東京老舗ごはん 大正の味

森まゆみ

東京老舗ごはん 大正の味

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神田神保町「共栄堂」

 びっくりしちゃった。神保町の共栄堂は古書会館のボンディと並んで、カレーの老舗だと知ってはいたが、大正13年の創業とは。それって関東大震災の翌年ではありませんか?
 現在の主人は3代目の宮川泰秀さん。客としては何度も行っているのだが、取材のお願いをすると電話口からは「忙しくしているので、事前にホームページなどは見てきてください。30分くらいならどうぞ」と迫力のある声が聞こえてきた。ちょっと緊張して、時間通りに地下へ向かう階段を降りた。

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 入り口に椅子が2脚、ランチの時間に待つ客のためのものだろう。ガラスの扉を開けると、茶色のシートの座り心地のいい椅子席が20ほど。ひっきりなしに自動ドアが開き、客が入ってくる。なぜか今日は男性一人客が多い。
 コックさん定番の制服を着た宮川さんは大きな声で、取材中も客にいらっしゃいませ、毎度ありがとうございました。と声をかける。実に大きな目である。ガタイも大きい。ちょっと怖そうに見えるが、話しているうちに優しい人だとわかってきた。
「私は1951年、横浜生まれで、この店の婿です。だからあまり店の歴史のことは知らないの」と私が初代の名前を聞くと、レジの前の奥さんに「おーい、どんな字だっけ」と聞いた。奥さんは対照的にほっそりとして上品な方である。
 初代を石原真治と言って、元は山梨の人だという。この人が、スマトラのカレーの作り方を伊藤友治郎という人に聞いたのだそうだ。
「伊藤さんは長野県の伊那の人でね。明治の末に南方に雄飛しようとした人です。貿易をするかたわら、歴史、民俗、生活文化にもすべて興味を持って南洋辞典を書いたような人、のちにどこかの大学の学長になられた。その人も最初、京橋の南槇町というところで、『カフェ南国』というカレーの店をやってみたが続かなくて、それでそのスマトラ式のカレーのレシピを石原真治に教えたんです」
 スマトラって、行ったことあります? 虎が出るんでしょ。
「行ったことはないね。でも行った人から聞きました。スマトラ島はインドネシアでボルネオ島についで大きな島だね。そこではカレーをそんなに食べないんだって(笑)。ただ北部に行くとあるそうですね。しかも今はイスラム圏なので、豚は食べない。鶏を入れているそうです。小麦粉を入れずに野菜をすって、それを煮込んで、とろみを出している所は同じだと言っていましたね」
 その最初のレシピというのは今も残っていますか?
「残ってますよ。でもその通りにはやっていない。オリジナル通りにやってたら店は潰れます。お客様というものは必ず前よりおいしいことを期待するもんなんです。それに世の中が豊かになって、お客の舌も肥えている。昔と同じ味だな、変わらないなと思ってもらって、ちょっとずつは変えて味をよくしていくという工夫が大事なんです」
 宮川さんはずっと料理人ですか?
「そうです。日本橋の店で19歳の時から洋食を作ってました。横浜のニューグランドホテルで修行した親方でしたね。あるとき、共栄堂に跡継ぎがいない、来てくれないかというので、カミさんと一緒になって、もう30何年でしょうか」
 2代目の方は? 奥様のお父さんですね。
「石原芳男といいますが、この人は経営はしたけど、厨房には入らなかった。僕はこの店の味は義母に教わりました。今は僕が中に入って、カミさんがレジにいます。その頃は他の洋食も作ってたようですが、きっぱりとカレー一筋にしてしまいました。というのは、洋食は原価率が高いですからね。食材も多品種仕入れなければならない。それでも、僕が洋食で修行したことはみんな生きていると思います」
 さてメニューですが、ポーク、ビーフ、チキン、エビ、タンとカレーは5種類。どれが一番人気ですか?
「難しい質問です。好きなものは人それぞれ。でもビーフ一辺倒だった方がエビを召し上がって、今度からこれにするわ、ということもある。ポークからチキンに移って、また戻る方もいる。久しぶりに来たから高いけどタンを食べてみようという方もいます。でもね、学生街でもあり、サラリーマンの方もいるし、一番安いポークにしよう、という方もいますよ」
 950円と1000円を切ってるのが嬉しいですね。ご主人はどれが好きですか?
「......ポークかな。一時はビーフだったけど」
 みんな違う作り方なんでしょう?
「そうです。ブイヨンやフォンドボーの取り方も違います。例えばエビはエビの頭ごと市場からもらって、それを炒めてエビの味噌も入れ、白ワインやバターも足しています。濃い色はよく炒めると出てくるんです。焦がすというのとは違うな。最後に生クリームを入れますが、ポークとは合わないので入れません」
 毎日味見するんですか?
「しますよ。親指大のご飯にルーをかけて。ご飯と合う味でないと困ります。ルーは味が熟れないといけないので、冷蔵庫で2晩寝かせます。それを温めてお出ししているんです」
 カレーって、なんと手間のかかるものでしょう。
「そうなんですよ。ご飯は新潟県の只見においしいお米を見つけました。大変なのが、手作りのらっきょうと福神漬けです。年間2トンずつ作っています。好きなだけお取りいただけますが、なかなか原価が高くついて頭がいたいです。かといってご飯の脇に少しだけ載せるというのも性に合わないのでね」
 確かに。カレーを作るとき、スーパーでらっきょうや福神漬けを買うと、それだけで結構なお値段です。
「でしょ。今、ハヤシライスをもっとおいしくしようと思って、このところいろんな実験をしてるんです。あと3週間で完成しますから、そしたらぜひ召し上がってみてください」

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 冬は焼きりんごがあるんですよね。
「秋の10月から春の4月までで、焼くというか、煮るんです。いっぺんに30個しかバットに並べられません。これも作ってすぐより、しばらく置くと甘い蜜を吸って、皮のところがおいしくなる。だから皮を召し上がらないお客様には、皮がおいしいんですよ、とつい言ってしまいます」
 このところ、神保町はカレー屋さんが増えました。
「『カレーの町』なんて言われるとちょっと。私のきた頃はせいぜい4、5軒でしたよ」
 本を買って、早く読みたくて、片手で本を見ながら食べられるからカレー店が流行るというのは俗説ですか?
「どうでしょう。確かに出版社の編集者とか、作家の方は多いようですが、お顔を存じ上げないのでどなたが来られているか、わかりません。うちなんか本屋の大旦那たちに贔屓にしていただいてここまで来たんです。共栄堂という屋号は、店も、お客も、街も共に栄えようということで、初代がつけた店名で、いつもそのことを考えております。でもこんなにカレーとラーメンばかりの町になっても困ります。もっと他の食べ物で勝負をかけてくれないかな。その方が楽しいですよ」
 ここのカレーがおいしいことはよく知っているが、今日は3人いたので、3種類を食べ比べることができた。最初に運ばれたコーンスープはカレーを妨げない薄味。それからお皿にご飯、ルーは別にアラジンの魔法のランプみたいな形の銀色のポットに入っている。本当だ、焦げ茶色というくらいのダークな色だ。ちょっとビターな感じのこの汁がたまらない。
 ポークは程よく脂が乗っており、肉は小ぶりで食べやすく、柔らかい。エビのルーには確かにしっかりと味噌の味が溶け込み、ワインとバターの香りも感じることができた。そしてナンダコレハ。丸いグラタン皿のようなものに入ったタンカレーは、ほとんどタンシチューと言ってよく、惜しげもなく柔らかいタンが入っている。これはタンシチュー好きの息子を一度は連れてこなくてはならない。
 230円で小さなサラダが付く。もうお腹いっぱいだ。宮川シェフはTシャツに着替えて、帰るところであった。なんと朝は4時から働いて、10時には仕込みを終えているのだという。
「なんでも仕込みが7割ですからね」
 お盆の頃が毎年混むので、それが終わってから9月に夏休みを取るという。
 通時営業で大変でしょう。お休みの時は何をされるのですか。
「実は小学校のPTAのご縁で始めた剣道をもう20年近くやっていて、子供たちにもずいぶん教えました」
 この目力で正面から来られたら迫力あるだろうな。でも話を聞いているかぎり、宮川さんはいつも正眼の構えなのであった。

★共栄堂
大正13年(1924)創業
〒101-0051 千代田区神田神保町1-6
☎ 03-3291-1475
http://www.kyoueidoo.com/index.html

Profile

森まゆみ

もり・まゆみ。1954年、東京生まれ。84年、友人と地域雑誌『谷中・根津・千駄木』を創刊、2009年の終刊まで編集人を務めた。歴史的建造物の保存活動にも取り組み、日本建築学会文化賞、サントリー地域文化賞を受賞。東京の下町を歩き回り、庶民的な店での一杯を口福とする。著書は『鷗外の坂』(芸術選奨文部大臣新人賞)、『「即興詩人」のイタリア』(JTB紀行文学大賞)、『「青鞜」の冒険』(紫式部文学賞)など多数。近著に『子規の音』『暗い時代の人々』などがある。

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