ラストは初めから決まっていた

小手鞠るい

ラストは初めから決まっていた

19

単位を落とす(2)


JR奈良駅から大和路快速に乗り換えて、王寺駅に着いたとき、時計は午前十時を少しだけ回っていた。
降り注ぐ陽射しが柔らかい。夏草の匂いがする。頰と髪をくすぐる風はたおやかで、それだけで私は、町から歓迎されているような気分になっている。
南出口から外へ出ると、「雪丸ロード」はすぐに見つかった。
「通路にね、雪丸の足跡が点々と付いてるんだ。まっすぐじゃないよ。犬だからね、ときどきあっちへ行ったり、こっちへ行ったり。通称『雪丸ロード』。それをたどって歩くと、自然に川沿いの道に出られるようになってて......」
ゆうべ涼介が教えてくれた道順を思い出しながら、白い足跡をたどっていく。
あのとき涼介は、まさか私がきょう、この道を歩くことになるとは、思ってもいなかっただろう。私だって、そう。あのときはただ、涼介が雪丸といっしょに少年時代を過ごした王寺町に興味がわいて「どんなところ? 岡山からだと、どうやって行けばいいの?」と、無邪気にたずねたに過ぎなかった。

「川沿いの道を十五分くらい歩いていくとね、達磨寺っていう名前のお寺があるんだ。その寺のすぐそばにある保育園へ、僕は通ってた」
だから「達磨寺は、僕の遊び場みたいなものだった」と、涼介は言っていた。
涼介の説明によると、達磨寺は、臨済宗南禅寺派という禅宗のお寺で、本堂の下には達磨大師のお墓があり、その墓を祀るために鎌倉時代に建てられたという。
雪丸の足跡に導かれて、達磨寺に着いた。
石段を上がって、まず本堂へお参りする。
つい最近、整備されたばかりなのか、本堂の中は明るく、清潔で、開放感がある。正面には聖徳太子像と達磨大師像が、その手前には、本堂の下から発掘されたお釈迦様の骨とされている舎利が安置されていた。
「聖徳太子はその昔、飢えて道に倒れていた人を助けて、埋葬してあげたっていう話が『日本書紀』に出てくるんだけどさ、その飢えた人っていうのが、実は達磨大師だったんじゃないかって言われるようになったらしい」
「涼介って、ずいぶん歴史に詳しいんだね」
「いや、王寺町で生まれ育った人なら、誰でも知ってることだよ」
そう言って、ちょっと照れていた涼介が可愛かった。
私は小さくひとり笑いをしながら、石段を降りていった。
途中でふいに立ち止まったのは、子どもたちの声が聞こえてきたから。
左手に保育園が見えて、園庭で遊ぶ幼子たちの歓声が上がっている。
何をして遊んでいるのだろう。ボールを追いかけているだけで、どうしてあんなに楽しそうなんだろう。かつて涼介もあの子たちに交じって、遊んでいたんだなと思うと、愛おしさが胸にこみ上げてくる。
人を好きになるって、こういうことなのかな、と、私はまるで弓矢に射られたかのように胸を押さえる。
こういうことって、どういうこと?
問いかけて、答える。
それはきっと、その人の「今」だけじゃなくて、「今につながるすべての時間」を丸ごとぎゅっと抱きしめたいような気持ちになること。
そんな気持ちになっている自分が好き。
涼介を好きな私が好き。
それが、人を好きになるということ。
「達磨寺へ行ったら、絶対に見なきゃいけないものがある」
四角い石の台の上に、行儀よくお座りをしている雪丸。しっぽを巻き込んだお尻。「なぁに?」って、つぶやいているようなつぶらな瞳。可愛く垂れた両耳。
境内のかたすみに見つけた石像の雪丸の背中を、私は何度も撫でた。「いい子いい子」って声をかけながら。
聖徳太子に可愛がられていた雪丸は、人の言葉がわかり、お経も読める賢い犬だったという。
「雪丸ちゃん、会いに来たよ」
呼びかけると、雪丸は私に向かって、うなずいてくれた。「よく来たね」って。
寺をあとにする前に、絵馬を買い求めて願い事を書いた。
<涼介の目が治りますように>
達磨寺の次は、王寺町きっての旧家である谷邸へ。でも谷さんのおうちは、観光名所ではない。だから、ただ外から眺めるだけでいいと思っていた。
「王寺町でいちばん古い家なんだ。確か、江戸時代の家屋がそのまま保存されていたんじゃなかったかな。台所は土間になっててね、かまどでお湯を沸かしたり、料理をしたり。その古い家の中で、よくクラシックのコンサートが開かれてた。うちの母が、谷さんご夫婦と親しくしていたから、コンサートがあると、必ず家族全員で聴きに行ってた」
この話も、涼介の子ども時代の思い出話のひとつとして、出てきた。
閑静な住宅街の一角に、谷邸はひっそりと佇んでいた。屋根や門や植木にも歴史の香りが漂っている。門から少しだけ離れたところにしばし佇んで、その香りを味わった。
気のせいかもしれないけれど、邸内から、ピアノの調べが聞こえてきた。
もしかしたら、コンサートのリハーサルをしているのだろうか。
ピアノの音色が、涼介の声を連れてきた。
教室で、司馬遼太郎の小説を朗読していた、涼介の声。
その声に「音」が重なった。

 *

わたしはあのとき、何を聞いていたのだろう。
あの音はいったい、なんの音だったのだろう。
谷邸をあとにして、大通りを渡り、目の前に王寺小学校のグラウンドが見えてきたとき、町の音も車の音も子どもたちの声も消え、世界中から音が消えて、わたしはたったひとつの「音」に包まれていた。
トキオに恋をし、トキオに裏切られ、トキオを忘れたくて、泣きながら書きつづった文章が全部、気持ちよくパリッと乾いてしまって、まるで台風一過のように晴れ上がったた心の青空に、響きわたるようなその「音」--------。

「きっと、生涯、愛しつづけます」
「愛さなくてもよい」
竜馬は、そっと体を離した。
「わしの重荷になる」
「いいえ、決して重荷になりませぬ。おりょうだけが愛しつづけます」
 
授業中、先生に頼まれてリョウが朗読した、司馬遼太郎の小説の一説。
それを聞きながら、ぞわぞわしていたわたし。
あのときにはまだ、わたしはトキオに支配されていたかもしれないのに、わたしの心はわたしの体から離れて、宙をさまよいながら、リョウの声に弄ばれていた。
トクトクトク、トクトクトク。
あの日も音が聞こえていた。心臓の音。でも、あれはわたしの心臓の音じゃなかった。
あれは、わたしに宿った恋の心臓の音だった。

今も聞いている。
リョウが卒業した王寺小学校の校舎とグラウンドを眺めながら、わたしが聞いているのは、恋の心臓の音。
この小学校に通っていたとき、リョウは左目に至近距離からソフトボールの直撃を受けて倒れた。
「幸いなことに大事には至らなくて、角膜にも損傷はなかった。だけど、東京へ引っ越して、中二になった頃から、右目の視力ががくん、がくん、と階段を踏み外すような勢いで落ちていって......」
リョウの言葉を思い出しながら、わたしは両腕で胸をかかえて、その場にうずくまってしまいそうになる。
リョウ、リョウ、リョウ、リョウ。
心臓が、彼の名前を刻みながら、鼓動を打っているのがわかる。
わたしがトキオにだまされて、トキオに翻弄されているとき、リョウはわたしのそばにいて、ひそかにわたしのことを思ってくれていた。
ねえ、リョウ、なぜもっと早く、告白してくれなかったの?
もっと早く、もっと早く、もっと早く。
だけど、もっと早くわかっていたからといって、それがなんになるの?
小学校を背にして、出口のない森に迷い込んだかのように、過去と未来と現在のあいだを、ぐるぐるぐるぐる歩き回った。
ここからどこへ行けばいいのか、わたしはどこへ行こうとしているのか、わからなくなっていた。
リョウのことが好き。これから、もっと好きになる。
大好きなリョウの目が見えなくなったら、わたしは、どうすればいいの? 
何をしてあげればいいの? あげられるの? 
わたしのこの恋が、リョウの重荷になってしまうようなことになったら、どうすればいいの?
駅へもどって、お昼を食べようと思っていたのに、いつのまにかわたしは、道に迷ってしまっていた。
歩いても歩いても、どこへもたどり着けない。
喉も渇いているし、お腹も空いている。悪いことばかり、考えてしまう。
東京で、リョウが受けている検査のことや、これから受けるかもしれない目の手術のことや、アメリカ行きのこと。
もしかしたら、わたしたちの恋には、明るい未来はないのかもしれない。
トキオとの恋よりも、もっとつらいことがたくさん、この恋の行く先には、待ち受けているのかもしれない。
わたしの気持ちを反映しているかのように、朝方はすっきりと晴れていた空が、灰色に沈んでいる。不穏な雨雲が広がり始めている。
スマホの示している通りに歩いているはずなのに、さっきから同じ場所をぐるぐる回っているだけのような気がする。
泣きそうな気持ちになる。涙が滲んでくる。
わたしはいったい何をしているのだろう。
子ども時代のリョウに会いたくて、リョウを感じたくて、この町にやってきたはずなのに、リョウからいちばん遠いところに来ているような気がする。
涙で曇ったまぶたをごしごしこすった。
と、そのとき、一枚の看板が目に飛び込んできた。
白いピケットフェンスに、横長の茶色の看板。緑色の樹木の枝に、星の形をした葉っぱと、小鳥たちの絵。その横に、白い手書きの文字で「森の庭カフェ」と書かれている。
あたりは住宅街で、通りには人気(ひとけ)がなく、庭の奥に佇んでいる家はどう見てもお店のようには見えないし、営業しているのかどうかも、わからない。本当にここが、カフェなのかどうかも。
どこからともなく、犬の声が聞こえてきた。「おいでおいで」と言ってくれているような声に導かれるようにして、わたしは森の庭カフェに足を踏み入れた。

Profile

小手鞠るい

1956年岡山県生れ。同志社大学法学部卒業。1981年「詩とメルヘン」賞、1993年「海燕」新人文学賞、2005年『欲しいのは、あなただけ』で島清恋愛文学賞、2009年絵本『ルウとリンデン 旅とおるすばん』(絵/北見葉胡)でボローニャ国際児童図書賞を受賞。主な著書に、『美しい心臓』『アップルソング』『君が笑えば』『テルアビブの犬』『星ちりばめたる旗』『炎の来歴』など多数。アメリカ、ニューヨーク州在住。

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