ラストは初めから決まっていた

小手鞠るい

ラストは初めから決まっていた

13

泣きながら書く(2)

クリスマスイブだった。すみれ色の夕暮れ時だった。わたしが初めてトキオの部屋を訪ねたのは。それが最初で最後になるなんて露知らず、前の日から仕込んであった円形のスポンジに、腕が痛くなるまでかき混ぜて泡立てたホイップクリームと、うすくスライスした苺を丁寧にはさみこんで作り上げた苺のショートケーキ――トキオが食べたいと言ったから――をたずさえ、ふだんは滅多に着ないニットのワンピース――あんまり似合ってない――を着込んで、岡山駅から桃太郎線に乗って、胸をときめかせながら、出かけていったのだった。

招待してくれたのは、トキオだった。

「イブの日な、風ちゃん、来るか?」

「来るかって、どこへ?」

「おまえね、男が『来るか』って誘ったら、場所なんか、決まってるやろ?」

すぐにはわからなかった。どこだろう? 行くか? じゃなくて、来るか? 

まぬけなことを思いながら黙っていると、

「馬鹿だな、風ちゃん、まじめに考えるなよ。俺んちだよ、俺の部屋」

トキオの手がのびてきて、わたしの髪の毛をくしゃくしゃにした。

あっ、と、思った。ドキンとした。そうか、とうとう来たか、そんな気もした。不意を突かれたような気もしたけれど、同時に、この誘いをずっと待っていた、という気もした。要は、自分でも自分の気持ちがまったくわからなかった。

「来るやろ?」

唇をきゅっと結んで、やっぱりなんにも答えられないままでいるわたしに、トキオの優しい声が降りかかってきた。雨粒みたいな声だった。

「おまえ、なんか、勘違いしてない? 俺はただ風ちゃんといっしょに」

我に返って、わたしはトキオを見つめ返した。勘違い? 部屋へ行く、イコール、そういう関係になるってことじゃ......ないの? 頰が耳の付け根までピンク色に染まっているのは、わたしの邪推じゃなくて冷たい風のせいだって思われたくて、手袋をはめた両手で頰を覆ったまま、わたしはうなずいた。笑顔で答えた。

「うん、ありがと。わたしもトキオといっしょにいたいよ、イブの日」

朝までだっていいよ、と、思っていたけれど、さすがにそれは言えなかった。

トキオの表情が、ぱぁっとほどけた。

「よかった。断られたらどないしようって、内心ちょっとだけ心配してたから」

苦笑いの滲んだ声でそう言いながら右腕を回して、わたしの右の肩ごとわたしをぐいっと抱き寄せると、ささやくように言ったのだった。

「クリスマスといえば、苺のショートケーキ、かな?」

「了解」

とだけ、わたしは答えた。トキオの腕の中で、飛び魚みたいに気持ちがピチピチ跳ねていた。トキオはいつも、わたしの作ってくるお弁当やスイーツを「うまい、うまい、日本一や」って、さかんに褒めてくれていたから。「ガキの頃、食わしてもらった、風ちゃんのおふくろさんの味を思い出すなぁ」って。

岡山駅から電車でふた駅のところに、トキオの住んでいるアパートはあった。名前を「千春ハイツ」といった。トキオの話によると、大家さんはフォークシンガーの松山千春の大ファンで、この名前を付けたんだという。

「夫婦そろってファンなんや。チー様って呼んどるわ。風ちゃんもいっぺん、聴いてみ。なかなかええよ。俺も影響されて好きになった。あれは人間の声やなくて、神様の声という感じがする」

そう言って、『恋』という歌のサビの部分を口ずさんでくれた日もあった。

トキオは駅まで迎えに来てくれていた。出会い頭に、わたしの手から、ケーキの入った頑丈な紙袋を奪い取るようにして受け取ると、

「よう来てくれたな」

って、すごくうれしそうに言ってくれた。

わたしもうれしかった。クリスマスイブの日、いっしょに過ごせる恋人がいるってことの幸せを噛みしめていた。この日のために、実は松山千春の歌をいっぱい聴いて「予行演習」をしてきたのだった。

そう、予行演習だ。わたしにとってはすべて、初めての経験になるかもしれないことの、予行演習――。女の子なら誰だって一度や二度は、いいえ、何度も何度も脳内で予行演習をするものだ。どんなに予行演習をしたって、その通りにはいかないんだけれども。

部屋の近くにある、トキオの行き着けのラーメン屋さんで、カウンターに並んで座ってラーメンを食べた。

「ほんまは、イタリアンかフレンチに行くべきなのかもしれんけど、ごめんな」

トキオは恥ずかしそうに、そんなことを言った。

「ううん、全然、平気」

わたしは心からそう言った。おしゃれなお店とか、高級なワインとか、着飾って食事とか、プレゼントとか、そういうことはあんまりというか、まったくと言っていいほど、どうでもよかった。わたしはただこうして、トキオのそばにいるだけで、胸がいっぱいになっていた。カウンターに並んで座って、ふぅふぅ言いながらラーメンをすすっているだけで、満たされていた。恋って、そういうものなんだと思っていた。松山千春の言葉を借りれば「それでも恋は恋」なんだって。

ラーメン屋さんからトキオの部屋にもどっていく道すがら、わたしたちはどちらからともなく手をつなぎ合っていた。お店の中にも、お店のあった通りにも、クリスマスソングが流れていた。思わず、手をつなぎ合いたくなるような音楽だった。

「さ、こっちがメインコースやな」

トキオの淹れてくれたインスタントコーヒーを飲みながら、ふたりでケーキを食べた。正確に言うと、食べたのはトキオだけで、わたしはひと口、味見をしただけだった。ラーメンのせいでお腹がいっぱいだった、のではなくて、トキオへの思いで、全身がいっぱいになっていて、もう何も食べられないという状態になっていたのだった。

ケーキを食べ終えると、トキオは小さなげっぷをひとつして「失礼」と言ったあと、立ち上がって、わたしの隣にドサッと座り直した。ホームごたつのお布団の中で、ふたりの足と足が触れ合った。

それから、あの問いかけがやってくる。

「なあ、風ちゃん、キスしてもかまへん?」

「......いいけど......」

「ああ、ドキドキする、俺、どないしよう、焦ってる」

それから、唇がやってくる。声と同じでちょっと濡れていて、ちょっと甘い唇。苺のショートケーキの味がした。

「ほんと、トキオの心臓、ドキドキしてる。どうして?」

唇を離したあと、わたしはそんなことを言った。そのとき、トキオのドキドキが、わたしの耳には本当に、聞こえていたのだった。キスは初めてじゃないはずなのに、どうして? ってわたしは思っていた。

ああ、わからない、と、私は思った。

涙をぬぐいながら、鼻水をすすり上げながら、ティッシュペーパーに手をのばしながら、思った。このまま、このつづきをだらだらと書き直していく行為に、果たして意味はあるのか? ここまで書き直したことで、この「承」の章は、前よりもよくなっているのか? もしかしたら、悪くなってきているのではないか? 

わからない。皆目わからない。

もともと味の悪い、あるいは、味のない料理を、どんなにこねくり回しても、いい味は出ないのではないか。そんなふうにも思えてくる。

このキスの場面のあとに起こったこと――なぜか、トキオの部屋に突然、トキオの仲間たちが訪ねてきた――をどう書き直したって、むなしいだけだ。だって、あれは、トキオが最初から仕組んでいたことだったのだから。訪ねてきた仲間たちのなかには涼介もいたし、フランス文学専攻の彼女もいた。トキオは、自分の恋を成就させるために、あのクリスマスイブのシナリオを書いていたのだ。

疲れた。これ以上、この原稿を読んだり書いたりするのは、単なる苦行に過ぎない。

泣きながら書き直した原稿に「承ボツ3」というタイトルを付けて、没原稿専用のフォルダーに収めた。

パソコンの時刻表示を見ると、十一時を少し回ったところ。途中でお風呂に入ったり、ぼーっとしたりしていた時間を除けば、原稿と格闘していたのは二時間半くらいか。

私はキッチンへ行って、抹茶入りの緑茶を淹れた。

眠気覚ましにお茶を飲んで、もう少しだけがんばってみようか。書き直すのではなくて、一から書いてみようか。そんな気持ちがかすかに芽生えている。

ポットの中でお茶の葉が開くのを待っているあいだに、私はふと、窓の外に目をやってみた。キッチンの窓から見えるのは、四角に切り取られた夜の闇だけだ。闇の中から、律儀な虫たちの声が聞こえてくる。じっと見つめていると、庭木たちも一生懸命、何かを囁き合っているような気がする。何かって、なんだろう? たとえば、互いの秘密を? 木に、秘密なんて、あるのかな?

秘密か。

次の瞬間、私はお茶を放ったらかしにして、自分の部屋へ向かっていた。

部屋にもどって、机の上に置いたままにしてあった、自分の原稿を手に取った。きょう、教室で提出したオリジナルの原稿だ。そこには、涼介のコメントと、凛子先生のコメントの両方が入っている。涼介のコメントは、一度だけ読んだ。でももう二度と、読み返したくないと思っている。私を傷つけ、泣かせ、ボロボロにした、憎たらしいあいつのコメントなんか、読み返すもんか、と。きのうまでは好もしく思えていた涼介のあの個性的な手書きの文字が、今は、思い浮かべるだけで虫酸が走るほど嫌な物のように思える。

私が読み返したいと思ったのは、凛子先生のコメントだった。

先生は、原稿に書き込んだ赤字のコメントとは別に、最後のページにポストイットを貼り付けてくれていた。

最初に読んだときには、私の頭の中を素通りしていった文章。そこには確かに「秘密」という言葉がふくまれていた。

――起と承を読んだ限りでは、この作品には、パンチがない。この原稿には、秘密がない。主人公が本当にトキオに恋をしているのかどうかさえ、私にはわからない。恋というのは、秘密でしょう? 秘密そのものでしょう? 堂島さんの秘密を、あなただけが知っている秘密を、自分の手でちゃんと暴いて欲しい。私がかつて不毛な恋をしていた頃、私は毎朝、その人の死を願っていました。彼が死んでしまえば、この苦しい恋から逃れられると、私は本気で考えていたの。これが私の恋であり、私の秘密でした。堂島さんは堂島さんの「秘密」を書くの。それが恋を書くってことでしょ?

そう、私には、秘密があった。いや、ある。現にここにある。この胸の中に。

私はこれを暴かなくてはならない。そう思いながら私がしたのは、閉じたばかりの没フォルダーを呼び出すことだった。呼び出して、リストの中から「失恋ボツ1」という文書を選び出した。画面いっぱいに浮かび上がってきた文字の集合体の冒頭に、私の秘密が書かれていた。

ラブソングなんて、大嫌い。

愛の歌なんて、この世から消えてなくなってしまえばいい。

これだ、これが私の秘密だ。

憎んでいない、憎みたくない、嫌いになったわけじゃない、なんて、きれいごとを、私は書いちゃ駄目なんだ。私は隆文が憎いし、涼介が憎い。恋という言葉も愛という言葉も大嫌いだし、信じられないし、信じたくもない。この憎しみから目を逸らしたままで何を書いても、それは嘘になる。

凛子先生は言ってた。

――小説は真っ赤な嘘話なんだけど、そこには、真実が書かれていなくてはならない。

Profile

小手鞠るい

1956年岡山県生れ。同志社大学法学部卒業。1981年「詩とメルヘン」賞、1993年「海燕」新人文学賞、2005年『欲しいのは、あなただけ』で島清恋愛文学賞、2009年絵本『ルウとリンデン 旅とおるすばん』(絵/北見葉胡)でボローニャ国際児童図書賞を受賞。主な著書に、『美しい心臓』『アップルソング』『君が笑えば』『テルアビブの犬』『星ちりばめたる旗』『炎の来歴』など多数。アメリカ、ニューヨーク州在住。

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