戦争の歌がきこえる アメリカのホスピスで出会った戦争を生き抜いた人たち

佐藤由美子

戦争の歌がきこえる アメリカのホスピスで出会った戦争を生き抜いた人たち

写真=佐藤由美子/デザイン=根本綾子

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忘れられた人

"権力に対する人間の闘いは、忘却に対する記憶の闘いである。"
~ミラン・クンデラ[*1]


 今年、第2次世界大戦の終結から75周年を迎える。「第2次世界大戦」と聞いて、あなたの脳裏に浮かぶイメージは何だろう? 原爆ドーム、神風特攻隊、真珠湾攻撃。もしくは、遠い島々で戦った日本軍兵士、戦争に備える女学生、戦火に巻き込まれた沖縄県民、などだろうか。

 同じことをアメリカ人に聞いたら、かなり違う答えが返ってくるはずだ。ノルマンディー上陸、硫黄島の星条旗、看護師にキスする水兵、キノコ雲。これらが、アメリカ人にとっての「第2次世界大戦」におけるアイコニック(象徴的な)イメージである[*2]。

 ノルマンディー上陸は、日本人にとってはあまり馴染みがないかもしれない。この作戦はヨーロッパ戦線において多くの犠牲者を出したことで有名で、戦後さまざまな映画や本などを通じて語り継がれている。上陸直前に撮影された写真は、アメリカ兵士の勇気と犠牲を象徴する一枚として、国民の心に深く刻まれている。

war-63137_960_720.jpgノルマンディー上陸作戦の写真/撮影=Robert F. Sargent

 硫黄島の星条旗は、以前の記事(第1回)で紹介した通り、その背景には 日本人にはもちろん、アメリカ人にとっても予想外のストーリーが隠されてはいるものの、ノルマンディー上陸の写真と似たような意味を持つ。

 日本が降伏した日にニューヨークのタイムズスクエアで見知らぬ水兵と看護師が歓喜のあまりキスしている写真は、言うまでもなくアメリカ人にとって勝利の象徴である。キノコ雲を思い浮かべるアメリカ人も多く、原爆は、長い戦争の終結と同時に、原子力時代の始まりも意味している。

 いずれにしても、日本人が抱く「第2次世界大戦」のイメージとアメリカ人のそれとはかなり違いがあるように思う。原爆というイメージは共通していたとしても、その内実はやはり異なるだろう。

 このようなイメージにはストーリーが付きものであり、ストーリーがあるからこそイメージは意味を持つ。例えば、日本人が原爆ドームを思い浮かべるとき、そのイメージと被爆者の物語を引き離して考えることができないように、アメリカ人にとっては、ノルマンディー上陸のイメージとその作戦の背景にある物語はセットで記憶されている。だからこそ、それは象徴的な意味を持つのだ。

 こうしたイメージやストーリーは、社会における「共通の記憶」のようなものを形成する。歴史家や心理学者、社会科学者たちは、これを「コレクティブ・メモリー(collective memory)」とか「ソーシャル・メモリー(social memory)」と呼ぶ。日本では「集合的記憶」と訳されることが多い。

 集合的記憶というのはどの社会にもあり、私たちのアイデンティティとも深く関係している[*3]。また、それはある社会を構成する人たちの絆(心理的な結束)を強める役割も持つ。8月15日の「終戦記念日」は日本特有の儀礼だが、それは単に過去を振り返るものではない。「戦没者を追悼し平和を祈念する日」 と定められたこの日、私たちは集合的記憶を呼び起こす過程において、日本人としての一体感を思い起こすのではないだろうか。

 だが、集合的記憶には避けがたい問題がある。それは、その記憶が、その記憶を形成した社会においてのみ役に立つ、という点だ。つまり、別の社会で育った人と出会うとき、集合的記憶は相手との結びつきを強める役に立たない場合が多い。むしろ障壁になることさえある。私はそれを、アメリカでさまざまな国籍や人種の人々と暮らす上で学んだ。

 自分とは異なる記憶を持つ人たちと出会ったとき、私たちはその相手と、どのように関係性を築いていけるのだろうか? 連載の最後に考えたいのはそのようなテーマである。

 リーは、私にそのヒントを与えてくれた患者さんだった。


一、占領下を生きた中国人

 2008年の冬の午後、私はシンシナティ内のとある老人ホームを訪れた。以前、別の患者さんを訪問するために何度も訪れたことのある場所で、高層ビルのようなつくりをしたホームだ。

 エレベーターのほうに歩いていくと、ホスピスの看護助士、アリッサがいた。30代半ばの黒人女性で、優しくフレンドリー。看護助士はホスピスの仕事の中で最も大変な仕事だと思う。患者さんの入浴、おむつ交換、食事介助などを担当し、忙しいだけではなく重労働。それでも、彼女はいつも笑顔を忘れず、患者さんに好かれていた。担当の患者さんにも詳しく、好きな歌や食べ物のことなど、セラピーに役立つ情報をいつも教えてくれるのだった。

 今回、新規の委託を受けたのは、70代の末期がんの男性で、最近ホスピスケアを受け始めた患者さん。数年前に奥さんを亡くしていて、ひとり息子は州外に住んでいるらしい。末期がんの宣告をなかなか受け入れることができず、精神的なサポートが必要という理由で音楽療法を委託された。「リー」というニックネームで呼ばれていて、苗字から中国系の人だとわかった。

「リーはとても静かで、あまりしゃべらないの。でもユミとは話すと思う。同じアジア人だからね」

 アリッサは冗談っぽく言った。

「アメリカで生まれた人なのか、中国で生まれた人なのか、知ってる?」

 私がたずねると、彼女は腕を組み、目を細めた。

「確かではないけど、多分、中国生まれだと思うよ」

 だとすると、同じ「アジア人」だから仲良くなる、という推測はおそらく間違っている。なぜならその場合、年齢からしてリーは、日本の占領下にあったときの中国で生まれたことになるからだ。私は重い気持ちでリーの部屋に向かった。

 この老人ホームの部屋はたいていダブルルームなのだが、リーの部屋は他よりも広い個室だった。彼は静かな部屋にひとり、車いすに座っていた。襟付きのシャツに黄色のセーターを身に着け、まるでイギリス人紳士のような恰好。長方形の顔に黒縁の眼鏡をかけていて、穏やかな表情をしていた。

 私がホスピスから来た音楽療法士だと告げると、リーは折りたたみの椅子を出して座るようにと静かにジェスチャーした。音楽の好みや今日の体調について聞くと、優しく丁寧に答えてくれた。

 以前、合唱団に入っていたそうで、唄うのは好きだという。"ブルー・ムーン" や"エーデルワイス" など、同世代のアメリカ人なら誰もが知っているような曲をいくつか唄った。 その間、彼も時おり口ずさんでいた。

 歌が一段落したところで、生い立ちについて聞いてみた。

「中国で生まれたと聞きました」

 リーが静かにうなずく。次に、中国のどこで生まれたのかをたずねた。

「フーチャオ(福州)......」

 どうやら1946年、14歳のときに両親と妹とアメリカに来たそうだ。そして、そのまま中国には帰れなくなってしまったという。しかも、「政治的な理由」で。

「政治的な理由?」
「そう」

 それきり、リーは黙ってしまった。「政治的な理由」がなんなのかはわからなかったが、彼にとってはつらい過去なのだと察した。

 しばらくすると、リーが再び口を開いた。

「その後しばらくして、父が病気になって死んでしまった。父は大学の教授だったんだが......。だから、母は異国の地で僕と妹をひとりで育てたんだ」

 淡々と穏やかな声で話をするが、その間、視線はまじわらない。

「若いときにお父さんを亡くすというのは、大変なことだったでしょうね」
「そうだね、でも......」

 リーは少し考えたあとで、こう言った。

 "It was something I had to get through."

 通り抜けなければならない道だった。彼は、自分に言い聞かせるかのように、そう言ったのだ。

 私が日本人であることは名前から想像できたはずだが、それでも念のために伝えると、彼は表情ひとつ変えずに、静かにうなずいただけだった。

 リーのストーリーには、始まりと終わりはあるものの、その中間がほとんど抜けていた。中国で何を経験したのか、なぜ祖国に帰ることができなかったかを知りたいと思ったが、彼はそれ以上、その話をしなかった。


二、私は何を学んできたのか?――「社会的忘却」

 その夜、私は福州という場所について調べた。リーが生まれた福州市は、中国の南東海岸に位置する福建省の省都で、台湾の向かい側にある。1938年から終戦まで日本軍に占領されたことはわかったが、その間に何があったのかを知る手がかりは見つからなかった。

 ただ、関連情報は見つけた。同時期の中国における戦死者数だ。正確な数は定かでなないが、1000万~2000万もの人が犠牲になったと知った[*4]。想像もつかない数だが、ナチスドイツに殺されたユダヤ人の数はおよそ600万人なので、それよりも多いことになる。第2次世界大戦で中国以上の死者を出した国はソ連だけだ。

 さらに、英語で"Japanese occupation of China(日本の中国占領)"と検索すると、たくさんの恐ろしい写真が出てきた。階段に無造作に横たわる子どもや大人の死体、日本軍兵士に刀で処刑される直前の男性、人体実験で苦しみもがいている子ども......。これらの写真はショッキングではあったが、それ以上に私が驚いたのは、このような出来事について、自分がほとんど何も「知らない」ということだった。

 中学・高校の歴史の授業で、私は何を学んだのだろう? 

 振り返ってみれば、アジア・太平洋戦争中にアジアの国々で起こったことについて学んだ記憶はあまりない。そもそも「太平洋戦争」自体、日本対アメリカという観点で教えられたので、アジアの話そのものが少なかった[*5]。アメリカとの戦争が起こるまでの出来事を順番に学んでいく中で、中国はもちろん登場したが、固有名詞や年号の暗記が中心だった。

 心理学の領域では、記憶は「意味」に左右されるものだと言われる。私たちは、人生で起こったすべての事柄を記憶することはできない。単なる固有名詞や年号の暗記がまさにそれだ。逆に、自分にとって「意味」のある出来事――感情を呼び起こすような出来事、五感を刺激した出来事など――は、長い年月が経っても忘れない傾向がある。

 私の場合、広島やホロコーストのような出来事に関しては、原爆ドーム、被爆者の人々、アウシュビッツ、映画『シンドラーのリスト』など、いくつかのイメージがはっきりと浮かんだ。それは、関連するたくさんの写真や映像を見たことがあり、ニュースやドキュメンタリーなどで生存者の話を幾度も聞いたことがあったからだ。しかし、同時代の中国やアジア諸国に関しては、具体的なイメージがひとつも浮かばない。まるで、歴史の一部分がすっぽり抜け落ちてしまっているような感覚だった。

 それから数年後、私は「ソーシャル・アムニージア ( social amnesia)」という言葉を知った[*6]。直訳は「社会的記憶喪失」。1970年代にアメリカ人歴史家のラッセル・ジャコブが提唱したものだ。近年では「ソーシャル・フォーゲッティング(social forgetting)」という言葉が代わりに使用されることもあり、日本語に直訳すると「社会的忘却」となる[*7]。その名の通り「集団で忘れる」ことを指すが、フォーゲッティング(忘れる)には、何かを「思い出せない」だけではなく 、「意図的に無視( 度外視 )する」というニュアンスも含まれている。社会や集団にとって恥ずべき出来事や都合の悪い記憶ほど心理的な抑圧が働きやすいため、歴史学のみならず、心理学や政治学などの分野で検証されている現象なのだ。

 「社会的忘却」の特徴は、グループ内で同じ事柄を忘れている(あるいは意識的・無意識的に無視する)という点である。ひとりがあることを忘れ、別の人が他のことを忘れるのではなく、そのグループに属する「誰もが」「同じことを」忘れているのである。「記憶の穴(メモリーホール)」と表現されることもあり、それはまさに当時の私が抱いた感覚だった。

 ただ、「社会的忘却」は「個人の記憶」と共存することがある。つまり、社会のほとんどの人は忘れても、ある人たちは覚えている、という場合があるのだ。そして、その個人の記憶が社会的に共有され、認識されることもあれば、抑圧され、隠されてしまうこともあるという。


三、「日本人」として、アジアの歴史に向き合う怖さ

 私がこの現象に初めて気づいたのは(それが具体的に何なのかはわからなかったが)、高校生のときだった。学期始めのある日、ショートカットの女性の先生が、教室に入ってくるなり黒板に名前を書きはじめた。何か決意を固めたような表情をしながら。

 それは、韓国人によくある名前の漢字だった。先生が韓国人であることにも驚いたが、彼女が次に言ったことにはもっと驚いた。彼女が語ったのは、彼女たちが経験した差別の歴史だった。

 彼女は日本生まれの「在日韓国人(在日コリアン)」。これまでは差別を避けるために日本名を使ってきたが、最近、韓国名に変えたのだという。在日韓国人とは、第2次世界大戦前、日本の朝鮮支配下で強制的に連行されるなどして渡日した人たちの子孫である。また、関東大震災後には多くの在日韓国人が虐殺された。そして、現在でも差別は根強くあるため、その多くが日本名を使って暮らしている――。そういうことを、単的に説明してくれた。

 関東大震災後に起きたことは知っていた。しかし、いまだにその差別が根強く残っていることは知らなかったし、在日韓国人の多くが、自らのルーツを隠すために名前を変えながら生活していることなど、思いもよらないことだった。

 そのとき、漠然とではあったが、私たちの知識や記憶というものは、 個人が完全にコントロールできるものではなく、気づかないうちに社会からさまざまな影響を受けているのだと感じた。日本の外に出て、違う文化を持つ人たちの視点を知りたい、という気持ちが高まったのもこの頃だった。

 私は高校卒業後に渡米し、その後6年間、アメリカの小さな田舎町にある大学と大学院に通った。日本に住んでいた当時、自分を「アジア人だ」と感じたことは特になく、あくまで「日本人」という感覚があっただけだ。でも、一歩アジアを出れば、誰も私が「日本人」だとわからない。アメリカのような多民族国家に住んでいるとなおさら、アジア人同士の違いは小さく感じられた。だからこそ、他のアジア人やアジア系の学生たちに自然と親しみを感じた。

 彼らと関わる中で、しばしば、彼らが日本の言葉を知っていたり、祖父母が日本語を話せるという話を聞いたりすることがあった。もちろん、彼らと交流する中で、お互いの国の歴史についての話題が出たことはほとんどなかったが、理由はなんとなくわかっていた。

 歴史だ。戦時中、日本の占領化にあったアジアの国々で、日本語の使用を強制されたという背景があったからこそ、彼らにとって日本語は身近なものとしてあったのだ。無論、誰もそんなことは言わなかったし、友人たちは日本人である私を責めるためにその話をしたわけではなかった。むしろ親しみを込めて言っていたのだろう。それでも、私には何とも言えない居心地の悪さがあった。

 もし、ここで歴史の話になったらどうなる? それが怖かった。過去にアジアの国々で日本軍が行ったことについて、彼らが私を責めることはないだろう。ただ、私がその過去について「知らない」という事実をどう説明したらいい? 今思えば、当時の私は無意識に、日本とアジア諸国の歴史そのものを避けていた。

 だからこそ、リーと出会ったとき、とうとう向き合わなければいけないという、ある種の恐怖を感じた。セラピーにおいて最も大切なラポール(信頼関係)を築くためには、何よりもまず、相手が誰なのか、どんな人生を送ってきたのかを知らなければいけない。しかし、私は日本人で、彼は中国人。そのことが今回のセラピーにどのような影響を与えるかは想像もできなかった。

 ふと、インターンシップ時代にスーパーバイザーから言われた言葉を思い出した。

「君がここで出会う患者さんの中には、第2次世界大戦で戦った人や戦争で大切な人を失った人がいる。君が日本人であるということで、彼らがどんな反応をするかわからない......。そのことについてどう思う?」


四、語られたこと、語られなかったこと

 ある日、私はリーとのセッション中に中国の童謡を弾いてみることにした。

 世界各国の童謡を集めた本の中に、中国の童謡を見つけたのだ。日本の童謡としては、"故郷(ふるさと)"と"春がきた"が紹介されていた。

 アイリッシュハープで演奏するあいだ、リーはいつものように車いすに座り、静かに耳を傾けていた。シンプルな子守唄のような曲。歌が終わると、彼は小さな声で言った。

「いい曲だね。でも、聴いたことはないな......」

 リーは少し残念そうな顔をした。

「中国で育った当時のことは覚えていますか?」
「ほとんど覚えてない。まだ子どもだったから」

 リーは、私と目を合わせないまま即答した。彼が祖国を離れたのは14歳のときだ。覚えていないというのは、思い出したくないからかもしれない。

「それ以来、中国に行ったことはありますか?」
「一度だけある。息子が中国で結婚したんだよ」

 リーの表情が一瞬明るくなった。かと思うと、すぐにまた暗くなった。

「でも、福州には行けなかった......」

 リーは部屋の隅にあるタンスのほうを見つめていた。タンスの上には、オオカバマダラの写真が飾ってある。オレンジと黒の鮮やかな羽をした蝶で、秋になると渡り鳥のように北から南へと渡ることで知られている。リーの趣味は写真で、元気な頃はよく動植物を中心に撮っていたそうだ。

「また撮りたい......」

 リーがぼそっと呟いた。

「シカゴに住んでいる息子が、今年中にシンシナティに引っ越す予定なんだ。そうすればまた一緒に生活できるし、写真も撮れるかもしれない」

 息子さんの話をするとき、リーの表情は少し明るくなる。彼が家に帰りたがっていることは以前から知っていたが、少しずつ衰えていく様子を見ていると、その夢が叶うかどうかはわからなかった。

 数週間後、再び老人ホームを訪れると、廊下で看護助士のアリッサに出くわした。リーは数日前から熱を出し、今は眠っているそうだ。でも、息子さんが休日を利用して来ていて、リビングルームにいるという。

 名前はケビン。40代前半で、長方形の顔に太い眉毛がリーによく似ている。シカゴではコンピューター関係の仕事をしているらしい。忙しくてなかなか父親に会いに来られないことや、今年中に引っ越す予定ではあるが、仕事の関係で具体的な日程はわからないことなどを教えてくれた。父親想いで、聡明な印象を受けた。

 私は、ケビンにリーの過去について聞いてみたが、彼も父親の過去についてはほとんど知らなかった。でも、だからこそ彼は、自分のルーツを知りたいという気持ちから、アメリカでなく中国で結婚式を挙げることにしたという。

 ケビンが初めて中国の親戚と会い、父親の子ども時代のことを少しだけ知ったのはそのときだった。実は、リーが幼い頃、一家は香港で生活していた。そのときにちょうど「香港の戦い」が起こったのだ。そして、リーの父親の妹、つまりケビンから見て叔母にあたる人が、戦火に巻き込まれて亡くなった......。

 ケビンがそのことを知るのは、もちろん初めてのことだった。しかし、それでも一度だけ、父が息子に戦争について何かを語ろうとしたことがあったという。ケビンが幼い頃、リーがゾッとするような戦時中の写真を見せてきたのだ。そこには兵士や一般市民の酷い死体が映っていて、子どもにはあまりにも強烈だった。それ以降、リーが戦争の話題を持ち出すことは一切なかったという。

「おそらく、あまりにもつらい記憶なんだと思う。だからきっと思い出したくないんだろうな......」


五、Forgotten Ally(忘れられた味方)

「香港の戦い」――私もケビンと話すまで、この出来事の存在を知らなかった。1941年12月8日 (ハワイ時間で7日)、真珠湾攻撃と同日に、日本軍は当時イギリス領だった香港を攻撃した。つまり、日本はアメリカとイギリスに対して、ほぼ同時に攻撃を仕掛けたことになる。真珠湾攻撃について知らない日本人はいないと思うが、香港の戦いについて知らない人は少なくないのではないか。

 2週間後にイギリス軍は降伏。被害者数は定かではないが、日本軍による虐殺やレイプが起こったことが広く報告されている。特に目を引いたのが、医師や看護師などが犠牲になった "St. Stephen's College Massacre(直訳は「セント・スティーブン・カレッジ の虐殺」)" と呼ばれる事件だ[*8]。ここは当時、病院として使用されていたそうだが、香港の戦いが終結し、日本軍の占領が始まったクリスマスの日に、患者、医療者、イギリス人の負傷兵などが殺されたという。この日は香港で「ブラック・クリスマス」と呼ばれている。当時まだ9歳くらいだったリーが、そこで何を見たのかは想像できないが、彼が過去を思い出したくないという理由がわかった。

 そして、ケビンはこのとき、リーたちが中国に帰れなくなった理由についてのヒントもくれた。1949年に共産党が国民党に勝利して「中華人民共和国」が成立したのち、アメリカ政府は専門的知識を持つ中国人留学生が共産党支持にまわることを恐れ、祖国に帰さないことにしたというのだ。

 ケビンはその話をリーから聞いたそうだが、この歴史上の事実は、一般的にアメリカでは知られていないことだと言った。アメリカには昔、中国人排斥法(Chinese Exclusion Act、1882年)という法律があり、中国人労働者の移住が禁止された時代があった。そのことは多くのアメリカ人が知っている。しかし、逆にアメリカにいた中国人が祖国に帰れなかったという奇妙な事実を知る人は少ない。

 リーと出会ってしばらく経ってから、中国系アメリカ人作家のギッシュ・ジェンが家族について話すインタビュー記事をたまたま目にした[*9]。彼女の家族も、リーの家族と似たような運命を辿ったそうだ。彼女の母親は当時アメリカに留学しており、エンジニアの父親もアメリカにいたのだが、共産党が勝利したあとに中国に帰れなくなったという。リーの両親と同じく、彼女の両親も中国に帰りたかったそうだが、アメリカに留まることを余儀なくされた。そして彼女も、たいていのアメリカ人はこの歴史的事実を知らない、と語ったのである。

 第2次世界大戦中、アメリカと中国は味方だった。実は、その歴史もアメリカではあまり語られない。イギリス人歴史家のラナ・ミターは、著書『Forgotten Ally(忘れられた味方)』の中で、戦時中の中国の苦悩や連合国への貢献が忘れられてしまった理由は「冷戦」にあると語っている。ジョン・ダワーも著書『Embracing Defeat(敗北を抱きしめて)』の中で、GHQ(連合国総司令部)が日本の中国に対する戦争責任の追求を怠った理由は、中国が戦後、共産主義国になったからだと指摘している。

東京裁判の進行しているあいだ、GHQの検閲官は、東条の役割は誇張されている、「戦争責任の問題」の真の核心は中国に対する侵略にある、といった批判を抑えこんでいた。裁判終結後も、このような批判的見解の表明はひきつづきタブーとされた。(...)東条など七人が処刑された一九八四年末には、アメリカが、それに日本の支配層にいる反共支持者たちが、中国の苦しみを蔑ろにする理由がまた新たに生じていた。中国が「共産化」し、アメリカから見ると、アジアにおける主要な敵として日本にとって替わりつつあったからである。[*10]

 リーのような人たちは、日本だけではなくアメリカからも「忘れられた存在」だったのだ。晩年の穏やかな彼の姿からは、その波乱万丈な人生など想像できなかった。でも、彼の過去に少しだけ触れた私は、なぜ彼がもう一度、福州に行きたいと切望したのか、ようやく理解できた。

 帰ることが許されなかったからこそ、彼の心には、祖国に対する強い想いがあったのだろう。


六、「満州」をめぐるイメージ

 私は2013年に帰国すると、青森県内にある緩和ケア病棟で働くことになった。そして2018年、そこでひとりの患者さんに出会った。青森生まれで、子ども時代を満州で過ごした経験を持つ女性。父親が満州鉄道に勤務していたため、満州北部のハイラルで育ったという。

 出会った当初は、満州の雄大な景色など、「良い思い出」を語っていたのだが、あるときから急に「悪夢を見る」と言うようになった。ソ連の攻撃を逃れるために戦火の中を逃げたこと、引き揚げの途中でソ連軍が女性を連れ去ったこと......。彼女はまるで、昨日起きたことのように当時の記憶を語り出した。家族は無事、青森に帰ることができたそうだが、父親はシベリアに送られ長年帰ってこなかったという。過酷な経験だったに違いない。

 しかし、彼女を人生の最期に悩ませていたのは、まったく「別の記憶」だった。

「日本人が満人(満州人)にしていたことを忘れることができないの。私はまだ子どもだったけど、あの頃のことは、はっきりと覚えているわ。当時、日本人は満人に対してひどいことをしていたの......」

 彼女の顔が一気にこわばる。

「ひどいこと、というと......?」

 恐る恐るたずねると、彼女は天井を見つめた。言葉に詰まっているようだった。

「動物以下の扱いだった......。鞭で叩かれて下水を掘らされたり、奴隷のように扱われていたの。母は満人も家に入れて、一緒にご飯を食べたりしていたけど、それは例外だった。同じ人間なのに、なんであんな扱いをするんだろうって、子ども心に理解できなくて......。そのことが今でも思い出されて、夜眠れないときもあるの」

 彼女の目にはうっすらと涙が浮かんでいた。

 それは、私の知る満州国をめぐる物語とはかなり異なる内容だった。それまで、満州国と言えば満州からの「引き揚げ」をイメージしていた。悲惨な運命を辿った日本人の話しか知らなかった。子どもの頃も、日本人残留孤児のニュースがよくテレビで流れていた。1945年8月、ソ連が満州に侵略。関東軍は退却し、民間人は残された。そして、子どもを連れて引き揚げることができなかった親と、中国で育った孤児の長い時を経ての再会......。

 戦争が人々に残す傷がいかに深いかを物語るニュースは、子どもながらにもその悲惨さが理解できたため、私の記憶にも鮮明に残ったのだろう。また、この出来事は、私が教えられてきた「不運な国民」と「悪い軍指導者」というわかりやすいストーリーとも一致していた。満州国の時代、満州の人々がどんな境遇にあったかを考えたことなど一度もなかった。

 だからこそ、彼女の証言は貴重だと思った[*11]。これまでに、この話を他の人にしたことがあるかと聞くと、「あまりない」と答えた。若い世代の人に伝えるのはどうかと提案すると、彼女は言った。

「今の若い人は、こういう話を聞きたがらないわ」

 そんなことはない、と思うのと同時に、彼女は正しいのかもしれない、とも思った。彼女の経験と記憶は、日本社会が語り継いできた物語、すなわち「集合的記憶」と一致しないからである。


七、私たちはなぜ「忘れる」のか?――物語が利用されるとき

 集合的記憶とその忘却は、日本社会特有の現象ではなく、世界共通だ。例えば、アメリカ人に自国の歴史について聞いた場合、多くはコロンブス上陸やファウンディング・ファザーズ(アメリカの独立に大きく寄与した政治的指導者)について語るだろう。

 でも、アメリカ大陸には、その前からネイティブ・アメリカン(先住民族)が住んでいた。その歴史的事実を知らない人はいないが、注目されることも少ない。

 ヨーロッパ系アメリカ人にとって、自分たちの祖先がネィテブ・アメリカンから土地を奪い、ときには虐殺したという歴史は、あまり考えたくないことなのだろう。だからこそ、意図的(もしくは無意識)にその事実を忘れ、無視することは、彼らの自己肯定感につながる。

 しかし、それは当然ながら、ネイティ・アメリカンにとって侮辱的なことである。近年、多くの州で「Columbus Day(コロンブス・デー)」の代わりに「Indigenous People's Day (先住民の日)」 を祝うようになったのはそのためだ。ただ、このような変化が起きるまでには数百年もの時間がかかった。

 私は最初に、「集合的記憶は私たちのアイデンティティと深く関わっている」と書いた。そうであるならば、みんなが共有する(あるいは共有したい)記憶を批判すれば、周りから反感を買う可能性は高くなる。「非国民」扱いされたり、「嘘つき」と非難され、無視されたりすることだってある。青森で出会った女性も、そういうことを恐れたのかもしれない。このような理由から、集合的記憶に当てはまらない記憶には、ますますアクセスしにくくなる。忘れられていく。

 今日、私たちは社会的忘却の影響力を目の当たりにしている。そのひとつが、ヒストリー・リヴィジョニズム(歴史修正主義)の台頭だ。近年、日本国内で出版されている歴史本やネット上の情報の多くが、 リヴィジョニストによって書かれているというのは気がかりな風潮だ。しかも、私たちが「あったこと」を忘れているのだとしたら、そこに事実と異なる過去を植え付けることは、想像以上に容易なことに思われる。

 ドイツをはじめとするヨーロッパの国々では、ホロコーストを否定することは「違法」とされている。数年前、89歳のドイツ人女性がホロコーストを否定して有罪となり、刑務所に送られたことがニュースになった[*12]。昨年の暮れには、アンゲラ・メルケル首相がアウシュビッツに行った際、ドイツ国内で反ユダヤ主義が高まっていることを認め、だからこそ「歴史を共有しなければいけない」と語った。社会的忘却の特質やその危険性を理解した上で、国として対応しようとしているのだろう。

 社会的忘却は、日本と隣国との関係にも大きな影響を与えている。近年、特に中国や韓国との関係が悪化している理由には、言うまでもなく「歴史」をめぐる問題がある。中国人や韓国人の多くは、戦時中の日本の行為に対して今でも怒っている。一方、日本には、すでに謝罪して賠償金も払ったのに、まだ責められているという現実に怒っている人がいる。戦後75年も経つのに、なぜ未だに責任を問われるのだろうか? と。だがこれも、私たちが自分たちの知らない、あるいは忘れてしまった出来事について非難され続けているのだとすれば、その理由がわからないのも不思議ではない。

 2016年にオバマ元大統領が広島を訪問した際、日本国民から予想以上の支持を受けた。アメリカ大統領が広島を訪問したのは初めてだったこともあるだろうが、オバマ氏の訪問が受け入れられた理由は、彼のその姿勢と言葉から、「アメリカ人は広島を忘れていない」ということが伝わったからではないか。スピーチで、オバマ氏は言った[*13]。

いつか、証言する被爆者の声が聞けなくなる日がくるでしょう。しかし、1945年8月6日の朝の記憶を決して薄れさせてはいけません。その記憶は、私たちが自己満足と戦うことを可能にするのです。それは道徳的な想像力の糧となり、私たちを変わらせてくれるのです。

 オバマ氏が語ったことは、近年、アメリカで見られる原爆投下に対する意識の変化にも表れている。原爆投下を正当化できると答えたアメリカ人は、1945年には85%に及んだが、1991年には63%に減少した。2015年には56%となり、34%が正当化できないと答えている。この変化は世代間のずれを反映していて、65歳以上では10人に7人が正当化できると答えたのに対し、18歳~29歳では47%だった[*14]。過去の戦争への認識は時代によって変化しうることが、この調査からもわかる。

 オバマ氏のスピーチで、もうひとつ興味深い箇所があった。

国家は、犠牲と協力において人々を団結させるストーリーを語り、優れた功績を可能にしてきました。しかし、その同じストーリーが、自分とは違う人々を抑制し、非人間化するためにも頻繁に利用されてきたのです。

 彼が指す「人々を団結させるストーリー」とは、まさに「集合的記憶」のことだろう。それは社会においてプラスに働くこともあるが、同時に、国籍・人種・宗教などが違う人々と自分たちとの分断に利用されることもあるのだ。


八、「記憶」が未来につながるとき

 リーとの出会いから6か月ほど経った頃、彼の体重はずいぶん減り、体力も衰えてきていた。彼は末期がんである現状と向き合えず、死が近いという現実も受け入れられずにいるのではないか。ホスピススタッフたちはそのことを気にかけていた。だからこそ、精神的サポートとして音楽療法士である私のもとに委託がきたのだ。

 しかし、私にはリーの心境がまったくわからずにいた。セッション中、彼は常に穏やかな様子ではあったが、自分の気持ちを表現することがほとんどなかったからだ。「家に帰りたい」――彼が口にすることといえばそればかりだったが、それも日に日に難しくなっていた。

 リーが過去について語ることもほとんどなかった。私が日本人であることを、どう感じていたかもわからなかった。でも、おそらく彼の脳裏には過去の記憶が蘇っていたはずだ。死に直面した人は、自分の人生と向き合うことを避けられないのだから。

 お互いの祖国の間で起こった出来事は、いつもふたりの足元に横たわっていて、だからこそ、言葉にできない緊張感が常にあった。彼とラポール(信頼関係)を築けているとは、到底思えなかった。

 でも、そんなある日、リーが思いがけないことを言ったのだ。

「このホームのスタッフは、僕のことを『リー』と呼ぶけど、本当は苗字で呼ばれた方がいいよね。君はアジア人だからわかるでしょう?」

 私はハッと驚いた。私たちが「アジア人」であるということを彼が口にしたのは、初めてのことだったからだ。平静を保ちつつ、言う。

「そうですね。じゃあ、これからは苗字で呼びましょうか?」

 すると、リーは大笑いした。

「君は、リーと呼んでくれていいんだよ」

 ささいな、本当にささいなやり取りではあったが、彼の心のドアが微かに開いた感覚があった。この機会を逃がしてはならない。そう思った私は、以前から気になっていた、壁に掛かる中国語のカレンダーについて聞いてみた。

「僕は昔から漢字が好きでね。息子がプレゼントしてくれたんだ。でも、長年、漢字は使ってないから、ずいぶん忘れてしまったな」

 漢字は使わないと忘れる。そのことは、私もアメリカに来てから実感していたので共感できた。漢字で自分の名前を紙に書き、リーに見せてみる。すると彼は微笑み、漢字で自分の名前を書いて見せてくれた。

 今日は日本の歌を唄いましょうか、と聞いてみた。彼とのセッション中に日本の歌を唄ったことはなかったが、何かのきっかけになるかもしれないと思った。

 リーがうなずいたので、"故郷(ふるさと)"を唄うことにした[*15]。歌の意味を説明してから、ギターの伴奏で唄う。その間、リーは車椅子に背中をあずけ、目を閉じて聴いていた。

兎追いしかの山
小鮒釣りしかの川
夢は今もめぐりて
忘れがたき故郷

 唄い終えると、リーが微かに笑った。

「いい歌だね」

 今なら、聞きたかったことを聞けると思った。

「ホスピスの患者さんになってから6か月が経ちますね。そのことについて、どう感じますか?」

 リーは宙を目つめ、しばらく考えているようだった。

 "It's something I have to get through."

 彼は、通り抜けなければいけない道だ、と言った。

「それは、昔、お父さんが亡くなったときに感じたことと同じことですね」
「その通り」

 リーは私のほうを見て、声を上げて笑った。彼がこんなにも屈託のない笑顔を見せたのは、初めてのことだった。

 リーは自分の現状を理解しているのだと思った。死期が近づいていることについて、どう感じているのかはわからなかったが、彼なりにその現実と向き合い、乗り越えていっているのだと感じた。

 何より、私にとって大事だったのは、彼がその想いを共有してくれたことだった。私たちのあいだには、ささやかながらもラポールが育まれていたのだ。それがわかり、私はようやく安心した。 

「リーはとても静かで、あまりしゃべらないの。でもユミとは話すと思う。同じアジア人だからね」

 アリッサが言ったことは、正しかったのかもしれない。私とリーは、「アジア人」として、互いに共通の文化を通じて歩み寄ることができた。でもそれは、リーがそのきっかけをくれたからだった。彼は、私たちを隔てるものではなく、つなぐものを見つけてくれたのだ。

 このあとすぐ、私は兄を亡くし、日本に一時帰国した[*16]。そのあいだにリーは、自らの希望通り自宅に戻れたそうだ。彼が息を引き取ったのは、およそ2ヶ月後のことだった。


九、その記憶は、私たちが自己満足と戦うことを可能にする

 思い返してみれば、この連載では、日本で生まれ育った私が抱いてきた「集合的記憶」とはかなり異なる記憶を持った人たちのストーリーを紹介してきた。

 日本兵を殺したことを、日本人の私に告白した退役軍人。

 フィリピンで日本兵に親友を殺され、その後、広島で焼け野原を見た男性。

 罪悪感に悩まされ続けた原爆開発の関係者。

 ドイツ系アメリカ人として「自由」のためにナチスと戦った兵士。

 PTSDに悩まされた退役軍人と結婚した女性。

 そして、日本占領下の中国で生まれ、日本にもアメリカにも忘れられた人......。

 私は、彼らとの関わりを通じて、まず人間の持つ精神のリジリエンシー(回復力)に驚いた。そして、相手を理解しようとする過程で生まれる共感の大切さについても学んだ。

 何より、「第2次世界大戦」についてまったく異なる視点から考える機会を得た。この連載をはじめようと思ったのは、日本の読者にも、日本の外からの視点で、あの戦争を見つめ直してみてほしいと思ったからだ。

 日本は、先の戦争で多くの犠牲者を出し、その悲惨さを語るストーリーは尽きない。無謀な戦闘で戦死、餓死、戦病死した兵士たち。空襲や原爆の犠牲者。沖縄やサイパンで戦争に巻き込まれた一般市民。満州や樺太からの引き揚げ者。これらのストーリーは、繰り返し語られることで私たちの「集合的記憶」となっていった。

 それを忘れないことは、もちろん大切なことだ。しかし、戦争終結から75年経った今、いや、そうでなかったとしても、それ以外の人が持つ記憶に耳を傾け、視野を広げる必要はあるだろう。国籍も置かれた境遇もまったく異なる人たちが持つ記憶を辿ることは、自分たちの過去を知ることはもちろん、それをよりよい未来につなげていくことにもつながるはずだ。

 そのためにも、私たちは、ときに「忘れられた記憶」を発掘し、保存していかなければならないし、「向き合いたくない記憶」と向き合い、語り継がなければならないのかもしれない。そして、それこそが大切なのだと、もうここにはいない彼らが言っている気がするのである。

 私は、オバマ氏のスピーチを再び思い出す。

その記憶は、私たちが自己満足と戦うことを可能にするのです。それは道徳的な想像力の糧となり、私たちを変わらせてくれるのです。


[*1]著者訳。原文は"The struggle of man against power is the struggle of memory against forgetting."(Milan Kundera "The Book of Laughter and Forgetting"より)

[*2]「集合的記憶」の提唱者は、フランスの社会学者で哲学者のモーリス・アルヴァックスと言われている。日本では1989年に、小関藤一郎訳『集合的記憶』(行路社)が出版されているようだ。

[*3]例えば、ヒストリーチャンネルを見ると、"The Pictures that Defined World War II"として、第2次世界大戦に関する象徴的な写真の数々が「アメリカ人の視点」から挙げられている。

[*4]中国における戦死者数について、アメリカ人歴史家のジョン・ダワーは、『War Without Mercy(容赦なき戦争)』で1000万人、イギリス人歴史家のラナ・ミターは、『Forgotten Ally(忘れられた味方)』で14000万人と推測。また、THE NATIONAL WWⅡ MUSEUMでは2000万人とされている("Research Starters: Worldwide Deaths in World War II")。

[*5]日本人の戦争観の変容を考える上で、吉田裕『日本人の戦争観』(岩波現代文庫)は参考になる。例えば、同書の第2章において吉田は、「太平洋戦争」というアメリカ側の呼称について、「戦域を太平洋に限定している点で、中国戦線の持つ意味を全く無視している」と指摘。また、本の中で「満州事変以降の一連の戦争を『一五年戦争』として把握し」、「それを構成する各々の戦争を『満州事変』、『日中戦争』、『アジア・太平洋戦争』と呼ん」だのは、「中国戦線における中国の民族的抗戦が、日本を敗北に導く上で大きな役割を果たしたことを正当に評価」するためだとしている。

[*6]「ソーシャル・アムニージア(social amnesia)」は、collective amnesiaや historical amnesiaとも呼ばれる。例えば、ジョン・ダワーは著書『Embracing Defeat(敗北を抱きしめて)』の中でhistorical amnesiaという呼称を使用している。

[*7]「ソーシャル・フォーゲッティング(social forgetting)」の提唱者は、イスラエル人歴史家のガイ・ベイナー(Guy Beiner)と言われている。collective forgettingと呼ばれることもある。

[*8]St. Stephen's College massacre については、同大学の公式サイト(Heritage Gallery)でも紹介されている。

[*9]ギッシュ・ ジェンのインタビューはこちらの記事を参照。

[*10]ジョン・ダワー『増補版 敗北を抱きしめて』下巻P321~322より。三浦陽一・高杉忠明・田代泰子ら訳。

[*11]満州における強制労働に関しては、波多野澄雄の論文「日本における日中戦争史研究について」に近年の研究動向がまとまっている(特に一二節を参照)。

[*12] ホロコーストを否定した女性についてはINDEPENDENTの記事を参照。

[*13]オバマ氏のスピーチは、原文をもとに著者訳した。

[*14]ピュー研究所(Pew Research Center)による、原爆に関する意識調査はこちらを参照。また、2015年の世論調査結果を政党別で見ると、共和党の74%、民主党の54%が「正当化できる」と答えた("Democratic advantage among Millennial voters grows")。政党による違いはあるものの、近年共和党を支持する若者が減っており、ミレニアル世代 の59%が民主党として登録しているという背景があるだろう。

[*15]作詞=高野辰之。

[*16]兄については第7回で書いた。リーは、ここで書いたキャサリンと同時期に出会った患者さんだ。老人ホームも近かったため、同じ日に訪問したこともしばしばあった。ふたりとも戦争経験者で聡明、しかしなかなか心を開いてくれないなど、共通点は多かったのだが、私の中ではまったく違う時期に出会った人、という感覚がある。おそらく、私自身がふたりに抱いていた気持ちや出会い方がかなり異なったことが原因だろう。しかし、大切なことを教わったという点は、どちらも何も変わらない。

[全体の補足]「社会的忘却」に関する議論については、Hirst, William & Yamashiro, Jeremy. (2018). "Social Aspects of Forgetting"を参考にした。

Profile

佐藤由美子

ホスピス緩和ケアの音楽療法を専門とする米国認定音楽療法士。バージニア州立ラッドフォード大学大学院音楽科を卒業後、オハイオ州のホスピスで10年間音楽療法を実践。2013年に帰国し、国内の緩和ケア病棟や在宅医療の現場で音楽療法を実践。その様子は、テレビ朝日「テレメンタリー」や朝日新聞「ひと欄」で報道される。2017年に再び渡米し、現地で執筆活動などを行う。著書に『ラスト・ソング――人生の最期に聴く音楽』、『死に逝く人は何を想うのか――遺される家族にできること』(ともにポプラ社)がある。 HP: https://yumikosato.com

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