階段にパレット

東直子

階段にパレット

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第一回(1)


 建っているのが仕事なのです、と無言で伝えているような民家が、身体からあふれ出した思い出をあたためるように、軒先にいくつもの鉢植えを並べている。鉢植えの中には、生きているのか生きていないのかさえもどうでもよくなっているような多肉植物が、たまには洒落てみることもあるのですよ、とばかりにまれにぽっと鮮やかな色の花を咲かせている。そのそばで、カラカラに乾いた土を抱えたまま途方にくれているような汚れて罅の入った鉢もある。
 路地、と呼ばれる道の存在証明のためにあるような、そんな鉢植えを視界に捉えながら歩くのが、実弥子は好きだった。鉢植えたちは、土とつながっていない。つながっていないことを、べつだん気にしていない。その事実が、なぜだか自分に深い安堵をもたらしてくれる気がするのだった。
 実弥子は路地の端に寄り、ふと立ち止まった。しばらくそのまま立ちつくし、軽く目を閉じる。路地の鉢植えの一部になった気分を味わう。
「ミヤ、ミイヤ」
 自分を呼ぶ声が聞こえた気がして、実弥子ははっと目を開いた。首をゆっくりと左右に振って、あたりを見回す。
 誰もいない。
 路地はしんと静まり返っていてあたりには誰もいなかった。真昼なのに、なにもかも眠っているようだ。
 かすかに風が葉を揺らす音がする。
「ミヤ」
(あ、また。たしかに聞こえる)
 実弥子は耳をすます。神経を集中させ、音がしたと思う方へゆっくりと歩いていった。
「ミイヤ」
 今度ははっきりと聞こえる。実弥子の足が速まる。
「ミイヤ」
「あ」
 そこにいたのは、一匹の三毛猫だった。背を向けていたが、実弥子がもらした声に気付いたように、首をゆっくりとねじって実弥子の方を振り向いた。猫が実弥子の目を捉え、視線がぴったりと重なったかのようだった。
 三日月のような黒目を、青白い虹彩の芯に光らせて、猫はじっと実弥子の方を見据えている。なんて美しい瞳だろう、と見とれていると、猫はふと顔を元に戻し、歩き始めた。そのまま去っていくのかと思ったが、数歩歩いたところですっと立ち止まり、もう一度実弥子の方を振り返った。
(来ないの?)
 猫の無言の目が、そう呼びかけているように実弥子は感じた。
(行く、行きます)
 心の中で猫に答えると、猫はすっと半眼になり、わかったらそれでいいよ、と言いたげにふたたび前を向き、今度はすたすたと歩き始めた。実弥子は、猫の後を早足で追いかけた。
 細い路地をゆく三毛猫をしずかに追っていると、ふいにその姿が消えた。実弥子は小走りで猫の姿が消えたところまでたどりつくと、左側に脇道があり、猫はそこに入っていったようだった。
 脇道を数歩入ると、階段に続いていた。細くて長い石段が下に向かってのびている。階段には誰もいなかった。
(猫は?)
「ミイヤ」
 声が聞こえた。階段の下で、こちらを向いて一声鳴いたかと思うと、ひょい、と民家の塀に上り、塀に沿って走り去っていってしまった。
「あ」
 実弥子は階段下まで降りていったが、塀を伝って追いかけることはできなかった。
「ミイヤ」
 残念な気持ちを込めて、実弥子は猫の鳴きまねをしてみた。実弥子という名前の響きから、そんなふうに自分のことを呼んだ人を思い出しながら。そうするとくすぐったいような気持ちがわきおこってきて、ミイヤ、ミイヤと、意味もなく続けて声に出してしまった。
「ネコ」
 ふいに人の声がして、実弥子は我に返る。
(しまった、猫の鳴きまねを人に聞かれてしまった。恥ずかしい......)
 実弥子は、顔が熱くなるのを感じながら、声のした方を振り返ると、そこに立っていたのは、やせっぽちの少年だった。
「ネコ」
 かすかに皺の寄っている眉の下の目がきらりと光り、この子が猫そのものみたいだ、と実弥子は思った。その目が、さっき会ったばかりの猫のものに似ている。
「えと」
 子どもという生き物と長らく接していなかった実弥子は、どのように話をしたらいいものか、戸惑った。この子は、十歳くらいだろうか。このくらいだと、どんなふうな話し方が自然だろうか、などと考えつつ、声を出した。
「猫、の、えっと、マネ。ただの、マネ」
 なんだか、日本語が母国語ではない人のようにぎこちなくなってしまっている、と思いながら、できるだけ笑顔を作って言ってみたのだが、少年は相変わらず真顔のままでにこりともしない。
「声を、マネしただけなのね、猫の声を。私ね、実弥子って名前なの」
 少年は、じっとこちらを見つめたまま、相変わらず表情を変えない。実弥子は、少し焦ったような心持ちがしてくる。
「えっと、だから、ミヤとかミイヤとか呼ばれてて、それで......」
 少年が、はっとなにかに気付いたように目を見開いた。
「みゃあ」
 猫の鳴き声に、全くそっくりな声を出すと、ひらりと身体を翻して、走り去った。
「え、あ......」
 小さな少年の身体は、風に吹き飛んでいく小枝のように、またたく間に路地から姿を消してしまった。
(あの子、なんだったんだろう......。もしかすると、ほんとうに猫の化身なのかもしれない)
 実弥子は、そんなことをまじめに考えながら、少年が消えたあたりの路地をのぞいた。蔦のからまる古い家がある。葉っぱの絵の描いてあるドアがあると思って近づいてみると、それはガラスの引き戸で、葉っぱの絵に見えていたものは、本物の蔦の葉だった。ガラス戸の内側にびっしりとはびこって貼り付いていたのだ。
「うわぁ......」
 実弥子は、ぎょっとした。どういうことなのか、家の周りを調べてみると、屋根の方から壁を這うように伸びてきた蔦が、ドアと壁の隙間から家の内側へと入りこみ、その蔓を部屋の内部に伸ばしているのがわかった。
 二階のベランダの柵には、蔦だけではなく様々な植物が自由にからみあっていて、小規模なジャングルのようである。
「植物が、家を食べてるみたい......」
 実弥子はあっけにとられて、しばらく眺めてしまった。
 ふと、その壁に「賃借人募集中」という張り紙があるのを見つけた。
「ここ、借りることができるの......?」
 借りるといったって、このままではとても住めないから、整えていくのはさぞたいへんだろうけど、と思いながら、少し後ろに下がって家全体を見回した。
 実弥子はそのまま、ずいぶん長く、その家を眺めていた。木造の、瓦屋根の一軒家。屋根瓦は、夜空のような紺色。壁はバニラソフトクリーム色。昭和時代の名残を感じる。ひかえめなサイズに、一軒の家として建っているしずかな意志を貫いているような、すっきりとした形をしていた。
「いいかも」
 そうつぶやいたとき、「みゃあ」と猫の声がまた聞こえた。
 振り返ると、路地の曲がり角にさっきの少年がぽつんと立っていた。実弥子と目が合うと、さっと背を向けたので、実弥子は全力で少年のそばに駆け寄り、その手を取った。少年は素直に立ち止まり、無言で顔を上げた。澄んだ目をまっすぐに実弥子に向けている。
「君が、ここに案内してくれたんだよね」
 少年は、まばたきをした。
「あ、ごめん」
 実弥子は、自分が強引なことをしたことに気付き、あわてて手を離した。
「あの家、あの蔦のからまっている家。あそこに住もうと思う。だれでもふらっと来れるようなお家にして。だから、君、また、来て」
 少年は、なにかを考えているように斜め下の道を眺めてから、少し口を開いてなにか言おうとした。実弥子は少年の口から言葉が出てくるのをしばらく待ったが、なにも発せられないまま、少年はふたたび口を閉じた。
「ええと、私、変なこと言ってる人に見えちゃってるかも、だよね。えっとね、あの家を見ていたらね、あの家が、どういうわけか、ここに住んでって言ったような気がしたのね。それは、猫の化身の、君がここに来なよって、導いてくれたからだって、思えてならないんだよ」
 少年は、首を少しかしげた。
「あ、ごめん、『猫の化身』なんて言っちゃって。なんのことか、だよね。そんなの、こっちの勝手な思い込みだもんね。あのね、私、あの家を人が住めるようにして、あそこで絵を描こうと思ってる。それで、私だけじゃなくて、いろんな人が絵を描きに来てくれたらいいな、と思ってる。そういう場所にするつもりだから、よかったら、また、来て、ね」
 実弥子がささやくようにやさしくそう言うと、少年は、こくんと頷いた。実弥子は、あ、話が通じたのかなと思って、そのことがとてもうれしかった。
「絵、描くの、好き?」
 尋ねると、迷うことなく、こくりと首を下げた。
「じゃあ、来てね、きっと、来てね」
 少年は、また頷いた。
「待ってるからね。......えっと、君、名前は?」
「ルイ」
「ルイくん? すてきな名前ね」
 言われて少年は、口もとをかすかにゆるませた。

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次回は6月20日に更新予定です!

Profile

東直子

歌人、作家。96年第7回歌壇賞、06年『いとの森の家』で第31回坪田譲治文学賞受賞。著書は『十階』『とりつくしま』『薬屋のタバサ』『晴れ女の耳』など多数。新刊に穂村弘との共著『しびれる短歌』がある。絵本テキストやイラストレーションなども手がける。

Pick Up Book

  • かがみの孤城
  • i
  • 私のスポットライト
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