ラストは初めから決まっていた

小手鞠るい

ラストは初めから決まっていた

9

深海の底のような濃緑の色彩、あるいは声に落ちる(2)

課題提出と引き替えに受け取っていたプリントを、私は目の前に置いた。

小説の一部と思われる文章が印字されている。

教室内の誰かが書いたものなのだろうか。それとも凛子先生の作品?

正解を耳にして、私は「わぁ!」と歓声を上げそうになった。

「司馬遼太郎の作品『竜馬がゆく』からの抜粋です。一九六二年から新聞連載が始まって、出版されたのは、六十三年から六十六年にかけて。ということは、かれこれ五十年以上も前の作品です。みんなが生まれるずっと前、私がまだ小学生だった頃ね。それなのに、ちっとも古びていない。むしろ、新しい。この作品、読んだことある人?」

誰も手を挙げなかった。もちろん私も。

私は司馬遼太郎の隠れファンではあるけれど、『竜馬がゆく』はまだ読んでいない。父の本棚には合計八巻、文庫本が並んでいるけれども。

「あ、でも誰かひとり、自己紹介の用紙の『好きな作家』の項目に、司馬さんの名前、書いていた人、いなかった?」

います、私です。

私は、かたつむりが角を伸ばすような挙手をした。

「そうそう、堂島さんだったわね。いまどきの大学生にしては珍しいわよね、司馬さんが好きだなんて。『竜馬がゆく』は、未読なの?」

「はい」

「これから読むのね?」

「はい、そのつもりです」

「過去にはどんな作品を?」

思い出したものから順番に、タイトルを挙げた。『関ヶ原』『国盗り物語』『城塞』『覇王の家』『燃えよ剣』『殉死』『最後の将軍』『峠』......

凛子先生は頰に笑みを浮かべていたものの、クラスメイトたちは全員、白けているような気がした。「こいつの趣味、なんだんだ」「おっさんじゃないか」って、思われているんだろうな。涼介にも。

そう思うと、もぐらになりたいような気分だった。

消え入りそうな声で、私がタイトルを並べ終えると、凛子先生はパチパチと弾けるような拍手をしてくれた。

「素晴らしいです。堂島さん、なかなか目が肥えてます。みんなもね、一度、読んでみて、騙されたと思って、司馬遼太郎。ライトノベルもいいけれど、歴史小説もいいわよ。風格が違うわよ。回転寿司と、板前さんの握ったお寿司の違いよ。じゃあみんな、初めての司馬遼太郎さん、今から初体験しましょうね。その前に、数ある作品の中から、なぜ私がその部分を選んだかというと......」

凛子先生が抜粋し、大学院生がプリント用に打ち直したという場面は、司馬さんの書いた「竜馬とおりょうのラブシーンなの」という。

「とっても色気があるのよ。みんなの作品を読ませてもらって、何かが欠けてる、何かが足りないって、ゆうべずっと考えていたんだけど、夜中にピーンとひらめいたの。現時点で、みんなの文章に共通して足りないもの。それは色気なんだって。いい? 文章の色気よ」

色気か。文章の?

「みんなが書こうとしているのは、恋愛小説でしょ? 恋愛小説の文章に色気がなかったら、どうするの。ミルクの入っていないカフェオレみたいなものじゃない? アルコール抜きのバージンカクテル? そんなの、いくら飲んだって、酔えないわ」

そこで、笑いの波が立った。

「これから、恋愛小説が承・転・結と進んでいくわけなんだから、ラブシーンは絶対に出てくるわよね。そのためにも、文章に漂っているべき色気のお勉強を今からします」

凛子先生は教室の中をぐるっと見渡した。まるで、気まぐれな風が、これからどの枝を揺らしてやろうかと、思案しているようだった。

「さてと、これを誰かに朗読してもらおうと思うんだけど、熊野くん、どうかしら。読んでくれる? 高校時代、演劇部だったんでしょ?」

涼介に白羽の矢が立った。

私の心臓がドクンと音を立てた。もちろんその音は、私にしか聞こえない音だった。でもなぜ、私がドクンとしなくちゃならないのか、皆目わからない。

いや、わかった。

理由は痛いほど、わかった。わかり過ぎるほどに、わかってしまった。

涼介が作品を読み始めてほどなく。

「ついに、わしの女(なな)になるのか」

竜馬は、何物かを悼む声音だった。

「そのおつもりでいてくださったのでございましょう?」

「うん。しかし、別のことをも考えていた。生涯、きまった妻(なな)を持つまいと思っていた。いまも、そう思っている」

「なぜでございます」

「以前も言ったことさ。大望を持つ身は、いつ地上から消えても、跡形もないようにしておきたい」

「あの、言葉など無用だと」

「ああ、いった。わすれちょった。男女のこと、ここに至れば斟酌は無用じゃな」

犬の遠吠えがきこえている。

竜馬は、手をのばしておりょうの長襦袢のひもを解いてやった。

「おりょう、参るぞ」

「待って」

おりょうに、恐怖がわいた。

そこまで読んで、涼介は一泊だけ、間を置いた。

誰かが、複数のクラスメイトが「ごっくん」と、唾液を飲み込んだような気配を感じた。実は私も飲み込んだ。もしかしたら、涼介も?

「恐怖」という言葉の孕んでいる、なんという甘やかさ。なんという切なさ。

あの恐怖はきっと、体験した人にしかわからないだろうな。

「長襦袢のひも」という言葉の醸し出す、なんという官能性。しかも、バックグラウンドミュージックは、犬の遠吠え。この組み合わせがすごい。ぞくぞくする。色気がある、確かに。

涼介はどう思っているのだろう。

見ると涼介は、プリントと自分の目が、ほとんどくっつきそうなほど、紙に目を近づけているではないか。まるで、テストの点数が悪くて叱られた子どもが、テスト用紙で顔を隠しているかのように。コンタクトレンズを入れ忘れたのだろうか、まさか。

その仕草が可愛らしくて、私はくすっと笑ってしまった。

ただ単純に、可愛くて、微笑ましかった。あの妙なくっつけ具合が。

まさかそこに、亮介の秘密が隠されているなんて、そのときには露ほども想像できなかった。

「無理なことをいう」

竜馬は、くすくす笑った。

「おりょう、おぬしの前はもうはだけちょる。ここまできて待てとはどうにも無理じゃ。かわいそうじゃが、ここは待たれんぜよ」

おりょうも可笑しくなって、つい、くすくす笑った。笑うと、恐怖感が失せた。

「いいんです」

「ばかめ。もっと情緒深う言うもんじゃ」

竜馬も、おりょうの体を持ちあつかいかねている。

「存外、やわらかいな」

「なにが?」

「お前(まん)のからだがじゃ」

感心した。おりょうは性格が少年じみていて、外見には、筋肉質のきりっとした硬いからだを想像させるが、あんがい、そうではないことに感心したのである。絹をぬらしたような肌と、微妙に弾んだ脂肪をもっていた。

「やっぱり、女だ」

つい、声を出してしまった。

私はうつむいたまま、両手を頰に当てた。冷たくないはずの手のひらを、氷のように冷たく感じた。それほどまでに、頰が火照っていた。

なぜ、私はこんなにも赤面しているのだろう。

なぜ?

このつづきに、どんなことが書かれているか、わかってしまうからだろうか。

身に覚えがあるからだろうか。涼介は? 涼介にも身に覚えがあるの?

声を出してから、竜馬は、念のためにおりょうのその部分に掌(て)をおいた。

濡れている。

竜馬は、楽しくなった。

「おりょう、お前(まん)は平素、気の強いことを言うちょるが、やっぱりここは女じゃ」

「あたりまえです」

「天然のふしぎというものだな」

「なぜ?」

「いや、なんとなく神韻縹渺とした気持になってきた」

(変なひと)

おりょうは、緊張が解けてきた。

とおもったとき、天地が晦冥したか、とおもわれるような衝撃をうけた。衝撃が消えうせたあと、音楽が残った。なにか、体の中心がはじめてきく音律を奏ではじめ、それが微妙な痙攣をともなって全身につたわってゆく。

おりょうは、眼をつぶっている。

自分のからだがはげしく動いているようだが、自分にはわからない。

自意識は、霧のように散ってしまった。残って竜馬に抱かれている生きものは、おりょうではあるまい。

愛という生きものだろう。

体が、無法なほどに動いた。やがて動きがはげしくなり、おりょうは宙天へ昇ってゆくような気がした。

「あっ」

と、大声を出したらしい。

昇ったものが、底へ沈んでゆく。ちょうど深海の底のような濃緑の色彩のなかを、おりょうは糸をひくように沈んでゆく。

「竜馬さま」

とつぶやいたらしい。

さっきから、涼介の声がところどころ、掠れている。掠れているその声はしかし、たっぷりと湿っている。湿り気を帯びた声が、直接、私の肌の上を行ったり来たりしている。つまり、私の体は介の声に撫でられている。そんな錯覚に陥っている。

錯覚?

錯覚じゃない、これは、実感だ。

その証拠に、さっきから私の背中には、鳥肌が立ったり消えたりしている。

涼介の深い声が私に、私の体の深い部分に、染み込んでいく。

「きっと、生涯、愛しつづけます」

「愛さなくてもよい」

竜馬は、そっと体を離した。

「わしの重荷になる」

「いいえ、決して重荷になりませぬ。おりょうだけが愛しつづけます」

介の朗読はつづいている。私は「深海の底」を漂っている。まるでくらげみたいにふにゃふにゃになって、濃緑の色彩の中をさまよっている。陶酔しているという感じに近い。いったい私に何が起こっているのだろう。

私は、介の......

声に、落ちた。

恋に落ちる、という言葉があるけれど、私は恋じゃなくて、声に落ちた。

私は介の声に落ちた。

どうしよう、こんなに落ちてしまって。こんなにだらしなく落ちてしまって。

私はもどってこられるのだろうか。この海の底から地上に。

教室のうしろのドアがあいて、ふたりのティーチングアシスタントが入ってきた。

両腕に、作品のコピーのぶあつい束を抱えている。

「熊野くん、ありがとう。とってもいい朗読だったわ。つづきがもっと、もっと聴きたくなるわね。でも、きょうはここまでにしましょう」

まだもどりたくない現実に、引きもどされてしまった。

凛子先生の声が恨めしかった。

大学院生たちが、作品のコピーを配り始めた。

凛子先生の赤字の入った全員の「起」の章。

誰の赤字も入っていない全員の「承」の章。

私は、紙の束の中から、素早く介の作品を見つけ出して抜き取った。残りの原稿は十把一からげにして、脇へ。

介の小説のタイトルは『もう二度ときみに会えないとしても』だ。

きみとは、雪丸なのだろうか。

それとも誰か別の人が、これからここに出てくるの?

一枚目の右はしに記されている、小タイトルが目に飛び込んできた。

カタカナで五文字。意味はすぐにはわからなかった。

ヨコレンボ――。

この言葉に行き着くまでに、この言葉を選ぶために、涼介はどれほど時間をかけ、どれくらい呻吟したのだろう。

涼介も苦しんだのだろうか。その苦しみが透明になるまで。

Profile

小手鞠るい

1956年岡山県生れ。同志社大学法学部卒業。1981年「詩とメルヘン」賞、1993年「海燕」新人文学賞、2005年『欲しいのは、あなただけ』で島清恋愛文学賞、2009年絵本『ルウとリンデン 旅とおるすばん』(絵/北見葉胡)でボローニャ国際児童図書賞を受賞。主な著書に、『美しい心臓』『アップルソング』『君が笑えば』『テルアビブの犬』『星ちりばめたる旗』『炎の来歴』など多数。アメリカ、ニューヨーク州在住。

Pick Up Book

  • かがみの孤城
  • i
  • 私のスポットライト
  • ビオレタ
ポプラ社一般書通信 note

Pick Up Book

  • かがみの孤城
  • i
  • 私のスポットライト
  • ビオレタ