ダイナーⅡ

平山夢明

ダイナーⅡ

13

「いぐなり天(てん)がきや降ってきやがっち」
 意識が戻り出すと、殴られた後頭部を中心に痛みが噛みついてきた。歯を食いしばっても呻き声を止めることができない。苦悶の声と、躯のなかの鼓動の合間に、ぼそぼそ喋る声が聞こえてきた。
「アレだべしか?」
「形(なり)ぃんでねぇが......あいだばねどは限らねぢ。のさしろあげなとっがら、ドブっどぎだんだものなす」
「ヅレもねしな」
「それし。問題はそいだ」
「あやがしのぅ」
 声はふたつ。いずれも野卑な響きを持っていた。そばには火が焚かれていて、躯の右側が温かい。子どもの姿はなく、別の誰かが焚き火の向こうに転がっていた。
 不意に髪を鷲掴みにされ、頸(くび)がへし折れるような角度で引き上げられた。見た目も大きさも獅子舞そっくりの男が、釣り上げた魚のようにわたしを引いていた。毛皮のような胴衣(チョッキ)を着けている。
「ヤゲン。こいは婆さまだば。鼠の尻(どんず)だ。旨ぐねず」
「うな゛」
 獅子舞の声に呻くように返事をした男は、細身で焚き火を背にしていたが、手の中で何かを剥いては口に運んでいた。
「ギンガン、ぬしゃ、ぬしの仕事ばすろ」
「けぇ。まだアニぃ風の吹きまわしだなっす」
 ギンガンと呼ばれた男は髪から手を離した。
 解放されたわたしは半身を立て直し、あらためて周囲を見回した。
 ここは森の中に偶然できた小さな広場だった。焚き火の脇に人がひとり。死んでいるのか生きているのか目を閉じたまま、ぴくりとも動かない。ヤゲンとギンガンは童話に出てくる昔の猟師のような服装だった。細長い筒を背負っていて、そこから矢羽根が固まって出ていた。両腕は樫の木のように太く、皮帯が手首から肘まで巻かれていた。少し離れたところに小さなテントがふたつ。一方は中で明かりを灯しているのか、ほぉっと光っていた。
 すぐ横の杉が、大きな枝を地面に向かって折れ垂らしていた。
「おめはあいば蹴散きやかして、ここさ投げだすれたんだ」
 ヤゲンが振り向いた。肩まである長い髪をそのままにした彼の顔はズタズタで、慌ててひん剥いた茹で卵のようだった。
「運のええ婆さまだなす。否(うんにゃ)、んだろが......んではねが......」
 ヤゲンはブッと噛んでいたものを吐きだした。火の脇に落ちたそれを見て、わたしは反射的に立ち上がった。指がついていた。
「莫迦っだれ。それは猿侯(えでこ)の童(わらし)だ、人(しと)だばね。しがむば肉(しし)臭ぐて快適だ」
 たぶん嗤ったのだろう、ヤゲンは顔をしかめた。
「も、ひと月も山ぃ棲んでるきゃしじゃあ。肉(しし)はぁ、虫、蛇、猿(えで)だ。山鯨ぁや山親爺は手が掛かる。しょんがだね」
『ぎええええ』
 突然、生きたまま腸を掻きまわされたような絶叫に続き、枝を折る音がした。振り返ると、焚き火の向こうにギンガンが屈んでいた。そして倒れていた人の腕を、膝を使い、枝のように折っていた。ベキリと甲羅を踏む音がすると、相手は魚のように跳ねた。
 わたしよりも若い女性だった。服装が登山者のものではない。
「はは。人みでな声出したの。あはは。ほれ。泣ぐな! 泣ぐじゃね! 泣ぐなっつの!」
 ギンガンは笑顔を浮かべたまま、泣き叫んでいる人の顔を殴りつけた。
「やめっ!」
 止めようとしたわたしの首に、ヤゲンの鉈(なた)が当てられた。
「大丈夫(でぇじよび)。あれらの手こよろたの腱は、全部ずっぐり抉ってあらかき。ので我らぃ手向かいはできねず」
「あなた、なに云ってるのかわからないわ」
「東京弁で山で生き残れるか、まぬけ」
 重たい刃先が微動だにせず、首の皮一枚に引っかけられていた。にもかかわらず、ヤゲンの声は空を見上げるように暢気(のんき)に聞こえた。
「おどねしぐ、よぐ見でおかい。わぁが生ぎでいだばの」
 激痛が限界を超えたのか、女は悲鳴ではなく、怒り狂った唸りを上げた。
 ギンガンが鉈を彼女の顔の前に落とした。掴もうとするが、腕は濡れた紐のように躯の脇でのたくるだけだった。
「あっははは! 見れっ見れっ、ヤゲン! いっそ我楽多(がらくた)のようだのあ!」
 わたしはヤゲンを睨みつけた。するとヤゲンが急に興味を失ったかのように、ギンガンに云った。
「ほきや。早ぐ仕事すろ」
「ああ。んだった、んだった。おい、こいづはおめぇの仲間だつ?」
 殴る手で髪を引っつかむと、ギンガンが彼女の顔をわたしに向けた。
 彼女はわたしを睨みつけるように見て、「知らない」と呟いた。
「ふん。ほんとがし。おめー。よぐ見れ」
 わたしはヤゲンに背中を突かれ、よく見えるように焚き火の向こうへと回った。鉈の刃は相変わらず首筋に押しつけられていた。
 ギンガンが彼女の躯を引きずり起こすように持ち上げ、わたしの目と鼻の先に近づけた。痛みに眉をひそめたまま、彼女は表情を変えない。わたしはヤゲンがわたしたちの顔に浮かぶものを見逃すまいと凝視しているのを感じた。
「どだ? ごまかんだってまねぞ。こっつはまるっとお見通しのんだ」
「知らないね。こんなおばさん」
 ギンガンが判断を仰ぐようにヤゲンを見上げた。
「おめぇーは本当さ、なもしきやねのが?」
 ヤゲンがわたしを見た、さっきとは打って変わって人形のように表情がない。
「わたしは友達と登山に来て迷っちゃったの。それだけよ。この人とは今、初めて会ったの。本当よ」
 再び、ギンガンとヤゲンの視線が交差した。
 どこかで鳥の声がする。
「だば、なして荷物がねんだ」ヤゲンが云う。
「盗られちゃったのよ、熊に。この上で寝てたら襲われたの」
「それでおめぇ! 空かきや降ってきたのかし? あっははは。こいはどってんごくなや!」
 ギンガンが大口を開けて笑った。
 しかし、ヤゲンは笑わなかった。
「どげな熊だ」
「子連れよ。わたしと同じぐらい......」
「どした、ヤゲンちゃ......」
 ギンガンが細い声を出した。
「......移動すらぞ。準備ばすろ」
「ええ? でゃぐかい?」
「こらへの熊は人の味ばおべてら可能性があら。あききやまぐの悪り畜生どもだ。父(と)っちゃさ、起ごせ」
「ひへえ」
 ギンガンが奥のテントへと駆け出して行った。
「ねえ......あんた」投げ出された人が仰向けのまま云った。「悪いんだけどさ」
「なに」
「助けちゃくれないかな」よく見ると彼女の目には泪が浮かんでいるようだった。「私じゃなくて......子ども。ちっちゃな男の子」
 その瞬間、わたしは落下した直後に見た子どもの姿を思い出した──あれは幻ではなかったんだ。
「子ども」
「うん。そいつら人さらいのド畜生なんだよ。頼むよ。助けてやってよ」
 ヤゲンが鼻で嗤った。
「莫迦へるの。俺(おら)たづは頼まれて童(わらし)ば連れ戻してらげだ。おめぇらこそ親だばねくせさ。あん小さな童ば、あつこつ連れまわしやがって」
「生かすためだ! おまえら金のため! 殺すためだ!」
「そんだらごど知ったごどだばね。こいは仕事だ」
 ヤゲンは胸ポケットから煙草を取り出すと火を点けた。
「こいつら犬畜生なんだ。私以外の仲間はみんな殺された」
「弱いかきゃだら。仕方あらまい」
「ねえ。頼むよ......お願いします」
 わたしは返事ができなかった。彼女は言葉が欲しいのだろうか......ただの言葉を。
「こいに、なができらいってんだ。虚しい奴」
 ヤゲンの言葉に逆らうように、わたしは自分でも知らぬうちに膝をつき、その人の手を取った。生爪がすべて剥がされていたし、関節がはずれてしまっているのか、腕は頼りなくぐらぐらした。
「わかったよ」
 その人は唇を噛んで頷いた。何も云わなかったけれど、泪が溢れるのが見えた。
「ほきゃ。そろそろ、がーるず・どーぐはしめえだ」
 その時、奥のテントから怒声がし、ヤゲンやギンガンより、幅も高さもひとまわりもふたまわりもでかい、蓬髪の相撲取りのような男が現れた。燃えているのかと思ったのは、肌から蒸気が湯気のように立ち上っていたからで、彼は褌(ふんどし)ひとつしか身につけていなかった。
「ヤゲン! のさば、バタついてらんだぁ!」
「父っちゃぁ、山親爺が来(け)らぁ」
 裸足のままの男は焚き火に向かって近づいて来ると右手を振り上げ、ヤゲンの頬に叩きつけた。
 彼の躯はボールのように飛び、立ち木に叩きつけられた。
「莫迦けつ、おめえだ! 俺(おら)が寝たきや起こすの!」
「......だばよ......」痛みをこらえながらヤゲンが云った。「そこのおなごが今さきた襲われたんだ。きっとどこさも来(け)らぜ」
「山親爺のどこさ怖いってんだ。そしたらもんは俺が叩き殺してやるら」
 すると男が仰向けのままの彼女と、それからわたしを見た。
「のんだ。まだ殺(つぶ)してねのか。早ぐ埋まなぐろっつったべし」
「したばってもよ。他(よそ)の奴らの動きやきや。こいづきやの本隊の移動コースあんつかの情報ば、聞き出さねどまいねだろ」
 すると、背後からギンガンが肩に子どもを載せて戻ってきた──わたしたちを見ても彼は無表情だった。
「父っちゃ......や、こいはいってどしたんだ?」
「おめぇのあんこ貴はやっぱり役立たずだ。都会さ行って、すっかりどあべじねしさなた」
「父っちゃ、冷静さのれし! こいはただの狩りだばねぇっきゃ!」
「黙れ! 俺は寝ていらどごば起こされらのが何しりも我慢ができきゃえんだ! 刑務所(ムショ)ば思い出すかきやの!」
 すると、褌がわたしを再び睨んだ。
「のんだ! このおなごは!」
「そいづは、さきた空かきや降てきたんだ」
 ギンガンが怯えたように云う。
「空だど?」
「んだ」
 褌がどしどし地面を踏みしめるようにやってくると、わたしの頸を掴んだ。それだけで骨が砕けてしまいそうに痛んだ。
「なして、こしたらもんが空かきや降てぐらんだし」
 振り返った褌に、ヤゲンが溜息交じりで呟く。「だかさ云ったッペ。熊さ、襲われたんだし。崖の上で」
 褌はわたしを彼女の脇に放り棄てた。
 解放された喉が激しく痙攣し、わたしは咳き込んだ。
「三人は連れてはまいね。おなごは殺せ」
 じっと耳をそばだてていた彼女の躯が、ビクッと動いた。
「だばし......」ヤゲンが立ち上がった。「まだ聞き出さのぐちゃまいねごとは山ほどあらんだぜ」
 ヤゲンと褌が言い合いをしている隙に、彼女が囁いた。
「あの子の名はティグ。ナイフさえあればなんとかなるんだけど。すべて取り上げられてしまったの。わたしはもう駄目。だから......」
 彼女は首を持ち上げておろおろしているギンガンの肩にいる少年を見つめた──が、彼からは何の反応もなかった。
 わたしは尋ねた。
「あなた、マルキリの仲間?」
「知らないわ」
 と突然、怒声がし、彼女の躰が持ち上がった。
 褌が両腕で彼女の首と頭を同時に掴んでいた。
「父っちゃ!」ヤゲンが叫ぶ。
「おめぇーだ、けんた腑抜けかい根性で、母さんば救えらど思てらのか馬鹿者なまぐ!」
 グローブのような手で顔の半分を掴まれた彼女の目が大きく見開かれた。顔面が充血し、首に蚯蚓(みみず)のような太い血管が浮かび上がる。
〈ぎいぃぃぃぃぃぃぃぃ〉
 糸を引くような細い悲鳴が食い縛った歯の間から漏れると、彼女は失禁した。闇の中で歯がガチガチと音を立てた。
 褌の顔が腐ったトマトのように変色し、幹のような腕が倍に膨らんだように見えた。
〈ぐひぃぃぃぃぃぃぃ〉
 ディグ以外、全員がその光景に凍りついていた。
「......父っちゃ」ヤゲンが呟いた。
 噛みしめ続けた彼女の口から小さなものが弾けた──前歯だった。
「のむあみだぶつさん!」
 身の毛もよだつ絶叫とともに彼女の頭が音を立て、崩れた。髪の毛と積み木を詰めた袋のように、顔が顔でなくなっていた。左の眼球が外れ、舌が顎の先まで飛び出していた。
「さあ、次!」
 彼女を棄てた褌が、わたしの頭を掴んで持ち上げた。まるで両側から金槌で叩かれたような凄まじい痛みが顳(こめかみ)に走った。わたしは全力で振りほどこうとしたが、褌の腕はビクともしなかった。たちまち、目の前が真っ暗になり、頭蓋骨に血が集まる音を聞いた。

 ──死ぬ。
 そう直感した時、不意に地面に投げだされた。
 褌が耳をそばだてていた。ヤゲンが、ギンガンが──全身で森の奥の闇の気配を感じようとしていた。
 確かに森の中で何かが動いていた。
「......山親爺だ」ギンガンが呟いた。顔に恐怖が浮かんでいる。
「かかってけぇ! 皆殺しさしてやら! 畜生ども!」
 森に向かって叫んだ途端、風を切る音とともに、褌の顔面を光るものが貫通し、戻った。
 褌の頭部は解剖図のように上四分の一が切り取られ、中身を露わにした。
〈ぶぶぶぶぶ〉
 褌はくるりと一回転すると、倒れた。
「父っちゃ!」そう叫んだギンガンの顔が鼻の下で真っ二つに裂け、ティグを載せた胴体だけが二三歩、たたらを踏んで前倒しになった。
 ヤゲンの右手がナイフを掴んだまま、わたしの顔にぶつかった。彼は反射的に手首を掴むと、歯を食い縛った。
〈むふふふふ〉
 三人の男が現れた。それぞれ手に改造したボウガンを持っている。そこには先端が槍に近い薄い刃を持つ矢が備えてあった。モーター音が止まった。矢を回収するためのウィンチが付いているようだった。
「貴様ら! がッ」
 激痛に顔を歪めるヤゲンの顔が蹴り込まれ、そのまま地べたに踏みつけられる──切断された傷口から血が噴き出した。

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『ダイナーⅡ』をより楽しむために、未読の方はぜひ『ダイナー』から!
〈主演〉藤原竜也×〈監督〉蜷川実花のタッグが話題の映画『Diner ダイナー』(2019年公開)の原作本はこちらです↓

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Profile

平山夢明

1961年、神奈川県川崎市生まれ。1994年にノンフィクション『異常快楽殺人』を発表、注目を集め、1996年に『SINKER──沈むもの』で小説家としてもデビュー。2006年には短篇「独白するユニバーサル横メルカトル」で日本推理作家協会賞を受賞。2007年、同タイトルを冠した短編集が「このミステリーがすごい!」第1位に選ばれた。2010年『ダイナー』で第28回日本冒険小説協会大賞と第13回大藪春彦賞をダブル受賞。2017年より「週刊ヤングジャンプ」にてコミック化され、大人気連載中。

Pick Up Book

  • かがみの孤城
  • i
  • 私のスポットライト
  • ビオレタ

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