階段にパレット

東直子

階段にパレット

3

第一回(3)

 蔦の家のリフォームは、水周りの補修など専門家に頼まなければならないことも多かったが、なんとか予算内で収めることができた。
 最後の仕上げとなった壁のペンキ塗りは、実弥子が自ら行った。床はフローリングの風合いを残し、壁も天井も棚も、同じ白いペンキで塗った。
 ドアや窓をすべて開放して水性のペンキを塗っていると、「ミャア」と猫の鳴き声が聞こえた気がして、実弥子は顔を上げた。
 開け放した窓の向こうに、ルイが立っていた。
「ルイくん!」
 実弥子は開け放たれたドアから外に出た。ルイは相変わらず無表情のまま、じっと実弥子の方を見ている。傾きかけた陽を浴びて、身体全体から光を放っているようだった。
「いらっしゃい」
 実弥子はにっこりと笑みを浮かべた。
「ほんとに来てくれたんだね。とってもうれしい」
「うれしい」と言いながら、ほんとうにうれしい気持ちになってきていることを、実弥子は感じていた。ルイが目線を下げて、実弥子の手元を見ているのに気付いた。その手に、ペンキを塗るためのローラーが握られている。
「あ、これが気になるの? ルイくん、やってみる?」
 ルイは、こくんと頷いた。
 実弥子は、自分の使っていたローラーをルイに手渡し、部屋の中に招き入れた。ルイは、ローラーを手に持って無言で入ってくると、白い部屋をぐるりと見回した。
「この部屋はね、絵を描く場所にしようと思ってるの。私一人じゃなくて、いろんな人と一緒に使いたいと思ってる。みんなで楽しく、汚していくための部屋よ。そのための白を塗るの」
 実弥子は、白いペンキのたっぷり入った缶をルイの目の前に置いた。
「さあどうぞ、ペンキ塗り、やってみて。まだ塗ってない、このあたりをお願いします」
 ルイは、白いペンキがたっぷり入った缶の中に、ローラーを入れた。それから真剣なまなざしでローラーを持ち上げ、壁の塗りかけの場所に、ぺた、とそれをつけた。ゆっくりと横にそれを移動していく。全くの水平に、きっちりと。
「すてき、とてもきれいよ」
 実弥子が伝えると、ルイの頰が少し上がり、表情がかすかにゆるんだ。しかしローラーから目をそらすことなく、一心に、ゆっくりとペンキを塗っている。集中している、というのはこういうことをいうのだな、と思いながら、実弥子はルイを見つめつづけた。

 それから毎日夕方になると、ルイは実弥子のアトリエにやってきた。壁のペンキ塗りが終わると、リサイクルショップなどで実弥子が揃えた古い本棚や机や椅子にも、白いペンキを塗っていった。それらは、生まれたばかりの赤ちゃんのようにつやつやと生き返った。
 ほとんど会話を交わすことなく黙々とお互いの作業を続けることの安堵感を、「ルイ」という名前しか知らないその少年に、実弥子は感じていた。それは、とても久しぶりの感覚であるようにも思えた。深い湖の底で目を覚ました魚が細かな砂を舞い上げるような、かすかな記憶の揺れがその胸の底で起こった。
 実弥子が作業に没頭していると、いつのまにかとっぷりと陽が暮れていた。気付くと、ルイはいなくなっている。おそらく暗くなる前に帰ってくるように言われているのだろう。帰る、とも、さよなら、とも言わずに、ルイはいつもふいにいなくなる。
 けれども翌日、夕暮れの気配と共にまた、しずかにそっと、道の向こうから光を纏いながらやってくる。やってくるときにはいつも、遠くで猫の鳴く声がする。
 その繰り返しが、実弥子には好ましかった。毎日必ず顔を合わせる人がいる、というそのシンプルな事実が。
 そうして、階段の下の路地の一角の、古びた小さな家を使った実弥子のアトリエは、ついに完成した。
「ルイくんのおかげで、とってもきれいなアトリエになったよ。ほんとに、ありがとうね」
 部屋の水場で熱心に手を洗っているルイに、実弥子は背中から声をかけた。
 振り返ったルイの頰に、ぷくっとえくぼが浮かんだ。
 実弥子とルイは一緒に外に出て、二人で家の前で腰に手を当てて仁王立ちのようになって家全体を見回した。二階のベランダにはびこっていた雑草は実弥子がとりのぞき、金属の柵は防錆加工と共に業者に白く塗ってもらった。小さなジャングルはなくなり、植木鉢がいくつか置かれている。蔦だらけだった戸はすべての植物を取り払って、一部分だけ透明なガラスを入れている。
「アトリエに看板、つけなくちゃね」
 実弥子は、棚を作ったときの余りの白い板に、赤みがかったアクリル絵の具で、「アトリエ・キーチ」と大きく書き入れた。
「アトリエ、キーチ?」
 ルイが読み上げた。
「そう、ここは、『アトリエ・キーチ』。秘密基地って作ったことない? そういう、ちょっとわくわくするような場所にしたいの。いろんな人がいろんな秘密を、ここで絵に変えて」
「ふうん」
「というのは、こじつけみたいなものだけどね」
「ミャア」
 ルイが、猫のような声を出した。いいね、っていう意味なんだろうと実弥子は解釈して、微笑んだ。
 玄関の柱に釘を打ち、麻紐でぶら下げた「アトリエ・キーチ」の看板を、実弥子はそっとかけた。その下にもう一つ釘を打ち、茶色く変色した木製の表札をかけた。筆文字で「金雀児」と書いてある。
「なに?」
 ルイが指さした。
「これはね、私の名前。名字の方ね。えにしだって読むんだよ」
「えにしだ」
「かわった字だけど、こういう名前の植物があるのよ。春になったら、ちょうちょみたいな黄色い花を咲かせるの」
 実弥子は、自分の名字であるその表札の文字を、久しぶりにつくづくと眺めた。
 眺めているうちに、ルイは姿を消していた。

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次回は7月11日に更新予定です!

Profile

東直子

歌人、作家。96年第7回歌壇賞、06年『いとの森の家』で第31回坪田譲治文学賞受賞。著書は『十階』『とりつくしま』『薬屋のタバサ』『晴れ女の耳』など多数。新刊に穂村弘との共著『しびれる短歌』がある。絵本テキストやイラストレーションなども手がける。

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