ラストは初めから決まっていた

小手鞠るい

ラストは初めから決まっていた

10

横恋慕(1)

前の晩の、徹夜に近い小説ストラグル(と、僕は名づけた)がたたったのか、夕方、少しだけ仮眠を取るつもりでベッドに横になったんだが、そのまま、爆睡してしまったらしい。今、何時だ?(断っておくが、小説はすでに始まっている)。

午前三時三分だ。

真夜中の三時。いや、早朝の三時か。気分は真夜中、事実は早朝。

午前三時というのは、非常に厄介な時間だと僕は思う。

手なずけるのが難しい、と言えばいいのか、理解に苦しむ、と言えばいいのか。

宙ぶらりんで、どっちつかずで、不適で不遜であいまいで。

だって、そうだろ? 

午前三時過ぎの無人のキッチンで、朝のコーヒーを淹れたらいいのか、はたまた、冷蔵庫の奥でおとなしく鎮座している白ワインをあけたらいいのか、判断がつかないじゃないか。覚醒か酩酊か?

よし、ワインだ、酩酊だ。

いや待てよ、ここで酔っちまったら、コイのつづきが書けなくなるぞ。

というわけで、僕は眠い目をこすりながら、強めのコーヒーをマグカップに満たして、デスクの前に陣取った。さあ、書くぞ。

奈良県王寺町に眠っている、美しき初コイの雪丸を忘れることができないまま、僕が飛び込んでいった二番目の鯉の話(筆者注・鯉は誤字ではない)。

激しく体で愛した雪丸へのコイと区別するために、便宜上、ここでは彼女への思いを「鯉」と名づけておこう。

恋じゃない。あくまでも、これは鯉であって、恋ではない。

つかまえどころがなくて、つかまえたと思ったら、するりと僕の手をすり抜けて、どこかへ泳いでいっちまう。餌で釣ろうたって、それは土台、無理な話。餌だけ食べて、またどこかへすいすい、泳いでいっちまうのが落ち。

彼女は僕にとって、そういう存在なんだ。今のところはね。

ここまで書いて、僕は冒頭にもどって、書いたばかりの文章を読み直す。どこぞの大学の先生が教えてくれた通り、小説家のいちばん大切にしなくてはならない言葉を大切にし、推敲に推敲を重ねるべく。

五分経過。その間の推敲。コーヒーは本当は、近所の酒屋でもらったウィスキーグラスに入っている。さっきまでこのグラスで酒を飲んでいた。洗うのも、マグを取り出すのも面倒だったから、グラスでコーヒーを飲んでいるという体たらく。しかし、小説ではちゃんと「マグカップ」と書いておこう。これって、推敲って言えるのか?

うん、読み直してみてひとつ、気づいたことがあるぞ。これは大いなる発見だ。太平洋のどまんなかで、一匹の鯉を発見したかのような。

何を発見したのかというと、それは、恋と、愛と、恋愛の違いについて。

午前三時にするもの。それこそが恋なんだ。

宙ぶらりんで、どっちつかずで、不敵であいまいで、手なずけるのが難しくて、理解に苦しむもの、それが恋だ。違うか?

愛は、午前三時にするものじゃない。その時間帯、愛はひとつのベッドの中で、仲良く肩を並べて、すやすや安らかに眠っているものだ。幸せな夢を見ながら。な、愛って、そういうものだろ?

じゃあ、恋愛はどうなんだよ?

恋愛はさ、だいたい午前五時過ぎから始まるんだよ。

東の空が少しずつ明るくなってきて、夜明けはもうそこまで近づいてきている。あと一時間もすれば本格的な朝だ。朝になったら、さんさんと輝く陽の光を浴びながら、元気いっぱい外へ飛び出す。そこには大好きなきみがいて、きみは両腕を広げて、僕が外に出てくるのを待ってくれていて、僕は「わあ、待っててくれたんだ」ってうれしそうに言って、それから僕らは見つめ合う。きらきら輝くきみの瞳と、きみの瞳に映っている僕がいて......

冗談は、ここまでにしておこう。

しがない僕には相変わらず、恋も愛も恋愛も、わかっちゃいない。

わかっていることは、ただひとつ。

僕は彼女に、表向きは穏やかに、しかし水面下ではバタバタ足掻きながら、まるで白鳥みたいに「鯉」をしているってことさ。最初で最後の恋になるかもしれない、鯉を。

どこからともなく、声が聞こえてくる。おいおい。

足掻くなよ。そういうのを、悪足掻きって言うんだぜ。いい加減にしろ。

僕の声だ。

わかった。いい加減に観念して、ここからはきちんと、僕が好きになった人のことを書こう。そうしないと、詰まらない僕の小説につきあってくれている人たちに、申し訳が立たんだろう。

ううっ、苦しい。

僕が好きになったのは、好きになってはいけない人だった。

初めから、好きになってはいけない人を、好きになりたかったんだ。そこには意思が働いていた。理由は、訊かないで欲しい。人には、小説に書けることと書けないことってのが、あるんだ。とにかく僕は。

叶うことのない恋――つまり鯉ってこと――を、僕はしたかった。いや、しなくてはならないと思っていた。

なぜなら、僕の恋が叶うと、ふたりとも不幸になる。僕だけじゃなくて、彼女をも不幸にしてしまう。愛し合ったら、幸せにはなれない。そんなの、悲し過ぎる。だろ?

僕は僕の人生を複雑にしたくなかった。僕は叶うことのない恋をして、見事にふられる。それでいい。あとには「鯉」の思い出が残る。それでいい。暗闇の中をさまよいながら生きる僕には、コイと鯉の記憶があれば、それでじゅうぶんじゃないか。

だから、彼女が僕の目の前に現れたとき、僕は「この人しかいない」って思った。

好きになってはいけないこの人を、好きになるんだと心に決めた。決める前から、好きだったような気もするが。

瞳のきれいな人だった。色は茶色。こんがりローストしたアーモンドみたいな。

大人っぽい感じと、少女っぽい感じが同居してるみたいな。

その落差がいいなと、僕は思った。

それにね、なんとなく、雰囲気が雪丸に似てたんだ、彼女。犬と女の人を同列に考えるなんて、言語道断かな。だけど、雪丸は僕にとって、ただの犬ではなかったわけだし。

彼女にはほかに、好きな人がいた。そいつに夢中になっているように見えた。事実、夢中になっていた。彼女の瞳にはいつだって、僕じゃない人が映っていた。それでいいと思った。そうじゃなくちゃならんのだと。

彼女がほかの人を見つめている、その瞳が素敵だと思った。僕を見つめてくれなくていい。僕だけが見つめていれば、それで。

うん、それでいい。

結婚している人を好きになることを、巷では不倫と呼ぶらしいが、彼女は結婚はしていない。従って、これは不倫じゃない。横恋慕だ。

横から勝手に好きになること。横槍を入れること。

片思いっていうのとは、ちょっと違うんだ。ただ淡く、薄く、思っているだけじゃなくて、いつかはふり向かせてやるぞっていうような、本気の部分が含まれている。それが横恋慕だ。だまされたと思って、「鯉」を辞書で引いたら、意味は「ヨコレンボ」って出てた(嘘だよ、当たり前だろ)。

何はともあれ、これは僕にふさわしい恋の形だ。

僕はこの鯉に生きようと思った。僕はこの恋に命を捧げようと思った。

お? 今、笑っただろ? 笑ったな。

あのな、言っておくけどな、恋愛っていうのはさ、男子一生の仕事じゃないかと僕は思うんだ。恋愛を馬鹿にする者は、恋愛に泣くんだよ。人ひとりまともに愛せないで、人生を生きたって言えんのか。若い? ああ、その通りだ。

あのな、若さっていうのはさ、失われていくものじゃないんだ。使い果たすためにあるんだよ。

ああ僕よ。おまえはいったい何が言いたいんだ?

要はさ、六十年生きたって、八十年生きたって、人生を生きてない奴っていうのはごまんといるような気がする。だけど、たった二十年かそこらで、生き切ってしまう奴だっているんだってこと。それが僕という人間なんだってこと。

彼女を好きになってから、僕はコーヒーに砂糖もミルクも入れなくなった。苦い液体を、余裕の笑顔で飲み干してやる。酒は水でも氷でも割らずストレートで。喉が焼けつくような毒だって、煮え湯だって、飲んでやる。

彼女を好きになってから、僕は生きることを恐れなくなった。

そもそも人生って、苦いものだろ。甘いものじゃないはずだ。だけど僕は恐れない。絶対に怯まない。飲み干してやる。生きるって、そういうことだろ(なんかさ、自分を励ますために、書いてないか)。

昼間に教室で、涼介の作品『もう二度ときみに会えないとしても』の第二章------起承転結の「承」の章------に当たる「ヨコレンボ」のちょうど半分くらいまで読み進めたとき、私は、心地好い涼風に包まれているような気分でいた。

実際にあのとき、午前中の三時限目の教室には、あけ放たれた窓の網戸越しに、涼しい風が吹き込んでいた。それまで激しく降っていた、にわか雨が上がった直後だった。エアコンを切って「窓をあけて風を入れましょう」って、凛子先生が言ったのだった。

第一章の「雪丸」を読んでいたときにも感じていたことだったけれど、まるでエッセイみたいな小説だと思った。もしかしたら涼介は、エッセイと小説の垣根を越えたところにある、独自の作風の確立を目指しているのだろうか。

軽快に、リズミカルに語られていく恋の物語。

好きになってはいけない人を好きになったお話、であるはずなのに、じめじめしたところがまったくない。あっけらかんと書かれている。ぱりっと乾いた洗濯物みたいな言葉たち。どこか、ユーモア小説のような雰囲気を漂わせながらも、ところどころに苦みばしったアフォリズムが挿入されていて、「これはただものではない」と思わせられる。

そういえば、講座の初日に、凛子先生はこんなことを言っていた。

――簡単なことを難しく書くのは下手な作家。難しいことを難しく書くのは学者。簡単なことを簡単に書くのは小学生。どれも簡単なの。難しいことを簡単に書くのがいちばん難しい。それをやれるのが、やらなくてはならないのが本物の作家なの。

簡単に、すらすら書かれたように見えるけれど、涼介はきっと、呻吟したんじゃないかな。でも、その呻吟のあとは、私には見えない。そう思った。

これは、難しい小説だ。難しい小説が楽しく書かれている。

悲しい小説よりも、楽しい小説を書く方が難しいのではないかと、私はかねてからそう思っている。たとえば、離婚の危機に瀕している夫婦を描くよりも、まったく問題のない春風駘蕩な夫婦を、小説として読ませるように描く方が難しいのではないか、と。

だから昼間、教室でこの作品をここまで読んだ段階で、私の書き込んでいたコメントはどれも、軽快でリズミカルだった。

 小気味いいです、ここ!

 うまいです!

 拍手喝采、同感です!

 複雑なことが単純に書けている。

 この台詞にノックアウトされました。

 ごめん、笑ってしまった。最高におかしい!

ほとんど手放しで絶賛してしまった。それらは、心からの賛辞だった。こんなエッセイみたいな小説、楽しく読める小説、今までに読んだことがないよって思っていた。

けれども今、それよりも何よりも、この作品が魅力的だと思えるのは――

まだ外は明るいけれど、どこからともなく、夕闇が手足を伸ばして忍び寄ってきているような自室のかたすみで、私は、凛子先生の言葉を思い出す。

――たとえばそれは、夜の闇の中から聞こえてくる声のようなものなの。声の主はどこにいるのか、わからない。姿も見えない。でも、確かに聞こえてくるの。そう、文体というのは、声なの。文章の声よ。作者の声じゃないの。登場人物の声でもない。あくまでもそれは文章の声ってこと。読んでいると、小説の中から、文章の声が聞こえてくる。それが小説の持っている文体ってことなの。

四時限目の、通称「質問コーナー」で、誰かが挙げた質問「文体って、なんなのですか?」に対して、凛子先生の返した答えだった。

そのときには「よくわからない」って、私は思っていた。文章から聞こえてくる声なんて、あるのかなぁって、疑ってかかっていた。私の脳裏には、数時間前に聞いたばかりの涼介の朗読の声――ぞくぞくするほど、素敵だった――が染み込んでいたから。だから「作者の声じゃない」と言われても、ピンと来なかったんだと思う。涼介の書いた文章から聞こえてくる声は、やっぱり涼介の声なんじゃないかって。

でも今はその違いがわかる。大勢の人たちに囲まれた教室ではなく、こうして、ひとりきりのこの部屋で「ヨコレンボ」と向き合ってみたとき、確かにこの文章からは聞こえてくる声がある、と、私は感じている。それが、それこそが、この作品の魅力なんだと。

  彼女にはほかに、好きな人がいた。そいつに夢中になっているように見えた。事実、夢中になっていた。彼女の瞳にはいつだっ て、僕じゃない人が映っていた。それでいいと思った。そうじゃなくちゃならんのだと。

  彼女がほかの人を見つめている、その瞳が素敵だと思った。僕を見つめてくれなくていい。僕だけが見つめていれば、それで。

うん、それでいい。

そう、涼介の文章からは、文章の声が聞こえてくる。

これは涼介自身の声ではない。教室で、授業中に聞いた涼介の朗読の声とは違う。よく似ているけれど、違う。微妙に違うのではなくて、まったく違う。涼介の文章の声、それは、私のまったく知らない涼介の声、なのかもしれない。

そう、私は涼介のことを、まったくなんにも知らない。

初めから、好きになってはいけない人を、好きになりたかったと書いている涼介と、現実の世界で私の目にしている涼介が、まるで別の人のように思えてならない。きっと、別人なんだろう。それが小説の秘めているマジックでもあるのだろう。

まぶたを閉じると、涼介の姿が浮かんでくる。

プリントを顔にくっつけるようにして、司馬遼太郎の色気のある文章を読んでいた涼介。それから、配布された私の作品を読んでくれていた涼介。手に、虫眼鏡みたいなものを持っていたっけ。あれって、なんだったんだろう? 拡大鏡? 小学生だったとき、理科の実験で使った虫眼鏡で、私の原稿を焼こうとしているように見えた。

遊ばないでよ、って言いたくなった。

今は、思い出しながら、あいつらしい、って思っている。

涼介にはどこか、とっぽいところがある。漫画の主人公みたいなところが。

手足が長くて、ひょろっとしていて、顔はちょっとだけ若かりし頃の竹野内豊を彷彿させるようなハンサムさんで、でも正面切って「二枚め」とは言い難い、あの剽軽さ、飄々とした感じ。あの、つかまえどころのない、正体不明の男の子の体のどこから、あんなにも深くて、あんなにも艶のある男の声が出てくるのか。

そこまで思ったとき、唐突に、私の脳内で、ある疑問が芽吹いた。

もっと正確に言うと、雪丸が飛び出してきた。

最初から、好きになってはいけない人を好きになる。

ってことは、うちの父と同じで、忘れられない人がほかにいるから? たとえば涼介も、ものすごく好きだった人に死なれてしまって、それで、その彼女のことを永遠に忘れられないから、忘れたくないから、それで初めから、叶わない恋をしようとしている? だとすると、雪丸っていうのは、もしかしたら犬ではなくて、彼女なの? 亡くなった彼女のことを、涼介は「雪丸」って書いているの?

もしかしたらこれは、私が思っているほど、シンプルで甘い作品ではないのかもしれない。一筋縄ではいかない作品なのかもしれない。

  そもそも人生って、苦いものだろ。甘いものじゃないはずだ。だけど僕は恐れない。絶対に怯まない。飲み干してやる。生きるって、そういうことだろ(なんかさ、自分を励ますために、書いてないか)。

教室で読んだとき聞こえてきた、底抜けに明るい声とは違った声が聞こえてくる。

明るいことは明るいのだけれど、その裏には、痛切な悲しみが秘められているような気がしてならない。それでいて、共感も同情も求めていない。声にはそんな強さがある。意地のようなものが。

 私も励まされました。おかげで今夜「転」がすらすら書けそう。自分を励ますため 

 に書く。それでいいんじゃないでしょうか。

昼間に自分の書き込んだコメントを、消しゴムでごしごし消したくなる。なんて陳腐なことを書いてしまったのだろう。鉛筆で書いておけばよかった。そうすれば、最後まで読んだあと、消しゴムで消して、書き直すこともできたのに。

でも、教室ではあの文章に、あの声に「励まされた」と思ったし、私も自分を励ますために「転」を書こうと思っていた。まさか、そのあとに、あんなことが書かれているなんて、想像もできなかった。

「ヨコレンボ」の残り半分を、つまり最後まで読み終えたとき、私は呆然としていた。茫然自失というのは、あのときの私を表している言葉だ。それまで、つづきはこんなふうに書こうと思っていた自分の「転」が、ガラガラと音を立てて崩れてしまった。文字通り、破壊されてしまった。

まさか、って思った。

まさか、嘘でしょ? これって、涼介の創作? それとも事実なの? 体験談? 

どちらであったとしても、ショックだった。

ショックのあまり、どんなコメントも書けなかった。

実のところ、制限時間は残りあとわずかになっていた。添削や意見の書き込みが仮に途中までであっても切り上げて、提出する。そういう決まりになっていた。時間切れ。それをいいことに、何も書かないまま、もどした。だから涼介には、私が最後まで読んで何を感じ、何を思っていたか、まったくわからないはずだ。

わからないままでいいと思った。知らないままでいい。知らせるつもりなんて毛頭ないし、知られたくもない。私がどんなにショックを受けて、どんなに落ち込んでいるか。

涼介は、私を傷つけようとして、ショックを与えようとして、書いたのではない。そんなことはわかっている。涼介はそんなことをする人じゃない。

だったら、なぜ? なぜなの、涼介。

Profile

小手鞠るい

1956年岡山県生れ。同志社大学法学部卒業。1981年「詩とメルヘン」賞、1993年「海燕」新人文学賞、2005年『欲しいのは、あなただけ』で島清恋愛文学賞、2009年絵本『ルウとリンデン 旅とおるすばん』(絵/北見葉胡)でボローニャ国際児童図書賞を受賞。主な著書に、『美しい心臓』『アップルソング』『君が笑えば』『テルアビブの犬』『星ちりばめたる旗』『炎の来歴』など多数。アメリカ、ニューヨーク州在住。

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