ラストは初めから決まっていた

小手鞠るい

ラストは初めから決まっていた

21

単位を落とす(4)

期待でふくらんでいた胸がぺしゃんこになるまで、そんなに時間はかからなかった。

「では、パートナーの『転』を読みながら、添削作業に入って下さい。これが最後の添削です。今までずっと、寄り添ってきた作品です。思い残すことのないように、感想なり意見なりをどんどん、そして、『結』の章に対するリクエストや提案や期待も、書き込んであげて下さい。作品を書いたのはあなたじゃないけど、あなたは、その作品を書いた人の伴走者であり、編集者でもあり、第一読者でもあるのだから」

凛子先生がそう言って、クラスメイトたちがそれぞれのパートナーの原稿を読み始めて、教室内にいつもの静かな熱気が漂い始めても、涼介はどこからも現れなかった。

このとき、私の胸の風船は、まだ完全にしぼんではいなかった。

だって、涼介の作品は私の目の前に、こうして存在しているのだから。つまり、涼介は『転』の章を書いて、持ってきたのだから。

転なんだよ、転。

点でもなく、天でもなく、店でもなく、転なんだ。当然のことだが、展でも添でも典でもない......

冒頭を読んだだけで、頰がゆるんで、笑みが浮かび上がってくる。

涼介の小説の独特な文体――剽軽で、歯切れがいい――に、金曜の夜に耳にした涼介の口調――恥ずかしがり屋で、優しい――が重なる。それだけで、愛おしさが込み上げてくる。情けないほどに、「こんなに好きになってしまって、大丈夫なのかな?」と、自分で自分に疑問を感じるほどに。

恋っていうのは、不条理なものなのだ。

傷つくとわかっていて、進むのをやめられない。

だから、頼む。最後まで読んでくれ。

きみが僕の駄文を読んでくれているあいだだけ、僕はかろうじてここで、こうして生きていられる。......

涼介の文章がぐいぐい、私の体の中に入ってくる。流れ込んでくる、雪崩れ込んでくる、という感じ。酔いが回る、というのは、こういう状態を指して言うのだろうか。

逸る指先でページをめくって、二ページ目の初めの方に「イマスグアイタイ」という一行が出てきたときには、胸の中だけじゃなくて、顔全体が火照った。耳たぶが熱くなっている。

もしかしたら涼介は、金曜の真夜中――土曜の早朝――に、私たちのあいだに起こった出来事、私たちが起こした出来事を、そのまま書いたのだろうか? 

だとしたらここには、あのことも、あのことも、あのことも、書いてあるの?

あなたが私にしたことも、私があなたにしたことも。 

うれしいのか、悲しいのか、幸せなのか、不幸せなのか、わからなくなってくる。

私が涼介を思っているほどに、涼介は私を思ってくれているのだろうか。

この作品を読むと、その答えがわかってしまいそうで、怖い。でも私は、どうしてもその答えを知りたい。知りたくない答えを、知りたい。

まさにまさに、恋というのは、不条理なものなのだと私も思う。

ふっと、別の疑問が芽生える。

涼介はいったいいつ、この章を書き上げたのだろう。原稿は、これまでの二章よりも、ずいぶん分厚い。

土曜日と日曜日は、東京でいろんな用事があると言っていた。メールを読んだり送ったりする時間もないくらい、忙しそうだった。

ということは、日曜の夜、東京から岡山へもどってきたあとで、書いたの? 

この原稿を書くのに必死だったから、きょう確実に会えるとわかっているから、だから私には何も連絡をくれなかった? 

それにしても、授業が始まって、もう二十分も過ぎているのに、涼介、あなたはどこで何をしているの? 

答えは返ってこない。

教室内の「涼介の不在」が大きくなる。まるで夕方に伸びる人影みたいに。

「堂島さん、ちょっといい?」

答えは、凛子先生から返ってきた。小さな声で。

見ると、私のすぐそばに立っている凛子先生は、なぜか、私の原稿を手にしている。

胸騒ぎがした。ざわざわっとした。

こういうときの「ざわざわ」は、恐ろしいほど的中する。頭ではなくて体が先に感じている悪い予感は、必ず当たるのだ。これは過去の経験上、言えること。

「はい」

涼介に何かあったんだな、と思いながら、先生の顔を見た。

もしかしたら、遅刻?

事前に理由説明のなされている遅刻は、許されることになっている。

東京から今朝、もどってくるってこと? でも、だったらなぜ原稿がここに?

「熊野くんはきょう、欠席なの。その原稿はゆうべ、私の方へ、メールで送られてきたものを私が代わりに印字して、用意しました」

胸がぺちゃんこになったのは、このときだった。

欠席か。

けど、どうして? 私には何も知らせてくれなかったの? 水臭いじゃない? そんなのないよ、寂しいよ。

「本来は、きょうの授業には出られるはずだったんだけど、どうしても外せない急用ができたみたいです。詳しい事情は口外できませんが、緊急だったので、許可しました。だから、堂島さんの『転』の章は、私が読みます。いいわね?」

先生は私に話しかけていたけれど、話の内容は、ほかの学生に聞かれてもいい、というスタンスを取っていた。それは当然だろう。涼介の欠席は公的なことだし、涼介のプライベートな事情を私に内緒で教える義務など、先生にはない。

「電話でも少し話したんだけど、熊野くん、ずいぶん残念そうでした。猛烈にがんばって『転』の章を書き上げたあと、力尽きたって、言ってました。堂島さんへのお詫びの手紙も預かっています。はい、これ」

そう言って、凛子先生は私に一通の封筒をすっと差し出した。

反射的に受け取って、「え?」と思った。

チェリーピンクの封筒には、可愛らしいすみれの花の透かし模様が入っている。

これって、涼介からの手紙? 涼介はどうやってこれを、凛子先生に送ったの? まさか、ゆうべ、自分で先生に届けた? 

凛子先生は、くすくす笑った。

きっと、私の胸の内の思いが、手に取るようにわかったのだろう。

「不思議でしょ? 熊野くんって、ちょっとそういうところがあるわよね。謎めいたところが。種明かしをすると、その手紙はね、なんと、ファックスで届いたの。『絶対、読まないで下さい』って言われたから、神に誓って、読んでないわよ。私への厳重なリクエストとして『素敵な、きれいな封筒に入れてから、渡して下さい』ってことでした。だから、言われた通りにしたのよ。ラブレターなのかしら?」

教室内にも、くすくす笑いの輪が広がった。

それは好意的な笑いだった。

恥ずかしかったけれど、決して悪い気分ではなかった。涼介のことを悪く思っている学生は、ひとりもいないとわかっていたから。彼はみんなから好かれている。性別を問わず、誰からも愛される人気者。そういう人柄なのだ。

「さ、お勉強にもどりましょうか。熊野くんの告白の成功を祈りつつ」

凛子先生のジョークに、今度は全員が笑った。

私の顔は半分、泣き顔になっていたんじゃないかと思う。

この教室の中で、涼介の目のことを知っているのは、凛子先生のほかには私だけ、なのだから。

一時間目が終わると同時に、教室の外へ飛び出した。

実際に、飛び出したわけではなかったけれど、気持ちとしては脱兎のごとく。

廊下の突き当たりにあるドアをあけて、ベランダに出た。

二階のベランダは広くて、屋外用の丸テーブルと椅子が点々と置かれている。お昼休みにはそこで、お弁当を食べる学生もいる。

今は誰もいない。時間は、九時四十一分。休み時間は、あと九分だ。

ピンク色の封筒から、手紙を取り出した。

A4の用紙が一枚。上の方に英文表記で入っている、病院の名前と住所。紙いっぱいに、涼介の手書きの文字が並んでいた。並んでいるというよりは、踊っているという方が近い。原稿に書き込まれているのと同じ、小学生みたいな文字。文字が不揃いになっているのは、視力のせい。ところどころ、漢字が解体しているのも、ひらがなが多いのも。今の私は、そのことを知っているだけに、微笑ましいとは思えない。胸が痛い。

ことりちゃん、ごめん。検査のけっかが出て、いっこくも早くアメリカへ行ったほうがベターである、とのことで、急きょ、あしたの飛行機で空を飛ぶことになった。ほんとうは、行く前にもういちど、会いたかった。けど、会えなくなった。ぼくのきもちは、原稿に託した。ことりちゃんの「転」と「結」をどうしても読みたいので、ついでのときにメールで送ってほしい。ただ、いつ読めるか、わからないし、読めないかもしれないけど、ごめんね。くわしいことは、リンコ先生からきいてくれますか? 行ってきます。おまもりは、金曜にもらったことば、すべて。飛行機は、5時40分成田発。その時間に、空をみあげてくれますか? 方角は東だよ。ぼくも、飛行機のなかから、岡山にむかって、ちぎれんばかりに手をふるぞ。涼

読み終えたとき、思わず「馬鹿」と、思った。

涼介の馬鹿、馬鹿馬鹿馬鹿、こんな手紙をくれるなんて、最低。会えないなんて、最低。会えないまま行ってしまうなんて、最低。こんな最低なことをする涼介の馬鹿。

いくら「馬鹿」と思っても、足りない。

きょうもあっけらかんと晴れ上がった空に向かって、私は無言で叫んだ。

馬鹿馬鹿馬鹿......

「馬鹿」と思うたびに、その言葉は「好き」に変換される。

好き好き好き......

泣きたいくらい、好き。

だけど今はまだ、涙は出てこない。

今はまだ、泣くには早すぎる。

好き、を追いかけるようにして、決意がやってくる。

そうだ、今は泣いている場合じゃない。泣くのは「あと」だ。今ならまだ間に合う。今すぐ行動を起こせば。

午後五時四十分成田発。

私は空を見上げたりしない。

成田空港で、涼介を見上げる。見上げて、見送る。「行ってらっしゃい」を贈る。「がんばってね、大丈夫だよ」を贈る。「私が守るからね」を贈る。

泣くのはその「あと」でいい。

手紙を封筒にしまって、デニムのポケットからスマートフォンを取り出す。画面に新幹線の上りの時刻表を出す。

岡山駅まではタクシーで行って、十時二十分ののぞみに乗る。一時半過ぎに品川駅で成田エクスプレスに乗り換える。三時までには、空港に着けるはずだ。

涼介は航空会社の名前を書いていないけど、午後五時四十分発ニューヨーク行き、がわかっていれば、なんとかなる。三時からチェックインのキオスク周辺で私が待っていれば、そこに、涼介はきっとやってくる。

私が涼介を捕まえる。

あの日、涼介が私を捕まえてくれたように、今度は私が。

凛子先生は、この「早退」を許してくれるだろうか。

許してもらえなくてもいい。落第してもいい。単位なんて、いくら落としてもいい。きょう、涼介に会わなかったら、私は私の人生を落とすことになる。

Profile

小手鞠るい

1956年岡山県生れ。同志社大学法学部卒業。1981年「詩とメルヘン」賞、1993年「海燕」新人文学賞、2005年『欲しいのは、あなただけ』で島清恋愛文学賞、2009年絵本『ルウとリンデン 旅とおるすばん』(絵/北見葉胡)でボローニャ国際児童図書賞を受賞。主な著書に、『美しい心臓』『アップルソング』『君が笑えば』『テルアビブの犬』『星ちりばめたる旗』『炎の来歴』など多数。アメリカ、ニューヨーク州在住。

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