ラストは初めから決まっていた

小手鞠るい

ラストは初めから決まっていた

18

単位を落とす(1)

「あのさ、あしたのことなんだけど......」
土曜の夜。父製作のペペロンチーノ――スライスしたガーリックと、鷹の爪と、イタリアンパセリと、パルメザンチーズがパスタにからまっている――を食べ終えて、洗い物をしながら、カウンター越しに父に声をかけた。父はまだテーブルの前に座って、白ワインを飲んでいる。飲みながら、スマホを操作している。
「急に大事な用事ができて、朝から出かけなくちゃならなくなった。だから」
約束していたギャラリーの店番、できなくなったんだけど。と、最後まで言い終わらないうちに、父の言葉が返ってきた。
「おう、店ならいいよ。俺の方はあしたの予定、急にすっぽかされた」
「え? ドタキャン?」
「いや、そんなんじゃないんだけどさ」
「だったら何?」
「大人の事情だよ」
私だって、大人なんですけど。そんな余計なひとことは呑み込んで、笑顔を作る。
「わかった。じゃあ、遠慮なく」
お互いに、それ以上、相手の「用事」や「予定」については詮索しない。私は、父はデートの相手にふられたのかなと思っているし、父はきっと「こいつ、何かのっぴきならないことがあったな」と思っているに違いない。
確かにあった。
きのうの夜、正確に言うと、きょうの午前零時から三時までのあいだに、それは起こった。それとは――退くことも引くことも、つまり、避けることも逃げることもできないアクシデント。別名を「恋」とも言う?
涼介は「横恋慕」の章に、こう書いていた。

宙ぶらりんで、どっちつかずで、不適であいまいで、手なずけるのが難しくて、理解に苦しむもの、それが恋だ。違うか?

違わないよ、と、私は胸の中で答えを返す。
大皿を水切りかごに収めながら、その答えを確認する。
涼介に対する私の思いは、宙ぶらりんで、どっちつかずで、不適であいまいだし、手なずけるのが難しい。理解に苦しむ。
違わないよ、涼介、まったくその通りだよ。
「だけどね」
声には出さないでつぶやく。タオルで手を拭いたあと、ハンドクリームを塗りながら。
理解に苦しむような感情だけど、でも、とっても素敵だよ。
初めての恋をしたかのように、私はこの感情を持て余している。まるで、海に溺れている魚みたいに。魚は海に溺れたりしないはずなのに。溺れながら、思っている。もしかしたら、今までしてきたのは恋なんかじゃなくて、これが正真正銘の初めての、本当の恋なのかもしれない?

日曜の朝。
岡山の空は今朝も、あっけらかんと晴れ上がっていた。
名前が付いているのかどうか、知る由もないけれど、関西から中国地方に入るあたりにあるいくつかのトンネルのうち、ひとつを抜けたとき「あ、ここからが晴れの国、岡山」と、思えるものがある。なぜなら、それまでずっと曇っていた空が、そのトンネルを抜けたあと、嘘みたいにカラッと――実際にそんな音が聞こえてきそうなくらい――晴れていることが多いから。
今は上りの新幹線に乗っている。ついさっき、そのトンネルをくぐり抜けたら、空はやっぱり、泣きそうな曇り空になっていた。
なんとはなしに安心する。今の私の心模様には、青空よりも、ブルーグレイの空の方がお似合いだ。
七時台の新幹線に乗って京都へ向かいながら、ゆうべからずっと思っていることを、何度もくり返し、ピアノの練習曲を弾くようにして思いつづけている。
金曜の真夜中から土曜日の朝またぎにかけて起こったアクシデントを思い起こしながら、これが正真正銘の初めての、本当の恋なのかもしれないと。
思えば思うほど、思いは深まり、固まっていく。練習すればするほど、ピアノが上手になっていくように。
「イマスグアイタイ」と、結ばれたメール。
暗号みたいなカタカナ八文字を目にしたとき、そして、文字の連なりが意味に変わったとき、胸の中でパチパチ、火花が弾けた。その火花はそのまま、夏季特別講座の初日の教室に、涼介がひょっこり姿を現したときにも感じたものだった、と気づいた。あのときは「野原に飛んできた蜜蜂だ」と思っていたけれど、涼介は針を持った蜂で、あのとき私はすでに刺されていたのかもしれない。だから私は、涼介からの深夜のオファーに対して、迷うことなく「了解」って返信できたんだ。
涼介を出迎えるために、あわてて洋服を着替えたあと、鏡に映った自分の顔を見て「私じゃないみたいだ」と思った。
私じゃない女が映っている。
あなたは誰?
自分で自分に問いかけたその瞬間、私、恋してる? と、私は思ったのだった。
そう思った瞬間、すべての点と点がつながって、一本の線になった。そんな気がした。まっすぐな線、太くて確かな線の向かう先には、涼介がいた――

新神戸駅を通り過ぎたころ、気がついたら私は、まぶたを閉じていた。
眠るためじゃない。
現実の景色を締め出して、ふたりだけの世界に浸りたかった。涼介の存在を近くに感じたかった。
目の病気が進行してきて「夜、寝る前にまぶたを閉じるのが怖くてたまらなくなった」と言っていた涼介に、私は話しかける。涼介、大丈夫だよ。涼介の目は、見えなくなったりしない。なんの保証もないけれど、私が保証する。それに、まぶたを閉じたって、今の私には涼介が見えるよ。ちゃんとちゃんと見えるよ。
涼介はいつも私の近くにいた。いてくれた。隆文に夢中になっている私を、彼は近くから、遠くから、見つめていた。心配してくれていた。「毎晩、悶えてた」と、涼介は言っていた。「憎っくき隆文をいつ殺してやろうかと、チャンスをうかがってた」と言って、私を笑わせてくれた。
ビンゴの数字が合って、小説を交換し合うパートナーになったとき「神様って、いるんだなって思ったよ」と、涼介は言っていた。「私はね、災難だって思ったよ」って言ったら、「ハリケーン!」って言いながらそばまで近づいてきて、私の髪の毛をくしゃくしゃにした。あのときの手の感触がまだ、頭皮のどこかに残っている。

さっきからずっと、涼介の言葉をひとつ、ひとつ、拾い集めるようにして思い出しては、再現してばかりいる。どんなささいな言葉もひとつ残らず集めて、この胸の宝石箱の中にしまっておきたい。

私は涼介に読んでもらいたくて、読ませたくて、隆文とのあいだに起こった出来事を夢中になって書いた。あの「読まれたい」という気持ちも、今にして思えば、恋の予兆だったのかもしれない。
涼介の朗読の声に、胸がふるえたことも。
「なぁんだ、落ちたのは声? 恋じゃなくて、声?」と、残念そうに涼介は言った。
涼介の手書きの文字が、小学生みたいに可愛くて、大好きだと思ったことも。
「目のせいで、下手くそにしか書けなくなってる」と、涼介は恥ずかしそうに言った。「でもそのおかげで、ことりちゃんに気に入ってもらえたんだから、このくそったれな目にも感謝しなくちゃ」と。
涼介のクールなファッションも好きだった。「あの日のシャツの『K』は、ことりちゃんのKだよ」と、涼介は言った。
隆文の秘密を暴露した涼介に対する怒りが、「承」を書き終える頃には、感謝の気持ちに変わっていたことも。

「許せない」が「ありがとう」に変わるなんて、自分でも自分の気持ちが信じられなかった。名づけようのない感情だった。

でも、今の私にはわかる。

凛子先生の言った「言葉にできない三十パーセントの感情」とは、恋だったのだ。
夜中の三時過ぎに涼介を見送ったあと、ベッドに入ってもまったく眠れなかった。
別れた直後から「会いたい」と、思い始めていた。
ゆうべも数分ごとに目が覚めて、覚めるたびに「アイタイ」って思っていた。
きのうの午後はベッドの中でずっと、涼介の書いた小説の「起」の章と「承」の章を読み返していた。涼介が横恋慕していた人は、私だったのだと思うと、全身が熱くなって、悶えた。人は、苦しみによって悶えるのではなくて、喜びのあまり悶えるのだと知った。
これが恋でなくて、なんだろう。
何もかもがつながって、今、私の思いはまっすぐに涼介に向かっている。

あと五分ほどで、京都に着く。
まぶたをあけると、別れ際に交わした会話がよみがえってきた。
「ね、きょうはこれから、どうするの? おうちに帰って爆睡して目覚めたあと、転の章を書くの? あしたは?」
もしかしたら、日曜日に会えるのかな? と、淡い期待を抱いてたずねた私に、涼介は答えた。さっぱりした口調だった。
「実はきょうは東京へ行くことになってて、土日は向こうで、アメリカ留学のオリエンテーションとか、ドクターとのミーティングとか検査とか、いろいろ野暮用があって......会えたらいいのに、ごめんね」
ショートメールを送っていい? という言葉は、口にできなかった。涼介に余計なプレッシャーをかけたくなかった。だからわざと明るい声を出した。
「謝ることないよ。寂しいけど。私も『転』を書かなくちゃ」
私の書く「転」は、どろどろした失恋小説をさわやかな恋愛小説に変えてしまう、ドラマチックなものになるはずだ。
「僕も今夜、ホテルに缶詰になって書く! ちょっと作家みたい?」
「熊野先生、力作を期待してます。だったら月曜に教室で会おうね。だったらランチ、一緒に食べない?」
涼介は「はらはらっ」と笑った。秋風に誘われて、落ち葉がいっせいに舞い散ったような、寂しそうにも嬉しそうにも見える笑顔だった。
その笑顔と、切ない気持ちを抱きしめて、ショルダーバッグを肩にかけ、座席から立ち上がった。
京都からは快速電車に乗って奈良まで行って、奈良で乗り換えて、王寺町へ。
涼介が少年時代を過ごした町へ。
「いつか、ことりちゃんを連れていきたい」
と涼介が言った町を、私はひとりで訪ねてみようとしている。町を歩きながら涼介を思い、涼介の過去を想像し、涼介の愛した景色を見てみたい。一日中、この身に涼介を感じていたい。
涼介に捧げるラブソングになりそうな予感のする作品の、それを「転」の章にしたいと思っている。
ああ、でも書けるだろうか。果たしてそんな時間と気力が残されているだろうか。王寺町から岡山までもどってくるためには、乗り換えのための待ち時間を含めると、合計三時間近くがかかる。
けれども、仮に単位を落とすことになっても、私は、私自身のための「転」を歩きたい。涼介が初恋の雪丸ちゃんと歩いた道を、私も歩きたい。あなたのまぶたの裏に焼きついている町を、私も焼きつけておきたい。
スピードをゆるめ始めた新幹線の通路に立って、スマホを見た。メールは誰からも届いていなかった。涼介からもらった雪丸のストラップを握りしめて、思った。
これが恋でなくて、なんだろう。
涼介の「横恋慕」に出てきた恋の定義に対して、今の私なら、こんなコメントを書くだろう。
<恋は切なくて愛しくて、心細くて寂しくて、手なずけるのは確かに難しいけれど、宙ぶらりんじゃないし、どっちつかずじゃないし、あいまいじゃないし、理解に苦しむようなものじゃないよ>
涼介、あなたは今、東京のどこにいて、誰と、何をしているの?   
私の世界は、あなたを中心にして、回り始めている。
私にははっきりと理解できる。この気持ちは確かに不敵だ。敵に値するものなど何ひとつない。大胆で恐れを知らない。世界最強の思い。
涼介、あなたが好き。

Profile

小手鞠るい

1956年岡山県生れ。同志社大学法学部卒業。1981年「詩とメルヘン」賞、1993年「海燕」新人文学賞、2005年『欲しいのは、あなただけ』で島清恋愛文学賞、2009年絵本『ルウとリンデン 旅とおるすばん』(絵/北見葉胡)でボローニャ国際児童図書賞を受賞。主な著書に、『美しい心臓』『アップルソング』『君が笑えば』『テルアビブの犬』『星ちりばめたる旗』『炎の来歴』など多数。アメリカ、ニューヨーク州在住。

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