ラストは初めから決まっていた

小手鞠るい

ラストは初めから決まっていた

20

単位を落とす(3)


夏の草花が自由気ままに茂っている庭を通り抜けると、玄関のドアが見えてきた。
玄関のまわりにも、お花がたくさん植えられている。
ここは確かに「森の庭だ」と思った。けれども、玄関のドアは、カフェのようには見えない。やっぱりお店じゃなかったんだ。そう思って、引き返そうとしたわたしの背中に、「待って、待って」という声と、「だいじょうぶだよ、遠慮しないで」という声が同時に聞こえた。ただし、人の声じゃない。
ふり返ると、大型犬が二匹、柴犬のように見える可愛らしい犬が二匹、合計四匹の犬たちが我先にと駆け寄ってくるのが見えた。
そのうしろから、女の人がひとり。
立ち止まって、わたしは頭を下げた。
「こんにちは、あの、『森の庭カフェ』って看板を見て......」
女の人は優しい笑顔になって「まあ!」と言った。
それから、犬たちに両手を差し伸べながら「おとなしくしてね、お客様よ、さ、おうちにもどってなさい」と指で合図をした。
四匹の犬たちはもつれるような足取りで、玄関に向かって走っていく。
「ようこそ、いらっしゃい。よくここがわかったわね。でも、ごめんなさい。きょうは定休日なの」
すかさず、わたしは謝った。
「すみません。お休みとは知らずに、ずかずかと。失礼しました」
背を向けて、庭から出ていこうとしているわたしに、
「あなた、どこからいらしたの? このあたりの方じゃないでしょ?」
そう問いかけてくれた声は、ふんわりと、肩からショールをかけられたかのように柔らかかった。
見知らぬ人から示されたあたたかさに、不安で膨らんでいた胸が弾けそうになる。
「岡山から来ました。それで、あの、実は道に迷ってしまって......」
それ以上、言葉が出てこない。代わりに涙が出てくる。
迷っていたのは、道だけではなかった。さっきから、リョウに対する気持ちが、壊れた振り子のように前後左右に揺れて、進むべき道を失いそうになっていた。
恋というのは、行きも帰りもない、迷い道なのかもしれない。
「好き」という気持ちに迷いはないのに、ないはずなのに、これから先のことを思うと、何もかもが不安でならない。
女の人は二度目の「まあ!」のあと、わたしを丸ごと包み込むような口調で言った。
「そうだったの、そんなに遠くから。あ、そうだ、いいアイディアを思いついたわ。今からあなたのために、お店をあけます。さ、いらっしゃい。いっしょにお茶でも飲みましょう。あなた、お腹すいてる?」
道に迷う前には空いていたけれど、今はもう空いていない。体中に満ちてきた涙のせいで、食欲を失ってしまったのだろう。
首を横にふると、彼女は笑顔でうなずいた。
「わかった。でもね、ひと目、見ただけで、思わず食べたくなるようなケーキがあるの。三時のおやつにと思って、買ってきたところだったのよ。いっしょにいただきましょう」
彼女の案内で家のうしろに回り込んで、裏庭にあったドアから、テラスに入った。
庭を見渡せるテラスには、テーブルと椅子が配置されていて、そこがカフェの客席になっている。だから「森の庭カフェ」だったのだ。
「どこでも、お好きなところに座って」
庭に面した二人席のテーブルに着くと、クリーム色のラブラドールと茶色のゴールデンレトリーバーがわたしに挨拶をしに来てくれた。
「白い子がカンナちゃん、茶色い子がララちゃんです」
かわるがわる頭を撫でていると、どこからともなく、柴犬が二匹、姿を現した。
「この子はハナコちゃん、こっちの子は、お隣のマヤちゃん。マヤちゃんはきょうだけ、お預かりしているの。私は山田と申します。ちょっと待っててね、今、お茶とお菓子をご用意しますから」
わたしは改めて、四匹に挨拶をした。鼻と鼻をくっつけて「こんにちは」を言い合った。犬たちに囲まれ、触れ合っているだけで、自然に笑みが浮かんでくる。生き物の持っている力は偉大だと、今さらながらにそう思う。
思いながら、リョウの言葉を思い出す。
「生き物の力って、偉大だと思うんだ。だって、雪丸のおかげで、僕は愛とは何かを知ったんだから」
そう、雪丸のことが書かれた「起」の章を読んで、わたしもその愛に感染したのだ。
奥の方から、犬たちを呼ぶ声がした。
みんなが去っていくのと入れかわりに、山田さんがトレイを手にして姿を見せた。
「さあ、召し上がれ」
テーブルの上に置かれたお皿を見て、わたしは「わあっ」と声を上げた。
なんとそこには、雪丸の顔を象ったケーキがのっかっているではないか。
「ね、可愛いでしょ? 食べるのがもったいなくなる?」
「はい」
「名前はね、『ゆきま〜る』っていうの」
すすめられるままに、ひと口、食べてみた。
外側は、もちもちした求肥、その内側に、スポンジケーキと、マンゴームースと、パンナコッタが層になってくるまれている。
「ムースはね、きょうはマンゴーにしたんだけど、ほかにも、チョコや抹茶、きな粉やバニラやマロンなんかもあるのよ」
「こんな美味しいスイーツ、初めていただきました」
和菓子と洋菓子が一体化したような、独創的なケーキだと思った。
「よかったわ、喜んでいただけて。これでちょっと、元気になったかな?」
柔らかな薔薇の棘に、胸を刺されたような気がした。柔らかい棘だから、痛くはない。痛くはなかったが、染みた。人の情けが染みたのだ。
山田さんには何もかも、お見通しだったのかもしれない。わたしには何か「抱えているもの」があるのだということを。はるばる岡山から王寺町までひとりでやってきて、観光客が決して訪れることのない場所を歩き回って、顔に涙の跡をつけたまま、迷子になっていた訳を。
だけど、彼女は私に何も訊かなかった。事情を訊かないことが、訊かずに与えられる優しさこそが、真の優しさなのだと、わたしは悟った。わたしもこういう大人になりたいと思った。
どれくらいの時間、そこで過ごしただろう。特別なことは何も話さなかった。それなのに、流れた時間は、特別なものだったという気がした。ときどき犬たちがやってきて、わたしを笑顔にしてくれた。
「そろそろ失礼いたします」
「あら、もう?」
「お支払いをさせて下さい」
「いいのよ、そんな」
「いけません」
無理やり、お金を受け取ってもらおうとした。でも結局、押し返されてしまった。
山田さんは、迎え入れてくれたときと同じようにあたたかく、さわやかに、送り出してくれた。
「今度、来るときには、お友だちか彼氏といらっしゃいね!」
山田さんのまわりで、犬たちも見送ってくれた。
そのとき、わたしは心に決めた。次に来るときには絶対に、リョウといっしょだ。わたしがリョウをここへ連れてくる。リョウといっしょに来て、あのテラスで「ゆきま〜る」を食べる。
「えーっ、僕、こんなの食べられないよ、もったいなくて、可愛すぎて」
って、リョウは言うかもしれないな。そうしたら、わたしはこう言おう。
「だまされたと思って、食べてごらんよ。食べるとね、お腹のなかで、雪丸くんがにっこり笑うんだよ」
「ほんと?」
「ほんと」
ふたりの会話を創作しながら、わたしは坂道を下っていく。
道順は、山田さんが抜かりなく教えてくれたから、もう迷うことはない。

リョウも教えてくれた。
「孝霊天皇ってさ、吉備津彦命のお父さんなんだよ。ほら、桃太郎のモデルだと言われている吉備津彦命」
「ええっ、そうなんだ。知らなかった。だったら王寺町と岡山は『桃太郎縁』で結ばれてるってこと?」
「そういうこと」
これはふたりのリアルな会話。


地元の人たちからは「御陵さん」と呼ばれているという、孝霊天皇の墓所を通り過ぎると、坂を下り切ったところに、中学校のグラウンドがあった。
日曜なのに、吹奏楽のマーチングバンドが練習をしていた。
吸い寄せられるようにして近づいていって、つかのま、子どもたちの姿に見とれた。あのなかには、中学生だったリョウがいる。きっと、いる。リョウの担当楽器はなんだろう。トランペットかな。チューバかな。あ、リョウにはクラリネットが似合いそう。
そんな空想を膨らませられるほど、わたしの心は回復していた。
もう泣いたりしない。わたしはひとりで歩いていても、いつだって、リョウといっしょだ。リョウと、雪丸くんと。
中学校をあとにして、来たときにも歩いた川沿いの道へ出る。
この道の先には、王寺駅がある。
その前に、図書館へ立ち寄っていこう。
リョウが足繁く通っていたという「僕の秘密基地」。
「本の博士みたいな司書のお姉さんがいてさ、小学生のとき、僕、彼女のファンだったんだ。本に関しては、知らないことがないってほど、博学だった。コンピュータで検索する必要なんてない。彼女に訊けば、なんでもわかったんだ」
「へえ、そんな人、いたの」
「うん、彼女の推薦で、いろんな本を読んだよ」
「たとえば、どんな?」
「フランダースの犬」
「ほんと!? わたしも大好きだった。何度、読んでも、最後のところに来ると、ワンワン泣くんだよね。悲しくなるってわかるのに、読まずにいられない。読んでまた泣く」
「そう、ワンワンワンワン、犬みたいに」
「えーっ、リョウも泣いたんだ?」
「泣いたさ、そりゃあそうだろ」
幼い頃、同じ本を読んで泣いた。たったそれだけのことで、それだけの会話で、人は幸せになれるものなのだと気づかされた――あれは、午前二時過ぎの魔法だった。

 *

そこまで書いて、パソコンの右上の時刻表示を見ると、午前二時だった。
こういうのも、以心伝心っていうのかな。それとも相思相愛?
椅子に背を当てたまま、両腕を大きく伸ばして、肩と首筋と腕のストレッチをした。
夕方、六時過ぎの新幹線に乗って岡山へ向かい、家に着いたのは、七時半くらいだったか。シャワーを浴びたあと、まっすぐに自分の部屋へ直行し、机の前に張りついた。新幹線の中でしっかりお弁当を食べて、腹ごしらえもしてあった。
八時から書き始めたとすると、約六時間。
自分でも驚くほどの集中力だと思った。
朝、家を出て王寺町へ行き、帰ってくるまでの短い旅。
涼介の生まれ育った王寺町を歩いた時間、そこで考えたこと、感じたこと、味わったもの、出会った人、包まれた空気、吹かれた風について、ひとつひとつ思い出しながら、文字に変えていった。
楽しい作業だった。正確に言うと、「楽しい」と自覚することもできないくらい、書くという行為に没頭していた。
かつて、これほどまでに、何かひとつのことに取り憑かれて、すべてを忘れてそのことに没頭したことがあっただろうか。
凛子先生は言っていた。

――書くという行為が人に及ぼす影響は、きみたちが考えている以上に大きいものなの。人は、書くことによって、何かについて考えたり、あるいは、自分がどう考えているのか、どう感じているのかを、知ることができるの。つまり、きみたちは書くことによって、自分を知ることができる。自分を知る、ということは、世界を知る、ということなの。書くということには、それだけの力があるの。

六時間をかけて書き上げた「転」の章を携えて、私は翌朝、教室へ行った。
文学部講義棟Bの別館204号室。
きょうは「転」の章を交換し合い添削し合い、「結」の章のまとめ方を教わって家にもどって、作品を最後まで書き上げる。書き上げた作品はメールで、凛子先生に送る。
凛子先生は、完成された作品を読んで、成績評価をし、講評を書く。
それで、この夏季特別講座は終わりだ。
一ヶ月後、全員の小説が掲載されている文集ができあがる。そういう流れになっている。だから、私が涼介の「結」の章を読めるのは、文集ができあがったあと、ということになる。
でも、涼介に頼めば、彼はきっと事前に私に作品を読ませてくれるだろう。
私だって、涼介には、文集になる前に、読んでもらおうと思っている。
これって、恋人同士の特権だ。
その前に、涼介は私の「転」を読んで、私がきのう、王寺町を訪ねていたと知ったら、どんな顔をするだろう。驚く顔が見たい。ああ、早く見たい。
逸る気持ちを持て余しながら、わたしは、細長いテーブルの上に整然と並べて置かれている、クラスメイトたちの作品を順番に取っていく。最終日のきょうは、十九人 全員が「起・承・転」までの部分を全ページ、人数分、印字してくることになっている。
涼介の作品を手にした瞬間、たっぷりとした重みを感じた。
愛おしい重みだと思った。
席にもどって、ぶあつい作品の束の一番上に、涼介の作品を置いた。
タイトルは『たとえもう二度ときみに会えなくても』―-。
凛子先生が教壇に立った。
ノースリーブの黒のワンピースに、黒のハイヒールのサンダル。胸に留めてあるピンクの薔薇のブローチが、お葬式ファッションをお祝いのパーティファッションに仕立てている。心憎い演出だ。
私はきょろきょろあたりを見回したあと、教室の前とうしろにある、両方の入り口に視線を伸ばした。お手洗いにでも行っているのか、涼介の姿はまだ教室内にはない。きっと、あの入り口のどちらかから、「ひょいっ」と入ってくるに違いない。
講義の初日に、遅れて入ってきたように。
あの日、私の世界に侵入してきた「とびきり素敵な侵略者」の到来を、私の待ち人を、私は待った。胸をときめかせながら、胸をふくらませながら。

Profile

小手鞠るい

1956年岡山県生れ。同志社大学法学部卒業。1981年「詩とメルヘン」賞、1993年「海燕」新人文学賞、2005年『欲しいのは、あなただけ』で島清恋愛文学賞、2009年絵本『ルウとリンデン 旅とおるすばん』(絵/北見葉胡)でボローニャ国際児童図書賞を受賞。主な著書に、『美しい心臓』『アップルソング』『君が笑えば』『テルアビブの犬』『星ちりばめたる旗』『炎の来歴』など多数。アメリカ、ニューヨーク州在住。

Pick Up Book

  • かがみの孤城
  • i
  • 私のスポットライト
  • ビオレタ
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