パドルの子

虻川枕

パドルの子

2

試し読み第一回

<内容紹介>

校舎屋上で水野が見つけたのは、巨大な"水たまり"と、そこで泳ぐ美少女・水原。

彼女曰く、水たまりに潜りながら強く願うこと――「パドル」により、世界を一つだけ変えられると言う。
パドルの秘密、水原との距離、水原が「パドル」をする理由とは。

切なさに満ちた青春小説!

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pud・dle

1. (きたない または濁った)水たまり、(液体の)たまり

2. (粘土と砂を水でこねた)こね土、《口》ごたごた、めちゃくちゃ

3. こね土にする、〈土壌を〉固める

4. ...にこね土を塗る、よごす、〈水を〉濁す、泥だらけにする、

   ...に水たまりをつくる、ごちゃまぜにする、混乱させる

pud・dled

   《俗》頭の混乱した、おかしい

〈研究社 リーダーズ英和辞典 第2版〉より

零.

 春は化け物。

 二年生になった初日の朝、水無中学の生徒たちはこぞってこの化け物にやられていたように思う。新たにクラスメイトとなった全員とアドレスを交換しなくては、そう携帯電話片手に息巻く彼も。仲良しと離ればなれになったことで廊下で泣きじゃくって教師に抗議している彼女も。

 かく言うぼくだってそのうちの一人である。春休み明けの寝不足に長年続く花粉症。ぼくの免疫力は完全に低下していた。それに加えて、何と言っても。

 昇降口の掲示板に貼り出された、あの躊躇のない寄せ書き、である。

〈ありがとう。君のことは、忘れない。

九十年間、私たちを見守ってくれた、水無月中学校旧校舎に捧げる〉

 恥ずかしくなるようなそのキャッチコピーもさることながら、無数に寄せられた生たちのメッセージも。目を背けたくてもそれらはあまりに巨大で、否が応でも視界に入ってくるのだ。

 なんだってこんな青臭い言葉で。

 そもそもここ、水無月中学は創立九十周年を迎える今年、夏休みの間に旧校舎を取壊しすぐ近くに建設された新校舎への移転を決めている。各教室にはエアコン完備、トイレ洋式しかもウォシュレット付き、校庭は砂じゃなく人工芝。普通に考えれば誰もが喜ぶ仕様に思えた。が、へそ曲がりとはどんな場所にもいるものらしい。

「旧校舎、かわいそう。なんか、忘れられちゃうみたいで」

 どこかの誰かが上げたその謎の悲しみの声を皮切りに、なるほどたしかに、言われみればそうだな、せめて俺らに何かできることはないか、そうだメッセージを送ろうなどの便乗の声が膨らんでこの寄せ書きプロジェクトは発足したらしい。去年の夏に始まったこの寄せ書きは卒業生らを巻き込んで、すでに全校生徒の数を超えた書き込みが集まっている、のだそうだ。

 ただぼくはこれが飾られたときから、ずっと、疑問に思っていたことがある。

 なんだって、こんな青臭い言葉で、さも全生徒の気持ちを代弁した気になっているのだろう。ぼくみたいに何の感謝もなければ哀れみすらも感じていない人間は、どんなことを書けばいいというのだ、と。

 当然、こんなこと、誰にも言えない。

 というかぼくは、誰とも仲良くない。

 想いの丈を言い合える相手などそもそもいないのである。

 困ったことにぼくは、置いてけぼりで隙だらけな気分に陥っていた。

 そこをつけこまれたのである。春に。

 

「嫌になっちゃうよね、春って」

 色めく教室の片隅にてその声は一際小さく、だからこそぼくだけに向けられたもののように感じた。振り返るとそこは三輪くんの席だった。彼とは出席番号が一つ違いで、席が前後ろだったのだ。

「君も、花粉症?」

 ぼくはくしゃみを飛ばし言った。春が嫌なのだとしたら、まず疑うべきは花粉だと思った。「いや、違うんだ」三輪くんは声を一段と潜ひそめる。「みっともなく思えてくるんだよ席を立ってウロウロしてるのも、こうして席にじっとしているのも。どのスタンスを取ってもなんだか恥ずかしくて、どこにも逃げ場がないんだもの」

 そう言うと三輪くんは、元からだらしなく垂れ下がった目尻をさらにだらっと垂れさせて、そのくせなんとも心地よい、微笑みを見せていた。

 さて。ここで、化け物の登場だ。

 化け物は、ぼくの身体を操った。ぼくの口を勝手に動かし、ぼくの喉を勝手に揺らし、ぼくの声を勝手に使って。

「父さんがね、言ってたんだけど。春の、正しい解釈の仕方、について」

 何の許可もなく、勝手に、父の言葉を引用しはじめたではないか。

〈熊だって冬眠から目覚めたら、また新しい餌を調達しに出るだろう?

 人間もそれと同じなんだ。春に培った人間関係を夏で熟させて、秋に収穫する。同性だったら親友になったり、異性だったら恋人になったりする。そうして冬になるとだんだんと枯れていって、また春を迎える。要は、各々喜んでいる。新しい人間関係、いや新しい餌の訪れと言ってもいい。とにかくそれを、喜んでいるんだ。〉

 ここまで言うと、パッと身体の拘束が解かれていた。

 すると目の前の三輪くんは難しそうな顔で黙ったあと、なるほど、と独りでに納得した表情を浮かべていた。

「俺はまだ、冬眠中だったんだ。だったら最初っから、こうすればよかったんだ」

 そう言って三輪くんは机に突っ伏した。そのまま、騒がしい俗世を遮断するようにして、眠りの中へと落ちていった。

 ぼくは、かくして、混乱への一歩目を踏み出すのだ。

 三輪くんとだったら、仲良くなれるかもしれない。だなんて。

 父の言葉通り、ぼくらの関係はすぐに熟した。クラス替えの日から一ヶ月が経ち初夏にもなると、自然と昼休みや帰り道をともにしたりする間柄になっていた。一緒にいすぎたせいか、あいつらデキてんじゃないかという噂が流れ聞こえてきたこともあったが、そんなことは気にも留まらなかった。ぼくらはとにかく気が合った。あの昇降口の寄せ書きの件も「あれはやりすぎだよねえ」と同意してくれたし、担任教師の愚痴なんかも話したりして大いに盛り上がっていた。

 その一方で、三輪くんの生まれや育ちはぼくのそれとはまったく異なっていたのも事実だ。三輪くんの人生は一言で言って、波瀾万丈だった。

 まず三輪くんは正真正銘の転勤族だった。団地、海沿いの町、都会のビルの隙間のマンション、山奥の村。その住処は実に多種多様で、十以上の町と学校を経験しているというからその見聞も自ずと広かった。生まれてこの方この町を出たことのないぼくはここぞとばかりにそれらの体験談を聞きたがった。都会の学校の屋上にはプールがあるらしいとか、団地の一階には謎の床屋があるらしいとか。大抵は三輪くんが面白おかしく教えてくれたわけだが、海の感触を訊ねたときだけはバツの悪そうな表情を浮かべ、こう答えていたのが逆に印象的でもあった。

「海に入るの親が禁止してたんだよ、危険だからって。スイミングスクールに通わされててそこで泳ぎが上達してからって約束だったんだけど、その先生が変わり者でさあ。まず最初にペーパーテストを受けさせて、そこで合格点を取らなきゃ泳がせてくれないんだ。バサロキックとは何のことかとか、バタフライは平泳ぎから派生しただなんて豆知識、幼稚園児が知ってるわけないよねえ」

 大げさに顔をしかめ、あの先生さえちゃんとしていればな、と恨み言を連ねる三輪くんからは痛いほどに切実さが伝わってきた。海の町に住んでおいてその海に入れないというのは、遊園地に行ったらジェットコースターが故障中、に匹敵する辛さだったことだろう。

 お互いの家族のことももちろん話した。中でも三輪くんはぼくの父と母の馴れ初め話を大層気に入っていて、何度となくぼくにその話をせがんできては、ぼくを赤面させいた。親の馴れ初めほどこっ恥ずかしくなるものはない。

 一方で三輪くんの家族についてはというと、そこまで深く聞き出そうとは思わなかった。三輪くんは早くにお母さんを亡くしていて今は父子家庭であるらしいから、こちらからはあまり首を突っ込むべきではないと配慮したのだ。

 それゆえ、その日は雨が降っていたんだ、と三輪くんが自らお母さんのことについて話し始めてくれたときも、ぼくはなるべく邪魔をせず、ただ心の耳を傾けることに専念していた。

「スイミングスクールの帰り道、母さんに連れられて横断歩道を渡っていたら突然、車が飛び込んできた。俺はその時、水たまりを踏みながらゆっくり歩いていたもんだからその車の前にはいなかったんだけど、母さんは見事に撥ねられてて、クルクルって、傘の上の駒みたいになってて。車はそのまま停まりもせずに走ってって、気づいたらもう、病院だった」

 三輪くんは、表情を変えずに、淡々とそう言っていた。

 事故現場となったその道路は人通りも少ない場所だったようで、目撃者は三輪くんただ一人だったらしい。しかしその時の三輪くんには即座に救急車を呼びつけるほどの知識も車のナンバーを覚える機転も備わってはおらず、ただ泣きじゃくるのが関の山だったという。結果として三輪くんのお母さんはその日のうちに亡くなり、犯人は過失致死

とひき逃げの容疑で捜索されているのだそうだが、未だ逮捕には至っていないらしい。

 話している間、三輪くんはなるべく感情を出さないように努めていたが、その奥にる悔しさはどうしたって透けて見えた。けれど、ぼくに気を遣わせないために敢あえて平

静を装っていたのだ。そういう大人なところが、三輪くんらしいところでもあった。

 とにかく、こんなに深い話から、やっぱり本当に大したことのない話まで。三輪くんとはもろもろの言葉を交わしたものだった。

 そう。だからこそ。

 聞けなかった、聞けなくなったことも、ある。

 例えば三輪くんは、ぼくのこと、どう思っていたんだろう、とか。

 ぼくに気を遣って、時間を合わせてくれていたのではないか、とか。

 本当は他のみんなとの時間も欲しかったんじゃないか、とか、とか。

 そういった言葉たちを、喉元まで出しかけては再び吞み込んで、ぼくは別の、いろいろな話をすることにしていた。だってそんなことを聞いてしまってはどういう風に思われたものか分かったものじゃない。ぼくらは恋人などではないから。

 その言葉たちは、今までに吞み込んだどんな言葉よりも、苦い味がした。

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★次回更新は6月4日になります。お楽しみに!

Profile

虻川枕

1990年、宮城県生まれ。日本大学芸術学部映画学科脚本コース卒業。卒業後はゲーム会社に入社し、プランナー/シナリオライターとして務めたのちに退社。第六回ポプラ社小説新人賞を受賞し、本作でデビュー。
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