階段にパレット

東直子

階段にパレット

8

第三回(二)

「へえ......」
 英里子が、ルイの絵が描かれた大きな画用紙を両手でもって、顔を近づけてまじまじと見た。
「あの、お母さん」
「はい?」
「絵って、そんなふうにあんまり近くで見るものでもないかもしれません」
 実弥子が声をかけると、英里子は「あ、はい、そうなんですね」と言いながら画用紙を机の上に置いて立ち上がり、ルイの絵を眺めた。階段で楽しそうに実弥子たちと笑いながら話していたルイの姿と、絵に描かれた動物たちの姿が重なる。
「たしかに、楽しそう、かも......」
 英里子は、ぼそっと言った。
「ねえ、ほんとうに、楽しそうでしょう」
 俊子が英里子の耳元でささやくように言った。
「あの子が、ほんとに、これを......」
「ほんとです。こんなことで噓つきません」
 実弥子は胸をはって言うと、英里子の肩に手を置いた。
「ルイくんは、絵の才能があります。なにより、絵が大好きなんですよ。それが、一番です」
「才能って、そんな、おおげさな......」
「ミャア」
 ルイが、英里子の言葉をさえぎるように、一声鳴いた。白いローテーブルの前にちょこんと座っている。
「ん?」
「ねえ、もういちまい、いい?」
「ルイ、そんな、あつかましいわよ」
 たしなめる英里子に、実弥子が、いいんですよと笑顔で声をかけた。
「ルイくんがやる気まんまんで、うれしいな。でも、今日は、あと一枚だけね」
 実弥子は、細い指で棚から白い画用紙を一枚引き出して、ルイの目の前に置いた。
「こんどはなにを使って描くかな」
 机の上には、指で絵を描いていたときのパレットが、そのまま残されていた。色をまぜる平たいところの絵の具は、すでにかわいていた。
「こんどはちゃんと鉛筆でなにを描くか、あたりをつけてから描いてもいいし」
 2Bから6Bまでの芯のやわらかい鉛筆をつめた瓶を、実弥子はルイの前に置いた。ルイは、とがった鉛筆の先を、めずらしそうにひとさしゆびの腹で、一本一本ふれた。
「色鉛筆を使ってもいいわよ」
 実弥子は、ローテーブルの上で、三十六色の色鉛筆のセットの箱の蓋を開いた。金色のラインと印字の入った、グラデーションをなす色鉛筆三十六色が花が咲いたように現れた。ルイは、ちらりとそれを見たあと、鉛筆の方に目を戻し、その一本―2Bの鉛筆を抜き取った。
「これだけでいい」
「黒い鉛筆だけで、描くの?」
「うん」
 返事をすると同時に、ルイは白い画用紙の上に、大きな楕円を描いた。
 ルイの横に寄り添うように、英里子が座った。なにか言いかけてやめ、ルイの指先が動くのを見守った。
 ルイは、一心に鉛筆を動かしている。最初に描いた楕円のまわりに、細い線を一本一本ゆっくりと確実に引いている。
「ルイくん、いいね、一本一本の線がきれい。線に迷いがないのが、いいよ」
 実弥子が声をかけると、背筋をのばして見守っていた英里子が、「迷いがない」と、小さくつぶやいた。実弥子は、英里子が興味を持ってくれていることに、ほっとしていた。
「ルイくんは、描こうとしているものが、はっきりしているのだと思います。だから、一本一本の線がふらふらせずに、きれいにのびている。頭の中には、ルイくんの描きたい世界がきちんと見えている、ということだと思います」
「描きたい世界が、頭の中に」
 英里子がまた実弥子の言葉を繰り返すと、鉛筆を動かす手を止めることなく、ルイがこくりとうなずいた。
「いつも、なにもいわないけど、頭の中には、いろいろあるってこと......?」
 英里子がルイにやさしくたずねた。ルイは、鉛筆を動かしていた手を止めて、英里子に顔を向けた。その目をまっすぐにしばらく見てから、はにかんだように少し笑うと、また目線を戻して、鉛筆を動かした。
「それ、人の顔なの?」
 俊子がルイの背後から訊いた。
「うん。おかあさん」
 え、と思わず声を出したのは、英里子だった。
 ルイが鉛筆から手を離し、立ち上がって絵をぶら下げるように持ち上げた。最初に大きく描いた楕円のまわりに、管のようにうねうねと重なりあうことのない線が描かれ、迷路のようになっている。楕円の中は、林檎やバナナやいちごや桃やさくらんぼなどの果物が、すきまなくぎっしりと描きこまれていた。楕円の部分が顔に、迷路の部分が髪に、見えなくもない。二つのいちごが楕円の上の方に左右対称に置かれているので、それが目に見える。
 英里子がその絵をルイから受け取って、まじまじと見た。
「私の顔の絵にしては、ずいぶん斬新ね」
「ルイくん、ここが顔のところ? なんで果物なの?」
 実弥子の問いに、ルイが、ぶっきらぼうに答えた。
「果物が、好きだから」
「たしかに、私、果物が大好きで、いつも朝一番に、なにかしら食べています」
 英里子が、少し恥ずかしそうにそう言った。
「そんなところまで、見てたんだね、ルイ」
「おわり」
 照れくさくなったのか、ルイが英里子の手から絵を奪おうとした。
「待って、待って、ルイ。せっかくだから、もっと見せて」
 ルイは、素直に引き下がった。
「すごいね、黒一色で描いてあるのに、果物の色が、じわじわって見えてくるよ。ほんと、上手ね、ルイ」
 ルイは、くちびるを少しとがらせながら、英里子に背中を預けるように寄りかかった。

 母親の承諾を得て、ルイは「アトリエ・キーチ」の正式な最初の受講生になった。
 教室を開くのは、水曜日と日曜日の午後二時から。一回ごとのチケット制で、何回でも通える「年間パスポート」を作ることもできる。ルイは、パスポート取得者第一号、でもある。俊子も、来られるときは手伝いをかねた受講生として参加することになった。
 第一回の教室には、近所に住む、小学二年生のゆずちゃんと小学五年生のまゆちゃんの姉妹が、お母さんと一緒にやってきた。姉妹で散歩しているときに「アトリエ・キーチ」の看板を見かけ、どうしても気になってお母さんに頼んで連れてきてもらったのだそうだ。
 お母さんは、ここが蔦だらけの廃屋状態だったことも覚えていて、すっかり清潔なアトリエになったことに感心し、娘たちがアトリエに通うことを、すぐに承諾してくれたのだった。
 アトリエのエプロンをつけたルイが、姉妹に道具が置いてある場所などを、スタッフのように案内しているのを見て、実弥子はじん、としつつ、ワゴンに飲み物やお菓子の用意を整えた。絵を描いている最中に喉がかわいたり、お腹が空いたりしたら、自由に飲んだり食べたりしてもいいコーナーを設置したのだ。第一回であるこの日のために、はりきって手作りのマドレーヌを焼き、一つ一つ透明なラッピング用の袋にいれて、小さなリボンを結び、籐籠の中にきれいに並べた。隣に置いた皿の上には、チョコレートやクッキー、飴などの市販のお菓子を盛った。
「そんなことしてると、お菓子が食べたくて教室に来たいって子も、出てきちゃうんじゃない?」
 俊子は心配したが、
「まあ、それはそれでいいじゃない。お菓子に釣られて、絵を描くことが好きになってくれる子も、きっといると思うし」
 実弥子は鼻歌でもうたうように一蹴した。
「実弥子さんって、案外、楽天家なんですね」
「ふふ、そうかもしれないですねえ」
「わあ、おかしー」
「わあ、かわいー、おいしそうー」
 ゆずちゃん、まゆちゃん姉妹が、早速お菓子に吸い寄せられるように、寄ってきた。
「マドレーヌは、一人一個ずつね。みんなにいきわたって、まだあまってたら、おかわりしていいです。他のものは自由に食べていいです。飲み物は、それぞれのカップに名前を書いておいたから、それに自分で汲んで飲んでね」
 実弥子は、飲食コーナーの決まりごとを、ルイにも聞こえるように、二人の姉妹に話した。ルイは、もう机について、白い画用紙を一心に見つめていた。
 ゆずちゃんが、「はい、おにいちゃん、一人いっこだってー」とルイの横にマドレーヌを置いた。ルイは顔を上げて、不思議そうにゆずちゃんを見た。ゆずちゃんは、ルイと目が合うと、にまあ、と笑った。ルイは少し驚いて、ぱちぱちとまばたきをした。
「あ、ありがとう」
 ルイは、ゆずちゃんが持ってきた袋入りのマドレーヌを、初めて見るもののように手に取って眺めた。袋には、赤いリボンがついている。
「ルイくん、それ、知らないの? マドレーヌだよ。きっと、おいしいよ、実弥子さん、得意だから」
 俊子がルイに言った。
 得意というか......、と、実弥子は胸の中で俊子に答える。希一が好きだったから、よく作ってたんだよ。あんな山の中でも、材料が手に入ったら、焼いてたなあ。
 希一のことを、思い出していると「なんのために、絵って、描くんでしょうか」という、ルイの母親の言葉がふと蘇った。教室に通う手続きをすませて、帰る直前になって問いかけてきたのだ。
「ルイがとても楽しそうにしているので、しばらく通わせてみますけど、なんだか不思議に思ってしまって。なんのためにあるんでしょうね。絵って」
 実弥子は、即答はできなかった。「楽しければいいんですよ」などと、笑顔でごまかしてしまった。あまりにもドキリとしたのだ。その質問は、初めてではなかった。

「なんのために、こんな絵なんて描くんでしょうねえ」
 と、個展に展示された絵を一通り見終わった人に言われたのだ。自分の絵に対してではない。希一の個展で、その絵を初めてつくづくと見た母親が、こぼした言葉だった。
 希一、という古風な響きの名を持つ人は、かつて実弥子の夫だった。本人の性格も名前を反映したかのように、少々古風だった。パソコンなどの電子機器はもちろん、テレビや洗濯機、冷蔵庫などの電気製品は一切使わず、部屋に元からついていた電灯だけが唯一の電気製品だった。それを実弥子が知るのは、ずっとあと、大学卒業前に正式につき合うようになってからなのだが。
 二人が通っていた、変わりものの多い美術大学の中でも、希一は浮いていた。無造作に伸ばした髪を後ろで一つに結び、雪がちらつくような真冬の日にも裸足で下駄を履いて歩いていた。美大とはいっても、こざっぱりとしていてお洒落な、見かけは普通の若者が増えている中、いつの時代のものかわからないような古めかしい毛玉の浮いた服を着て、長い手足を持て余すように無造作な歩き方で校内を闊歩する希一は、一昔前のバンカラ学生のようで、妙に目立っていた。
 対して、堅実な性格の実弥子は、他の美大生の個性的な行動様式と作品の中で地味に沈み込んでいた。二年浪人して入学した希一とは二つ年下の同級生だった実弥子だが、授業で話をすることは全くなかった。実弥子が広い校庭の芝生で、自分で握ったおにぎりを食べ、水筒に入れた熱いお茶を飲んでいたところに、なぜか希一が話しかけてきたのだ。
「学校の野草、食べる?」
 実弥子は、唐突に話しかけられて、思いきりむせてしまった。げほげほと涙を流して苦しがる実弥子の背中を、希一が、ごめんごめん、と謝りながらやさしくさすった。
 東京の郊外に陣取る大学は、その分とても広く、山に囲まれるように校舎が並び、自然が豊かだった。希一は広大な敷地に生えている草々を「もったいない」と言って「学校で食べられる野草を探す会」という自主サークルを立ち上げた。大学内の野草を食べるメンバーを、自分から声をかけて募っていたのだ。
 地方都市に育った実弥子にはなじみ深い雰囲気があり、子どものときは友達と食べられる野草を食べて遊んだ経験もあった。その後その「学校で食べられる野草を探す会」に入って、希一と徐々に親しくなっていったのだ。
 まさかその希一と結婚することになるとは、実弥子も野草を探す会初日には、全く予想もしていなかった。
 在学中に大学に近いアパートで同棲を始め、五年後に電気もガスも通っていないような山林の中の民家に引っ越して、実弥子と希一は結婚した。同棲していた期間も含めて十八年、実弥子と希一は一緒に暮らした。
 しかし希一が他界して、二人の暮らしは唐突に終わりを告げた。
 一人になって、一年あまりが過ぎたとき、実弥子は古い家を出て、東京にアパートを借りた。
 実弥子のイラストレーターとしての仕事は、やはり東京にいた方が都合がよかったし、もともと山奥での暮らしは、実弥子が望んだ暮らしではなかった。希一のこだわりがそうさせたのだ。一緒にいる間は、ぎりぎりで協力しあっている日々もおもしろく感じていたが、いなくなってしまったあとでは、ただ心細くて淋しかった。
 それでも一年、その淋しすぎる家にとどまったのは、ひとえに出ていくエネルギーがなかったからだと、今になって実弥子は思う。
 東京の部屋に置くことができない希一の絵は、生前に取引があった画商にまとめて預かってもらった。大学在学中から注目されていた希一の描く絵は、個展を開いて売れることもあったのだ。買い取ってくれた絵もあり、そこでまとまったお金が入ったため、アトリエの修復費用を捻出することができたのである。

Profile

東直子

歌人、作家。96年第7回歌壇賞、06年『いとの森の家』で第31回坪田譲治文学賞受賞。著書は『十階』『とりつくしま』『薬屋のタバサ』『晴れ女の耳』など多数。新刊に穂村弘との共著『しびれる短歌』がある。絵本テキストやイラストレーションなども手がける。

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  • かがみの孤城
  • i
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