ラストは初めから決まっていた

小手鞠るい

ラストは初めから決まっていた

ラブソングを憎む

ラブソングなんて、大嫌い。

愛の歌なんて、この世から消えてなくなってしまえばいい。

きみが好きだ、きみだけが好きだ、今のままのきみが好きだよ、なんて、よくそんなことが言えたものだとわたしは思う。

ラブソングなんて、嘘のかたまりだ。

甘くてまっ赤な嘘だ。ショートケーキの上にのっかっている苺みたいな、バースデイに贈られた十九本の薔薇の花みたいな嘘だ。

苺はひと晩で色あせてしまうし、薔薇はつぼみのまま枯れてしまう。

だけど、その、色あざやかな嘘に、舌の上でとろけそうな嘘に、心を奪われ、心を体から抜き取られ、心をどこかへ持っていかれ、そのために軽くなった体が舞い上がり、糸の切れた風船みたいにふわふわと虚空を漂い、自分で自分を見失い、迷い、戸惑い、前後の見境もつかなくなり、よれよれになり、ふにゃふにゃになり、途方に暮れ、朝から晩まで、夢の中でも、かかってこない電話と届かないメールの返事を待っていたのは、いったいどこの誰?

あなたは、誰?

わたしは小鳥だ。

勇気を出して巣から飛び立ってみたものの、太陽に近づき過ぎて、翼が焼け焦げてしまい、そのまま地上にまっさかさまに落下した、わたしはイカロスだ。

イカロスは、ラブソングを憎む。

きみが好きだ、きみだけが好きだ、今のままの

そこまで文字を打ち込んだとき、キーボードの上で、私の指が固まった。

胸が苦しい。

苦しくて、つづきを書くことができない。

右の手のひらを喉のあたりに当てたまま、大きく息を吸い込んで、吐いた。不自然に肩が上下する。

もう一度、今度は口をあけて息を吸い込んで、口から吐いた。「はぁっ」と、かすれた声が出る。

吐き出したいものは、ほかにもあるのに、それは出てこない。だから苦しい。

胸の奥に、もつれたまま団子になっている草のかたまりみたいなものがある。草には棘が生えている。だから呼吸をするたびに、胸がちくちく痛む。

恋はいいものだ、なんて、無邪気に言う人を、私はほとんど憎んでいる。

恋をすると女の子はきれいになって、世界はきらきら輝き始めるなんて、そんな無責任なことをどうか言わないで欲しい。

本当に恋がいいものだったら、どうして私はこんなに苦しんでいるの? 

どうして私の心はこんなに傷ついているの? 

――もしも失恋した経験があるのなら、失った恋によって心が傷ついているのだとしたら、その心の傷をあなたは書くの。心は目に見えない。誰の目にも見えない。でも、あなたの心は、あなただけには見えている。ぼんやりかもしれないけど、ぼんやりと見えているその心を、文字に置きかえていくの。ていねいに、ゆっくりと、もつれた毛糸の玉を少しずつ、少しずつ、解きほぐしていくように。

凛子先生の言葉が浮かんでくる。

きょうから始まった夏季特別講座「言語表現3 クリエイティブ・ライティング1 小説創作」。

講師を務めるのは、この特別講座のために地球の反対側――と、先生は言った――から飛行機に乗って飛んできた、現役小説家の流山凛子先生。

「みなさん、初めまして。ながれやま・りんこと申します。苗字が長いので、ファーストネームで呼んで下さい。学生時代、友人からは『りんご』って呼ばれていました」

凛子先生は、十年ほど前から、マサチューセッツ州の州都ボストンで暮らしている。日本語で小説を書くかたわら、コミュニティカレッジでアメリカ人に日本語を教えているという。

小柄で、ほっそりしていて、華奢な体つき。

黒地に白の涼しげな水玉模様のワンピースに、オフホワイトのレースのカーディガンを合わせていた。髪の毛は、ふわふわっとした感じのセミロング。全体的にフェミニンな雰囲気を漂わせていた。

対照的に、目つきは鋭く、声は男みたいに野太くて、はきはきした口調で、流れ落ちる滝みたいに豪快にしゃべった。視線と言葉に力が宿っている。気迫がこもっている。

「今年、五十八歳になりました。みんなのお母さんと同じくらいの年齢かしらね。結婚はしていますが、子どもはいません。家族は、夫と犬と猫が一匹ずつ。趣味は、登山とランニングとお昼寝。生まれたのは東京ですが、小学生の頃、父の仕事の関係で岡山に五年ほど、住んでいたことがあります。ここから歩いて五分くらいのところ.........」

自己紹介を聞きながら、とても五十八歳には見えないなと、私は思っていた。お母さんじゃなくて、お姉さんみたいだなって。

凛子先生はきっと、自分自身に、自分の生き方というか、在り方というか、要は自分の人生に、自信があるんだなと思った。自信があるから、こんなに若々しくて、生き生きしているんだなって。

この推察は、半分は当たっていて、半分ははずれていたわけだけれども。

「それでは、これから五日間、みなさんといっしょに、小説の世界にどっぷり浸かります。かれこれ三十年あまり、小説を書いてきて、私の知り得たことを余すところなく、みなさんにお伝えしたいと思っています」

私はそれまで、凛子先生の書いた小説を、一作も読んだことがなかった。

もちろん、名前だけは知っていた。先生の著書は大学の図書館にも置かれているし、ときどき本屋さんの店頭に、新刊が積まれていることもある。

でも、手をのばしたことはなかった。深い理由はない。ただなんとなく「難しそう」って思っていた。メニューに並んでいる料理の中で、まだ注文したことのない高価な一品みたいな存在。つまり、食べず嫌い、ということだったのかもしれない。

この講座を受けると決めて登録を済ませたあと、何作か、読んでみた。

やっぱりちょっと難しかった。

それは、私が読者としてまだまだ未熟である、ということの証のように思えた。しかし同時に、この難しさが個性であり魅力でもあるんだな、と、感じることはできた。講座を受けるのがますます楽しみになっていた。

私の好きな作家は、村上春樹と江國香織。

ふたりの作品は、翻訳書をふくめて全作、読破している。

もうひとりは司馬遼太郎。ふたりの新刊が出るのを待っている時間に、私は司馬遼太郎の歴史小説を読む。

数年前のある日、父の本棚にずらりと並んでいる文庫本の中から、何気なく抜き取った一冊『国盗り物語(一)』を、ぱらぱらっと見たのがきっかけだった。

歯切れの良い文体。独特なリズム感。行間に漂う静けさ。草原を渡る風のような涼やかさ。難しいことが書かれているのに、ちっとも難しくない。学校では教えてくれなかった、おもしろい歴史の話。歴史上の人物たちが、まるで目の前で生きて動いているような臨場感。

たちまち虜になった。

司馬遼太郎の場合、新作はもう出ないわけだけれど、作品数がとても多いから安心だ。たまに過去の作品を読み返すこともある。読み返しても、飽きない。

「好きな作家は?」と、友だちに訊かれて、この三人の名前を挙げると、不思議そうな顔をされることが多い。

「村上春樹と江國香織はわかるけど、司馬遼太郎? 渋すぎる! 傾向がまるで違うじゃない?」

「そう? どういうふうに?」

「時代小説と現代小説でしょ。戦国武将と幕末とマジックリアリズムと恋愛?」

「文章がいいの。テーマとかジャンルとかじゃなくて、文章。私にとっては、三人の書く文章がどれも麻薬なの。種類の異なる麻薬」

「ま、麻薬? ことりって過激派?」

「中毒なの、私」 

などと、訳のわからない会話を交わしながら、私はいつも思っている。

三人とも私を、ここではない別の世界に連れていってくれるの。

村上春樹は音楽を聴かせてくれ、江國香織は詩を語ってくれ、司馬遼太郎は映画を観せてくれるの。

三人の文章を読んでいるとき私は、それぞれの作家と一対一で、話をしていると思うことができるの。

ページをめくりながら私は、私の体の中に、密度の濃い、血の通った「本当の時間」が流れていると感じることができるの。

ああ、でも、こんなこと、誰に話しても、わかってもらえないだろうな。別にわかってもらいたいとも思っていないけれども。

「では、今から一枚、用紙を配ります。みなさんは過去に小説を書いたことがあるのか、あるとすればどんな作品なのか、また、みなさんがどんな目的を持って、この講座を受けることにしたのか、など。あとは、簡単な自己紹介にもなるような質問が記されていますから、そこに回答を書いて下さい。書き終えた人から休憩していいです」

ティーチングアシスタントの大学院生が、用紙を配布し始めた。

最後の方に、好きな作家は? という質問もあった。

質問用紙に回答を書きながら、私はときどき顔を上げて、教室の中を盗み見てみた。

この教室はゼミ形式のクラス用だから、通常の講義用とは違って、四人分の机と椅子がひとまとまりの島のようになって、合計六つほど、配置されている。私たちは学籍番号順に、ふたりがふたりに向かい合うような格好で座っている。黒板の方を見るときには、体を斜めにするようになる。

私の席は、黒板に近い、まんなかの島のはしっこ。

この講座の定員は、確か二十五人だったはず。登録していても、当日になって放棄する学生もいるせいか、二十四人で満員になる席には、ぽつり、ぽつりと空席がある。

ざっと数えてみたら、合計二十人。私を入れると二十一人か。

男女の割合は七対三で、女子が多い。

一回生と二回生はまだ、高校生みたいに初々しい。中学生にしか見えない、幼い感じの子もいる。

四回生はぐっと大人だ。全員女子。中にはまるで社会人のように見える人もいる。

三回生はと言えば、蛹と蝶の境目にいる。子どもでも大人でもない、女の子でも女でもない、どっちつかずな不安定さ、不穏さを全身に滲ませている。受講生のおよそ半分が三回生のようだ。私もそのひとり。

向かい側に座っている同級生の頭を通り越して、私は、斜め向こうの島の四回生たちに視線を伸ばす。

ついさっき、確認したばかりだけれど、もう一度、確認する。

大人っぽくて、匂い立つような、華やかなあの集団の中に、彼女の姿が含まれていないかどうか。背中しか見えない人たちの背中にも、焼けつくような視線を当てて。

彼女は――

いない。

ほっとした。

この講座を受けることにした動機は? という質問事項に対して、

「子どもの頃から読書が大好きで、今は小説を読むのが大好きだから。小説家になりたいとは思っていませんが、小説を書くという体験をしてみたかったから」

と、回答を書きながら、私は改めて胸を撫でおろしていた。

良かった。

本当に良かった。

もしも彼女がいたら、どうしよう、いやだなって、登録してからきょうまでずっと、思いつづけてきた。

私から彼を、私の好きな人を奪い取っていった人。

もしかしたら、彼から奪い取られたのが彼女なのか。

どっちでもいい、そんなこと。

とにかく、私のつきあっていた人が、私よりも好きになった人。私よりもきれいで、かっこよくて、きっと性格もいいに違いない。

「ことりのこと、嫌いになったわけじゃないんだ」

今から半年ほど前。季節は浅い春だった。なんの前触れもなく、待ち合わせのカフェでいきなり「別れたい」と切り出されたときのショックは、いまだにこの胸に残っている。治りようのない傷として。

「だったらなぜ?」

別れないといけないの?

彼の答えは、こうだった。

「おまえよりももっと、好きな人ができた。ごめん」

「謝らないで」

「ごめん!」

「謝らないでって、言ってるじゃない」

「ごめん......」

そのあとに、まだ何か言おうとしている彼を無視して、私は椅子から立ち上がって、お店を出ていった。

目の前には旭川が流れていて、夕暮れ時の柔らかな春風が吹いていた。

川沿いの土手の道を小走りで歩いていきながら、私は泣いた。

泣くもんか、泣くもんか、と思いながら、涙を止めることができなかった。

あれは悲しみの前奏曲だった。

本物の苦しみはそのあとから始まった――

そこまで思い出したときだった。

突然、教室のうしろのドアがあいて、ひとりの男子学生がぬうっと姿を現した。

ドアの近くには、ティーチングアシスタントの大学院生の席がある。

男子学生は背中をちょっと丸めたまま、大学院生たちに向かって、ぼそぼそ何かを言っている。遅刻した理由でも説明しているのだろうか。

凛子先生が教壇から下りて、彼らの方へ向かっていくのと、遅れてきた人が誰なのかを私が認識できたのは、ほとんど同時だった。

あいつだ!

でも、なんであいつがここに?

この講座を受講できるのは、文学部の学生に限られているはず。あいつは経済学部生。私をふった彼と同じ。

教室を間違えたんだな、と、私は思った。

馬鹿な奴。

だけど、あいつならやらかしそう。

何度か会って、しゃべったことがあった。あいつは、もと彼の友人だから。

頭はすごく良さそうだけど、どこかまぬけなところがあるというか、ヒューズが一本、飛んでいるようなところがあって、なんだか「宇宙人みたい」と思っていたのだった。

「じゃあ、熊野くんは、とりあえず、あそこに」

凛子先生はそう言って、空いている席をすっと指さした。

私の島の並びにある島だった。

あいつ――熊野涼介――は「はい」と返事をして、指定された席についた。

すぐあとで、わかった。

涼介は経済学部の学生ではあるけれど、何か特別な事情があって、この講座を受講することになったという。特別に受講が許可されました、と、凛子先生は言った。

そのときには私は、涼介のことも、特別な事情のことも、まったく意に介していなかった。関心もなかった。ただちょっと、びっくりしていただけだった。

あいつとおんなじ教室で、講義を受けることになるなんて。

それだけだった。

野原でぼーっと花に見とれていたら、思いがけないところから蜜蜂が飛んできて、目の前の花に留まった。そんな感じだった。

けれども、その翌日の一限目の途中で、私はいやというほど、思い知らされることになる。とんでもない蜜蜂が飛んできたのだ、ということに。

これは災難だ。

まるで避けようのない天災みたいに、涼介はその日、遅れて教室に、私の人生に、飛び込んできたのだった。

Profile

小手鞠るい

1956年岡山県生れ。同志社大学法学部卒業。1981年「詩とメルヘン」賞、1993年「海燕」新人文学賞、2005年『欲しいのは、あなただけ』で島清恋愛文学賞、2009年絵本『ルウとリンデン 旅とおるすばん』(絵/北見葉胡)でボローニャ国際児童図書賞を受賞。主な著書に、『美しい心臓』『アップルソング』『君が笑えば』『テルアビブの犬』『星ちりばめたる旗』『炎の来歴』など多数。アメリカ、ニューヨーク州在住。

Pick Up Book

  • かがみの孤城
  • i
  • 私のスポットライト
  • ビオレタ

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