階段にパレット

東直子

階段にパレット

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第二回(3)

 ルイは、ずっと無言で絵に集中していた。ゆらぐことのない目線が、それを物語っていた。実弥子は自分の手を止めて、ルイの瞳とその指先を見守った。画用紙の左の端からはじまった蔦の葉は、一枚一枚丁寧に指で形づくられていた。緑の葉に、黄色や青、時にはオレンジ色や赤が重ねて置かれ、鮮やかな色の広がりを見せていた。一枚として同じ葉はなかった。雨水を受け、光を照り返し、風に翻り、歳月を受け入れている、一枚ずつの命を感じさせた。

「ルイくん、ほんとうにすてき。すばらしいね」

 実弥子は、ルイのそばに座って、ささやくように思ったことを伝えた。ルイが顔を上げた。瞳の奥に光が宿っている。

「一枚一枚、とっても生き生きしてる。ルイくんが、この蔦のこと好きなんだって、伝わってくるよ」

「うん」

 実弥子は、かつて蔦がびっしりとはびこっていた戸に視線を向けた。

「ここにも蔦が生えてたのに、取ってしまったんだよね」

「知ってる」

 ルイがそう言ったことに、実弥子は驚き、瞬時に罪悪感を覚えた。

「ごめん」

「ちがうよ」ルイが早口で言った。

「この蔦は、階段の蔦」

 ルイは、灰色の絵の具を人さし指と中指の二本の指に含ませ、蔦の絵を描いていない右上の空白部分に、すっと横線を描いた。さらに、明るいグレーと濃いグレーの横線を加えて、蔦の群れから浮かび上がる階段が作られた。

「あるある、こういう感じの古い階段、この辺には。階段もうまいねえ、ルイくん、さすがだあ! 天才じゃないのか、君は?」

 俊子が大げさに言うので、ルイは顔が少し赤くなり、手が止まった。

「あら、ごめんなさい、ちょっと私、デリカシーがなかったかも」

 ルイは、首をふり、俊子の絵を指さして、きれい、とひとこと言った。俊子の画用紙には、オレンジと黄色と赤がグラデーションをなして、じわじわと広がっていた。

「おしっこ」

 ルイが突然立ち上がった。今にももらしそう、というふうにエプロンを握っている。

「こっち、こっち」

 実弥子があわてて、トイレに案内した。

「まさか原画を取りにきて、自分が絵を描いて帰るなんて、ね」

 俊子が、仕上がった夕焼けの絵を見ながらしみじみと言った。夕焼けのグラデーションの中に、梅干しのような赤い丸が一つ浮いている。バスケット部だったことを表現しているのだそうだ。

「いい絵になりましたよ、俊子さん。まさか私も俊子さんの描いた絵を見られる日が来るなんて思いもよらなかった」

 実弥子が半分笑いながら言うと、無理やりひっぱりこんだくせにー、と、俊子も笑った。

「実弥子さんの絵は、やっぱりプロっぽいですね」

 実弥子が完成させた絵は、淡い朝の空の下に、電信柱が垂直に並び、その間をたくさんの屋根が明るい色で柔らかく描かれていた。この街の実弥子なりの印象を、指で描きとめたのだった。

「ありがとう。でも、自由に描いたはずの絵までプロっぽいって言われちゃうのは、絵としては、どうなのかな、とも思ってしまうな」

「実弥子さん、考えすぎですよ」

「そうかな」

「それにしても、ルイくんの絵は、すごいよねえ」

「うん、楽しい。見てるとワクワクしてくるね。とってもすてき」

 二人で絶賛しながら、ローテーブルの上に置かれたルイの絵を眺めた。階段の上から蔦に向かって、カラフルな生き物たちがこぼれ落ちるように描かれていた。猫やネズミや、犬に鳥。猿もいればキリンもいた。そして、ゾウが左下にどっしりと立ち、長い鼻を持ち上げている。どの動物も半透明で、蔦の絵が透けている。

「階段の上に、動物の国がね、あるんだよ」

 動物を次々に指で指し示しながら、ルイがいつもより少し長く話をした。

「ゾウはね、ゾウは、動物の国から抜け出して、この世界全部を、よいしょって背負ってるんだ」

Profile

東直子

歌人、作家。96年第7回歌壇賞、06年『いとの森の家』で第31回坪田譲治文学賞受賞。著書は『十階』『とりつくしま』『薬屋のタバサ』『晴れ女の耳』など多数。新刊に穂村弘との共著『しびれる短歌』がある。絵本テキストやイラストレーションなども手がける。

Pick Up Book

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