少女病

吉川トリコ

少女病

2

少女病(2)

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今日の晩ごはん、どうしよう。
 仕事を終えて会社を出るとき、いつも決まってそう思うように、その日も都は思った。
昼過ぎから降りはじめた雨は勢いを増すこともなくだらしなく降り続けて、当分はやみそうになかった。傘を開いて駅までの道を歩きながら、司がいないから鍋物はやめておこう、最近お肉が続いていたから魚がいいかな、司は魚を出すと文句を言うからちょうどいい、と都は頭をめぐらせる。
 高校を卒業してすぐ、都は事務機器を扱う小さな卸会社に就職した。まだ紫も幼かったし、織子の仕事にも翳りが見えはじめたころだったから、大学進学は諦めたーーというのは建前で、実のところ都には大学に行ってまでなにかを学びたいという欲求がなかったのだ。いまだって、どうってことのない事務仕事をくりかえすだけのぼんやりした毎日を過ごしている。通勤が便利なことと残業がないこと、職場に求めているのはそれだけだ。
 都の生活は晩ごはんを中心にまわっている。幼いころからずっとそうだ。公園で友だちと遊んでいても、いつもべったり張りつくように晩ごはんがあった。そろそろ帰って晩ごはんのしたくをしなくっちゃ、家族みんなが飢え死にしてしまう。
 晩ごはんに支配され、晩ごはんのために生き、くる日もくる日も晩ごはんのことばかり考えているうちに三十二歳になっていた。
 都はなにも知らない。お化粧のしかたも、流行の洋服やレストランも、洒しや落れ たお酒の名前も、熱帯のまとわりつくような空気の重さも、男の人の感触も。知っていることといえば、野菜の正しい保管方法と肉や魚の下処理のしかた、ひだスカートをきれいに裾上げする方法、重曹の偉大さ、乾物のありがたみ、家庭菜園に関するあれやこれや、そんなぬかみそ臭いことばかり。
 このままなにも知らないままーーだれか男の人に愛されることも触れられることもなく、一生を終えてしまうんだろうか。考えると、叫び出したくなるほど不安になった。みじめでたまらない気持ちになった。
 こうしちゃいられないと焦る気持ちはあるのだけれど、でもどうしたら男の人に愛されるのか、どうすれば男の人に触れてもらえるのか、それがまったくわからない。小説や映画では、いともかんたんに男と女が出会って恋に落ちているというのに、そんなのいったいどこにある? 落とし物がきっかけで運命の恋人に出会うとか、出会った瞬間百万ボルトの電流がびびびと走るとか、「君の瞳に乾杯」とか、そんなのいったいどこにあるの? あちこち見渡してもそんな話は聞いたこともないし、自分の身にふりかかったこともない。気配すらない。
 でもーー都は心のどこかで信じてもいる。いつか、いつかきっと、わたしだって、と一縷の望みを捨てられないでいる。家族のために自分を犠牲にして、こんなにも健気にいじましく生きているわたしを神様が見放すはずがないもの。その空想は、都を陶然とさせる。都の愛する少女小説の主人公たちもみんなそうだった。不幸な境遇に生まれ、苦難に耐え、それでも腐らないで美しく生きてさえいれば、必ずハッピーエンドがやってくる。
 男の人とつきあったことがない、ということはつまり、男に絶望したことがないということだった。それまで少女小説で培ってきた幻想を、男に打ち砕かれた経験がないということだった。愛のないセックスなどこの世には存在しないし(自身の生い立ちとそれは、都の中では矛盾しない)、もっと言えば、性欲なんてものを持っている人間などいるはずがない(男性に触れられたいという欲求は、都の中ではそれにあてはまらない)。世界を埋め尽くしているのは、愛、それのみだと都は信じているのだったーーというより、信じたいのだった。少女のような心持ちで。
ああ、恋がしたい。
 だれか、男の人に愛されたい。
 ......ばかみたい。
 電車の中は、つめたい雨のにおいでみたされていた。窓の外はすでに暗く、街の灯かりが暗闇に溶け、ろうそくの火のように滲んでいる。今日は商店街の魚屋でセールをしてるはずだから、さわらの白醬油 漬けにしよう、と曇った窓ガラスを見て都はひらめいた。味噌汁は朝のが残っているから、副菜は昨日の残りの牛蒡を素揚げしてかいわれ大根とポン酢しょうゆで和えたもの。もう一品......あともう一品がいつも思いつかない。
 私鉄で四駅行ったところで電車を降り、都は商店街へ足を向けた。雨の向こうに寺田治療院の看板が見え、条件反射でどきりとする。あの日から、この前を通るたびに都はいちいち律儀にどぎまぎしている。周囲に気取られない程度に速度をゆるめ、少しずつ少しずつ近づいていく。そわそわ、ふわふわ、足もとが浮いているみたいに心もとない。
 会いたいな。先生にやさしく体を触られたい。ちらりと思ってから、急いで打ち消した。つい先週も受診したばかりなのだ。こんなペースで通っていたら都の薄給ではあっというまに破産してしまう。腰だってもうすっかりよくなっている。駅前で売ってるたい焼きか焼き甘栗なんかを携えて、会いたくなったら気安く窓を叩き、顔を見てちょっと言葉をかわせるぐらいの仲になれたらいいのに。
 何日か安静にしているうちに、腰の痛みはすぐに引いた。念のため整形外科でも診てもらったが、痛み止めの薬とコルセットを与えられたぐらいでたいした治療はしてもらえなかった。それで都は、しかたなくという体で、何度か寺田治療院に足を運んでいた。
 最初に診てもらった川上先生は雇われ鍼灸師であること。院長の寺田先生は鍼灸師と聞いて都が当初に想像したとおりのよぼよぼのおじいさんであること。婦人科系と消化器系がどうやら悪そうだということ。手のひらにある腰痛と肩こりと生理痛に効くツボ。通っているうちに都はいくつかの学びを得た。ひろしと読むのかこうじと読むのかこうしと読むのかは、まだわからなかった。
――この雨で、治療院は開店休業だ。川上はあくびを嚙み殺し、ちょっと外の空気を吸ってくると言って、傘も差さずに外へ出る。そこへ都が通りかかる。あら、と都は言う。こんにちは、先生、と微笑む。おや日比野さん、お帰りですか? と彼が訊く。濡れますよと都が傘を差しかけると、こりゃどうもと暖簾をひょいとくぐるように入ってくる。息が触れ合うほどの距離。肩はどれぐらいの位置にくるだろう。ずっとお聞きしたいことがあったんです。先生の名前、なんて読むのかなって。彼がうすくまとってい
るお灸のにおいが雨にかき消される......。
空想は、ちいさなころからの癖だった。玄関の扉を開いて、焼き立てマフィンのにおいがわっと押し寄せる瞬間を。母が縫ってくれたサマードレスに袖を通したときの、はじけるような高揚を。長く伸ばした髪にリボンを結んでくれる、やさしい手の感触を。
 猫じゃらしをふりまわして通学路を歩くとき、食器を洗っているとき、ベッドに入って眠りに落ちるまで。晩ごはんのことを考えているとき以外の、日々のふとした瞬間、瞬間に、深い森の中に迷い込むみたいにーーあるいは沼地にずぶずぶ足をめりこませるように都の意識はさらわれた。そのほとんどが、ごくささやかで日常のすぐ隣にあるような他愛ないものばかりだったけれど、都にとっては永遠にかなうことのない遠い国のおとぎばなしだった。どうせするなら赤毛のアンぐらい突飛で大胆でイマジネーション豊かなものにすればいいのに、空想ですらごくごく謙虚に控えめにしてしまうのが都が都たるゆえんであった。
 それにしても、と都は考える。いつのころからだろう。空想の世界から「お母さん」が消えてしまったのは。想像力のほとんどが異性へと向かうようになったのは。
 ゆっくり足を進めていくあいだに、治療院の前に人の足が見えた。ぎょっとして、都は立ち止まった。細長いビルとビルに挟まれるように古い治療院は建っており、ビルの陰からちょうど足の部分――黒いズック靴だけが飛び出して見えたのだった。駆け寄って確かめると、ビニール傘にかぶさるようにして銀髪の老婆が倒れている。
「あ、あのーー」
 大丈夫ですか、と声をかけようとして都は息を吞んだ。コンクリートの上、雨に流されていく血の色が見えたからだ。痩せた背中に触れようとして、都はためらった。倒れたときに吐いたのであろう。口のまわりが吐瀉物で汚れていた。汚い。とっさに思ってしまい、すぐに、そんなことを思うわたしこそ汚い、最低な人間、ひとでなし、と取ってつけたように考えた。
「大丈夫ですか、どうしましたか」
 触れるかわりに訊ねてみたが、ほとんど声にならなかった。返事はない。どうしたもこうしたもない。早く救急車を呼ばなくては。わかっているのに、全身が痺れたみたいに言うことをきかない。
 もしかして死んでるんじゃーーいやな予感が頭をかすめ、都は底が抜けるような恐怖をおぼえた。どうしよう。あたりを見まわすが、水しぶきをあげて街道を走っていく車が見えるばかりで人の姿はない。そうしているあいだにも、つめたい雨が老婆の体を濡らし、血は流れ続ける。都はなにもできずに彼女の体を見下ろしていた。似ている、と思った。これと似た経験を自分はしたことがある。それがいつ、どんな状況で起こったことだったのか、すぐには思い出せなかったけれど、その感触だけはおぼえていた。
「日比野さん?」
 雨にかき消えそうなほどかすかな声がして、都は顔をあげた。治療院の扉を開いて、中から川上が顔をのぞかせている。頭の中で思い描いていたのより二割減している気がしたが、都は強い意志で気づかぬふりをし通した。都を鈍い女だと織子も司も紫も言うが、都の鈍さは元来生まれついてのものではなく、都のさじかげん一つでどうとでもなるものだった。
「......先生」
 とつぶやいたら、いろんな感情がどっと一挙に押し寄せた。たまらず傘を放り出し、川上の薄い胸にしがみついたーーという空想をしてしまい、都は自分に茫然とした。
 事態を察して飛び出してきた川上は、ためらいもせず濡れたアスファルトに膝をつき、道端に倒れていた老婆の肩に触れた。おばあさん、おばあさん、大丈夫ですか、意識はありますか。川上が声をかけると、低くうめくような声が返ってきた。
「救急車」
 川上が都をふりかえり、彼にしては強い口調で短く言いきった。都はぼんやりと、川上の眼鏡のレンズを雨が滑り落ちていくのを見ていた。
「携帯電話持ってますか? 救急車、早く呼んでください」
 じれたようにくりかえす。
「濡れますよ」
 そんなことを言ってる場合じゃないのにと思いながら、都は川上に傘を差しかけた。都はどうかしていた。深い森の奥からまだ抜け出せないでいた。
「ちょっと失礼」
 通勤用のバッグをもぎとられ、その拍子に傘を落としてしまった。こまかな雨がさあっと都の体を濡らしていく。
 ぽつんと頭皮に落ちた、ひときわ大きな雨粒に我にかえったときにはすべてが終わっていた。
「大丈夫ですか?」
 声をかけられて、都は顔をあげた。救急車の赤いサイレンが通りのずっと先にある。視界のすみに赤い灯をとらえながら、まだしばらくぼうっとしていた。
「日比野さん? 大丈夫ですか?」
 もう一度、川上が訊いた。鼻先に、作業着の上からダウンジャケットを羽織っただけの肩があった。川上は、都の傘の中にいた。体温が感じられるほどに近い。細身なのに、一つの傘に入ると司や紫にはない圧迫感があって、男の人なんだなと思った。
「はい」
 やけにくっきりした声が出た。吐く息が白い。
「すみません、無断で携帯電話をお借りしてしまって。僕もちょっと動揺していたものですから」
 頭の中で思い描いていた川上を瞬く間に現実が塗り替えていく。こっちのほうがいいな、と都は思った。空想のほうが美化されているけれど、現実のほうがかさが多い。
「驚いたでしょう。ちょっと中で休んでいきますか? なんにもないけれど、あったかいお茶でもいれますよ」
 つるりと清潔な顔を川上はしていた。なんの屈託もなく人の目を見て話す、まっすぐで健やかな人。心にやましいところなんてきっといっこもない。心にやましいところのある都は、だからそっと目を伏せた。
「いえ、いいんです」
「だけど、顔色がすぐれないようですが」
「ほんとにいいんです。わたしなんか」
逃げるように都はその場を去った。

 駅から住宅街へと続くゆるやかな坂をのぼっていく途中で、晩ごはんの買物を忘れていることに気づいた。いまさら引き返す気にもなれず、雨の坂道をふらふらと都はのぼり続ける。
 似たような家の並ぶ路地を突きあたりまで歩いていくと、薄闇の中でも異様な存在感を放つ白い洋館が、突如にょきっと顔を出した。軽いめまいをおぼえ、都は足を止める。
この家を見るたび、次元が歪むようなかんじがいつもするーーいっそこのまま次元の裂け目に吸い込まれて消えてしまえればいいのに。
 川上の誘いに乗ればよかったと後悔する気持ちがあった。思いがけず顔が見られて浮かれてもいた。そして、そんな自分を恥じてもいた。都のキャパシティを完全にオーバーしていた。それですっかり晩ごはんの買物を忘れてしまったのだ。そんなことは、生まれてはじめてのことだった。都は晩ごはんのために生まれてきたのに。
「ユキだ」
 雨のせいで普段よりいっそう薄汚れて見える洋館の前に、オレンジ色のバイクが雨ざらしになっているのを見て、強ばった体がわずかにほどけた。ユキが来ている。だったらちょうどいい。今日は店屋もので済ましてしまおう。そっとあたりをうかがい、だれもいないことを確認してから、都は西洋のお城のような大仰な門扉を開いた。この家に暮らしていることを、いつのころからか都は恥じるようになっていた。
 小学校のころは、週に一度の集団下校が楽しみでしかたなかった。近所の子どもたちが似たりよったりのつまらない家に吸いこまれていくのを横目に、たまらなく誇らしい気持ちでこの家の門をくぐったものだった。みんな見て、わたしはここで暮らしているの、お城みたいなこの家に。ねえ、みんなもっと見て。
 はじめてこの家を目にしたときのことは、いまだに忘れられない。
 夢を見ているみたいだった。初夏のさらさらした陽射しの下、したたるような緑の木々に囲まれた白い洋館。屋根も壁も汚れ一つなく、あちこちで光がはねかえり、目が痛くなるほどまぶしかった。ばらの咲きこぼれる庭で、白いドレスを着て微笑む織子はすべてを祝福されたお姫さまのようだった。しんから美しいものを見たときはいつもそうなるように、都のちいさな胸にきゅうっと心地よい痛みが走った。隣に立つ司を見たら、いつも半開きの口をそのときばかりは全開にして、放心したようになっていたっけ。どちらからともなく握りあった手の汗ばんだ感触で、ああこれは夢じゃないんだ、わたしたちはこれからこの家で暮らすんだ、とようやく現実感が降りてきた。
 二十年余りの年月を経たいまでは、お城みたいな夢の家もすっかり色褪せた。風雨にさらされあちこち黒ずみひび割れて、バルコニーの手すりはペンキが剝げて腐りかけているし、庭の草木も荒れ放題になっている。玄関の扉に嵌は められたステンドグラスは縦に大きなひびが入ったまま、もう何年ほったらかしになっているだろう。
「薄汚れたファンシーほどみすぼらしいものはないね」
 と言ったのは司だ。
「こんな家、恥ずかしくて友だちに見せられない」
 と紫は眉をひそめる。
「門をくぐるとき、だれかに見られてないか、つい確かめるくせがついちゃった」
 肩をすくめて都は笑う。
「文句があるなら出ていってちょうだい。ここは私のお城よ」
 織子だけだ。織子だけが昔と変わらぬ調子で、この荒廃の限りをつくした家を城と呼ぶ。
 荒れた庭を抜けて家に入ると、玄関に踵を踏み潰した男物のスニーカーが転がっていた。ぐっしょりと雨に濡れて、ちいさな水たまりが土間のあちこちにできている。
「お、みいちゃん。おかえり」
 階段の奥にあるバスルームから、腰にタオルを巻いただけの格好のユキが出てきた。犬の毛みたいにいつもふわふわさせている髪が濡れてぺしゃんこになっている。
「なにしてるの」
 目のやり場に困り、都はすぐさま回れ右して上がり框がまちに腰をおろした。のろのろと靴を脱ぐ。凍えていたつま先が、窮屈から解放されてふっとほどける。
「風呂入ってた」
「見ればわかる。だからなんで他人の家でお風呂なんか入ってるのよ」
「他人ってひでえな。いとこだろ」
 ふわりと石鹼の香りがして、すぐ背後でユキがしゃがみこんだのがわかった。逃げ場をなくし、都は脱いだ靴を見下ろす。地下街の靴屋で買った合皮の安物。表面をころころと雨粒が滑り落ちていく。
「この雨だろ? こっち着いたらびしょ濡れで、織子さんが風呂入れって言うから」
「雨なのになんでバイクなんか乗るの」
「だって電車賃もったいねーじゃん」
 話にならない。この七つ下のいとことしゃべっていると、都はいつも軽い徒労感をおぼえる。紫とはここまでの齟齬はないから、ジェネレーションギャップで片づけられる問題ではない気がする。
 目線を下にしたまま立ちあがり、都は居間に続く扉に手をかけた。そのあとを、犬みたいにユキがついてくる。
「着替えてきなさいよ、先に」
 ふりかえらずに言ったら、
「なにに?」
 という答えが返ってきた。
「え?」
「だから、なに着ればいいの、俺」
 都は返答に困った。この家に、男物の着替えなんてあるわけがない。
「私のバスローブ使いなさいよ」
 居間の扉が開いて、中から織子が顔をのぞかせた。胸元の開いたチャコールグレーのニットに同系色のプリーツスカート。長い髪はゆるく結って、胸の前に垂らしてある。
 普段は甘いブラウスや少女のような花柄のスカートを着ているくせに(これがよく似合うのがまた憎たらしい)、男がいるときだけシックを気取るなんてーーそんなふうに思ってしまうのは、都自身、ユキの来訪に華やいだ気持ちをおぼえてしまうからに他ならなかった。
 多いときには週に一、二回、まったく顔を見せないときには何ヶ月も間が空くことがあるこの気まぐれな来訪者に、この家の女たちは甘かった。皮肉屋の司でさえ、ユキに対しては攻撃の手をゆるめるほどである。ユキのほうでもそれは重々承知して、甘い蜜を思うぞんぶん啜すすりあげようとしているようなところがある。
 十代のころは新しいゲームソフトやライブチケットや洋服、欲しいものができると母親に内緒でやってきては織子にねだっていたが、〝成人のお祝い〞に大物(バイク)を仕留めてからはさすがに慎んでいるようだ。金額にせよ頻度にせよ、ユキの躊躇のなさにはさんざん驚かされてきたので、彼にもそんな分別があったことにむしろ都は驚かされた。この家の娘たちは織子になにかをねだったことなど一度もないし、そんな発想すらなかったから、次から次へとユキが繰り出すおねだりの数々を指を咥えて見ているし
かなかった。わたしの卒業祝いなんて、使いさしのファンデーションとちびた口紅だったのよ?
「みいちゃん、早く出してあげなさいよ。ユキちゃんが湯冷めしちゃうでしょ」
 それだけ言うと、織子はさっさと居間へ引き返していった。自分で出してやる気はかけらもないらしい。
「バスローブって、だってサイズが......」
 都はユキをふりかえったーーと、その拍子に、鼻の先が裸の肩にぶつかる。あ、と思って、
「ユキって身長いくつ?」
「百七十三」
 その瞬間、百七十三という数字は都にとってただの数字じゃなくなった。
 ぶしゅっとユキが盛大にくしゃみして、顔面に唾が降りかかった。汚いとは思わなかった。ごめんごめん、とユキの手が乱暴に顔を拭う。されるがままになって都は目を閉じた。
「なにやってるの。早くしないとユキちゃんが風邪ひいちゃうじゃない」
 甘くもったりとした織子の声が、ドアの向こうから聞こえてくる。
 腹減った、ピザ食いたい、とユキが言い出して、ピザを取ることにした。ピザか寿司かデリバリーの中華か、ユキがこの家にきて食べたがるものは決まっている。都の手料理はおふくろの味がするからと言って食べたがらなかった。料理の基礎を、都はユキの母親である香苗に教わった。
この雨で注文が殺到しているのか、配達に一時間ほどかかると言われた。一時間も、と都はつい口に出し、うかがうように織子やユキをふりかえったが、二人はそれぞれ手元の本や携帯に夢中でなんの反応もしめさなかった。
 案の定、織子のバスローブはユキにはちんちくりんだった。すね毛の薄いO脚気味の脚が丸出しになっている。あらいいじゃない、似合う似合う、と本から顔もあげずに織子はてきとうなことを言い、パンツ穿いてないからすーすーする、ととんでもないことをユキは言って、冷蔵庫から勝手に取り出したビールを飲んでいる。椅子の上にあぐらをかいているので、裾がめくれあがっていまにも中身が見えそうである。
 カマンベールチーズと刻みわさびの海苔巻き、わかめとねぎのぬた、白菜とおかかのポン酢和え、冷蔵庫にあるもので軽くつまめるようなものをさっと何品か拵えてテーブルに並べ、ユキにつきあってビールを一缶だけ飲み、ユキの繰り出す脱力するような話の数々――「ああ、バイト? こないだやめた。なんかさあ、俺もっとクリエイティブな仕事がしたいっつーか、なんかこうあるじゃん? もっとぐっとぱっとしゃっとしてるようなの」「こないだツレに誘われて二丁目いってきたんだけどさあ、俺まじでゲイになりたい。まじでイケる気すんだよね。だってゲイってなんかかっこいいじゃーん」
「俺さあ、こないだわかっちゃったんだよね。女は二種類に分けられるって俺ほんともうわかっちゃったの。ってのは要するにぃ、猫派か犬派かってことなんだけど、ちなみにみいちゃんは犬派でしょ? 犬派と見せかけて実は犬派っしょ?」――に曖昧に相槌を打ちながらも、都はどうしても目のやり場に困って、
「ちょっと、和室に着るものがないか探してくるね」
 ついに立ちあがった。どれだけ脳が溶け出しそうなことをユキが言い出しても意にも介さず本を読んでいた織子が、そのときだけかすかに頭を動かしたが、強い意志で素通りして都は居間を出た。
 和室に足を踏み入れてすぐ、つま先になにかがあたった。灯かりをつけて確かめると、先日、病院でもらったコルセットだった。いかにも大げさで不格好でばかみたいだったから、病院で巻いてもらったきり一度もつけていなかったのだけど、もしかしたらこの先使うこともあるかもしれないし、捨てるにしたって不燃ごみかしら? それとも粗大ごみ? と首をひねることになり、なんとなく捨てるに捨てられないまま和室に放り込んでおいたのだ。
 和室の中は、雨のにおいと荒廃のにおいでみたされていた。戸を開けてしまったことを、即座に都は後悔した。
「みいちゃん、なにしてんの?」
二階から降りてきた紫が、和室の入口に立ち尽くす都に気づいて声をかけた。
「お父さんのパジャマ、どこかになかったかと思って」
「パジャマ? なんで?」
「ユキの着替えに......」
 そこで二人は黙り込み、和室の惨状を眺めた。
 箱入りの文学全集、骨董的価値があるらしいが欠けたり割れたりしてしまっている陶器類。ワードプロセッサー、レコードプレイヤー、トレース台、南の島で舞いあがって買ってしまったらしい変なお面。シルバニアファミリーの家、リカちゃん人形と愉快な仲間たち。恐竜の標本のように場所を取っているあやしげな健康器具の数々。三人分の卒業アルバムと卒業文集。開運のツボと開運のクリスタルと金ぴかのビリケン様、等々が雑然と置かれている様子は、不法投棄をやらかしてしまったようなうしろめたさを都
に抱かせた。ここは自分の家だというのに。
 隣の紫の様子をうかがうと、彼女も同じ気持ちであることがわかった。普段はクールを気取ってすましている顔が、苦々しく歪んでいたから。
 そもそもこの洋館に、畳の部屋があること自体がおかしかった。家を建てるとき、織子はここにサンルームをつくるつもりだったらしいが、どうしても縁側付きの和室が欲しいという日比野のたっての希望で、この洋館には不似合いな和室をつくることになったそうだ。日比野の死後、縁側をとっぱらい、当初の予定どおりサンルームにする計画もあったのだが、これには都と司が大反対した。日比野を見殺しにしたーーと幼い姉妹は思い込んでいたーー織子に対する復讐のつもりで。
 そうしていま、このような有様になっているのだった。
 都からすれば、こんなもの取っておいてどうするの、と思えるようなものを、母も妹たちもこの部屋に放り込む。自分の部屋には置いておきたくないけれど、捨てるに捨てられない、困ったな、どうしよう、ええい、和室に放り込んでしまえ、とばかりに。
 荒廃を織子のせいにするのは容 易いが、ここに住まう女たちすべてがこの惨状を引き起こしている気が都はする。意志の強さで鈍さを御する術を、この家の女たちは護身術として身につけていた。そういった意味で、四人は共犯者なのかもしれなかった。
 玄関のチャイムが鳴った。ピザが届いたのだろう。玄関ホールを挟んで反対側の居間から、いぇーピザいぇー、とユキの騒ぐ声がする。都は紫と顔を見合わせ、ものも言わずに和室の戸をそっと閉めた。
 ピザの代金は織子が支払った。このところ出費がかさんでいたので、都は内心ほっとした。毎月決まった額を織子から受け取り、自分の収入と合わせて都は家計をやりくりしている。司の収入は月によってまちまちなのではなからあてにせず、入れられるときに入れてもらっている。
 実際のところ、織子にどれだけの収入があるのか、どれだけの貯金があるのか、都はまったく知らなかった。暮らしぶりはそう悪くなさそうだけれど、目立っていいわけでもないようだ。基本的に家にいて、三食家で摂る。家にいるときは仕事をしているか本を読んでいるかのどちらかで、ごくたまに出かけるときは家の前までタクシーを呼びつけ、銀座の有名なお店の焼き菓子なんかをお土み や産げ に買ってきたりする。一昔前、売れっ子だったころのように服や靴やバッグを買い漁っている様子はない。
「忘れてた。みいちゃんにこれ渡すようにって、うちのオバサンが」
 瞬く間にピザを平らげてしまうと、思い出したようにユキは言って、タンポポ色のど派手なショルダーバッグから茶封筒を取り出した。
「うちのオバサン」というのは、ユキの母親で、織子の妹で、都にとっては叔母にあたる香苗のことだ。まだ都や司が幼かったころ、香苗はちょくちょく家に顔を出してはなにくれとなく世話を焼いてくれた。結婚してユキが生まれてからは顔を出すことも少なくなってしまったが、都や司にとっては、織子よりよほど母親に近い存在である。
キッチンカウンターでコーヒーを淹れる準備をしていた都は、なんの気なしに茶封筒を開いてぎくりとした。中から出てきたのは数枚の写真と身上書だった。
「これって......」
 どきどきして言葉が続かない。
 こんなの、だれがどう見たってお見合い写真だ。こんなものをよこすなんて、いったい香苗さんはどういうつもりなんだろうーーってそんなの決まってる。悪いことは言わないから、みいちゃん早くこの家を出たほうがいい、さっさとあの人から離れたほうがいい。このところ顔を合わせるたびに、そう言って香苗は都を諭していたのだ。ついこのあいだも、だれかいい人いないの? と焦じれたように電話で問う香苗に、うーん、そうねえ、と川上の顔を思い浮かべながら曖昧な返事をしたところだった。
 写真には眉と髭の濃い、四角い顔をした男性が写っていた。やや太り気味だが、人は悪くなさそうだ。証明写真のように正面を向き、スーツを着てかしこまっている写真。川辺でバーベキューをしている写真。マーライオンの前でピースしている写真。三十四歳。身長は百七十三。都はなんだか、この世の男たちすべてが百七十三な気がしてくる。
「お、ゼッツーじゃん」
 そのうちの一枚―ーバイクにまたがった写真を覗き込んで、ユキが目を輝かした。
「やっぱかっけえなあゼッツー。こんなおっさんにはもったいねえけど」
「おっさん」
 都はぽつりとつぶやいた。
「え、だっておっさんだろ」
「そうね」
 写真を見ていちばんに都もそう思った。なにこれ、おじさんじゃない、と。なのに、他人から言われるとみじめな気持ちになった。それも、自分の若さになんの疑いも持っていないこの子に言われると、ことさら応えた。だけど、と自分を慰めるように急いで都は考える。川上先生はおじさんには見えない。まだどこか、青年っぽいかんじを残してる。
「なんの写真?」
 食後のアイスクリームを食べていた紫が顔をあげた。都は細口のポットでコーヒードリッパーに少しずつお湯を注ぎながら、ちらりとユキを見た。このことについて、都の口からなにか発したくはなかった。
「知らね。なんの写真?」
 顔の横で写真をひらひらさせながら、本気でなんにもわかっていない顔をしているユキに、都が軽くあきれ軽くほっとしていると、
「決まってるじゃない。お見合い写真よ。ねえ、みいちゃん?」
 アイスクリームを食べていた織子が決然と言い放った。唇の端に、白いクリームをくっつけたまま。
「えっ」
 紫とユキが同時に叫んで、都を見た。二人とも判で押したように同じ顔をしている。お見合いなんてものは、遠い遠い異国のお話だと思っているような、自分たちには永遠に関係のないものだと信じきっているようなそういう顔。とっさに顔を伏せ、都はコーヒーをドリップすることに意識を集中した。ゆっくりゆっくり、のの字を書くように。
「みいちゃん、お見合いなんてするの?」
 お見合いなんて。
「ばーか、するわけねーだろ、そんなん」
 都のかわりに答えたユキが、紫のおでこをはたく。そんなん。
「やめてよ、ユキ。気やすく触んないで」
「そういうこと言われると、余計触りたくなってきちゃうじゃーん、ほれほれ」
「だから触んないでって言ってるでしょ!」
「おまえ、もしかして意識してんのか? 生意気に、異性ってやつを意識しちゃってんのか? え?」
 小競り合いを続ける若い二人に都は嫉妬をおぼえる。若い。あまりにもあっけらかんと若い。ジェネレーションギャップだなんて言葉では片づけられないこの距離。都は自分が、彼岸に立たされている気がした。
「良さそうな人ね、悪くないんじゃない。ねえ、みいちゃん、前向きに考えてみたら?」
 ろくに写真を見もしないで、織子は少女のような笑い声をあげた。機嫌の悪いときほど、織子はこんなふうに笑う。
 司がここにいてくれたらよかったのに。
 どうしようもないことを都は思い、すぐに頭から打ち消して、
「コーヒー、入りました」
 高名な茶人のようにもったいつけて言った。それから食器棚を開き、少し迷って、お客用のカップを人数分取り出した。

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