戦争の歌がきこえる アメリカのホスピスで出会った戦争を生き抜いた人たち

佐藤由美子

戦争の歌がきこえる アメリカのホスピスで出会った戦争を生き抜いた人たち

写真=佐藤由美子/デザイン=根本綾子

5

原爆開発に関わった男

"先の戦争で勝った者は誰もいなかったし、
次の戦争でも誰も勝たないわ"
~エレノア・ルーズベルト(ヘンリー・トルーマンの手紙から)[*1]


 今年の4月上旬、ワシントンD.C.の桜が満開になった頃、私はスミソニアン国立航空宇宙博物館の別館「スティーブン・F・ウドヴァーヘイジー・センター 」を訪れた。本館はD.C.中心部のナショナル・モール(国立公園)にあるが、別館は市内から車で2時間ほどの所にある。私がそこを訪れたのは、どうしても見ておきたい航空機があったからだ。

 博物館に入ってすぐ、警備員に「エノラ・ゲイ」はどこに展示されているか聞いた。彼は一瞬驚いたような顔をして私を見ると、正面を指差して言った。

「テール(尾翼)に"R"が書いてあるシルバーの航空機が見える? あれだよ」

 300機以上展示されている航空機の中で、エノラ・ゲイはひときわ目立っていた。大きな翼を広げ、シルバープレートに包まれた機体はキラキラと輝いている。歴史的背景を知らなければ、航空ショーのために造られたのかと思っても不思議ではない。

 訪問者のグループが機体の前方に集まり、ガイドの話を聞いていた。近づいてみると、中学生くらいの白人の女の子の姿が目に留まった。 純粋な目をしてガイドの話に耳を傾けている。エノラ・ゲイが空を飛んだ時代は、彼女にとって遥か昔の出来事だ。13歳くらいの女の子が、そんな遠い過去の話と自分とを結び付けて考えることができるのだろうか、とふと思った。たった一機の航空機がどのように歴史の流れを変えたのか、私にさえ把握するのが難しいのだから。

★第5回 enola gay2.jpg

エノラ・ゲイ/著者撮影

 1945年8月6日の静かな朝、エノラ・ゲイは広島上空を飛び、原子爆弾を投下した。はっきりとした死者数はわからないが、その後4か月間で約9万人から16万6000人が、5年間で20万人以上が死亡したというデータもある。

 核兵器が他の兵器に比べて残酷なのは、その長期的な影響にある。身体的な傷はもちろん、消えることのない精神的な傷ももたらした。そして多くの場合、心の傷は体の傷よりも治療が難しい。

 博物館を出る前に、2階のビューイングエリアからエノラ・ゲイの写真を撮ることにした。機体にライトが反射し、まるで磨かれたばかりのフォークのように光っていた。その美しい姿の背景には、1984年に始まった修復作業がある。約20年、30万時間以上をかけた作業のおかげで、エノラ・ゲイは今日でも新品に見えるのだ。

 館内には原爆が人々に与えた影響に関する記述はない。あくまでもエノラ・ゲイの航空機としての情報が少しだけ書かれているだけだ。

 一方で、私の脳裏には、これまで出会ったさまざまな人の顔が浮かんでいた。広島や長崎の被爆者、あるいは、原爆で焼け野原になった広島の光景が一生忘れられないと語ったアメリカ人の退役軍人[*2]――彼らは戦争を生き延び、その後たくましく生きたが、心の傷は一生消えることがなかった。人間の心は、この航空機のように修復することはできない。

 私がこれから書き記すのは、原爆によって人生が変わってしまったアメリカ人男性の話である。彼は元患者であり、原爆開発に関わった人物でもあった。


一、原爆開発に関わった男

「若い頃、マンハッタン計画に関わっていたんだ」

 2006年のある日、サムが言った。彼は93歳で末期の大腸がんを診断された患者さんだった。陽気でフレンドリーなイタリア系アメリカ人で、老人ホームの人気者。でもこの日、彼の顔からは笑顔は消え、アーモンド形の目はいつになく真剣だった。

 私はそれまで「マンハッタン計画」という言葉を聞いたことがなかった。第2次世界大戦中に行われた原爆の開発やリサーチのプロジェクトだという。まさかサムがそんなことに携わっていたとは......。

 サムを訪問し始めたのはその年の春頃だった。シンシナティ郊外の老人ホームに住むサムは、1か月ほど前にホームで転倒して以来、ベッドで寝たきりになっていた。ダンス好きの彼は、老人ホームで月1回開催されるダンスプログラムに、それまで欠かさず参加していたそうだ。社交的な彼にとって、寝たきりの生活は精神的な苦痛だった。それを心配した看護師が音楽療法を委託したのだ。

 サムは音楽療法に適した患者さんだった。音楽が大好きで、特に40年代~50年代のビッグバンドを好んだ。イタリア系アメリカ人だったサムは、フランク・シナトラ、ペリー・コモ、ディーン・マーティンなどの歌手が大好きだった。彼らもイタリア系アメリカ人だったからだろう。彼らの楽曲"ムーン・リバー"、"ブルー・ムーン"、"マイ・ウェイ"などを私が唄うと、サムも 声量のある低い声で一緒に唄った。

「父は歌がとても上手だった」

 サムが言った。

「僕らイタリア人は音楽が大好き! みんなで集まると必ず唄うんだ」

 家族や音楽の話をするとき、サムの目は生き生きとしていた。

「そうそう、君に見せたいものがあるんだ」

 そう言って、サムは部屋の反対側にあるタンスを指差した。私はギターを壁に立てかけ、タンスのほうに歩いて行った。

「そこに時計があるでしょう? 持ってきて」

 タンスの上の家族写真の隣に、古い銀色の懐中時計を見つけた。らせん状のデザインが彫り込まれたケースの美しいアンティーク時計だが、針は止まっていた。私がそれを手渡すと、彼はやせ細った小さな手で包みこむようにして受け取った。

「父がくれたんだ。もともとは祖母の時計でね。祖母が亡くなる前に父に渡して、父が亡くなる前に僕のものになった。家宝だよ」

 サムは時計をじっと眺めていた。どれだけ古い物なのかと尋ねた。

「正確にはわからないが、かなり古いことは間違いない。随分前に止まってしまったんだけど、僕にとっては宝物さ」

 サムの祖父母は、1880年代の後半にイタリアから移民してきたそうだ。その後シカゴに移住し、サムもシカゴで生まれたという。この時計は、祖父から祖母への贈り物だったらしい。

「家族は僕にとってとても大切だよ。音楽を聴いているときに思い出すのは、家族のことさ。僕はね、イタリア系であることを誇りに思ってる」

 彼は満面の笑みで言った。

「ところで君は何系なの? どこから来たの?」

 サムは私に聞いた。

「日本から来ました」
「君、日本人!?」

 サムは目を丸くし、ショックで懐中時計を手放した。時計は白いシーツがかかった彼の胸に落ちた。 口を開けたまま、何か言いたそうにしている。しかし、言葉が出てこないようだった。

 この人も第二次世界大戦で戦ったのだろうか? それまでに出会った退役軍人が、私の国籍を知ったときの反応とサムの反応が重なった。でも、彼が次に口にした言葉は全くの予想外だった。

「若い頃、マンハッタン計画に関わっていたんだ」
「マンハッタン計画?」
「原爆の開発に携わったんだ......。でも知らなかった。あんなことになるとは、本当に知らなかったんだ......!」

 サムは枕から頭を持ち上げ、必死の形相で何かを訴えるかのように私を見た。 しわしわの顔は苦痛と緊張でこわばっている。

「ああ、犠牲になった人たち......子どもたちのことを考えると......」

 彼は首を何度も横に振り、目を閉じた。頬には涙が光っていた。

「誇りには思っていない」

 そう言って、サムは静かに泣いた。

 彼がこんな暗い過去を抱えていたとは、思いもよらないことだった。それまでの数か月間、音楽療法のセッション中にサムが話したのは、主に家族のことだった。数年前に亡くなった最愛の奥さん、5人の子どもたち、たくさんの孫――家族はサムの人生の中心にあり、その家族に恵まれたことが今の幸せに繋がっているという印象を受けた。彼のおおらかで明朗な性格からは、つらく重たい過去など想像できなかったのだ。

「何か音楽を弾いてくれる?」

 サムは小声で言った。これ以上その話をすることは、彼にとってはつらすぎるようだ。私は"マイ・ウェイ"[*3]を唄った。

そして今、最後が近づいている
だから僕は、終幕に向き合っている


 歌が終わると、サムはかすかに目を開けた。「ありがとう」とだけつぶやき、また目を閉じた。


二、マンハッタン計画

 その夜、私はマンハッタン計画について調べた。1942年に開始された極秘プロジェクトで、当時はアメリカ連邦議会にさえ知らされていなかったそうだ。もともとは、ナチス・ドイツが原爆を開発する可能性に危機感を覚えた科学者たちが、ルーズベルト大統領を説得して始まったもので、アインシュタインもそこに名を連ねたひとりだった。マンハッタン計画に関与した科学者たちの多くは、アインシュタインのような亡命ユダヤ人で、ドイツとの戦争に勝つために協力したいという熱意があったことも知った。

 プロジェクトはアメリカ国内の様々な場所で行われた。合計で60万人以上が関与したそうだ。しかし、プロジェクトの目的を知っていた者はほんのわずかだった。ひとつひとつの仕事がコンパートメント化されていたため、自分の仕事に関連のあることしか知らされなかったという。

 プロジェクトに加わった人々がその内容を知ったのは、広島に原爆が投下され、世界中がその事実を知ったときだった。反応はふたつに分かれたという。これで戦争が終わるかもしれないと歓喜した人たちと、多くの命を奪った原爆への恐怖に襲われた人たち。サムは後者だった。

 あの日以来、セッションのたびにサムはマンハッタン計画の話をするようになった。 でも、詳細を語ったり、内省し、自らの感情と向き合ったりすることはできず、ただ何度も同じことを繰り返し話すだけだった。これはトラウマの症状だろう、と私は思った。

 その頃、サムは身体的にも衰弱していて、少しずつ消えつつあるローソクのように見えた。エネルギーも時間も残されていない彼にとって、無理をしてでもトラウマを語ることに意味はあるのだろうか? 私はなるべく音楽に焦点を置き、過去の話を持ち出さないようにした。それでもサムの口からは必ず「原爆」の話が出てくるのだ。まるで悪夢に取りつかれているかのように。

「僕は、シカゴ大学の研究に関わっていたんだ」

 ある日、サムは言った。

「あれは本当に酷いことだった! 放射線で病気になった人や皮膚が剥けてしまった女性や子どもたちの写真を見たことがある」

 彼は表情をこわばらせ、未だ信じられないと言わぬばかりに首を横に振った。

「あなたは、自分に責任があると感じているのですね」

 私がそう言った途端、彼は泣き出した。シーツを被ったサムの小さな体が震えていた。目的を知らなかったとはいえ、原爆開発に関わってしまった罪悪感を、彼はずっと抱えて生きてきたのだろう。

 シカゴ大学はマンハッタン計画が行われた場所のひとつだ。彼がそこでいったい何をしたのか、どのようにプロジェクトに関わったのかはわからない。彼は計画に関わったという以上の話をしなかったし、できなかったのだと思う。同じ話を繰り返し、つらくなると「音楽が聴きたい」と言うだけだ。音楽はサムにとって気持ちを落ち着かせる唯一のものだったのかもしれない。

 彼は、止まった懐中時計のように過去に囚われていた。


三、広島での記憶

 蒸し暑い春の午後、中学3年生の私は広島平和記念公園にいた。湿気が強く、立っているだけでくらくらした。その年、中学校の修学旅行先が例年の京都・奈良から広島に変更され、がっかりしたことを覚えている。

 色とりどりの千羽鶴が風に揺れ、鳥の鳴き声が聞こえた。原爆ドームの周りがこんなにも穏やかで美しいとは、予想外だった。その日の午前中、私たちは平和資料館を見学した。旅行前に学校で原爆に関する残酷な写真や映像を見せられたことが原因かもしれないが、資料館では特に驚きもなく、心を動かされることもなかった。むしろ、もっと酷い物が本当はあって、それは観光客には強烈すぎるという理由で別の所に保管してあるのではないか、とさえ思った。

 午後は、公園で被爆者の語りを聞くということになっていた。その人は灰色のスカートスーツを着た50代くらいの女性だった。私たちは、彼女の周りに半円を描くように立っていた。夏服の制服を着た私たちは汗だくだったが、その女性だけは汗をかいておらず、日差しが直接顔を照らしているのに表情ひとつ変えなかった。そして、低い声でこう言った。

「あなた方が立っているコンクリートの下には、今でもたくさんの死者が眠っているんです」

 それを聞いて私はゾッとした。周りの生徒たちも突然静かになった。私は足元のコンクリートの平らな表面を見た。

「死体があまりにも多かったので、埋葬することができなかったんです。なので、その上に平和記念公園を建てたんです」

 顔を上げると、女性の険しい表情が目に入った。この話はおそらく、何度も繰り返し語ってきたことなのだろうが、それでも 彼女の顔には苦悩が刻まれていた。子どもの頃に被爆した彼女は、それ以来この信じがたい悲劇の証人として生きてきたのだ。

 被爆者の語りは、資料館で見た展示物のどれよりも印象深く心に残った。むしろ、声のない展示物に彼女が声を吹き込んだかのように感じた。亡くなった方々が身にまとっていた洋服、時計、学生服、人影の石――ひとつひとつが、あの瞬間まで生きていた人の命を映していたのだ。

 サムと出会うまで、この悲劇にもうひとつの側面があるとは考えたこともなかった。それは 距離によって隔てられていたが、絶望でつながっていた。

 マンハッタン計画に携わった科学者の多くは、原爆が広島と長崎に投下された後、悔恨の情を抱いたそうだ。プロジェクトの引き金となったのは、アインシュタインがサインし、ルーズベルト大統領に送られた一枚の手紙である。後にアインシュタインはそれを後悔し、「もし、ドイツが原爆開発に成功しないとわかっていたら、何もしなかった(手紙にサインしなかった)」と言った。

 プロジェクトの指導的立場にあったオッペンヘイマーは、戦争終結から2か月後初めてトルーマン大統領と面会し、こう言った。

「私の手は血で汚れているように感じるのです」

 プロジェクトに携わった指導者たちが原爆を作ったことに罪悪感を抱いたとしたら、それは理解できる。当初の目的とは異なった形で利用されたとはいえ、彼らはプロジェクトの内容を把握していたわけだから。しかし、サムは事情を知らされていなかった。それでも彼は、まるでそれを自分の責任であるかのように感じ、自らを責め続けてきたのだ。 


四、18歳の兵士と枯葉剤

 サムと出会ってから数年後、ヘンリーという男性が病棟に入院してきた。彼の部屋を初めて訪れたとき、何かがひどくおかしいと直感した。まだ50代で筋ジストロフィーの末期の状態の患者さんだった。外は大雨で部屋の中も寒かったが、彼は汗だくだった。簡単に挨拶をした後、調子はどうかと聞くと、彼は息もつかずに言った。

「ベトナム戦のことをずっと考えているんだ......」

 突然、彼は手を伸ばし、私の手首を掴んだ。

「僕はベトナムで枯葉剤を撒いたんだ! 当時は枯葉剤が何なのか知らなかった」

 ヘンリーは声を上げ、何かを訴えかけるような目で私を見た。サムがそうしたように。

 枯葉剤はアメリカ軍がベトナム戦争中に使用した強力な除草剤だ。子どもの頃、枯葉剤の影響で障害を持って生まれてきた子どもたちの映像をテレビで見たことを思い出した。400万人以上のベトナム人が枯葉剤の影響を受けたと言われており、その後遺症は、がん、先天性欠損症、深刻な心理的・神経的問題などに及ぶ。原爆と同じく、枯葉剤は戦後も長くその影を落とした。

「自分を許すことができないんだ......」

 ヘンリーはベッドに沈み込み、子どものように泣いた。

「当時、何歳だったんですか?」
「18歳......。徴兵されたんだ」

 彼は涙を流しながら言った。

「あなたはただ、命令されたことをやっただけです」
「でも、今考えればカナダに行って徴兵を逃れることだってできた。なのに、僕はそうしなかった......」

 確かに、ベトナム戦争中、カナダに移住し徴兵を逃れた人たちはいた。モハメド・アリがそうしたように、宗教や倫理的な理由などから「良心的兵役拒否者」として徴兵を拒否した人もいた。ただ、カナダに逃亡した者は二度と古郷に帰れない可能性があり、良心的兵役拒否者は刑務所に送られる可能性や社会からの批判を受け入れる覚悟が必要だった。いずれにしても簡単にできることではない。

「あなたはまだ18歳だった。戦争がどんなもので、何をさせられるかさえ知らなかったでしょう」
「牧師にも同じことを言われた。でも僕は、自分のしたことが許せないんだ」

 ヘンリーはカトリック教徒だった。戦後、牧師に罪を告白し、赦しを求めたそうだ。それで「神様からの赦し」は得たそうだが、彼の罪悪感は消えることがなかった。

 「許す」というのは、人が、人生の最期に向き合う課題の中で、最も難しことのひとつだと思う。自分を許すことは、他人を許すことよりも難しいことかもしれない。しかも、自分の行為が他人に計り知れない苦悩を与えてしまったとしたら、それは想像を絶する苦しみだろう。人生の最期に誰もが求める「心の平穏」とは、周りが与えられるものではない。

 ヘンリーの心が穏やかな場所にたどり着くことは、最期までなかった。死が近づくにつれ、彼はますます動揺するようになった。自分を責め続け、同じストーリーを何度も繰り返すのだ。彼はそこから前に進むことができなかった。

 ヘンリーとサムが抱いた強い罪悪感は、本人たちにしかわからないものだろう。

 感情とは、必ずしも道理にかなうものではないのだと私は知った。自分の行いが他人に苦しみを与え、殺人につながったという事実を胸に秘め生きるということが、どんなに過酷なことか。オッペンハイマーが言ったように、ヘンリーとサムも自らの「手が血で汚れている」と感じていたのだと思う。


五、懐中時計

 私が最後にサムを訪問したのは、 紅く染まった葉が地面に落ち始めた初秋の季節だった。数日前に94歳の誕生日を迎えたサムのために、私はハッピーバースデーの歌でセッションを始めた。サムは恥ずかしそうに笑って言った。

「ありがとう。こんなに長生きするとは思ってもいなかったよ」

 誕生日はどのように過ごしたのかと聞いた。

「息子と義理の娘が孫たちを連れて来てくれた。食欲がないもんだからケーキはあまり食べられなかったけど、家族に会えて嬉しかった。そうそう、もうひとつサプライズがあった」

 彼はベッドサイドのテーブルに手を伸ばし、懐中時計を手に取った。

「見て」

 満足げな笑みを浮かべて彼は言った。見ると、時計の針が動いていた。

「息子が時計屋に持っていって直してくれたんだ」

 彼の目が輝いた。サムがこんな笑顔を見せたのは、何か月ぶりだろう。懐中時計を胸に握りしめ、サムは言った。

「本当に長い人生を生きた。知っての通り、後悔もある。誇りに思っていないことも......。でもそれを変えることはできない」

 自分に言い聞かせるかのような口調だった。彼の顔には、喜びも絶望もなかった。でもその日、何かが違うと私は感じた。普段より穏やかな空気が流れていたからだろう。自分を許したのか、もしくは、最期が近い兆しだろうと私は思った。

「何か唄って欲しいな」

 サムが言った。

「何が聴きたいですか?」
「何でもいいよ。僕の好きな歌、ユミは知ってるから」

 サムを驚かせようと、私はここ数日間ある曲を練習していた。"サンタ・ルチア"というイタリアの民謡だ。唄いだすと、サムは一瞬驚いた顔をし、完璧なイタリア語で一緒に歌い始めた。優しくスムーズな声。彼がその歌を唄うことは、母親が子守歌を唄うかのように、とても自然なことに見えた。

「まさか日本人の君がイタリア民謡を歌うとは!」

 唄い終わってからサムが言った。私たちは一緒に笑った。

 しばらくして、サムは私の手を取り目を閉じた。しわしわの彼の顔から徐々に力が抜け、呼吸が緩やかになるのがわかった。彼が眠りにつくまで私はそこにいた。それが彼との最後のセッションとなった。

 あれから長い月日が経った。サムは、最期に自分を許すことができたのだろうか、と私は今でも考えるときがある。博物館でエノラ・ゲイを見たときもそのことが頭に浮かんだ。答えは本人にしかわからない。ひとつ言えるのは、サムは、過去を変えることはできないのだと、受け入れたということだ。 過去が違ってさえいれば、あるいは、違っていてくれたならば――そんな希望を手放したのだ。

 もしかすると、自分を許すとは、そういうことなのかもしれない。

【サム編 完】



[*1] ジョージワシントン大学の公式サイトで手紙の全文が公開されている。

[*2] 「原爆で焼け野原になった広島の光景が一生忘れられないと語ったアメリカ人の退役軍人」については本連載の第3回第4回を参照。

[*3] FRANK SINATRA "MY WAY"より著者訳。作詞はTHIBAUT GILLES。以下は著作権表示。

MY WAY
Words by GILLES THIBAUT
English words by PAUL ANKA
Music by JACQUES REVAUX and CLAUDE FRANCOIS
© JEUNE MUSIQUE EDITIONS
Permission granted by FUJIPACIFIC MUSIC INC.
Authorized for sale in Japan only.


MY WAY
Words by Gilles Thibaut
Music by Claude Francois & Jacques Revaux
© 1967 by WARNER CHAPPELL MUSIC FRANCE
All rights reserved. Used by permission.

[全体]広島の死傷者数については米国エネルギー省の公式サイトAtomic Heritage Foundationを参考にした。ただし、広島市の公式サイトを見ると、原爆による死者数は今も正確にはつかめていないとされている(放射線による急性障害が一応おさまった1945年12月末までの死者数は約14万人と推計)。エノラ・ゲイについてはSmithsonian National Air & Space Museumの公式サイト、マンハッタン計画やオッペンハイマーの言葉は『Trinity - A Graphic History of the First Atomic Bomb』とAtomic Heritage Foundation(同上)、アインシュタインの言葉はThe Atlanticの記事、枯葉剤犠牲者数はForbesの記事を参照した。

Profile

佐藤由美子

ホスピス緩和ケアの音楽療法を専門とする米国認定音楽療法士。バージニア州立ラッドフォード大学大学院音楽科を卒業後、オハイオ州のホスピスで10年間音楽療法を実践。2013年に帰国し、国内の緩和ケア病棟や在宅医療の現場で音楽療法を実践。その様子は、テレビ朝日「テレメンタリー」や朝日新聞「ひと欄」で報道される。2017年に再び渡米し、現地で執筆活動などを行う。著書に『ラスト・ソング――人生の最期に聴く音楽』、『死に逝く人は何を想うのか――遺される家族にできること』(ともにポプラ社)がある。 HP: https://yumikosato.com

こちらもおすすめ

Pick Up Book

  • かがみの孤城
  • i
  • 私のスポットライト
  • ビオレタ
ポプラ社一般書通信 note

Pick Up Book

  • かがみの孤城
  • i
  • 私のスポットライト
  • ビオレタ