ラストは初めから決まっていた

小手鞠るい

ラストは初めから決まっていた

17

書く男(3)


「どうしてって言われても......自分でもよくわからないんだけど。でも」
独り言をつぶやくようにして、消え入りそうな声で彼女は言った。「絶対」と言ったときの力強さはどこにもなかった。
でも、どうしてなんだ?
僕がアメリカへ行っても、向こうで何があっても、不幸にはならなくて、彼女も、いや、きみも不幸にはならないと思う、絶対、の理由はなんなんだ?
はっきり言ってくれ。白黒つけてくれ。今の僕は世界一幸福な男なのか、単なる馬鹿なのか、どっちなんだ?
張り裂けそうになっている胸に、染み入るような優しい声が聞こえてきた。
「あのさ、熊野くんのこと、りょうすけくん、って、呼んでいい?」
「はぁ?」
思いがけない場面転換に面食らってしまい、のけぞりそうになっている熊野涼介(ト書きを書いている場合か?)。
「正直に告白するけど、私、熊野くんが夏季講座の教室に、ちょっと遅れて飛び込んできたとき、これは天災かもしれないって思った」
「天才?」
熊野涼介の思考と表情、まるで不可解な謎の物体を発見したかのように、ますます混迷を深めている(いい加減にせんか、ト書き男)。
「ほら、天災って、忘れた頃にやってくるって言うでしょ」
「ああ......
なんだ、そっちの天災か。それならそうと、早く言ってよ。いや、言われなくてもわかるのが普通だろ。
「あの......
僕にはさっぱりわからない。そのことと、さっきの「りょうすけくん」には、どういう関係があるのでしょうか?
「ねえ、覚えてる? ビンゴで私たちがチームになったときのこと」
「うん!」
一瞬、小学生にもどったような元気な声を出してしまう。それはもう、忘れようたって、忘れられるような出来事じゃありませんよ。うれしかったなぁ、あのときは。
「じゃあ、司馬太郎の『竜馬がゆく』の朗読をしたときのことは?」
「覚えてるけど、それが何か?」
と言いかけた僕の声に、彼女の声が重なる。ほんの少しだけ、震えているような声。
「私、あのとき、声に落ちた。素敵な声だなって思っていた。こんな声で、愛を囁かれて、恋に落ちない女の子がいたら、会ってみたいなって」
そこで、彼女は小さな咳払いをひとつした。僕はその「咳」になってしまいたいほど、つまり、彼女の喉から一気に外に出してもらいたいほど、彼女に自分を同化させていた(やや、説明過剰。比喩としても、いかがなものか?) 
それからぱっと顔を上げ、僕の顔に直射日光みたいな視線を当てて、彼女は一気に言い放った。
「遅れて教室に入ってきた天災くんに出会ったときから、私は熊野くんのこと、心の中で『りょうすけ』って呼んでた。原稿を読ませてもらっているときも、素敵な朗読を聞いてるときも、ずっと、ずっと『りょうすけ』だった。失恋小説を書いてたときも『ああ、これを涼介が読んだら、どう思うのかな』ってことばかり考えてた気がする。いつから、そう思い始めたのか、なぜこんな風に思ってしまうのか、自分でもさっぱりわからないんだけど、これって、恋なのかな? イマスグアイタイって、書いてくれてた、あの言葉を目にしたとき、ああ、もしかしたら、もしかしたら、って、それまでずっと解けなかった謎が解けたようなそんな気がして」
僕の大好きなアーモンド色の瞳が、僕を見つめている。瞳の奥に秘められている静かな熱気のようなものに、僕の全身が感電しているのがわかる。
僕じゃなくて、彼女が告白してる!
立場がまるで逆転してしまっている。
ここで何か、かっこいいことを言わなきゃだめだ。決め台詞を言わなきゃ。気持ちは焦るばかりで、僕の口からは何も出てこない。言葉はなりを潜めている。書く男、しっかりしろ、ペンを捨てて「言う男」になれ!
そんな僕の焦りを知ってか、知らずか、彼女は、深夜のギャラリーの天井から、僕の頭上にあたたかい雨のような声を降らせつづけている。
「だからね、涼介くんの小説の中に出てくる、横恋慕の彼女に最初は嫉妬してた。この彼女が私だったら、いいのになって思ってた。もしもそうなったら、隆文を見返してやれる、なんて思ってた。ざまあみろって。でも、途中から、隆文のことなんて、もうどうでもいいやって思うようになって。隆文が私を利用して、傷つけたことも含めて、もうどうでもいいんだって思えるようになってきて。それもこれも、涼介くんがあの作品を書いてくれたから、なんだよね。私、涼介くんが書いてくれたことに感謝してる。本当に、心から、感謝してる。書くだけじゃなくて、今夜、こうして会いに来てくれたことにも」
そこでふいに言葉が途切れた。
これ以上、彼女に言わせちゃだめだ。僕が何か言わなきゃ。言葉で言えなかったら、態度で示せ。ああでもそんなこと、できない。男の衝動に身を任せる、なんてこと、ドラマや小説ではやっていいのかもしれないが、これは現実の世界なんだ。
僕の頭の中は、まっ白になっている。
まっ白になった僕の脳が、それでも僕に何かを命令したのだろう。
気がついたら僕は、シャツの胸ポケットから「あるもの」を取り出していた。
それは僕が、お守り代わりに持ってきたものだった。今夜の告白を成功させるためのお守りであり、うまくいったら、彼女にあげたいと思っていた。
僕は右の手のひらで「あるもの」を握りしめたまま、そのグーを彼女の目の前に差し出した(念のために書いておくと、ここでふたりは立ったまま向かい合っている)。
「これ、あげる、っていうか、もらってくれる?」
月並みな渡し方は、したくなかった。ここで格好をつけなかったら、どこで格好をつけるんだ。ここで彼女の心に、僕をぐいっと残すんだ。爪痕を食い込ませるように。
「目を閉じて」
自分で自分の声を聞きながら、竜馬の台詞を思い出していた。
――おりょう、参るぞ。
「じゃあ、渡すよ」
言いながら、僕はそっと彼女の左手を取って、その手のひらに小さな「あるもの」を握らせた。彼女の指に触れているとき、僕の魂は震えていた。
「いい? じゃあ、目をあけて」
彼女はくすくす笑っている。左の手のひらで「あるもの」を握りしめたまま。
「もう見ていい?」
僕はうなずく。この小さな白い「あるもの」に、僕は竜馬じゃなくて、おりょうさんの思いを込めたのだ。きっと、生涯、愛しつづけます、と。
ぱっと左の手のひらをあけた彼女は、
「わぁっ」
と、歓声を上げた。決して大きな声ではなかったが、心の底から、喜んでいる声だとわかった。それから、
「雪丸くん!」
と、彼女はその名を口にした。なぜか「くん」だった。
まるで「涼介くん」と呼ばれたみたいに、僕はうれしくなった。僕にしっぽがあったなら、秒速百回くらいの勢いで振っていたと思う。
小さな小さな雪丸が、彼女の手のひらの中にいる。スマホにも付けられるストラップ。小さな耳、小さなしっぽ、首にはピンク色のバンダナを巻いている。手には笏を持っていて、そこには「王寺町 雪丸」と文字が書かれている。彼女はその文字を見つめている。
「うん、その子はね、奈良の王寺町のマスコットにもなってるんだ」
「可愛いよね、雪丸くん、なんて可愛いんだろう。聖徳太子がこんな犬を可愛がっていたなんて、歴史の時間に誰も教えてくれなかったよね。私、涼介くんの小説の最初の章を読んだときから思ってたことがあって......
「あ、僕もあの章を書いていたときから思ってたことがあって......
そのあとの台詞を、僕らはふたり同時に言った。
「なに?」「なに?」
 顔を見合わせて笑った。なんだかいいムードになってきているぞ。
「堂島さんが先に言って」
「涼介くんが先に言いなよ」
「ことりちゃんが言いなよ」
 どさくさにまぎれて「ことりちゃん」って呼んでみた。心臓がぞわぞわっとした。
「いやだよ、涼介くんが先だよ」
「え、なんで? 言い出したのは、そっちじゃない?」
「でも書いたのは、そっちが先でしょ?」
僕たちはじゃれ合った。いつまでもじゃれ合っていたい気分だ。誰になんと言われようと、世界は今、この瞬間、僕たちのためだけに存在している。
「いつか、王寺町へ行ってみたいなって、思ってた。涼介くんが、どんな町で生まれて、雪丸くんを愛して、失くして、悲しんで、悲しみを乗り越えて、大きくなって、東京へ引っ越して、それから岡山にやってきて、こうして巡り会えるまでに、どんな少年時代を過ごしたのかなって、すごく興味が湧いてた。なぜなんだろう、行ったこともない町なのに、王寺町を身近に感じてた」
「ラストは初めから決まっていた」
と、僕は言った。突然の決め台詞。考えて言ったわけじゃない。言ってしまってから「そうか、そうだったのか」と納得している僕がいた。
この小説のラストは、初めから決まっていたんだ。
僕が雪丸のことを書き始めたあの日から、すべてはきょう、このときに、ここでふたりはこうなるって、決まっていたんだ。これから、どうなるのかも。

ラストは決まっているが、今はまだ書きかけだ。書く男は、書きかけのきみが好きなんだ。小説に書き切ることなどできない、小説には収まり切らない、きみが好きだ。
勇気を出して、僕は言った。
司馬太郎の言葉を借りれば「愛という生きもの」が僕に、言わせているような気がした。
「アメリカへ行って手術が成功して、僕がもどってきたとき、いっしょに王寺町へ行って
くれないかな? 僕は堂島さんを」
「ことりちゃん、でいいよ」
「ことりちゃんを、連れていきたい場所があるんだ」
「いいよ、約束する。涼介くんと雪丸くんの両方に、約束する」
彼女は、小さな雪丸を右手に持ったまま、左手の小指を僕の方へ差し出した。僕はその小指に僕の小指をからめた。それから、最後のわがままを言った。
「あのね、僕のここに軽く**してくれない?」 
**のところだけ早口で言ったから、言葉に息がからんで「キシュしてくれない」になった。
彼女は一瞬、戸惑ったような表情になっていたが、その表情はすぐに、動画のスローモーションで開く薔薇の大輪みたいな笑顔に変わった。
「いいよ」
本当は、唇にして欲しかった。だけど、そんなこと、言えるわけねぇだろ!
「もしも目が見えなくなっても、ほっぺで、好きな人の唇を覚えておきたいと思って」
ということだけは、きちんと言っておいた。言うべきことは言っておこうと思った熊野涼介(その通りだ)。
ほっぺにチュをしてくれたあと、彼女は言った。
「眠れる森の美女が、王子様のキスで目覚める感じ?」
そうだといいな、と、本気で思った。たとえば、目の手術が終わって、包帯が外されたとき、僕の目にいちばん最初に見えるものが、彼女の笑顔だといいな、と。
「大丈夫だよ、涼介くん。涼介くんの目は見えなくなったりしない。私が守るから。正確に言うと、私と私の母と雪丸くんが守るから」
「ことりちゃんのお母さんも守ってくれるの?」
「天国で守ってくれている人の力って、強いものなんだよ。私もいつも守られているの」
そのとき僕は、彼女の小説の冒頭の章に出てきた、おかあさんの話を思い出していた。

まるで羽をむしり取られたような、それでも飛ぼうとしてもがいているような、そんな状態だった。

どんなに悲しかったことだろう、と、僕は涙を浮かべながら、その一文を読んだのだった。読みながら、思っていた。いつか、彼女と「喪失の悲しみについて」語り合ってみたい、と。同時に、そういうシチュエーションの中で、彼女にハンカチを差し出した隆文に、全身全霊で嫉妬していた。
「ありがとう、守ってくれて」
気がついたら僕は、彼女の背中に両腕を回して、そのまま彼女を抱き寄せ、抱きしめていた。見た目よりも、ずいぶん柔らかいんだな、なんて、思っていなかった。あとでそう思った。そのときは、感触に思いを馳せる心の余裕なんて、なかった(当たり前だろ!)。無我夢中で、彼女を抱きしめているとき、僕の背中に回された彼女の両腕も、僕を抱き返してくれているのだとわかった。   
僕は両腕に、僕の台詞を語らせた。
その一部は、僕の未完の小説のタイトルにもなっている。
たとえもう二度ときみに会えなくても――
僕はきみを愛しつづけるよ。
現実は素晴らしい。少なくとも今、ここにある、この現実の世界の中で、僕は不幸な男にはならなかった。
どうだ、みんな、何か文句ある? これがこの作品の「転」だ。あとのことは、どうなるか、僕にはわからない。申し訳ないが、僕には「結」を書く時間は、残されていない。そのことを、僕の腕の中にいる小鳥は、知らない。

Profile

小手鞠るい

1956年岡山県生れ。同志社大学法学部卒業。1981年「詩とメルヘン」賞、1993年「海燕」新人文学賞、2005年『欲しいのは、あなただけ』で島清恋愛文学賞、2009年絵本『ルウとリンデン 旅とおるすばん』(絵/北見葉胡)でボローニャ国際児童図書賞を受賞。主な著書に、『美しい心臓』『アップルソング』『君が笑えば』『テルアビブの犬』『星ちりばめたる旗』『炎の来歴』など多数。アメリカ、ニューヨーク州在住。

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