戦争の歌がきこえる アメリカのホスピスで出会った戦争を生き抜いた人たち

佐藤由美子

戦争の歌がきこえる アメリカのホスピスで出会った戦争を生き抜いた人たち

写真=佐藤由美子/デザイン=根本綾子

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僕たちが戦った理由

"自由とは、どんな場合でも、
絶えず格闘することによってのみ可能となる。"
~アインシュタイン[*1]



一、アメリカの理想と現実

 2019年8月のある日の夕方、BBCニュースで香港デモの代表者たちが会見したと聞いた。逃亡犯条例の改正反対運動から始まった抗議活動は数か月続いており、対立はエスカレートしていた。マスクで顔を覆った代表者が英語で声明文を読んだ。

「民主主義、自由、平等の追求は、全ての市民の不可侵の権利である。このような世界共通の価値観を追求する権利を根絶するのをやめるよう、私たちは政府に要求する」

 聞き覚えのある内容だ。アメリカ独立宣言の最も有名な下りと似ている。

「われわれは、以下の事実を自明のことと信じる。すなわち、すべての人間は生まれながらにして平等であり、その創造主によって、生命、自由、および幸福の追求を含む不可侵の権利を与えられているということ」

 両方の文章には、"unalienable right" という言葉が出てくる。Unalienable とは「奪うことができない」という意味で、「不可侵」と訳されることが多い。独立宣言の文脈以外でこの言葉を聞くことはまずないし、日本語にもない表現なので、私はいつも強い印象を受ける。権利とは政府が「与える」ものではなく、人間が生まれながらにして持っているものであり、政府はあくまでも権利を「認める」立場にあるにすぎない、ということを明確にする言葉だと思う。

 独立宣言はその名前からして、イギリスとの独立戦争に勝利したあとに出されたと思うかもしれないが、実はそうではない。戦争が始まった翌年の1776年に承認され、戦争は1783年まで続いた。つまりこれは、イギリス国王の独裁政治や抑圧に対する非難であり、挑戦だったのだ。アメリカ独立宣言は、のちにフランス革命に影響を及ぼし、現在でも民主主義の理想を支える基盤と考えられている。

 今から数か月前、私はワシントンD.C.にあるアメリカ国立公文書記録管理局で独立宣言の原本を見た。古く黄ばんだ文書は、憲法と権利章典(憲法中の人権保障規定)の原本と一緒にガラスケースに保管されている。文字は若干色あせてはいるものの、原文を読むことができた。ここで宣言された主張は、18世紀において、どれだけ過激なものだったのだろうか。多くのアメリカ人がここで言及されている権利を実際に獲得するまで、どれだけの時間がかかったのだろうか。私は思いを馳せてみた。

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アメリカ国立公文書記録管理局(National Archives and Records Administration)/著者撮影


「不可侵の権利」は当初、すべての国民に当てはまるものではなかった。アメリカの歴史は、この権利のための闘い、つまりそれを要求し続けた人々の視点から物語ることができる。南北戦争後の奴隷廃止制度、女性参政権運動、公民権運動、障害者権利運動、アメリカンインディアン運動など......その挑戦は現在でも続いている。

 独立宣言や憲法で示されているアメリカの「理想(ideals)」は、未だ完全に実現されてはいないが、"a more perfect union(もっと完全に近い調和)"を目指すことがこの国の在り方なのである。少なくともそれが、アメリカ人が語り継いできたストーリーだ。彼らは実際に、自分たちは様々な権利のために戦ってきたのだ、と子どもの頃から教えられている。その挑戦は時に、独立戦争や南北戦争のような武力による「戦い(fight)」であったし、またある時には、公民権運動や女性参政権運動のような非暴力の「闘い(fight)」であったのだ、と。つまり、民主主義や個人の自由は、絶えず格闘することによってのみ可能となる。

 一方で、このストーリーは、政治的なレトリックとしても利用されてきた。直近では、イラク戦争が思い浮かぶ。私が米国音楽療法士となりホスピスで働き始めた2003年に、この戦争が始まった。ブッシュ大統領をはじめとした政治家たちは、「イラクが大量破壊兵器を保有している」という恐怖で人々を煽るばかりではなく、「民主主義」や「自由」の理想を掲げ、戦争への支持を集めようと懸命になっていた。それ自体、驚きだったのだが、私が信じられなかったのは一般市民の反応だった。ジャーナリストや 知識人とされてきた人たちまで、政治家たちの発言をたやすく受け入れたからである。

 今日、たいていのアメリカ人はイラク戦争を間違いだったと思っているし、政府に嘘をつかれたと怒りを抱いている人も多い。しかし、当時そういう意見は稀だったことを、私は鮮明に覚えている。戦争が長引くにつれ、私はいわゆるアメリカの「理想」というものに対し、ますます疑問を感じるようになっていた。そのような中、ホスピスの病棟でウォルターという患者さんに出会ったのは、2006年の秋頃のことだった。 


二、クリスマスの思い出

 ウォルターは90歳で末期がんを患っていた。ベッドに寝たきりの状態ではあったが、がんによる痛みはなく、不平不満もまったく言わない人だった。雪がぱらぱらと降る12月の午後、彼の部屋に入ると、テレビから銃声が聞こえてきた。

「テレビ消してくれる? これはひどい......。もう見たくない」

 ウォルターは眉間にしわを寄せ、ベッドに横たわったまま、顔の前で手を左右に振った。テレビからは、いつものようにイラク戦争のニュースが流れていた。私はテレビを消して、ベッドの向いの椅子に座った。

「戦争のニュースを見たくないのですね」
「こんな戦争をはじめてしまうなんて......。戦地に送られた若者たちのことを思うと......」

 彼は嘆くように言ったが、すぐに話題を変えた。

「それよりも、今日は何の楽器を持ってきたの?」
「キーボードです」
「ああ、それはいいね」

 音楽が大好きなウォルターは、笑顔で言った。人柄がよく、いつも私を温かく迎えてくれるのだ。テレビの隣にあるテーブルには、第二次世界大戦で使われた航空機の模型がいくつか置いてあった。以前、そのことについてたずねたとき、彼は「戦時中は航空整備士だった」と答えたが、それ以上のことは語らなかった。その日はクリスマスの数週間前だったので、私は「クリスマスソングを弾きましょうか」と提案した。

「もちろん、クリスマスは僕のいちばん好きなホリデーなんだ」

 私がキーボードでクリスマスソングを弾くあいだ、ウォルターはうとうとしているようだった。しかし、"I'll Be Home for Christmas(クリスマスを我が家で)"[*2]を唄いはじめた瞬間、パッと目を開けた。彼はそのまま、天井をじっと見つめていた。

クリスマスは家に帰るよ
期待していてくれ
雪とヤドリギは欲しいな
そしてツリーにはプレゼントを

「この曲の背景を知ってるかい?」

 ウォルターは天上から目をそらすと、今度は私のほうをじっと見つめながら言った。私は、この曲は40年代にビング・クロスビーが唄ったものだということは知っていたけど、それ以上のことは知らなかった。

「第二次世界大戦中、海外にいた兵士のために書かれた曲なんだ。ラジオでこの歌を聴いたときのことは今でも覚えてるよ。僕が航空整備士だったことは前に話したかもしれないけど、当時はイギリスに駐屯していたんだ。とても寒い冬だった。誰だってクリスマスには家に帰りたいと思うだろ? でも、もちろんそれは無理だった。戦争の真っ只中だったから......」

 ウォルターはとつとつと、1944年の冬の出来事について話しはじめた。彼には戦争の話をしたい日と、そうでない日があったから、私は彼のペースに合わせてじっと耳を傾けた。これから書くのは、彼がその日から数か月間にわたって語ってくれたストーリーをまとめたものである。


三、ラジオから流れてきた歌

 1944年6月、アメリカ・イギリス軍を主体とする連合軍はノルマンディーに上陸し、8月にはパリが解放された。12月はベルギーのアルデンヌ高知で「バルジの戦い」が繰り広げられていた。連合軍は進撃し続けてはいたものの、犠牲者は多く、バルジだけでアメリカ兵81000人が死傷した。

 イギリスの寒くて湿っぽい気候の下、ウォルターは夜仕事をすることが多かった。灯火管制のため電気をつけることができなかったので、懐中電灯を照らしながら真っ暗闇で作業をしたという。

「大変な任務だったけど、フライトクルー(航空機乗務員)たちの任務に比べたら大したことじゃなかった。僕らは戦闘に送られなかったんだから。多くのフライトクルーは二度と戻ってこなかった......」

 大半のグラウンドクルー(地上勤務の整備士・技術者)は、ウォルターのような20代の若者だった。ウォルターには、一緒にトレーニングを受けたジェームズとレオという名の親友がいた。ジェームズは南部出身。社交的で基地内の誰とでも顔見知りになるような人柄だった。レオはカンザス州出身で、将来は大学で哲学を勉強する夢を持っていた。

 ある日、ウォルターたちがいつものように航空機の整備をしていると、ラジオからクリスマスソングが流れてきた。

クリスマスは家に帰るよ
期待していてくれ
雪とヤドリギは欲しいな
そしてツリーにはプレゼントを

クリスマス・イブにはそこにいるから
愛情の光が輝く場所に
クリスマスには家に帰るよ
せめて夢の中でなら

 気づけばみんな静かになり、その音楽に聴きいっていた。お喋りのジェームズさえ何も言わずに聴いていた。ホームシックにかかっていたレオは目に涙をためていた。ウォルターの心に浮かんだのは、オハイオ州に住む家族のことだった。


四、祖母が初めて見せた涙

 1916年、ウォルターはオハイオ州シンシナティ市のドイツ系カトリック教徒の家に生まれた。貧しい家庭だったが、彼がそのことに気づいたのはずいぶんあとになってからのことだった。世界大恐慌の時代、多くのアメリカ人が日々の暮らしに苦しんでいたからだ。食べ物は容易に手に入らず、娯楽のために使うお金などはない時代だった。

 だからこそ、幼いウォルターにとって「クリスマス」は特別だった。クリスマス・イブにはお婆さんがパンとクリスマスクッキーを焼いてくれた。甘い物を食べることができたのは、一年の中でクリスマスの時期だけだった。クリスマスの日の朝ごはんには、お婆さんがウォルターの好物の「ゲタ」を作ってくれた。ゲタとは、シンシナティのドイツ系移民たちが作り出した食べ物で、肉と穀類を練り込んでつくったソーセージのようなものだ。節約のため、一人前の肉を目いっぱいに伸ばし、何回も食べられるよう工夫されている。

 クリスマスプレゼントを買う余裕のない家庭だったが、ツリーだけは必ず飾った。新鮮なツリーの香りが小さな家の中を満たす。ツリーの隣には古いピアノがあり、その周りに家族が集まってクリスマスソングを唄うのが習慣だ。ピアノを弾くのはウォルターの姉、お婆さんは"きよしこの夜"をドイツ語で唄った。

 お婆さんのフリーダは幼い頃ドイツから移民してきたため、流暢なドイツ語を話すことができた。背が高く、鋭い灰色の目をした女性だった。厳しいお婆さんだったが、ウォルターはお婆さんが大好きだった。ドイツ語を話せるようになりたいと、お婆さんに何度言っても決して教えてくれなかったという。当時、アメリカ国内には反ドイツ感情があったからである。

 1933年、ドイツではヒトラー内閣が発足。首相となったヒトラーは、検閲を導入し、非常事態宣言を出すことで、 言論や出版の自由を含む個人の自由を剥奪した。その年、ナチズムの思想に反するとされた書物が 燃やされる「ナチス・ドイツの焚書 」が起こった。それから間もなく、ユダヤ人の迫害が始まった。

 アメリカの新聞は、ドイツで起こっているこれらショッキングな出来事を報道していた。ウォルターはお婆さんが真剣に新聞に目をやる姿を覚えている。一字一句目で追い、信じられないとばかりに首を振るのだった。そのたびに、彼女の灰色の目はいつになく鋭くなっていく。

「『アメリカ人であることに感謝しなさい』と婆さんがよく言っていた。ドイツでは、僕らが当たり前だと思っている自由がないのだから、って。言論の自由なんてものは、ナチスの下ではありえなかった。ナチスが広めたのはヘイトだけさ」

 ウォルターは「ヘイト」という言葉を口にするとき、少し声を高めて言った。

「ドイツ系アメリカ人として、ドイツと戦ったわけですね。それはつらかったですか?」

 "No."――彼は、はっきりと言った。

「ドイツ人に対する憎しみは全くなかった。でも、ナチスは倒さなければいけないという、その確信はあったんだ」

 ウォルターはお婆さんの涙を一度だけ見たことがあるという。彼が徴兵されて故郷を離れる日、お婆さんは何も言わず、ただ手を振っていた。彼女の頬には涙がつたっていた。


五、生きて帰れたら

 1945年の年が明けたある日、ウォルターはジェームズとレオを含めた仲間たちとともに航空機に乗ることになっていた。それはごくごく日常的な任務だったのだが、ぎりぎりになってウォルターの代わりに別の人が乗ることになった。その理由は覚えていない。でも、そのあとに起きたことは鮮明に覚えている。

 彼が乗るはずだった航空機が、離陸してすぐ、飛行場に墜落したのだ。地面が激しく揺れ、航空機はあっという間に激しい炎に包まれた。飛行場には、煙と何かがこげるような臭いが充満した。ウォルターは、その場に呆然と立ち尽くしていた。ジェームズとレオが、燃えている......。

「あの日の光景が目に焼きついているんだ」

 彼は、テーブルの上に置かれた航空機の模型に目を向けた。そこには3つの模型があった。

「僕らが一緒に整備した航空機の模型だよ。これを見ていると、親友たちのことが目に浮かぶ。彼らは僕の心の中に今もいるんだよ......。どういうわけか、僕は九死に一生を得た。なぜかはわからないが......。でもあの日、心に誓ったことがある。もし、この戦争から生きて帰ることができたら、シンプルで幸せな人生を送ろう、ってね」

 1945年5月8日、ドイツが降伏するとヨーロッパ中が歓喜に包まれた。ロンドンでは、戦争に疲れ果てた市民たちが道にあふれ、勝利の喜びをわかちあった。耐え忍ぶ時間はもうおしまい。これでようやく祖国に帰れる、とウォルターは思った。

 しかし、彼はその後すぐに、太平洋戦争に送られるかもしれないことを知らされた。

 1944年の秋の時点で、日本の敗戦色は濃厚になっていた。いずれの国の指導者たちにとっても、それは共通の認識だった。しかし、戦闘はその後1年間も続いた。この最後の1年で、日本側はもちろんのこと、アメリカ側も多くの戦死者を出した。太平洋戦争で犠牲になったアメリカ兵の半数以上が、1944年7月から1945年7月のあいだに戦死している。

 1945年4月にはアメリカ軍が沖縄に上陸した。ウォルターたちがヨーロッパ戦線の勝利を祝っていた頃に、沖縄では激戦が繰り広げられていたのである。その数カ月前にあった硫黄島の戦いも悲惨だったが、沖縄戦では一般市民も巻き込まれたためにさらなる被害が広がった。しかし、このような絶望的な状況にあっても日本軍は降伏せず、あくまで戦いを続けたのである。

 このまま行けば日本本土での戦いとなり、そこに送りこまれる可能性がある。その事実を知ったとき、彼は大きな衝撃的を受けたという。

「それまで幸運にも生き延びることができたけど、運なんていつまでも続くわけじゃない。本土上陸となれば、悲惨な戦闘になるのはわかっていた。多くの人が死ぬことになるだろうし、自分も死ぬかもしれない。でも、どうすることもできなかった。ただ待って、様子を見るしかなかったんだ」

 ウォルターは家族に宛てて手紙を書いた。「何が起こっても、お互いを助け合うように」――短い手紙に、そのようなメッセージを紡いだ。自分の人生をコントロールできない無力感や苛立ち。それらをどうすることもできず、彼は運命を受け入れるしかなかったのである。

 しかし、本土決戦を待たずに、戦争は連合国側の"勝利"に終わった。

「日本が降伏したときは、本当に安心した。今度こそようやく終わったんだ、と思ったよ」

 彼はそう言って大きく深呼吸した。表情も緩やかで、まるで当時のことを追体験しているかのようだった。この戦争の経験から、彼が学んだことはなんだろうか。

「戦争はひどいものだ。でも、それは経験するまでわからないことだね。僕たちが戦った第二次世界大戦は"Good War"(良い戦争)などと言われるけど、そんなものはない。何百万もの人間が死んだんだ。街は破壊され、若者の未来も奪われた。でも......」

ォルターは続けた。

「それでも僕たちは、何のために戦っているのかを、わかっていたと思うんだ」


六、僕たちが戦った理由

 アメリカ国立公文書記録管理局を訪れたのと同じ頃、私はワシントンD.C.のメインストリートであるペンシルバニア・アベニューを自転車で走っていた。そのとき、「ニュージアム」 というジャーナリズムに関する博物館の前で思わず自転車を止めた。壁面に大きく書かれた文字が目に留まったのだ。

「議会は、国教の樹立を支援する法律を立てることも、宗教の自由行使を禁じることもできない。 言論の自由、あるいは報道の自由を制限することや、人々の平和的集会の権利、政府に苦情救済のために請願する権利を制限することもできない」

市民の5つの自由を保障する、憲法修正第1条 (権利章典)に記された文言である。国家権力によってさえも制限されないこれらのシビル・リバティ(市民の自由)は、近代民主主義において不可欠なものだ。国民に力を与えることによって、初めて「人民の人民による人民のための 」政府をつくることができる。

 近年、世界中で民主主義が危機にさらされているが、アメリカも例外ではない。トランプ大統領は民主的なガバナンスにおけるさまざまな中核機関をあざ笑い、時には攻撃的な態度を取っている。例えば、報道機関を「国民の敵」と呼び、主要メディアが「フェイクニュース」を流していると非難し続けている。「フェイクニュース」という言葉はトランプ氏が生み出したものではない。ナチス・ドイツも"Lügenpresse"(嘘つきメディア)という似たような言葉を使用していた。

 また、大統領就任後、トランプ氏は特定のイスラム国の人々の米国入国を禁止する入国禁止令を出した。署名から数時間後、テキサス州ビクトリアにあるモスク放火事件が起き、容疑者はヘイトクライム(憎悪犯罪)の罪で起訴された。その後もトランプ氏はイスラム教徒を敵視し続けている。

 2017年、バージニア州シャーロッツビルでは、白人至上主義者たちがナチスの旗を掲げ、「我々はユダヤ人に追い出されはしない」などと叫んで行進した。これに反対した人々が対抗デモを行い、一人の女性が死亡。トランプ氏は「両サイドともに、良い人もいる」と、白人至上主義者をかばうような発言をし、大問題となった。

 FBIの調査によれば、トランプ氏が大統領になった2016年以降、国内のヘイトクライムが増加している。また、北テキサス大学の調査によれば、彼が大統領選挙のキャンペーンを行った群では、ヘイトインシデント(憎悪を動機とした事件)が226%増加したことがわかった。

 国際情勢においても、これまでの同盟国と対立し、むしろ独裁的な指導者を称賛している。これらトランプ大統領の言動は、アメリカの理想を脅かすものであるとして、国内外から激しい批判や懸念の声が上がっている。その中に、第二次世界大戦の退役軍人たちがいる。

「僕たちはナチスを倒さなければいけないと信じて、戦争に行った。今この国で起こっていることは、最悪のことだ」

 シャーロッツビル事件後、ある退役軍人は地元テレビ局のニュースでそう訴えた。また、別の退役軍人はこう語った。

「この国が自由と平等にどれだけ近づいたか、それまでにどんな苦労があったか、この大統領は全く理解していない。僕たちは憎悪のイデオロギーと戦ったんだ」

 この男性は、タスキーギ・エアメンという黒人だけの航空隊の一員だったそうだ。大戦中、黒人兵士たちは海外で敵と戦いながら、自国の人種差別とも闘わなければいけなかった。第二次世界大戦で戦った黒人の退役軍人たちは、戦後の公民権運動にも大きな影響を及ぼした。

 もし、ウォルターが生きていたら、今のアメリカの現状に対して何と言うだろう? 最近、私はそんなことをよく考える。

 リンカーン大統領が語ったように、アメリカ人が「自由」と言ったとき、皆が同じ意味でその言葉を用いているとは限らない。しかし、第二次世界大戦の退役軍人が語る「自由」とは抽象的な観念ではなく、憲法で保障されている基本的人権や自由のための権利、つまり「シビル・リバティ」のことだ。私は、ウォルターとの出会いを通してそのことを知った。そして、それこそがまさに、先の大戦でファシズムを前に危機に瀕していたものだった。ウォルターをはじめとする兵士たちは、そのために戦ったという自覚があったのだろう。

七、家に帰ろう

 春の訪れが感じられる日の午後、私はウォルターを訪問した。病棟の庭ではアメリカンロビンが飛び交い、モクレンが咲き始めていた。

 ここ数か月間でウォルターの体重は減り、寝ている時間が長くなっていた。身の回りのことのすべてを人にやってもらう不自由な生活がずっと続いていたが、彼は一切の愚痴をこぼさず、訪問者やスタッフに対して常に親切で温かかった。

 冬の間にあったクリスマスの飾りやカードは片付けられ、部屋は殺風景だった。でも、航空機の模型だけはベッドから見えるとことに置いてあり、隣にはボランティアが持ってきた赤いバラが飾ってあった。

 丸く若々しい顔は、以前と変わらないように見えた。ウォルターがいつものように音楽が聴きたいと笑顔で言ったので、私は彼の好きなビッグ・バンドの音楽を弾くことにした。演奏の間、彼は微かに目を閉じて聴いていた。そしてその日、戦争から帰ってきた日の出来事を話してくれたのである。

 1945年、ウォルターがシンシナティに帰ったとき、故郷を離れてからすでに約3年の月日が経っていた。迎えに来ていたお婆さんとお姉さんは、以前と変わっていないように見えた。お婆さんは少し年をとったが元気で、姉は結婚していた。その夜、実家で久しぶりに家族と夕飯をした。

「3年は本当に長かった......。生きて帰れたことがまだ信じられなかったな。家族と再会できたことは嬉しかったし、夢のようだったけど、家族に戦争の話はできないと思ったね」

 当時を振り返り、ウォルターは言った。

「帰還した僕を見て、母が言ったんだ。『大変だったわね。でも、私たちも大変だったのよ。お砂糖がなかなか手に入らなかったんだから』って。 その時、自分たちが経験したことは、一般市民には理解できないことなんだと思った。だからその後、戦争の話はしないことにしたんだ」

 ウォルターは私をちらっと見た後、テーブルの上の航空機の模型に目をやった。 その模型は、彼にとってみれば、若くして命を落とした戦友たちの象徴のようなものだったのだろう。

「本当に多くの男たちが......、いや、中には少年もいたが......、命を失ったんだ」
「彼らのことを、よく思い出すのですね」

 ウォーターは静かに頷いた。

 戦後、エンジニアとなり、結婚して家庭を持ったウォルターは、「シンプルで幸せな人生」を送った。親友を失ったあの日、心に決めたように。でも、彼の心の中には戦争の記憶がいつも共にあったのだろう。だからこそ、人生の最期にそれを誰かに語り、知ってほしいと思ったのかもしれない。

 私が音楽を弾いている間、彼は終始穏やかな表情だった。

「あなたは、いつも落ち着いた表情をしていますね」

 私がそう言うと、ウォルターは大きなブラウン色の目で私を見た。

「待つことには慣れてるからね」

 彼は冗談っぽくそう言った。

 戦時中、ウォルターはずっと、故郷に帰る日を待ち続けた。そして今、彼は再び待ち望んでいる。人生の最期の旅に出る日が来ることを。

「あなたはまた、待っているのですね」

私がそう言うと、彼はうなずき、かすかにほほ笑んだ。 

"I'm ready to go home."

「家に帰る」ことを英語では、"going home" というが、この言葉は同時に、「天国に行く」こと、つまり「死」を意味する場合がある。彼が人生の最期に夢見た「ホーム」は、ジェームズとレオがいる場所だったのかもしれない。

【ウォルター編 完】



[*1]アインシュタインの言葉は、"Einstein on Politics: His Private Thoughts and Public Stands on Nationalism, Zionism War, Peace, and the Bomb"から著者訳。

[*2]FRANK SINATRA"I'LL BE HOME FOR CHRISTMAS"より著者訳。作詞はGANNON KIM。以下は、著作権表示。

I'LL BE HOME FOR CHRISTMAS
Kim Gannon / Walter Kent / Buck Ram
© Piedmont Music Company
The rights for Japan licensed to Sony Music Publishing (Japan) Inc

[全体]バルジ戦の死傷者数はHolocaust Encyclopediaのサイト、太平洋戦争でのアメリカ兵の戦死者数はジョン・ダワー『Without Mercy, Race & Power in the Pacific War(容赦なき戦争――太平洋戦争における人種差別)』、北テキサス大学の調査結果は、「The Trump Effect: How 2016 Campaign Rallies Explain Spikes in Hate」を参照。

Profile

佐藤由美子

ホスピス緩和ケアの音楽療法を専門とする米国認定音楽療法士。バージニア州立ラッドフォード大学大学院音楽科を卒業後、オハイオ州のホスピスで10年間音楽療法を実践。2013年に帰国し、国内の緩和ケア病棟や在宅医療の現場で音楽療法を実践。その様子は、テレビ朝日「テレメンタリー」や朝日新聞「ひと欄」で報道される。2017年に再び渡米し、現地で執筆活動などを行う。著書に『ラスト・ソング――人生の最期に聴く音楽』、『死に逝く人は何を想うのか――遺される家族にできること』(ともにポプラ社)がある。 HP: https://yumikosato.com

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