少女病

吉川トリコ

少女病

1

少女病(1)

エキセントリックな少女小説家の母と、父親の違う三人の娘。性格がまったく異なる4人に共通しているのは、「母親のようになりたくない」。大人と少女の狭間で揺れる女たちの葛藤と躍動を「マリー・アントワネットの日記」シリーズの著者が描く現代版「若草物語」。

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   1

□赤い靴を履くとうきうきする
□甘くロマンティックなものが大好き
□お姫さまだっこに憧れる
□いくつになっても少女漫画がやめられない
□空想癖がある
□母親のようにはなりたくない
□「少女」という言葉にどきりとする
□いつか白馬の王子様が迎えにくるのを待っている
□ときどき、わけもわからず泣きたくなる
□男が怖い
 

このところどうにも頭がぼうっとして、ときどき不穏に心臓が鳴り出すことがあって、そういえば体もだるい気がするし、なにか悪い病気なんじゃないかと疑って病院に駆け込んだら、受付でチェックシートを渡された。
 すべてにチェックを入れたら、少女病だと診断された。
「少女病?」
 聞き慣れない病名に戸惑っていると、最近多いんですよ、と銀縁眼鏡をかけた若先生はもっともらしく頷いた。
 少女病というのはつまり、夢見がちで空想癖があり、いい歳して白馬の王子様を待っていたりするような大人になりきれない女性のことであるらしい。特に都市部に住む女性に多く見られる症状だという。
 若先生はチェックシートにもう一度目を落とし、ふむ、と息をついた。
「でもそんなの、多かれ少なかれ、みんなあるものなんじゃないでしょうか」
 なにか言い訳をしなければと思ってわたしは言った。少女病などという病気を聞いたのははじめてだったが、みっともいいものでないということだけはわかった。
「うん、まあそういう考え方もあるにはあるけど、女性の中でも特に顕著な人がいて、あなたはその典型のようだ。たとえばそうだな、少女小説なんかよく読んでいたでしょう。オルコットとかモンゴメリとか」
「はあ、ええ、まあ」
そんなの、だれだって読んでいるものなんじゃないかしら、と思いながらわたしは頷いた。
「少女漫画でも、たとえば大島弓子とか岩館真理子とか、ふわふわした絵柄のあのテが好きでしょう」
「はあ、ええ、まあ」
「ロマンス映画や恋愛ドラマに夢中でのめりこむでしょう」
「それは......」
なんだかとても恥ずかしいことを訊かれているような気がして、わたしは言葉を詰まらせた。指摘されたとおり、わたしはどんな陳腐なメロドラマだってどっぷりのめりこんで見てしまうほうだ。だって、そんなの、しょうがないじゃない。その手の作品はそういうふうに作られてるんだから。
「それに、男を知らないんじゃない?」
 若先生がまっすぐにわたしを見た。目をそらしたら、質問の意味を正しく理解していることがばれてしまうと思って、耐えた。
「......どういうことでしょう? なにをおっしゃっているんだかわからないわ」
語尾に添えた「わ」が、とても媚びた、いやらしい響きになってしまったように感じられて、のぼせたように頰が熱くなった。
「この病気を治すのはかんたんなことだ。男を知ればいい」
 若先生の手が伸びてきて、首のうしろにそっと触れた。危うく声をあげそうになって、耐えた。
「今度の週末、どこかへ出かけようか。ふたりきりで」
 若先生が言った。

  *

「みいちゃん、味噌汁わいてるよ。ねえ、みいちゃんってば」
 耳のすぐそばで怒鳴られて、都は我にかえった。
「あら、むうちゃん。おはよう」
 夢から覚めたような心地で顔をあげると、高校の制服を着て、耳の下で髪をふたつ結びにした末の妹の紫がすぐ隣に立っていた。切れ長の大きな瞳が射るように都を見ている。いつ見ても、黒目の色の濃さにどきりとさせられる。
「おはようってそれさっきも言ったし。それより味噌汁わいてるってば」
 そんなに言うんだったら自分で止めてくれればいいのにと思いながら、あらあら、ととぼけた声をあげて都はコンロの火を止めた。母の織子もすぐ下の妹の司も、この家のものはみな口ばかり達者でめったなことでは手を出さない。
「味噌汁はわかすな、味噌の風味が飛ぶからって、織子さんがうるさいんだから。しっかりしてよ」
 ひとまわり以上歳の離れたこの妹は中でも特に小うるさい。やれトイレの電気がつけっぱなしだの、やれ換気扇もまわさず煙草を吸うなだの、ちょっとしたことで騒ぎ立て、しょっちゅう司と小競り合いを起こしている。
「ごめんね。ちょっと、ぼうっとしてて」
「ちょっと? ちょっとなんてもんじゃないよ。どうしたの、みいちゃん。こないだぎっくりやってからなんかおかしいよ」
 そうね、ほんとにそうね、と声にならない声で言って、都は朱塗りの椀に味噌汁をよそった。ほんとうにどうかしている。わたしはどうかしている。
 年の始め、まだ松も明けていないころに都はぎっくり腰をやった。週に一度、近所の精米店に配達を頼んでいる灯油のポリ容器を移動しようとしたときに、ぎっくりいってしまったのだった。
なにしろぎっくり腰など家族のだれも経験したことがなかったので、整体にいけばいいのか、整骨院か、それとも整形外科か、痛みにうずくまる都を挟んで妹たちが騒いでいると、
「ほら、商店街の近くにある、なんていったっけあの治療院。あそこの看板にぎっくり腰ってあったわよ。あそこ行ってらっしゃいな」
 母の一声で、駅前の寺田治療院へ行くことになった。
 薄汚れた壁に「鍼灸・ほねつぎ・指圧マッサージ」というぺかぺかした看板のかかった怪しげな外観だけは記憶にあったので、どうにも気は進まなかったが、声をあげて拒否するのも億劫なほど腰が痛み、されるがまま、妹たちに担がれてタクシーで治療院に向かった。
 待合室は薄暗く、壁紙も壁に貼られたポスターも陽に焼けてうっすら黄ばんでいた。待っているあいだ、都は合皮のソファに横になり、ところどころ膨らんで波うっているように見えるビニール床を、妹たちがスリッパで踏みつけて遊んでいるのを眺めていた。
「日比野さん。日比野都さん、どうぞ」
 奥の部屋に入っていくと、ぺらぺらした青緑色の作業着を着た鍼灸師がいた。どんなヨボヨボのおじいさんが出てくるんだろうと思っていたのに、意外に若くて驚いた。
 銀縁眼鏡をかけたおだやかそうな男性で、渡された名刺には硬質な字体で川上広志と記されていた。ひろしと読むのかこうじと読むのかそれともこうしなのか、気にはなったが聞けなかった。こうしだったらいいなと思った。
「どうしましたか」
囁くような声のトーンが心地よくて、都は彼に好感を持ったーースーパーの店員やバイク便の男の子にするのと同じように、都はわりとかんたんに、だれにでも好感を持つ。それが若い男であればなおさらだった。
 彼の手はあたたかく湿っていて、ひどく丁重に都を扱った。絶滅危惧 種の蝶かなにかになったような気がして、都はうっとりした。
「だいぶ楽になったわ。鍼なんてはじめてだったけど、なかなかいい腕の先生みたい。若いのにーー若いっていっても、わたしと同じぐらいか少し上、少なくとも三十はいってると思うけど」
 帰り道、タクシーの後部座席で妹たちに話して聞かせながら、自分と同じ年頃の相手を「若い」と素直に言えなくなってしまったことに気づき、言いようのない寂しさが風のように都の胸を撫でた。夏休みの終わりの日、夕焼けの空を見あげて静かに絶望していた少女のころの気分に、それはすこし似ていた。
「若くないじゃん、じじいじゃん」
 とばっさり紫が切り捨て、
「あーそうね、ガキんちょからしたらあたしらみんなジジババだろうね」
 司が茶化し、
「あんまり笑わせないで、腰に響くのよ」
 かぼそい声で都が抗議し、声をあげて笑って、それで吹き飛んでしまうほどのものだったけれど。
 首筋にまだ残っている、しっとりした手の感触。思い出すたび、ぞっとするような胸
が騒ぐような、落ち着かない気分になる。首のうしろをだれかにーーそれも若い男に触られたことなんて、そういえばはじめてだったかもしれない。
 それから都はどうかしている。ずっと、どうかしている。
 沸騰させてしまったけれど、味噌汁に入れた玉ねぎとじゃがいもはまだ少しかたかった。しゃきしゃきした歯ざわりが新鮮でいい。炊きたての白いごはんと甘辛く炊いた牛蒡、かぶとキャベツの浅漬け、葱ねぎ入り卵焼き。
 朝食を食べていたところへ、二階から司が降りてきた。寝巻き姿のまま頭もぼさぼさで、おあよ、とあくびまじりの声で言って、携帯を片手に雪な崩だ れ込むようにいつもの席――紫の隣に腰をおろす。
「どうしたの、つかちゃん。早いわね」
 都が腰を浮かしかけると、
「あ、あたしコーヒーだけでいい」
 先を読んだように司が言った。
「コーヒーぐらい自分でいれろっつーの」
 味噌汁をすすっていた紫がつぶやく。聞こえなかったのか、それともふりなのか、だらしなくテーブルに俯して携帯をいじくっている司は答えない。どちらかがどちらかの買ってきたチョコレートを勝手に食べたとかなんだかで、ついこのあいだも激しくやりあっていたけれど、どうやらまだそれが尾を引いているらしい。
 やれやれと都は立ちあがり、コーヒーメーカーからコーヒーを注いで、司の前に置いてやった。ちゃんとドリップしたほうがおいしいのだけれど、なにしろこの家の女たちはコーヒーすらいれようとしないので、忙しい朝はコーヒーメーカーに頼ることにしている。本来なら都は、手動のミルで豆から粉を挽き、温度計できっちり湯を測って、細口のポットでていねいにコーヒーを淹れたい女だった。コーヒー豆は商店街の中にある自家焙煎のお店でいつも買っている。
「朝っぱらから電話がかかってきて、真山に泣きつかれたんだ。アシスタントの一人が急性胃腸炎だかなんかで来られなくなったって」
「あら、じゃあまた真山くんのところに手伝いにいくの?」
 真山というのは司の恋人で、マイナーな漫画誌に連載を持っている、司の言葉を借りれば〝ぱっとしない〞漫画家だ。何度かこの家に来たこともあるが、もっさりとした風貌の覇気のない青年である。彼の描く漫画│三頭身の登場人物たちがくりひろげる底
抜けに陽気で、少々お下げ 劣れつなギャグ漫画(ただしなぜか女の子だけ八頭身)――と実際の彼とのギャップに、都はいまもって慣れないでいる。真山がどうこうというより、男性全般に慣れていないだけなのかもしれないが。
 今年で三十歳になるというのに自由人を気取っている司は、定職にもつかず、気が向いたら短期のアルバイトをして、ときどきこんなふうに呼び出しを食らうと飛んで行って真山のアシスタントをしている。一時期は自分でも漫画を描いていたようだが、何年か前からーーちょうど真山とつきあいはじめたあたりから、そんな気配もなくなってしまった。
「それがさ、なんともう締切すぎてんだって。あたし今日は帰れないだろうから晩ごはん準備しとかなくていいよ」
「そうなの、大変ねえ。もうちょっと早く言ってくれれば、おにぎりとかおいもの天ぷらとか、作業しながらちょっとつまめるようなものを用意してあげられたのに」
 朝っぱらからおばけでも見たかのような顔で司が都を見た。なによ、と目だけで問い返す。
「みいちゃん、なんか日増しにおふくろっぽくなってくよね」
「やだ、やめてよ。あなたたちの母親になったおぼえなんてないわよ」
「嫌みで言ってんじゃなくてさ。みいちゃんには感謝してんだよ、これでも。だって、うちの母親ときたら、あんなんだし?」
 片頰だけ持ちあげて笑う、司の得意な皮肉っぽい笑い方。昔はこんな笑い方をする子じゃなかったのに。
「織子さん、昨日は遅かったみたいだから、うるさくして起こさないようにね」
 強引に話の流れをずらすと、司はあからさまにふてくされた顔をした。こんなところは子どものころから変わってない。
「遅かったってなによ、織子のやつ。ろくに仕事もしてないくせに」
「してるわよ。昨日だってずっとなにやら書いてたわよ」
「なにやらって、どうせくそつまらなくて黴が生えたような乙女チック小説でしょ?」
 ごはんをかきこんでいた紫の眉がぴくっとはねあがった。涼しい顔して司はコーヒーをすすっている。
 織子の職業は少女小説家だ。ペンネームは町屋織子。『若草物語』のマーチ家と作者であるオルコットから取ったものである。そのことからもわかるように、織子の中には少女小説かくあるべしという型が厳然と存在している。つまり、善良で清潔で、時に教育的で、愛とやさしさでできた牧歌的な物語。
 都は織子の小説の純粋なファンだったけれど、司の言っていることもあながちまちがいではないと思う。「くそつまらなくて黴が生えたような乙女チック小説」は言い過ぎにしても、やはりどうしても時代から取り残されている感は否めない。バブルのころの少女小説ブームも手伝って、かつてはベストセラーを連発していたけれど、いまとなってはオリジナル作品の依頼などほとんどなく(それでもしこしこ書き続けてはいるようだが)、年に一冊か二冊、少女漫画を原作にした、これも司の言うところの〝ぱっとし
ない〞ドラマや映画のノベライズを手がけているだけだ。
「そんな言い方よくないわ。やめなさいよ」
 都はそっと眉をひそめた。妹の暴言をやんわりたしなめる、思慮深い長女の顔がうまくできたと思う。
「だってさあ」
 なおも不満げに司が口を尖とがらせたところで、
「ごちそうさま!」
 会話を断ち切るように、紫が立ちあがった。ぺたぺたとスリッパを鳴らして流しに食器を運んでいく。
 また背が伸びたのだろうか。紫の後ろ姿を見て都は思う。スカートから膝の裏が丸見えになっている。ブレザーの袖も足りてない。週末、忘れないように丈たけをおろさないと。直しても直してもすぐ短くなっちゃうんだから。
「むうちゃん、コーヒーは?」
 都が声をかけると、意志の強そうな切れ長の瞳がふりかえった。
 なんて美しい子なんだろう。妹のことをそんなふうに思うなんておかしいのかもしれないけれど、都はその美しい肢体にときどき見とれてしまいそうになる。少女のころに憧れたセルロイド人形のようにすべらかな肌、手足もすらりと長く、いつのまにか母や姉を飛び越して家族のだれより背が高い。
「いらない。もう時間ないし。それよりお弁当まだ?」
「えっ、もうそんな時間? ちょっと待って、いま詰めちゃうから」
 あわてて都は立ちあがった。
「弁当ぐらい自分で詰めろっつーの」
 すぐうしろで、ぼそりと司がつぶやいた。


 朝食を終えてから、都は自室で化粧をした。といっても、ファンデーションを塗り、眉を描き、口紅をさすぐらいの簡単なものだ。子どものころから使っている学生机に鏡を置き、一番上の、細かく仕切りのついた平べったい引き出しに手持ちのごくわずかな化粧品類を並べて、鏡台がわりにしている。
「みいちゃん、ちゃんと化粧しなよ。もったいない」
 と司は言うけれど、ちゃんと、というのがどんなものなのか、都にはよくわからない。
 高校を卒業して勤めに出たばかりのころ、就職祝いと称して使いさしのファンデーションと油っぽくちびた口紅を織子から押しつけられたぐらいで、化粧のしかたなどだれも教えてくれなかった。友だちに教えを請おうにも、学生時代に親しくしていたのは、都と同じように眉毛はおろかすね毛の手入れすらしていないような野暮ったく地味な女の子ばかりで、卒業と同時に連絡を取ることもなくなってしまった。百貨店のコスメカウンターなんておそろしくて近寄れないし、雑誌のメイクページを見ても、初心者の都からするといったいなにがなんやらで、司の本棚にある「漫画の描き方入門」とかいった類の本を開いたときに受ける印象となんら変わらなかった。そもそも目のまわりを黒々と塗りたくり、つけまつげの上からマスカラを重ね、ぼてぼてと滴るようにグロスをのせている司の化粧が、ちゃんと、ということなら、ちゃんと化粧する気になどとてもじゃないがなれなかった。
 窓から見える空はピントの甘い白黒写真のように色が薄く、身震いするような寒さがガラスを通してこちらまで伝わってきそうだ。天気予報では午後から雨になるといっていた。
 鏡に向きなおり、都はため息をついた。今朝の空みたいにぼんやりとした印象の定まらない顔。色が白いこと、肌のきれいなことは自慢できるけれど、それ以外にはなにもない。それとも、ちゃんと化粧することでなにか変わるのだろうか。ファンデーションを塗りつけた重たい質感の頰に、ぺたぺたと手のひらをあてる。
 都とは対照的なのが司である。浅黒い肌に目鼻立ちのはっきりした顔。うまくすれば絶世の美女になれたかもしれないけれど、微妙なさじかげんでそこそこのところに落ち着いた、という具合。とろりとたれた目と半開きの口がだらしない印象を与えるせいかもしれない(男好きはするのかもしれないが)。
 子どものころはたいしてかわいくなかったーー不器量と言っていいほどだった紫がいちばんの美人になるなんてね。幼児の時分の紫を思い出し、堪えきれず都は笑ってしまう。そういえばあの絵はどこへやったんだろう。最高だったのに。
 切り揃そろえた前髪と厚ぼったい瞼が「麗子像」そっくりで、面白がった司が岸田劉生のタッチを真似て「紫像」を描き、居間の壁に長いこと飾ってあったのだ。ほらこれむうちゃんだよ、そっくりでしょ、あたしが描いたげたんだよ、とにやにや笑いながら司が言うと、まだ幼かった紫は褒ほめられているのだとかんちがいしたようで、小首を傾げ、頰に手をあてて、ぶりっこしてみせた。その顔がまた傑作で、都と司が転げまわって笑うものだから、さらに紫は気をよくして、重たい瞼をぱちぱちさせ、唇をすぼめてみせるのだった。あたしさ、この先どんな辛いことがあっても、むうちゃんのこの顔思い出すだけで笑える気がするよ。目に浮かんだ涙を拭いながらそんなことを司は言っていた。
 てんでんばらばらでまったく似ていない姉妹ではあったけれど、そこに母親を配置することで、たちどころに一つの共通点が浮かんでくるのが都にはいかにも不思議で、おそろしくもあった。外見や肌の質感や声のトーンやちょっとした仕草、そういうはっきり目に見えるものでなく、抗いがたく四人の中に流れているものーー血というものを意識せずにいられないからだ。わたしたちはこの人から生まれてきた、わたしたちは姉妹なんだと、四人でいるとき、なにか新たな発見をしたかのようにはっと都は思うことが
ある。
 母親の織子は、娘たちの特徴をすこしずつ取り込み、ふわふわ現実離れしたヴェールで包んだ、といったふうである。なにかのまちがいで地上に降りてきてしまった天女――だなんて、実の母親に対して娘が持つ印象としては最悪に気持ち悪いたちのものかもしれないけれど、でも、そう。
「私たち、四人姉妹なのよ」
 とは、織子が好んで言う冗談である。
 織子は、とても五十をすぎているとは思えないほど若く見える。下手すると三十代でも通るかもしれない。へえ、そりゃいいね、美人姉妹、最高だね、と織子の冗談にみな笑う。
 みなというのは、昔よく家にやってきていたーー最近ではめったに顔を出さないーー出版社の人とか、織子の古い友人だとかいう自称芸術家や自称作家や自称音楽家の男たちだ。居間の長椅子にほとんど寝そべるような形で座り、織子はくりかえす。あら、なんで笑うの、私たち姉妹よ、この家に母親なんていないんだから。
 娘たちは食卓の椅子に座り、男たちが手土産に持ってきたバウムクーヘンやエクレアを食べながらその様子を遠巻きに眺めている。そういうとき、司は決まってあの片頰だけ持ちあげる皮肉っぽい薄笑いを浮かべている。紫は射るような瞳で母を見、へんなの、とつぶやく。姉妹なんてへんなの、そんなわけないのにへんなの。都は笑っている。もしかしたら冗談ではないのかもしれない、織子さんの中ではほんとうにそういうことになっているのかもしれない、織子さんは赤毛のアンもびっくりの空想力の持ち主だからーーそんな疑惑を胸に抱きながら、にこにこ笑っている。
 織子は十九歳のときに都を産んだ。父親の顔を都は知らない。都が生まれるより前に他の女と出奔してしまったのだと織子からは聞かされている。
 山手の裕福な家庭に生まれた織子が一人で子どもを産んで育てるのがどれだけ大変だったかは、想像に難くない。十九歳といえば、いまの紫と二つしかちがわない。まるきり子どもじゃないか。
 そんなにまでして、どうしてあの人はわたしを産んだのだろう。そのことを考えるたびに、都はどうにも釈然としない思いにとらわれる。ほんとうに純粋に理解できないのだ。どうして織子は子どもを産んだのか。それも三人も。
 織子の本名は房子という。織子はこの名前を嫌っており、娘たちにも男たちにも筆名で呼ばせた。 
まだ幼かったころ、どうしてそんなことをしたのか自分でもよく思い出せないのだがーーおそらくはただの思いつきで、お母さん、と織子を呼んでみたことがある。
 次の瞬間、思いきり頰を引っぱたかれた。
「二度と私をそんなふうに呼ばないで。今度やったらただじゃすまないわよ」
 燃えるように熱を放つ頰に手をあて、都は茫然と母を見た。怒りに潤んだ瞳で自分を睨みつける美しい母の顔を。痛みより悲しみより驚きのほうが強くて、泣くこともできなかった。
「あの人、いかれてるんじゃないの」
 と司はよく言うが、口に出しこそしないけれど、都もまったくその通りだと思う。わたしたちの母はいかれてる。
「しょうがないよ。織子さんは作家なんだから」
 と言ったのは、司の父親で、織子の担当編集者でもあった日比野だ。
 学生時代に応募していた小説が少女小説の新人賞に入選し、まだ都がおなかにいるときに織子は作家デビューを果たした。そこで担当についたのが日比野だった。
 お父さん、と口にするとき、都の頭に自動的に浮かぶのは日比野の顔だ。
 都は日比野が好きだった。ともに暮らした期間はわずかだったが、実の子である司と分け隔てなく都をかわいがってくれた。いまもそうだけれど当時から織子はいっさい家事をしなかったので、いつもアイロンのかかっていないよれたシャツを着ていた。そのシャツの袖をまくって、たっぷり野菜を入れてくたくたに煮込んだ味噌ラーメンを作ってくれた。
「お父さん」
 と呼びかければ、
「どうした?」
 と笑って答えてくれた。
 日比野がガンで死んだとき、都はまだ九歳、司は六歳だった。
 数日おきに着替えやタオルをバッグに詰め、電車を乗り継いで、幼い姉妹は日比野が入院している病院に通った。大変だとは思わなかった。それどころか、仕事であちこち飛びまわってあまり家にいることのなかった日比野が、やっと自分たちだけのものになった気がして都はうれしかった。そのあいだ織子がしていたことといえば、小説を書くことと庭のばらを丹精することだけ。
「しょうがないよ。織子さんは作家なんだから」
 とそれでも日比野は織子をかばうようなことを言うのだった。ふくよかだった頰はすっかり痩せこけ、ベッドの上に体を起こすこともできないでいるのに、そればかりをしきりとくりかえした。
 日比野が織子を愛していたのはまちがいないが、はたして織子は日比野を愛していたんだろうか。いまだにそこのところはよくわからないが、一つだけ確かなことがある。織子は日比野を失うことを怖れていた。どうしようもないほどに。
 病院に寄りつくことはほとんどなかったけれど、ときどき思い出したようにひょいと顔を出すことがあって、そのたび織子はどこで摑まされたのかわからないような怪しい商品を病室に持ち込んだ。ガンが治るお茶だとか茸だとか、開運のツボだとかクリスタルだとか、金ぴかのビリケン様なんてものまであった。
「もうやめなさい」
 とついに日比野が言ったのは、木彫りの七福神人形をベッドサイドにずらりと並べたときだった。「もういいよ、織子さん。ほんとうに、もういいから」
 これが恵比寿様でー、こっちが毘沙門天様、そしてこれが大黒天様......。個室なのをいいことに、歌うような調子で七福神の名前を読みあげていた織子は、急にふつりと黙り込んで、手にしていた寿老人をすぐ近くにいた司に押しつけた。
「やだ、いらない」
意固地になっているときはいつもそうするように、半開きの口をきゅっと引き結び、司は頑なに拒否した。すぐさま織子は都に向きなおり、人形を押しつけてきた。かたい木の感触が体のあちこちにぶつかって痛かった。非難しようと顔をあげ、都はあっと声をあげそうになった。司とまったく同じ顔を、織子がしていたからだ。
 この人、子どもなんだ。
 まだ幼かったのにーーまだ幼かったからこそ、都は織子という人間のすべてを理解したような気になった。
「やってられないわ」
 自分の声にびっくりして、都は我にかえった。思わずあたりをうかがったが、こんな時間に織子が起きていることはまずないし、紫はもうとっくに学校へ行った。司は一階でシャワーを浴びている。
 ほんとうにそうだ。やってられない。
 声には出さず、胸のうちだけでつぶやいて都は笑った。鏡に映った顔はまったく表情を変えなかったけれど。

Profile

吉川トリコ

1977年静岡県生まれ、名古屋在住。2004年、「ねむりひめ」で女による女のためのR−18文学賞大賞・読者賞を受賞。著書に、映画化された『グッ
モーエビアン!』ほか、『しゃぼん』『ミドリのミ』『ずっと名古屋』『光の庭』「マリー・アントワネットの日記」シリーズなどがある。

Pick Up Book

  • かがみの孤城
  • i
  • 私のスポットライト
  • ビオレタ
ポプラ社一般書通信 note

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