戦争の歌がきこえる アメリカのホスピスで出会った戦争を生き抜いた人たち

佐藤由美子

戦争の歌がきこえる アメリカのホスピスで出会った戦争を生き抜いた人たち

写真=佐藤由美子/デザイン=根本綾子

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忘れないでくれ

末期がんのアナに寄り添うユージーンは、日本に在住経験のある退役軍人だった。彼はフィリピン戦を歩兵隊として戦い、生き延びた。今でも夢に見るのは、日本兵に殺された友人ジョージのことだ。しかし、彼は日本人に対する「怒り」はないと語る。「戦争を説明するのは難しい」――ユージーンが言うように、その経験は「経験した者」にしかわからないのかもしれない。だが、記憶を、感情を共有することはできるはずだ。ユージーンは戦後をどう生きたのだろう。舞台は広島へと移る。【第3回はこちら】


名も知らぬ 遠き島より
流れ寄る 椰子の実一つ

故郷の岸を 離れて
汝はそも 波に幾月


 私がギターの伴奏で歌うあいだ、ユージーンはアナの額を優しくなでていた。彼女の表情や体に緊張感はまったくなく、呼吸も穏やかだった。数日前とほとんど変わらない様子だ。でも、ユージーンは日々の看病で疲れ切った表情をしていた。

「いい歌だね」

 音楽が終わると、彼は笑顔で言った。

「"椰子の実"[*1]という歌です。聞いたことありましたか?」
「ないと思う。でも、広島にいた頃、日本の歌を何度か聞いたことがある」
「広島にはいつ、行ったのですか?」
「戦争が終わってから数か月後......。秋だった」

 彼はそう言って、何かを考えているようだった。

 実はその日、私はアナの部屋に入る前に、面会に来ていた娘のティナとリビングルームで話をしていた。彼女は私のことをユージーンから聞いていたらしく、会話は自然と彼の話題になった。ティナは、父親から戦争体験をほとんど聞いたことがないと言った。

「ここ数年、母の状態が悪くなってきて、戦争のことをぽつぽつ話すようになったけど、それでもほとんどのことは知らないわ。つらい経験をしたんでしょう。だから過去を忘れたかったんじゃないかな......。でも、やっぱり忘れることができないんだと思う」

 ユージーンはアナの手をとり、ベッドのすぐ隣に座っていた。沈黙が続く。最初に口火を切ったのは私のほうだった。

「その当時の広島は、どんな感じでしたか?」
「広島で見た光景は忘れられない。戦争が終わって、ようやく家に帰れると思ったのに、占領政策の一環で日本に送られたんだ。そして広島で、信じられない光景を見た」

 彼は興奮した様子で、息づかいを荒くした。

「すべてが焼け焦げていた。焼け死んだ子どもの死体......、溶けた電球......。そんな光景、信じられる!?」

 彼は、訴えるような目で私を見た。

「それまで、仲間の死体やケガした兵士たちをたくさん見た。でも、広島で見た光景はそれとは全然違った......」

 町は灰と瓦礫に覆われ、吐き気のするような死体の腐臭が漂っていた。人々は空腹で飢え、原爆へのショックがまだ顔に刻まれていた。生き残った者たちは、黙々と死者を埋葬していた。

 ユージーンにとって特につらかったのは、子どもたちの姿を見ることだった。家を無くした子どたちが、いたるところにさまよっていた。

「子どもたちの目が忘れられない。ゴミ箱のゴミを食べたりしていた......。本当にかわいそうだった」

 彼の目には、先日と同じように涙があふれていた。

「ある日、幼い男の子と女の子たちが一緒に歌を唄っている光景を見た。子どもらしくはしゃいでいて、それが唯一の希望に感じられたんだ」

 日本に滞在中、ユージーンは地方を訪れる機会があった。多くの都市は原爆や空襲で焼かれていたが、田舎には植物が青々と茂り、牧歌的な田園風景が広がっていた。ユージーンの目に映ったのは、美しい日本の自然とそこで暮らす人々の姿だった。

「日本の人々や文化が、とても印象に残った。日本人も僕らも、そんなに変わりはないと知った」

 それは一般市民のことなのか、それともフィリピンで戦った日本兵のことなのだろうか。もしくは、両方について言っているのだろうか。

「戦争に送られる前、日本人はアメリカ人とまったく違うと教えられていたから......。でも、実際にはそうではなかった」

 戦時中、アメリカ国内ではさまざまなプロパガンダが存在した。日本人は信用できないという理由から、11万人以上の日系アメリカ人が強制収容所に送られたことはよく知られている。アメリカ軍内では、日本軍は「危険」で「不合理」であり、しかも命を重んじない、という印象が根強くあり、そのイメージは「バンザイ突撃」や「特攻隊」などによってさらに強まったという。

「日本兵は命令されたことをやった。それは僕らだって同じだ。それだけのことなんだ」

 ‟That's all."――ユージーンは、はっきりと言った。「千人針」の意味を知ったときにも、彼はきっとそう思ったのだろう。自分たちが戦っていたのは命を重んじない「野蛮な人種」などではなく、一人ひとりが大切な誰からか生きて帰ってくることを望まれた、かけがえのない個人だったのだから......。

「大変な経験をしましたね」
「そうだね......。体の傷というのは、時間がたてばたいてい治るものだ。でも、記憶は焼き付いてしまって、なくなることはない。それでも僕はラッキーだった。無事に帰還して、結婚もできたから」

 彼はようやく笑顔を見せた。体の緊張もほどけ、リラックスしているように見えた。

 1946年、年が明けた雪の降る日、ユージーンは任務を終え日本を発った。久々に見た雪は、故郷オハイオを思い出させた。ようやく帰還できるのは嬉しかったが、あの激しい戦いの日々を忘れることができないでいた。ともに戦った仲間たちのほとんどは戦死し、一緒に帰ることはかなわなかったからだ。

 戦争は確かに終わった。でも、死んだ仲間たちの人生は二度と元には戻らない。そして自分の人生も、戦争がはじまる前のようにはもう戻れないと感じた。

 その後、ユージーンはすぐにアナと結婚し、3人の子どもに恵まれた。結婚生活は70年近くになり、今ではたくさんの孫もいる。

「お別れするのは悲しいでしょうね」

 私が言うと、彼はうなずき、優しい目でアナを見た。

「これまで本当に良くしてくれた」

 彼のまなざしは愛にあふれていた。ユージーンは、アナに最後まで自らの戦争経験を語らなかったが、それでも彼はアナに支えられていたのだろう。

 翌週、ティナからの電話でアナの死を知った。前日の夜、穏やかに息を引きとったらしい。お葬式で歌を唄ってほしいと頼まれた。それが父の、つまりユージーンの願いであるとも。

 お葬式は、ホスピスの近くにある小さな葬儀場で行われた。レンガでできたその建物は、外から見ると普通の家か小さな教会のように見えた。中に入ると、アナの友人や親戚で混雑していて、白いバラやユリの花の匂いが充満していてた。お棺の隣にはアナの写真が数枚飾ってあった。その一枚は、ホスピスの病室にあったモノクロ写真だった。若いアナとユージーンが幸せそうに手をつないでいる写真だ。

 牧師の挨拶のあと、私は‟アメイジング・グレイス"を唄った。参列者も一緒になって唄い、会場からはかすかなすすり泣きが聞こえてきた。ユージーンは子どもや孫たちと一緒に最前列に座っていた。その姿は私の視界に入ってはいたが、音楽に集中するため、あえて見ないようにした。

 次に唄ったのは、最後のセッションで演奏した‟椰子の実"だった。


名も知らぬ 遠き島より
流れ寄る 椰子の実一つ

故郷の岸を 離れて
汝はそも 波に幾月

実をとりて 胸にあつれば
新なり 流離の憂

海の日の 沈むを見れば
激り落つ 異郷の涙

思いやる 八重の汐々
いずれの日にか 国に帰らん


 参列者の中で、歌詞の意味を理解できた人はおそらくいなかっただろう。配られたしおりには、曲名も歌詞も掲載しなかった。どの歌を唄うかは私に決めてほしい、とティナから頼まれていたが、日本の歌を唄うというのはユージーンたっての希望だった。

 これまでも数多くの患者さんのお葬式で歌を唄ったが、日本の歌を唄ったのは初めてだったと思う。以前、音楽療法士になったばかりの頃、日系人の患者さんのお葬式で日本の歌を唄ってほしいと頼まれたことがあったが、あまりにもつらく、それができなかったことを思い出した[*2]。

 私はもうすぐ結婚し、10年続けたこの仕事を辞め、日本に帰ることを決めていた。おそらく、患者さんのお葬式で唄うのもこれが最後になるだろう。それがアナのお葬式であり、日本の歌を頼まれたことは、最後にふさわしいと感じた。そして、遠い異国の地で故郷を想い、一度は敵国であった日本を愛していると語ったユージーンにとっても、この歌はぴったりだと思った。

 お葬式が終わると、葬儀場は参列者の声でにぎやかになった。お互いにハグする人や笑顔で話をしている人がいた。悲しいお葬式というよりも、アナの長く充実した人生を祝う会、というような雰囲気だった。私は仕事に戻らないといけなかったので、ユージーンに挨拶をしてから帰ろうと思った。彼は濃いブルーのスーツに身を包み、友人や親戚らしき人たちに囲まれていた。

 彼に近寄り、簡単に御礼を言った。いろいろなことを共有してくれたことに、心から感謝しています、と。すると彼は手を伸ばし、私に握手を求めた。そして私の手を強く握り、こう言った。

 ‟Please don't forget."

 ユージーンは言葉につまり、それ以上は何も言えなかった。彼の目には涙があふれ、その表情はとても複雑だった。

 葬儀場を出ると、太陽の光がさんさんと降り注ぎ、道路わきに積まれた雪がだいぶ解け始めていた。春がそこまで来ていることを感じさせるような、2月の午後だった。

 その年の春、私は16年ぶりに日本に帰った。ユージーンはアメリカのホスピスで出会った最も印象深い人のひとりであり、最後に出会った人のひとりでもあった。

★第2回_フィリピンの夕日.JPG

フィリピンの島から見た夕日/2015年撮影


 アナのお葬式から丸2年経った2015年の2月、私はフィリピンのビザヤ諸島にあるセブ島を訪れた。ここは戦時中、アメリカ軍と日本軍の大きな戦いがあった場所のひとつだが、それを思い出させるものはなかった。雑然としたセブ市内の町を歩くと、スペイン風の古い建物や、日々の生活に追われる地元の人々の姿が目に留まった。

 セブからボートに乗り、エメラルドグリーンの海岸が広がる小さな島々を旅した。この辺りは第2次世界大戦中、数多くの戦闘が繰り広げられた場所である。フィリピンの島々では、合計1万4000人のアメリカ兵と51万8000人の日本兵が戦死した。フィリピン人の死者はさらに多く、100万人以上が死亡したと言われている。本当にたくさんの一般人が戦争に巻き込まれて亡くなったのだ。

 フィリピンの人々は私をフィリピン人だと勘違いし、タガログ語で話しかけてくることが多かった。日本人だと言っても、タガログ語で人懐っこく話しかけてくる人もいれば、英語に切り替えて親切にいろいろ教えてくれる人もいた。ほんの70年前に戦争が起こったはずのこの地では、不思議なことに、その事実が果てしなく遠い昔のことに感じられた。

 ある日の夕方、ビサヤ諸島の小さな島のビーチから夕陽を眺めた。静かな波の音だけが聞こえ、優しい海風が吹いていた。海の色が少しずつピンクに染まり、空の色と一体化していくのを見ていると、突然、とても遠くへ来てしまったような気がした。まるで、一人この島に取り残されたような気分になった。こうして海と太陽だけを見ていると、いま、自分が地球上のほんの小さな点のような場所に存在していることを、実感せずにはいられないのだ。

 あの戦争でフィリピンや太平洋の島々に送られた数多くの兵士たちにとって、生きて故郷の地を踏むことは、ほぼ不可能に感じられただろう。そして、その多くは戻ってこなかった。私はユージーンが最後に言った言葉を思い出した。

 ‟Please don't forget."(忘れないでくれ)

 遠い異国の地で戦死した人々は、もしかすると私たちの記憶の中でだけ、故郷に帰ってくることができるのかもしれない。


【ユージーン編 完】


[*1]作詞=島崎藤村。

[*2]このエピソードは、佐藤由美子『ラスト・ソング――人生の最期に聴く音楽』(ポプラ社)P114~138に収録。

[全体の補足]当時のアメリカ人の日本に対する差別的感情や、日本兵に対するイメージについては、ジョン・ダワー『Without Mercy, Race & Power in the Pacific War(容赦なき戦争――太平洋戦争における人種差別)』に詳しい。

Profile

佐藤由美子

ホスピス緩和ケアの音楽療法を専門とする米国認定音楽療法士。バージニア州立ラッドフォード大学大学院音楽科を卒業後、オハイオ州のホスピスで10年間音楽療法を実践。2013年に帰国し、国内の緩和ケア病棟や在宅医療の現場で音楽療法を実践。その様子は、テレビ朝日「テレメンタリー」や朝日新聞「ひと欄」で報道される。2017年に再び渡米し、現地で執筆活動などを行う。著書に『ラスト・ソング――人生の最期に聴く音楽』、『死に逝く人は何を想うのか――遺される家族にできること』(ともにポプラ社)がある。 HP: https://yumikosato.com

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