
  • 私のスポットライト
  • ビオレタ