戦争の歌がきこえる アメリカのホスピスで出会った戦争を生き抜いた人たち

佐藤由美子

戦争の歌がきこえる アメリカのホスピスで出会った戦争を生き抜いた人たち

写真=佐藤由美子/デザイン=根本綾子

1

僕は日本兵を殺した

「戦争を宣言するのは年を取った男たちだが、戦って死ぬのは若者だ」
~ ハーバート・フーバー、共和党全国大会でのスピーチ(1944)[*1]


 音楽療法のインターンシップを始めた頃から、印象深い患者さんやご家族との出会いをノートに書き留めてきた。これまでに起こった出来事を統合的に理解し、そこから何かを学ぶためには、いつかこの情報が必要になると思ったからだ。そのおかげで今、こうして彼らのストーリーを共有することができる。

 でも、ひとりだけ書き留めておかなかった人がいる。

 もしかすると、彼との出会いはあまりにも衝撃的だったため、振り返るのに時間がかかったのかもしれない。もしくは、一文字も書き留めなくても、彼のことを忘れることはないと直感したからかもしれない。

 ロンは、かつてサイパンで日本兵と戦い、生き延びた患者さんだった。

 2003年、インターンシップを終えた後、私はオハイオ州シンシナティ市にあるホスピスで音楽療法士として働き始めた。とても大きなホスピスで、500人ほどの患者さんにケアを提供していた。たいていの患者さんは自宅や老人ホームでケアを受けていたが、市内や近隣の市に3つの病棟も持っていた。私の主な仕事は、病棟で患者さんをみることだった。

 働き始めて1年ほど経った夏の日の午後、私は市の中心部にある病棟で働いていた。その日は、レスパイトケア(respite care)で入院してきたホームケアの患者さんがいた。レスパイトケアとは、在宅でケアを受けている患者さんのケアギバー(介護者)が休息をとるために利用するサービスで、患者さんは5日間病棟に滞在することができる。カルテには「78歳、男性、末期の肝臓がん」とあった。名をロンと言った。

 彼はリクライニングチェアに座り、窓の外を見ていた。小さなスズメのような鳥たちと一緒に、カーディナルという赤い鳥がエサ箱に集まっていた。カーディナルは、オハイオの人たちにこよなく愛されている色鮮やかな州鳥だ。真っ青な空の下で、ひときわ目立っていた。

 ロンはとても痩せていた。着ているファネルシャツは2サイズほど大きく、ジーンズもぶかぶかだった。顔には肉がなく、頬と顎の骨が突き出していて、こげ茶色の目がとても大きく見えた。

 挨拶をし、音楽が聴きたいかをたずねると、彼はうなずいた。

「音楽は何でも好きだよ」

 アイリッシュハープを持参していたので、ハープで何曲か弾いた。その間、彼は窓越しの鳥をずっと眺めていた。心はどこか別のところにあるように見えた。

「今日の体調はどうですか?」
「調子はいいよ」
「鳥が好きなんですか?」
「きれいだからね」

 そう言ってかすかに微笑むと、また無口になった。もともと口数の少ない人なのだろうが、彼の沈黙にはそれ以上の理由があるようにも思えた。私の存在自体、迷惑ではないようだが、あまり話をしたくないことはわかった。

「もう少し弾きましょうか?」
「そうだね」

 ロンは相変わらず外のほうに顔をやりながら、静かに音楽を聴いていた。演奏が終わり、ハープを膝に置くと、彼は私のほうを向いてこう言った。

「昔のことなんだが、戦争中、中国人の女性に出会ったことがあるんだ。とてもよくしてもらった。もしかすると、きみも中国人?」
「いいえ、日本人です」

 そう答えた瞬間、ロンは丸い目を大きく見開き、ハッと息を吸いこんだ。そのまま呼吸が止まってしまうのではないかと思えるほどだった。表情もこわばっている。リクライニングチェアから身を乗り出そうとしているが、体は硬直して動かない。明らかな緊張が見て取れた。

 そして彼は、絞り出すような声で言った。

 ‟I killed Japanese soldiers."(僕は日本兵を殺した)

 その告白は、彼の中にずっとしまわれていたものが、期せずして外に飛び出てしまったような感じだった。彼は瞬きひとつせず、私をじっと見つめているが、その目はまるで、死んだ人間を見るかのような当惑したまなざしだった。

「彼らは若かった。僕も若かった......。彼らの家族のことを考えると......」

 それ以上は言葉が続かない。リクライニングチェアの上で、彼の痩せ細った体が激しく震え始めている。泣き出してしまったのだ。

 私は、あまりにも突然の告白に驚いてしまった。気持ちを落ち着かせるために、膝に乗せたハープをしっかりと握り、地に足のついた感覚を何とか取り戻そうとした。しばらくして、ロンがまた口を開いた。

「本当に申し訳ない......」

 彼は下を向き、声を上げて泣いている。いくら押し殺そうとしても、感情を抑えきれないようで、涙はとめどなく溢れていた。

 私は「何かをしなければ」という衝動にかられた。私にいったい何が言える? かける言葉などあるだろうか? どんな言葉も役に立たないと感じた。では、近づいて手を握るか? ティッシュを渡すというのはどうだろう?

 さまざまな思考が混線する中で、インターンシップ時代の出来事が頭に浮かんできた――。

「君がここで出会う患者さんの中には、第2次世界大戦で戦った人や戦争で大切な人を失った人がいる。君が日本人であるということで、彼らがどんな反応をするかわからない......。そのことについてどう思う?」

 これは、私がまだインターンだった頃、スーパーバイザーのジムが最も心配していたことだった。「君に考えてみてほしいことなんだ」とも彼は言った[*3]。

 当時の私は彼の問いに答えることができなかった。想像を巡らせることしかできなかった。それは働き出してからも変わらなかった。しかし、まさか今、現実にこのような患者さんの反応を目の当たりにすることになろうとは......。

 同時に、私はもうひとつ別の出来事を思い出していた。

 当時、私にはふたりのスーパーバイザーがいた。ひとりが音楽療法士兼グリーフカウンセラーのジムで、もうひとりがチャプレン[*2]のジェーンだった。あるとき、「泣いている人にどう対応したらいいか」という話の中で、彼女がこんなことを言ったのだ。

「私たちのとる言動は、それがどれだけ善意に基づくものであったとしても、相手を泣き止ませてしまうことがあるの」

 母親は、泣いている赤ちゃんを見ると、優しい言葉やタッチで慰め、泣き止ませようとする。それはもしかすると、泣いている人を目の前にしたときに起こる、人間の本能的な反応なのかもしれない。

 そして今、私の前ではロンが泣いている。セラピストである私は、彼の涙を止めるべきではなかった。彼に必要なのは、泣くことだった。

 外を見ると、カーディナルの姿はもうなかった。遠くに見える沼には白い雲が投射され、そのままそこに囚われてしまったかのようだった。部屋には、ロンの苦しみがにじむ泣き声だけが響き渡っていた。

 どれくらい時間が経っただろう。ロンはようやく泣き止み、袖で涙を拭っていた。まだ下を向いていて、呼吸は荒い。私には他に言えることがなかったので、「最後に音楽を弾きましょうか?」とだけ聞いた。彼は静かにうなずいた。

 心が落ち着くよう、なるべくシンプルな構成の音楽を弾くことにした。ロンはリクライニングチェアに頭をゆだね、目を閉じていた。私は、彼の呼吸が安定し、体の緊張感がほぐれるまで弾き続けた。どれくらいの時間そうしていたかは覚えていない。彼といると、時間はその意味を失った。

 最後にロンは目を開き、「ありがとう」とささやくように言った。私も同じ言葉を返した。

 その日の夕方、ロンを担当する看護師に話を聞いた。彼は長年アルコール依存症に苦しみ、数年前に肝臓がんを宣告されそうだ。2度の離婚歴があり、現在は3番目の奥さんと生活している。ひとり息子がいるが、長年疎遠になっているそうだ。

 ロンが退役軍人であることは、看護師も奥さんから聞いて知っていた。ただ、その件で奥さんが知っていたのは、彼が「サイパンで戦った」ということだけだった。彼は戦争について、それ以外は何も語らなかったという。

 看護師の話だけでも、彼が心にとても複雑なものを抱えて生きてきたことが推察された。私はロンともう一度話をし、戦争中や戦後に何が起こったのか知りたいと思った。

 しかし、そのチャンスは永遠に訪れなかった。セッションの数日後、ロンは自宅へと戻り、1週間後には亡くなってしまったからだ。

 当時の私にとって、ロンとの出会いは衝撃的なものだった。彼が私に見せた姿は、アメリカ社会が描いてきた第2次世界大戦を生き抜いた退役軍人(World War II Veterans)の姿とはかけ離れたものだった。

 アメリカで第2次世界大戦は、‟just war(正しい戦争)"とか ‟good war(良い戦争)"と呼ばれている。今日オハイオ州の高校で使用されている歴史の教科書にも、 「アメリカの歴史上、最も良く戦った戦争」と書かれている[*4]。

 アメリカ人がこの戦争を誇りに思っている理由は、彼らにとって最も大切な「民主主義の理想」を賭けた戦いだったからである。言論の自由、報道の自由、宗教の自由、集会の自由――彼らにとって「freedom(自由)」とは漠然とした観念ではなく、明確な権利であり、民主主義の象徴である。それを脅かしたのが、ドイツ、日本、イタリアであった。

 戦後に帰還した兵士たちは、歓喜にわく群衆に「hero(英雄)」として迎えられ、その後すぐに新しい人生を築いていった。少なくとも、それがこの地で繰り返し語られる物語である。

 一方で、‟bad war(悪い戦争)"と考えられているものもある。ベトナム戦争だ。悲惨な映像がテレビや新聞を通じてリアルタイムで報道され、多くの国民が戦争に反対した。この戦争に意味はあったのか――不信感や怒りで引き裂かれた国に、兵士たちは帰省したのである。

 第2次世界大戦の退役軍人が、素晴らしい‟勝利の象徴"だったとしたら、ベトナム戦争の退役軍人は、アメリカという国の‟失敗の象徴"だった。

 現在ではよく知られている「トラウマ」という言葉は、PTSD(Post Traumatic Stress Disorder :心的外傷後ストレス障害)という疾患がもとになっている。PTSDという疾患名が使われるようになったのは、ベトナム終戦から5年後の1980年であり、トラウマという言葉もそれにともない世間一般に認知されていった[*5]。

 背景には、ベトナム戦争の退役軍人の状況や経験があった。彼らの多くは、トラウマ、薬物依存、閉ざされた人間関係、疎外感などの後遺症を経験しており、社会もその問題を徐々に認識するようになったのである。それでもなお、PTSDはベトナム戦の退役軍人に特有な症状だと考えられていた。ベトナム戦争は‟悪い戦争"だったから、彼らは‟悪い後遺症"を経験することになった。第2次世界大戦は‟良い戦争"だったから、その後スムーズに社会復帰できた、というわけだ。

 しかし、ロンの場合はそうではなかった。戦後、彼はアルコール依存症に苦しみ、家族との関係性にも苦労したという。期せずして私に打ち明けたように、罪悪感にも悩まされ続けていた。

 ロンとの出会いがあったことで、私はアメリカ社会が唱える第2次世界大戦の退役軍人の神話(myth)"に疑問を抱き始めた。そして、そんな違和感を抱いたのは私だけではなかった。

 ロンとの出会いから2年経ったころ、2006年に映画『Flag of Our Fathers(父親たちの星条旗)』が公開された。「硫黄島の星条旗」の写真に隠された真実や、そこに写っている6人の兵士のその後を追った物語だ。

 この1枚の写真は、アメリカ兵士の勇気や犠牲、そして国の勝利を象徴するものとして、今日でもアメリカ人に愛されているイメージである。

★第1回_iwo jima by Marina Amaral.jpg

硫黄島の星条旗/Colorized by Marina Amaral



 写真に写っている6人のうち3人は硫黄島で戦死。生き残った3人は英雄として帰省し、一躍有名人となる。しかし、そのうちのひとりはアルコール依存症で若くして亡くなり、もうひとりは希望する職に就けず、清掃員として生涯を終える。それは、かつての‟英雄"とはかけ離れた姿だった。3人目は人並みの人生を送るのだが、死を目の前にしたとき、戦争のフラッシュバックに悩まされる。

 戦争の真実とは、私たちが信じたい‟神話"よりもはるかに複雑であることを、この映画は語った。

 2009年に出版された、歴史家のトーマス・チャイルダー氏の本( 『Soldier from the war returning』)によると、1945年から1947年にかけて、アメリカの離婚率は歴史上最高に達し、世界一でもあったそうだ。退役軍人の離婚率は、一般人の2倍に及んだ。多くの退役軍人は普通の生活に戻ることに苦労し、仕事を見つけることも、配偶者や子どもとの関係を保つことさえも困難な状況にあった。

 また、第2次世界大戦中、何らかの心理的な問題を抱えた兵士は、およそ130万人いたそうだ。終戦から2年後、退役軍人病院のベッドの半数が「見えない傷」を負った患者で埋まっていたという。鬱状態、繰り返し起こる悪夢、罪悪感、爆発的な怒り、不安など、今でいうPTSDの症状に苦しむ退役軍人は、実際にはとても多かったのだ。

 そして、彼らの多くは苦しみを忘れるために、酒を飲んだ。それがアルコール依存症につながったことは言うまでもない。アルコール依存症も含む薬物依存症とトラウマの関係性は、近年さまざまな研究結果から明らかになっている

 結局のところ、戦争で戦った兵士たちにとって‟良い戦争"などなかったのである。戦後苦しみを抱えて生きたのは、ロンだけではなかった。私はその後も、彼のように戦争の悪夢に悩まされた多くの患者さんと出会うことになる。


第2回につづく


[*1]著者訳。原文は"Older men declare war. But it is the youth that must fight and die."

[*2]チャプレンとは、院やホスピスなどで働く聖職者のことを指す。宗教に関係なく、患者さんやご家族、友人などに心のケアを提供する。

[*3]『戦争の歌がきこえる』第0回を参考に。

[*4]他の州で使われている大学レベルのテキストブックも見たところ、党派によって戦争に関する描写やニュアンスが変わるということはなく、どれもほぼ同じ内容だった。ちなみにオハイオ州は共和党を支持する人が多い。ただ、熱烈なトランプファンというよりは、中道寄りの保守派が多い印象を受ける(経済的な方針としては保守だが、同性愛など社会的な問題に関してはリベラル、など)。2016年の大統領選挙でトランプが勝ったことは確かだが、トランプ支持51%、クリントン支持44%で、差はそこまで広がらなかった。一方で、私が大学時代に住んでいた、ウエストバージニア州は典型的な共和党支持である(大統領選の投票結果はトランプ支持68%、クリントン支持26%)。

[*5]トラウマという言葉自体はそれ以前からも存在したが、PTSDという疾患名が米国精神医学会診断統計マニュアルに加えられたのは1980年のこと。それ以前はPTSD以外の名称が使われていた。病気や病状に対するイメージや認識は、時代や社会状況によって変化していくものなのである。

[全体の補足]高校の教科書は『The American Pageant AP version』、退役軍人に関するデータはトーマス・チャイルダー『Soldier from the war returning』を参照した。

Profile

佐藤由美子

ホスピス緩和ケアの音楽療法を専門とする米国認定音楽療法士。バージニア州立ラッドフォード大学大学院音楽科を卒業後、オハイオ州のホスピスで10年間音楽療法を実践。2013年に帰国し、国内の緩和ケア病棟や在宅医療の現場で音楽療法を実践。その様子は、テレビ朝日「テレメンタリー」や朝日新聞「ひと欄」で報道される。2017年に再び渡米し、現地で執筆活動などを行う。著書に『ラスト・ソング――人生の最期に聴く音楽』、『死に逝く人は何を想うのか――遺される家族にできること』(ともにポプラ社)がある。 HP: https://yumikosato.com

こちらもおすすめ

Pick Up Book

  • かがみの孤城
  • i
  • 私のスポットライト
  • ビオレタ
ポプラ社一般書通信 note

Pick Up Book

  • かがみの孤城
  • i
  • 私のスポットライト
  • ビオレタ