階段にパレット

東直子

階段にパレット

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第二回(1)

「あらあ、見違えるようになったわねえ、きれいねえ」

 背後から声がして実弥子が振り向くと、車椅子に乗ったおばあさんが白い顔でふっくらと微笑みながら、アトリエを眺めていた。膝に青緑色のタータンチェック柄のひざ掛けをかけている。

「ほんとねえ、きれいになったねえ」

 車椅子を押している女性が、続けて言った。

「植原さん! ありがとうございます!」

 車椅子のおばあさんは、「アトリエ・キーチ」の隣の家に住む植原登美子で、車椅子を押しているのは、その娘の真由子である。蔦の家をリフォームして借りるにあたって、実弥子は手土産を持って隣家に挨拶をしていたので、一度顔を合わせていた。しかしその直後に、登美子が自宅で転倒し、骨折して長く入院することになってしまったのだった。登美子が自ら呼んだ救急車に乗せられていく瞬間に、実弥子も偶然居合わせ、そのことを知った。

「あのあと、とても心配していたんですが、退院されたんですね。お元気になられて、ほんとうによかったです!」

 実弥子が腰をかがめて登美子に話しかけると、登美子は首を軽く横に振った。

「この通り、まだ自分で歩けないんですよ、まだまだですよ」

 登美子は、ひざ掛けの下の、ギプスを捲いた足をかすかに持ち上げてみせた。

「まだまだなのに、もう家に帰りたいって言ったの、お母さんの方じゃない」

 真由子が笑いながら言った。

「あらやだ、余計なこと言わないでよ」

「まあでも、お隣もこんなにきれいになったし、お母さんもリハビリのがんばりがいがあるわね」

「そうね、散歩に出るのも気持ちよくなれる気がするわね。でも、ここ、あれかしら、お教室でも、なさるの?」

 登美子がきょとんとした顔で言った。

「それも聞いてたでしょ、金雀児さんが、絵のお教室なさるってことは」

 真由子が登美子に耳打ちするように言った。

「ああ、そうそう、絵のお教室、そうでした。確かにお聞きしましたわよね。いやあねえ、ほんと、忘れっぽくって」

「いえいえ、そんな。植原さん、あのあと、本当にたいへんでしたから」

「お教室をねえ、ああそう......」

 確認するように再度つぶやいた登美子の声が、急に沈んだ。

「ん、お母さん、どうかしたの?」

「いえ、ね。お隣、長い間、お静かだったですからね、こちらも静かに暮らしていましたから......。これから、お子さんたちがいらっしゃるとなると、さぞかし賑やかになるんでしょうねえ」

 登美子がにっこりと笑って実弥子を見上げた。実弥子は、はっとした。これは、うるさくなるのではないかと心配しているのだ、と気付いたのだ。

「はい、あの、子どもたちが集まるようになっても、賑やかになりすぎないように気をつけます」

 ぺこりと頭を下げた。

「頼みますねえ」

「もちろんです! 絶対に騒がないようにさせますので!」

 登美子は視線を流して自宅の方を見てから後ろを振り返り、真由子と目をちらりと合わせた。

「あ、じゃあその、失礼します」

 真由子が、少し焦ったようにそう言うと、登美子の車椅子をぐいっと押して自宅の方へと歩いていった。

 実弥子は、二人の背中を見送ったあと、深く深呼吸した。

「絶対に」と言ったものの、絵の教室を始めるのは初めての経験なので、まるで自信がなかった。鼓動がとくとくと早く打ち始めるのがわかった。実弥子は、胸にてのひらを当て、落ち着け心臓、と小さな声でとなえた。

(まだなにも始まっていない。心配したってしかたない)

 心の中で、ゆっくりとつぶやいた。

「ミャア」

 猫の声が聞こえて、実弥子は目をさました。寝室にしている二階の部屋の、ベランダごしに射してくる陽をまぶしく見上げながら窓を開けて、外を見た。屋根越しに見える階段に、黒い影が動いた。あのときの猫かなあと思いつつ、実弥子は大きな欠伸を一つした。

 朝の薄い雲に、空が透けている。空は、どんなときにもいい色で、雲はどんなときでもすてきな形だと実弥子は思う。たとえ重い曇り空でも、雨や雪が降っているときでも。だけどこうして見ている色は、受け止める眼球のレンズが一人一人違うのだから、一人ずつ違う見え方をしているのだろうな、とも思う。

「あなたの好きな色を教えて下さい」

 実弥子は、空に向かってつぶやいたあとで、「あなた」というのはちょっとよそよそしいか、と思う。「アトリエ・キーチ」の参加者募集の文言を考えていたのだ。

「好きな色を教えて下さい」

 主語をあえて抜いた文章を紙に書き出してみたが、なんだかな、と実弥子は思った。自分がその言葉を受けとる立場になったら、大きなお世話っぽいように感じる気がした。

 小説がうまく書けなかった小説家のように、実弥子は今文字を書いたばかりの紙を丸めてくしゃくしゃにして、屑籠に捨てた。

Profile

東直子

歌人、作家。96年第7回歌壇賞、06年『いとの森の家』で第31回坪田譲治文学賞受賞。著書は『十階』『とりつくしま』『薬屋のタバサ』『晴れ女の耳』など多数。新刊に穂村弘との共著『しびれる短歌』がある。絵本テキストやイラストレーションなども手がける。

Pick Up Book

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