東京老舗ごはん 大正の味

森まゆみ

東京老舗ごはん 大正の味

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浅草「翁そば」

 地理的には近いのに、私の住む白山から浅草は便利な交通機関がなくて遠く感じる。今回、浅草へ行く新しい方法を見つけた。
 都営三田線の白山から春日で大江戸線に乗り換え、さらに新御徒町でつくばエクスプレスに乗り換えると浅草に到着。するとそこは六区である。つくばエクスプレスの入り口もサラセン風の飾りがステキだ。映画館街を渡り、細い小道を入るとひっそりと『翁そば』がある。引き戸を開けると、なんとも懐かしい店内。木と竹を組み合わせた壁や帳場がゆかしい。
 電話で取材を申し込んだ時、「昼は混むので、夕方の4時半に来てくださいね」と丁寧な応対だった。
 4時半に入り口に紺地の暖簾が出た。開店と同時に入ってきた男の人、「カレー南蛮」。次も「カレー南蛮」。その次も「カレー南蛮」。よほどこれが評判らしい。店内にはぷう〜んと鰹節の匂いが立ち込める。「銀絲箸馨」という古い扁額。ああ、下町だ、浅草だ。

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 取材を受けることもあまりないという。訪ねる前に浅草出身の知り合いに聞いてみた。1人は「あそこは太鼓判。安くて、感じよくて何を食べても美味しい」という。もう1人は「僕はたぬきうどん。それに餅を入れてもらう」と言った。私は編集者のKさんと、「カレー南蛮」と「たぬきそば、餅入り」を頼む。
 運ばれてきた丼はやや小ぶりに思ったが、縁のところまでなみなみと汁がたたえられ、食べてみると結構な分量である。うーむ、「たぬきそば」はうどんも太くて、歯ごたえがあり、かしわとネギ、揚げ玉が浮いている。かなり濃い醤油味の東京風だ。カレー南蛮、これも相当濃い色のカレーだが、そばがとろみのある汁に絡まって、なんとも言えない食感だ。ハフハフとかっこんで、残ったつゆに蕎麦湯を割ると、あーら不思議、また別の味になってしまうが、いくら伸ばしてもしっかり出汁が利いている。
 今の当主はまだ若く、中村栄一さんという。
「地元のお客様はいろいろです。味はできるだけ創業当時を守るようにしております。でも僕は昭和44年生まれなので、古いことは母に聞いてください。母も創業当時のことは知らないと思いますが」という。そこで綺麗な花模様のエプロンをつけたお母さん、昭和16年生まれの中村和子さんに話を聞いた。それはいかにも、浅草らしい、いい話だった。
「先代、創業者の中村伊三郎は千葉の流山の人でした。厳しいけど、優しい人でもありました。下駄の行商人と土地の娘の間にできた子供だったそうです。8歳くらいで口べらしで、赤坂の蕎麦屋に小僧に出され、修行しました。店の名前はわかってないの。なんでも大きな階段のある店だったとか。
 あの時はああだった、こうだった、なんて聞いた話ばかりでね。そして大正3年に、ここで独立したんです。当時はもり・かけ7銭という時代で、そんなにあれこれは商っていなかったそうですよ。その後、太平洋戦争が勃発して、配給制度になったから、戦時中はお商売をやるどころじゃなかったでしょうね。私は伊三郎さんにとっても可愛がってもらったの」
 和子さんは伊三郎さんの娘さんなんですか?
「それがねえ。違うの。私の母は、京都の出身で、西陣で織り子をやっていた時に、ひょんなことで私ができた。小さな私を背負って東京に出てきて、あそこへ行けば面倒を見てくれるかもしれない、と紹介されたのがこの翁そばだったんです。伊三郎さんは地域の世話役みたいなことをしてた。それで、母は置いてもらえることになって、住み込みで一生懸命働きました。伊三郎のおかみさんが病気になるとその看病もしました。私もそのおばあちゃんと銭湯なんかに行ったことがある。背中を流してあげると喜びました。私が小学校の頃まで元気でいたかな」
 和子さんは3月10日の東京大空襲を経験しているんですか?
「さあ、母の背中に背負われて、火の粉が被ってきたようなことはうっすらと覚えているんですが。4つくらいですものね。お店は丸焼けになりました。それで、向こうに浅草寺のお坊さんたちの住むアパートがあって、お坊さんたちが疎開した後に、私と母は留守番代わりに住まわせてもらったんです」
 翁そばは戦後、いつから再開できたのでしょうか。
「バラックで再開したのは戦後すぐです。警察や区役所にも顔が広かったので、材料も入ったというか、むしろ頼まれて外食券食堂というのをやったんですね」
 外食券食堂というと、お米の雑炊かなんかをよく聞きますが。
「いえ、ここでは特別に小麦やそば粉を手に入れて、そばとうどんだけを出していたんです。昭和25年に今の建物に建て替えてそのままです。もう70年になるかな。土台なんかはやり直してますが。私が覚えているのは、もり・かけが15円とか25円とかいう時代ですね。その頃、浅草も上野も、戦災孤児、みなし子みたいな子供がいっぱいいました。伊三郎さんは保護司もしていましたので、そういう子供たちを店で食べさせたり、働かせたりしました。ここから小笠原の漁師にもらわれていった子もいた。いろんな子供がおりましたね」
 弱い人の面倒を見た、すばらしいお話ですね。お母さんはずっとここで。
「母は大正9年の生まれです。それはよく働きました。おかみさんが50歳で亡くなってからは、伊三郎さんの世話をしていました。何度も脳溢血で倒れたんですよ。3度目の脳溢血で60いくつでなくなりました」

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 和子さんは、浅草小学校から、蔵前中学校に進み、高校の頃からは、店を手伝ってきた。
「伊三郎さんに、お前が継いでくれるなら嬉しいが、と言われました。母はやりたくなければしなくていいんだよ、と言ったんですが。同じようにここに世話になっていた辰栄と結婚して店を継ぎました。正直言って惚れ合ってってわけじゃありませんが、夫は千葉の農家の出身で、母と仲良くやってくれたのでよかったです」
 それにしても安いですね。もりやかけが450円、たぬきときつねが500円、カレー南蛮が650円、一番高い鍋焼きが750円だなんて。
「このすぐ前が大きなひょうたん池で、前っかわには戦前は有名なオペラ館がありました。おじいちゃんは浅草の芸人を応援していましたからね。売れない芸人さんはとても貧乏なの。だからお代はいいよ、と言ってみたり、少し収入が増えると、お金は頂いても盛りをよくしたり。腹が減っては声も出ないだろうと。浅草で働く人が少しでも安く、みんなお腹がいっぱいになるようにというのが、先代の考えでした」
 そんなに芸人さんのお客が多かったんですか?
「ええ、落語やお笑いの人。エノケンさんとか、八波むと志さんも見えましたね。テレビの『笑点』に出演している、今では有名になられた落語家さんたちも、若い時はよくうちに見えています」
 東京オリンピックの前に引き継いだ店だが、夫の辰栄さんが亡くなったのは43歳の時だった。その時、和子さんは38歳、3人の子供を育てながら、お母さんと親娘2人で店を経営していた時代もあった。
「その頃でしょうかね、ひょうたん池が潰されました。この前っかわの「まるごとにっぽん」ていうビルのあたりも、みんなひょうたん池だったんですよ。藤棚があったり、柳が植わっていたり。戦後はこの辺、北朝鮮系の方が多く、花やしきの方に南朝鮮系の方が多かった。だから今でも焼肉屋さんが固まっているでしょう。他はすっかり、ホッピーなどを出す居酒屋さんになりましたね」
 この辺は今、浅草2丁目、元はなんと言ってたんです?
「この辺は公園、略称をエンコと言って浅草公園、浅草寺が地主さんです。貫主様は伝法院の中にお住まいで、身の回りのお世話も男性がするので、先代の伊三郎はよく、茶そばをお届けしたりしていましたね」
 出前はしていない。交番のお巡りさんも取りに来るという。上の2人は女の子、和子さんは一時怪我をして閉店も考えたが、会社勤めをしていた末っ子の栄一さんが跡を継いでくれることになった。現在、主力は栄一さんと、妻の有美子さんである。「嫁が本当によくやってくれます」と和子さんは手放しで褒める。
 昼は相当混むが、夜は、浅草に来てそば一杯という人も少ないので、夕方の方が空いているという。確かに見回すと女性3人できて楽しそうにおしゃべりしたり、お母さんが小さな子供を2人連れてきて、そばを食べていたりした。あ〜あ、近所にこんな安くておいしいお店があったなら、保育園帰りに助かっただろうなあ。この時間がむしろ、店は土地の人のものだろう。
 浅草育ちの母をまた連れてきたい気がした。

★翁そば
大正3年(1914)創業
〒111-0032台東区浅草2-5-3
☎03-3841-4641

Profile

森まゆみ

もり・まゆみ。1954年、東京生まれ。84年、友人と地域雑誌『谷中・根津・千駄木』を創刊、2009年の終刊まで編集人を務めた。歴史的建造物の保存活動にも取り組み、日本建築学会文化賞、サントリー地域文化賞を受賞。東京の下町を歩き回り、庶民的な店での一杯を口福とする。著書は『鷗外の坂』(芸術選奨文部大臣新人賞)、『「即興詩人」のイタリア』(JTB紀行文学大賞)、『「青鞜」の冒険』(紫式部文学賞)など多数。近著に『子規の音』『暗い時代の人々』などがある。

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