想いであずかり処 にじや質店

想いであずかり処 にじや質店

2

てのひらの鍵

<ある条件>を満たせば、願いが一つだけ叶うとしたら?

それが、あなたにとって、想いでの詰まった大切なものを失うことだとしたら?

あなたは、どうしますか?

満月の夜に開店する不思議な質屋「にじや質店」を訪れる、いろんなお客様の優しく温かな物語。

いよいよ冒頭お試し読みスタートです。


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 ほんとうにここであっているのだろうか。

 間宮いろはは自信なさげに右手の小さな名刺に視線を落とす。はじめての場所で、しかも店名はそこに書かれたものと今夜だけは違っているという奇妙な店の名刺を見て、不安にならないというほうがおかしかった。

 今夜だけ。

 いろはは夜空を祈るように仰ぐ。

まんまるく光るお月さま。雲に隠れて少しかすんでいるけれど間違いない、今夜は満月だ。

 ちゃんと自分でも調べてきた。だから自信を持っていけばいい。そうは思っても、目指す店はあかりの灯っている気配はなく、ひっそりと夜に沈んでいるように見えた。まさか閉まっているのか、それとも......。

 かかっていた薄雲が消え、満月がくっきりと姿を現した。と、それまで暗かった周囲がほんのりと明るくなり、建物全体のシルエットが見えてくる。二階建てのビルほどの大きさの古めかしい白漆喰の建物は、一見したところ何の店か判らない。そこだけタイムスリップしたような重厚な雰囲気にいろはは一瞬ひるんだ。

 月の光がだんだん増してくる。すると、店先にかかった紺地ののれんの白い文字がふいに浮かびあがり、目に飛び込んできた。

 にじや。

 流れるような筆体のひらがな三文字。どういう意味なのか判らないが、この店の名前に違いない。いろははほっとした。やさしいひらがな三文字の佇まいに心のどこかが緩むように感じながら、ひき寄せられるように足を踏みだした。

 近くまでいくと、堅牢なつくりの両開きの墨色の扉が開け放された形で壁に沿ってあった。こちらは現在は使われていない様子で、実際の入り口はそこより少し奥まったところにある格子戸のほうらしかった。のれんをくぐり、格子の四角いガラスの部分から中を覗こうとするがうまく見えない。

 いろはは軽く手をかけてからひと呼吸置いた。

約束どおりあの人はいるだろうか。たった一度、それもほんの数分間交わした会話の大半をいろはは黙って聞いていただけだった。一方的にあの人がしゃべっているのを聞かされていただけとも云える。けれども押しつけがましい気はしなかった。むしろ、誠実そうな人に見えた。だからその言葉を信じてここまでやってきたのだ。

 あの時の自分の感覚が正しかったのかどうか、ほんとうのところ自信はない。ともかく店はこうして存在し、いろはを迎えいれようとしてくれている。たぶんだけど。

 とりあえず中に入って確かめるしかない。そう決心すると、いろはは思いきって格子戸を引いた。何となく重い手ごたえを想像していたけれど、案外するすると戸は開いた。時代物らしい建物の外観から自然とそんな風に連想してしまっていたようだ。それにしてもこの建物はいったい何なのだろう。

「あの......すみません」

 いろはは小さく声をかけた。店の中には誰もいない。照明も足もとを照らす役目のステンドグラスのランプがいくつか床に置いてあるだけで、天井の太い梁からぶらさがった本来のライトは点いていなかった。消えた照明の下、テーブルや椅子、奥にカウンターらしきものがあるのがぼんやりと見える。こちらがふだん営業しているという名刺にあるほうのカフェの空間なのだろうといろはは見当をつけた。

「こんばんは」

 今度はもう少し大きな声を出した。高い天井に声が響く。のれんもかかっていて、店の入り口も開いていたのだから、さすがに誰もいないということはないだろう。

「どうぞ、そのまま奥へ」

 すると遠くから男の人の声が聞こえてきた。

 あの人だろうか。

 いろはは少し考えたが、どちらとも判別できなかった。似ているような気もするし、似ていないような気もする。首をかしげながら声のするほうへ目を向けると、カウンターの横を通り過ぎた向こう側からわずかに光が漏れているのを見つけた。どうやら奥にもうひとつ部屋があるらしかった。思ったよりも奥ゆきがありそうだと思うものの、極端に照明を落とした店内では建物全体の見取り図を思い描くのは困難だった。

 ステンドグラスのさまざまな色の光がこぼれ落ちる幻想的な床の上を慎重に歩いて進む。奥の小部屋までたいした距離ではない筈なのに、少しずつ別の世界に足を踏みいれていくような不思議な錯覚を起こした。ここにきたもともとの目的をつい忘れそうになってしまう。

 声の主は小部屋の中央にあるテーブルの前に立っていた。若いけれどいろはよりは年上だった。二十代半ばくらいの落ち着いた雰囲気の青年は、けれど、いろはが会いにきた人物ではなかった。

「いい満月ですね」

 いらっしゃいませ、とか、ようこそ、とか、お店の常套句のような台詞は口にせず、青年はさらりと云った。

「えっ、そそ、そうですね」

 必要以上に焦ったような反応をしてしまい、いろはは頬を赤らめた。その様子を青年は慣れない場所での緊張と受けとったのだろう、わずかにほほえんで椅子をすすめ、自らも向かいに腰かけた。

「......ありがとうございます」

 恥ずかしそうに小声で答え、素直に腰かける。一度座って落ち着く必要があると思ったからだ。

 いろはの頭の中は軽いパニックを起こしていた。特にさっきの「いい満月ですね」というあの言葉を耳にした途端、それはなぜか「月がきれいですね」という言葉に変換され、脳内を駆けめぐった。ついこの間大学のクラスメイトの話題にのぼったその言葉は、かの夏目漱石が英語教師をしていた頃、愛の告白の一文を和訳した時に使われたロマンチックな表現として有名な逸話だった。そんなことを初対面の自分に云う訳がないと判っているのに、思わず動揺してしまった自分が恥ずかしかった。

 ここは満月の夜にのみ開く店なのだから、お客さんを迎える時にいつも口にする言葉だとしても全然おかしくないじゃないの。

 いろはは自分に云い聞かせながら、そんなことよりもこれから自分はどうするべきか冷静に考えなければ、と思った。ここにあの人がいないということはやっぱり騙されたということなんだろう。それとも目の前のこの人に訊いてみるべきか。もしそんな人物は知らないと答えられたら、さらに恥ずかしい思いをすることになりかねない。座ったはいいが、なかなか次の行動を決められないいろはだった。

「あの......」

 それでも一応確かめようと思いきって口を開く。

「はい?」

「ここのお店はひとりでやってるんですか?」

「そうです。ぼく、ひとりです」

 簡潔な答えが返ってきて、いろはは気づかれないように肩を落とした。遠まわしな訊きかたではあるけれど、これではっきりした。貸したものは返らない。だったらもう、この場所にいろはがいる意味はなくなったということだ。

 落胆を隠しつつお尻を浮かせようとしたいろはに店主が問う。

「では、願いをどうぞ」

「え」

「あなたが叶えたい願いごとですよ」

 当然のように、どちらかと云えばたんたんとした口調で店主は続けた。客に間違えられているらしいことはいろはにも判ったが、「願いごと」と云われて思いだした。そういえばあの人もそんなことを云っていたっけ。お礼に願いごとを叶えます、と。その時はどういう意味か判らずてきとうに聞き流してしまっていたけれど、もしかしてこの店がそうなのだろうか。でも。

「願いごとって......」

 つい口に出していた。

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次回更新は、3月29日予定です!

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Profile

片島麦子

1972年広島県生まれ、広島県廿日市市在住。第28回大阪女性文芸賞佳作、第4回パピルス新人賞特別賞等を経て、デビュー作となる「中指の魔法」にてワルプルギス賞を受賞。著作に『銀杏アパート ななめイチョウと小さな奇跡』など。

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