階段にパレット

東直子

階段にパレット

2

第一回(2)


「本気であそこ借りるの? ほんとに? 本気? あなたも、物好きだねえ」
 蔦の家の張り紙に書かれていた不動産屋に連絡して店を訪ねると、ひどく驚かれた。地元の小さな不動産屋で、地下鉄の出入り口から数分の大通り沿いのビルの一階にあった。
「大丈夫です。前に、ガスも電気も通ってないところで暮らしたこともあるんです」
「ほんとかい? そんな大昔から生きている人には見えないがねえ」
 山下と名乗るその男は、老眼鏡を下げ、上目遣いに実弥子の方を見たが、その顔は、少しほころんでいた。
「はい。そんなに大昔からは生きていませんが、そういう、原始的なところで暮らしたことはあるんです。それであの家は、こちらでリフォームなどはしてもかまわないのですよね?」
「うん、そりゃかまわないよ。というか、だいぶ、アレしないと、アレだろ? あそこ」
「ええ、そうですね、そのままではちょっと......。自由にやっていいということであれば、こちらでなんとかしますので」
「そうね。自由にやっていいんだと思うよ。ああ、一つ大事なこと言っとくけど、あの家に最後に住んでたおばあさん、あそこで亡くなってるから」
「え」
「まあ、そういうことですよ。そういうのは、言っとかないといけないからね、言っとくよ」
「はい。わかりました」
 あの荒れ方を見れば、いろいろな事情があったろうな、と実弥子は落ち着いて考えていた。
「あら、あんた案外驚かないね。驚かないとは、驚いたね、こりゃ。ほんとに気持ちわるくないの?」
「はい、大丈夫です」
「そんなこと言ってても、実際には、ほら、まあ、いい気はしないよね。なかなかね、アレだから、やっぱりやめたいって、なるだろうからさ、やめるならやめるって言っていいからね。他に、ちゃんとしたとこ、紹介するから」
「いえ、私は、あの家がいいって思ったんです」
 実弥子は背筋をのばして、きっぱりと言った。
「ほんとかい。ほんっとに、あれ、あの家、借りるの? ほんとに物好きだねえ。ま、その分家賃の方は、だいぶ、そう、お家賃の方は、やさしいよ。関西だったら『勉強させていただきます』ってやつだね。実際、人生の『勉強』になるのは間違いないだろうねえ、あの家は」
 山下は、自分の言ったことに自分でウケて、豪快に笑った。実弥子もつられて、少しだけ笑った。

「ちょっと見ない間に、こりゃひどいな」
 ガラスの引き戸の内側に蔦がはびこっていたことは、山下も知らなかったらしい。
「最初は、そういう模様が印刷されているのかと思いました」
 ほんとにねえ、と言いながら山下がマスクを手渡した。
「たまにこれ渡しとかないとヤバいお部屋あるから、いつも持ち歩いてるんだよ。ここはその、ヤバい部屋」
 山下は、上目遣いでそう言いながら、自分もマスクをかけた。実弥子も黙ってマスクをした。
 建て付けの悪い引き戸に力を入れて動かすと、ガタガタと豪快な音を立てた。そこから一歩中に入ってみるとその部屋は、壁の隙間から入りこんだ蔦が、壁やガラス面を覆っているだけで、空間すべてが植物に支配されている、というわけではなかった。植物をとりのぞく作業は思ったよりも容易にできそうだが、隙間やシロアリ対策など、人が住めるようにするには、いろいろな所に相談する必要がありそうだ。
「いやあ、これでも三年前まで、おばあさんが住んでたんだよ」
 山下が、部屋を見回しながら言った。
「ずっとお一人で?」
「最後は一人。でも、十年くらい前までは、だんなもいたらしいんだけどねえ。子どもとかはいなかったらしくて」
「じゃあ七年くらい、おばあさんお一人で」
「そういうことだね。たった一人でこの家に住んで、たった一人で死んでいった、ということだねえ」
「一人で......」
 実弥子はその言葉を、嚙みしめるようにつぶやいた。
「おばあさんが亡くなったあとは、甥だったか従姉妹だったか、親戚が引き取ることになったらしいんだけど、持て余したまんま、三年経っちゃったってわけだね」
「三年、放置ってことですか」
「一応、亡くなったあとの荷物は業者が引き取って片づけたんだけどね。人が住まないと、すぐこうなっちゃうねえ。借りたいっていう人がいるって言ったら、喜んでたよ」
 山下が、眼鏡を下げて実弥子を見た。
「人に喜んでもらえるのは、どんなことでもうれしいことです」
 実弥子は、自分に言い聞かせるように、こっくりと頷いた。
「まあこれには、どいてもらわないとね」
 山下が、両手を使って、ドアにはりついている蔦をずるずると剝がした。
「で、ほんとに借りるの? ここ」
 山下が緑の蔦を握って、振り向いた。なんだか一緒にジャングル探検にでも来ているみたいな愉快な気持ちになった実弥子は、「はい!」と、小学生のような元気な返事をしてしまった。
「私、あの、絵を描くんですけど、一階はアトリエにしたいんです」
「ほう。あんた、芸術家かね」
「芸術家ってわけでは......。油絵を描くときはありますが、基本は、水彩絵の具やアクリル絵の具などで、イラストレーションを描いてます。雑誌や本の表紙やチラシ、文具などに、いろいろ」
「ほお、それはすごいね」
「いえ......。アトリエを一階に作って、その場所を、絵画教室として子どもたちや街の人が絵を描く場所としても使ってもらいたいと思っているんです。そういう使い方は、可能ですか?」
「ああ、この辺は大丈夫だよ。お店を出してるところもあるし、そういう、習い事? みたいなの開いたりしてる人もいるね。ただ、この辺は、基本的には住宅地だからね、あんまり大きな声を出されちゃうと、クレームがきてしまうけどね。そこんとこは、気をつけてもらわないと」
「はい、わかりました。それは、気をつけます」
「うん。気をつける気持ちが大事だね」
 山下はそう言ったあと、口をぎゅっと結んで、親指を立てた。
「あの、二階もありますよね、上がっていいですか?」
「もちろん」
 二階の畳の部屋の中には蔦は入りこんではいなかった。実弥子は、表から見えていた、小さなジャングル状態のベランダに出てみた。あのとき猫に出会った階段が屋根越しにちらりと見えた。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

次回は6月27日に更新予定です!

Profile

東直子

歌人、作家。96年第7回歌壇賞、06年『いとの森の家』で第31回坪田譲治文学賞受賞。著書は『十階』『とりつくしま』『薬屋のタバサ』『晴れ女の耳』など多数。新刊に穂村弘との共著『しびれる短歌』がある。絵本テキストやイラストレーションなども手がける。

Pick Up Book

  • かがみの孤城
  • i
  • 私のスポットライト
  • ビオレタ
ポプラ社一般書通信 note

Pick Up Book

  • かがみの孤城
  • i
  • 私のスポットライト
  • ビオレタ