ラストは初めから決まっていた

小手鞠るい

ラストは初めから決まっていた

雪丸ー2

雪丸、と書いて「ゆきまる」と読む。

船の名前のようでもあるし、戦国時代の小姓の名前のようでもあるが、雪丸は見目麗しく可愛らしい、れっきとした女の子である。

出会ったのは、保育園である。

父も母も仕事をしていたので、僕は保育園に預けられていた。

朝は父が送り届けてくれて、夕方は母が迎えに来てくれた。

が、その日、母にはたまたま会社で重要な残業か何かがあって、迎えに来ることができなくなり、代わりに祖母が来てくれることになった。祖母にも店の仕事があるので、僕は居残り組に入れられて、一時間以上、待たされる羽目に。

祖母の姿がすぐに見つけられるようにと思って、僕はジャングルジムのてっぺんに登って、祖母を待った。やがて、祖母登場。

「おばあちゃん!」

あわてて保育園を飛び出した僕だったが、忘れ物をしたことに気づいて、ふたたび保育園に駆けもどった。ブーメランのように。

忘れ物というのは、黄色い帽子だった。

ジャングルジムのそばの、ベンチの上に置いたままになっていた帽子を取り上げようとしたとき、ふと目に飛び込んできたものがあった。

見慣れないダンボール箱だった。

おかしいな、と、思った。ちょっと前までこんなものはなかったのに。

ふたは閉まっていたが、テープで留められているわけじゃない。

なんだろう? 中身は? 先生に知らせた方がいいのかな?

と、そのとき、箱の中から声が聞こえた。

あわあわとした声だった。キュウキュウだったか、ミュウミュウだったか。今にも消え入りそうな、とっても哀れな声だった。

僕は箱のふたをあけて、中を見た。白い物体。動いている。

雪丸がいた。そこに、雪丸がいた。

それが、雪丸との出会いの瞬間だった。

雪のように白くて、ふわふわした毛糸のかたまりみたいだった。さわると壊れてしまいそうな、小さな生き物。つぶらな黒い目は、やっと開いたばかりなのか、まぶたはあいているが、何も見えていないようにも見えた。

気がついたら、おばあちゃんがそばに立っていた。

僕は思わず子犬を抱き上げて、おばあちゃんの顔を見た。

僕よりも先に、おばあちゃんが言った。

「かわいそうに、誰かに捨てられたんやな。さ、連れて帰ってやろ。おなかも空いてるやろ? きょうから、うちの子になるか?」

こうして雪丸は、うちの子になった。家族の一員になった。

「雪丸」と名づけたのは、父だった。

「昔、王寺町で聖徳太子が飼っていたという、犬の名前なんだよ。日本で最古の『ペット』の名前だ。な、縁起がいいだろ?」

エンギって、なんだろう? 保育園児だった僕には、わからなかった。

その日から、僕と雪丸の蜜月が始まった。

世の中には、こんなにもおもしろいおもちゃがあったのかと、僕はたちまち雪丸に夢中になった。雪丸も僕のことを、犬のおもちゃだと思っているようだった。

寝ても覚めてもいっしょだった。遊ぶのも、いっしょ。寝るのも、いっしょ。もちろん散歩も。ごはんだって、いっしょに食べた。お風呂だって、いっしょに。

母によると、雑種は混じっているものの、雪丸の祖先は由緒ある小型犬だったらしくて、あんまり大きくならなかった。

やがて僕は小学生になり、体がぐんぐん大きくなっていった。

雪丸は、小ちゃいままだった。

小ちゃいくせに気だけは強くて、自分よりも三倍くらい大きな、ご近所のジャーマンシェパードを、まるで家来のように従えていたっけ。

僕が学校でけがをしてもどってくると、心配そうに僕のまわりをうろうろ歩き回っていた。僕がテストで百点を取って、みんなに見せびらかしていると、雪丸は勢いよく吠えて、誰よりも盛大に祝福してくれた。

思い出は尽きない。

コイの思い出は、滝のように流れていく。

誰もこの流れを止められない。鯉は滝を登れるが、コイの滝登りはできないんだ。

そうして、あの日がやってくる。

幸せというものは、長くはつづかない。

長くはつづかないから、人はそれを幸せと呼ぶのだろうか(年寄りくさいこと、書いてるぞ)。

僕は小学四年生だった。

夏休みが始まったばかりのある日、とうとう母が雪丸を「病院へ連れていく」と言い出した。その前の前の週くらいから、雪丸は元気をなくして、ごはんもあまり食べなくなり、寝ている時間が長くなっていた。起きているときにも、足がふらついている。

夏バテなんだろう、犬でも夏風邪を引くのか、なんて言いながら、最初はみんな笑っていたんだが、そのうち、食べたものを吐くようになってしまった。

病院から帰ってきた母は、涙目で言った。

「入院はさせへんことにしたわ。住み慣れた家で看取ってあげたいから。いいでしょ?」

父は同意した。もちろん僕も。

末期癌のようなものができていたらしい。

その晩、家族全員、目が溶けてしまうくらい泣いた。おじいちゃんの泣き顔なんて、初めて見たよ。みんなが泣いているのに、雪丸だけは笑っていた------ように見えた。バスタオルの上に身を横たえたまま、それでもしっぽをパタパタさせている。「あたしは元気よ。大丈夫よ」って言いたげに。それがまた悲しい。本当は病気でしんどいはずなのに、家族を気づかっている。

このあとは、悪いが駆け足で書かせてもらう。

つらくて、書けないよ、小説なんて。

夏の終わりに、僕の膝の上から、雪丸は旅立った。

そのときにはもう、自力で水も飲めなくなっていたので、僕が抱きかかえて膝の上にのせ、母が口をあけさせてスポイドで水を与えようとした。

その直後に、痙攣みたいなものがやってきて、「あ!」と思った瞬間、雪丸の体から一本、糸がすーっと抜けたみたいになって、その命の糸がすーっと天井の方を目指して飛んでいった......ああこれでは全然うまく書けていないが、そんな感じだった。

僕は思わずその糸をたぐり寄せながら「雪丸、待ってよ、行かないでよ、だめだよ」って、心の中で叫んでいた。

ごめん。悪いが、これ以上は書けない。

思い出すと、今でも涙が噴き出しそうになる。火山の噴火にも負けないほど。

このようにして、僕はコイを失った。

いまだに悲しい。悲しみはどうしたって、逆立ちしたって、乗り越えられない。いや、悲しみとはそもそも、乗り越えるものじゃないんだ。それはいつも僕と共に、ここにあるものなんだ。

雪丸------。

可愛かった。ほんとにきみは可愛かったよ。

昼寝から起き抜けの、ベッドの上にちょこんと座っている姿。まるで犬の置物のように。

「散歩に行くよ」って誰かが言っただけで、しっぽをぷるぷる回してさ。まるで「サンポ」って言葉がわかってるようだった。ぎゅっと抱きしめると、腕の中からきょとんとした顔で僕を見つめて、それから僕のほっぺたをぺろんと舐めるんだ。

「キスされたー!」

って、僕はよだれを垂らして喜んでいたっけ。

「好きだ」って感情を、生まれて初めて体で覚えたのは雪丸に対して、だった気がする。

笑いたければ、笑ってくれ。

これが僕の遠い昔の初コイ話だ。

僕は今も、あの子のことを思いつづけている。僕の初コイは、終わってはいない。

これは永遠につづいていくものなのだ。あの子は今もここにいる。僕の体の中に、細胞の一部として生きている。

もう一度、言う。笑いたければ、笑ってくれ。

あれ? なんだか頰があたたかい。だけじゃなくて、濡れてる!

これって、涙? 私、泣いてるの? まさか。

両手で頬をごしごしこすった。

それからバッグに手をのばして、ハンカチを取り出した。お気に入りのレースのハンカチで、まぶたのあたりをそっと押さえた。コンタクトレンズがずれないように気をつけながら。

うわぁ、どうしよう、涙がなかなか止まらない。止まってくれない。

雪丸の姿が浮かんでは消える。涼介の膝の上から旅立っていった瞬間の、その感触が、まるで今、私の膝の上にも「在る」かのようだ。

その命の糸がすーっと天井の方を目指して......

泣ける。

母を思い出す。犬と母をいっしょにするなんて、不謹慎でおかしいのかもしれないけれど、おかしくない。同じ生命だもの。母を亡くしたときのあの悲しみを、涼介も味わったんだと思うと、泣けてくる。

悲しみとはそもそも、乗り越えるものじゃないんだ。それはいつも僕と共に、ここにあるものなんだ......

なんで涼介に、私の気持ちがわかるの?

涙が頬を伝っていく。

しっかりしろ、堂島ことり。

授業中に泣いてどうするんだ。

ポケットティッシュを取り出して、鼻をかんだ。

「堂島さん、風邪でも引いた? 冷房が強すぎますか?」

凛子先生の声が聞こえた。

優しい声を遠くに聞きながら、私は「いえ、大丈夫です」と答えて、読み終えたばかりの最後のページの上に、最初のページを重ねた。

『たとえもう二度ときみに会えなくても』------。

まっ白で、ふわふわの、愛の塊みたいな子犬の姿が浮かんできて、タイトル文字が滲んでぼやけた。

Profile

小手鞠るい

1956年岡山県生れ。同志社大学法学部卒業。1981年「詩とメルヘン」賞、1993年「海燕」新人文学賞、2005年『欲しいのは、あなただけ』で島清恋愛文学賞、2009年絵本『ルウとリンデン 旅とおるすばん』(絵/北見葉胡)でボローニャ国際児童図書賞を受賞。主な著書に、『美しい心臓』『アップルソング』『君が笑えば』『テルアビブの犬』『星ちりばめたる旗』『炎の来歴』など多数。アメリカ、ニューヨーク州在住。

Pick Up Book

  • かがみの孤城
  • i
  • 私のスポットライト
  • ビオレタ

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