ラストは初めから決まっていた

小手鞠るい

ラストは初めから決まっていた

12

泣きながら書く(1)

「あれ? どうした、おまえ、どっか、具合でも悪いんか?」

ふいに飛んできた父の言葉に驚いて、思わず箸を落としそうになった。

「顔色も悪いみたいだけど」

金曜の夜。

料理当番の私がこしらえたおかずは、海老と豆腐とわかめとちりめんじゃこをざざっと炒めて、卵で閉じたものと、レタスをちぎって胡瓜の輪切りを添えただけのサラダ。炭水化物は、冷凍庫の奥で眠っていたおにぎりを電子レンジであたためたもの。

当初の予定――海老のチリソース和え、胡瓜とちりめんじゃことわかめのサラダに、揚げ出し豆腐に、玄米豆ご飯――とはずいぶん違っている。

料理に一意専心することで、涼介の「承」に書かれていた醜い真実から、いっときだけでも解放されたかったのだけれど、無理だった。忘れようとすればするほど、残酷な現実は私の体につきまとってきた。だから、何もかもをまとめてフライパンに入れて、醤油で一気に片をつけてしまった。

父のお皿はほとんど空になっている。私の目の前のおかずは冷えて、固まって、しなびて、いかにもまずそうに見える。

「あ、全然、どっこも悪くないよ。ちょっと考え事してた。これから書くホームワークのこと。ちょっと難しくて」

とりあえず私はその場を繕っておいた。

これは嘘じゃない。でも嘘も混じっている。これから週明けまでに書かなくてはならない「転」の章は、「ちょっと」どころかかなり難しくなりそうだし、本当は「ちょっと考え事」ではなくて「深刻に考え事」が正しい。

「ああ、あれか。例の小説? 即席小説家養成講座の?」

父はへらへら笑っている。

「うん、まあね」

「小説なんだからさ、適当に作り話を書いておけばいいんじゃ......」

「そんなんじゃないの! 知ったように言わないで!」

いつもなら、適当に笑って流せるはずの父との会話なのに、私はつい、きつい言葉を返してしまった。娘の豹変にびっくりしたのか、父は、手足を甲羅に引っ込めた亀みたいになって、頭をぺこんと下げた。

「それはそれは。どうもすみませんでした。失礼をお許し下さい」

この言葉もジョークだったのだろう。私は笑えなかった。一応、笑おうとしたのだけれど、頰が硬直してしまった。父はまだ何か言いたそうにしていたが、私は、ぬるくなっているほうじ茶で流し込むようにして、そそくさと食事を終え、立ち上がった。  

台所をあとにする前に、

「パパごめん。課題がけっこう大変で、私、いらいらしてるのかも」

と、謝っておいた。

私の背中に、父の声が降りかかってきた。

「無理するなよ。無理しないでがんばれ」

そんな優しい声をかけないで、と、言いそうになったが、言わずにふり返って、私は素っ気なくうなずいた。あのね、こういうとき、優しくされるとかえって、涙腺が切れてしまうんだよって思いながら。

部屋にもどって、パソコンの前に座った。

「転」を書く前に、まず「承」を直さなくてはならない。頭が痛い。

裏返しにされたままの、涼介の作品のコピーの束を睨みつける。

一分か二分か、睨みつけていたのはせいぜい、それくらいの時間だったはずなのに、私の脳裏を駆け巡ったのは、隆文とのあいだに流れた、決して短くはない月日だった。

一回生の五月から、二回生の三月までの十ヶ月あまり。

「承」の章に私は、隆文との初デートから、別れを切り出される最後のデートの直前までに起こった出来事を、時系列に沿って書き綴っていた。

うれしかったこと、楽しかったこと、心に残っていること、忘れられない言葉、弾みに弾んだ会話、つなぎ合った手と手のあたたかさ、いいことばかりをたくさん、丁寧にすくい取るようにして書いた、つもりだった。

夏に浴衣を着て出かけた花火大会。秋の学園祭の出店で、いっしょにたこ焼き屋を開いたこと。冬には大山へスキーに行き、お正月には吉備津神社まで初詣に行った。隆文の借りたレンタカーに乗って、牛窓まで遊びに行った日もあった。

特別なデートとは別個に、キャンパス内で待ち合わせてランチを食べたり、試験前には図書館で落ち合って、学習室で肩を並べて勉強したり。映画を観に行ったり、スポーツ公園で草野球の試合を観戦したり。そんな何気ない時間が輝いていた。

「どこにでもありそうな、平凡で月並みな時間が、わたしにとっては特別な時間だった」 

と、私は書いた。「恋をすると、時間に色がつく。それは、桜色だったり、すみれ色だったり、ラベンダー色だったりする。時間に淡いきれいな色がついて、空気にはきれいな香りがつく」と。

次の「転」で別れがやってくるまでの「承」は、幸せ色に染め上げられていた。事実、そうだったのだ。私は、隆文がそばにいてくれるだけで、幸せだった。記憶の中だけでいいから、私は幸せでいたかった。

その幸せが、涼介の「承」によって、ことごとく破壊されてしまった。

ハンマーでぶち壊され、屋根も柱も天井も壁も、何もかもがガラガラと崩れ落ちて、私は今、その瓦礫の中にぼーっと突っ立っている。桜もすみれもラベンダーも、見る影もなく踏みつぶされてしまっている。

うちの画廊を訪ねてきたあの日、旭川のほとりで「つきあってくれる?」って言ってくれたあの日、いっしょに歩いていた日も、いっしょに勉強していた日も、言ってしまえば最初から最後まで、隆文の心の中には、別の女の人がいた。

それだけじゃない。その人をふり向かせるために、隆文は私を利用していた。私は道具みたいなものだったのだ。しかも、使い捨ての。

「おまえよりももっと、好きな人ができた。ごめん」

あれは真っ赤な嘘だった。好きな人はいたのだ、初めから。

十九歳の誕生日に贈ってくれた、あの十九本の薔薇の花束は「別れるにしたって、それなりの礼儀を示さなあかんやろ」だったのか。隆文と私は、キャンパス内でデートすることが多かった。あれは、私たちの姿を彼女に見せつけるためだったのか。

スキーも、レンタカーの日帰り旅行も、初詣だって、そういえばみんなでいっしょに行った。私にはそのことが誇らしく思えていた。隆文が私のことをみんなに「俺の彼女だよ」って堂々と宣言してくれているんだと思い込んで。グループの中にいても、私の目には隆文しか映っていなかった。けれど、そこには涼介もいたし、フランス文学専攻の先輩もいたのだった――

知りたくなかった、という思いと、知ってよかった、という思いが、胸の中でぐるぐるぐるぐる渦巻いている。知りたかったのか、知りたくなかったのか、自分でもよくわからない。憎みたくない、憎しみだけは抱きたくない、と、思いつづけてきた隆文の存在が、憎しみの対象に変わっていきそうで、怖い。せっかく思い出になりかけていた過去が、牙をむき出しにして、襲いかかってくる。やめて。これ以上、私を苦しめないで。

その思いはそのまま、涼介への怒りに結びついていく。

どうして書いたの、どうしてこんなことを、あなたは書いたの。

私がこれを読まされて、どんな気持ちになるか、ほんの少しでも想像したの? 

ひどいじゃない、ひど過ぎない?

けれども、そのような怒りの裏側には「でも、書いてくれてよかったよ」という、感謝とにも似た、摩訶不思議な気持ちが薄皮のように貼りついていて、私は胸を掻き毟りたくなってしまう。

感情の渦巻きの中から、講座の初日に凛子先生の語っていた「三十パーセント」が浮かんでくる。

――人の感情のうち、七十パーセントは、言葉にできるものなの。うれしいとか、悲しいとか、くやしいとか、腹が立つとか、みんなもそういう感情には馴染みがあるでしょ? でもね、残りの三十パーセントは、言葉にはできないものなの。できない、と言い切ることもできないんだけど、便宜上、今はそう言い切っておくね。たとえば、好きなのに嫌いっていうような感情。愛と憎しみの両方、みたいな感情。そういう感情を言葉で言い表すのは難しいでしょ。その、三十パーセントの闇の領域に存在している感情を表現していくのが、小説家の仕事なの。

今のこの思い、特に涼介に対する気持ち。隆文じゃなくて、涼介に対して抱いているこの強い感情。これこそが三十パーセントの領域にある感情なんだな、と、私は私なりに理解した。

パソコンを操作して、「承」の原稿を呼び出した。

読み返しながら、細かいところを直していく。治りかけた傷をなぞるようにして。

自分の書いた文章に、今までとは違った色がついているようだ。そうじゃない。色がついているのではない。すっかり色褪せてしまったのだ。楽しかったはずのデートの描写がすべて、切なかったあの刹那が、悲しい場面の描写として読めてしまう。悲しいくらい滑稽な場面に変わり果てている。

「なあ、ことちゃん、キスしてもかまへん?」

「......いいけど......」

「ああ、ドキドキする、俺、どないしよう、焦ってる」

甘くかすれた声でそう言って、顔を近づけてきたとき、隆文の胸の中には――。

クリスマスイブの日に起こった出来事を読み返しているとき、割れないように割れないようにとそれまで注意して手にしていた卵が、床に落ちて、割れた。そんな音が聞こえた気がした。

私の頰を涙が伝い始めた。もう駄目だ。堂島ことり、決壊だ。

Profile

小手鞠るい

1956年岡山県生れ。同志社大学法学部卒業。1981年「詩とメルヘン」賞、1993年「海燕」新人文学賞、2005年『欲しいのは、あなただけ』で島清恋愛文学賞、2009年絵本『ルウとリンデン 旅とおるすばん』(絵/北見葉胡)でボローニャ国際児童図書賞を受賞。主な著書に、『美しい心臓』『アップルソング』『君が笑えば』『テルアビブの犬』『星ちりばめたる旗』『炎の来歴』など多数。アメリカ、ニューヨーク州在住。

Pick Up Book

  • かがみの孤城
  • i
  • 私のスポットライト
  • ビオレタ

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