道徳入門

髙橋秀実

道徳入門

イラスト:宇田川新聞

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特別の国の特別の教科

 小学校1年生用の真新しい教科書(平成30年刊)を前に、私は姿勢を正した。
 懐かしい、というより、緊張感に包まれたのである。
 振り返れば、私が小学校に入学したのはかれこれ50年も前のこと。渡された教科書に何が書かれていたのかさっぱり覚えていないのだが、紙の匂いだけは記憶がある。ランドセルの革の匂いとともに、私は学校という得体の知れないところに入っていく恐怖におののいていたのだ。入学前、近所に住むエミコちゃんのお母さんから「一緒に通学してね」と頼まれていたのだが、私は断固として拒否した。彼女のことが嫌いだったわけではなく、好き嫌いに惑わされる余裕がないほど、学校がこわかったのである。
 今にして思えば、単なる小心者なのだが、小心者からすると教科書はひとつの権威だった。見るからに四角張った権威であり、そこには「正しいこと」が書かれている。この先、生きていくにはその「正しいこと」を身につけなければならず、そのために裏表紙に名前を書いたり、肌身離さず持ち運んだりしなければならなかったのだろう。そう考えると、私たちは教科書という物を通じて、この世には「正しいこと」があるという実感を得るのかもしれない。
『国語』『算数』『理科』『社会』......。教科書のピカピカした佇まいは50年前も今も変わらない。しかし「おや?」と目に留まったのは『道徳』である。
 そんな科目があるのか。
 聞けば、2018年度から小学校では「特別の教科 道徳」(中学校は2019年度から)がスタートしている。なぜ「特別の教科」と付いているのかというと、そもそも道徳教育は「学校の教育活動全体を通じて行うもの」(『学習指導要領』)とされているので、それとは別に教科化されたということを意味しているらしい。教科化とは、教科書がつくられ、一定時間の授業が義務づけられ、通知表でも評価が下されるということ。これまで「算数が得意な子」「国語の苦手な子」などはいたが、これからは「道徳が得意な子」「道徳の苦手な子」も現われるということなのだろうか。
 一体、何を学ぶのか? 
 おもむろに教科書(『しょうがく どうとく いきる ちから1』日本文教出版)を開いてみると、まずこんなことが書かれていた。

  がっこうが たのしみだ
  たのしい がっこう
  がっこうって たのしそうだね。

 くどいまでに学校を楽しいところだと説いている。これはすべての前提になっているようで、いきなり「がっこうで たのしい ことは なんですか」と問いが出されていた。他社の教科書でも「がっこう だいすき」「たのしい まいにち」(『どうとく1 きみが いちばん ひかるとき』光村図書)、「たのしい がっこうせいかつ」「たのしい ことが いっぱいだよ!」(『あたらしい どうとく1』東京書籍)という具合に共通しており、どうやら学校を「楽しい」と思うことが道徳の第一歩のようなのである。
 楽しいわけないだろう。
 私などはついそう思ってしまう。未知の空間に送り込まれ、子供たちはかなり神経を使うのではないだろうか。実際、私も小学校1年生の時、『音楽』の授業で「トイレに行ってもいいですか」と発言するタイミングを計っているうちに合唱の練習が始まってしまい、そのまま小便をもらした。隣の子に「髙橋君がもらしました」と告発されて大恥をかいたのだが、そうこうするうちに同級生の青木君が『国語』の時間にウンコをもらした。近所の畑で肥料を撒いているのかと思ったら犯人は青木君で、以来、我々は糞尿コンビとして笑いの対象になった。先生には「授業の前にトイレに行きなさい」と叱られ、それに従ったのだが、今度は授業の始まるチャイムを聞くと催すという症状に見舞われ、授業は常に緊迫感に満ちていた。とても「楽しい」とは思えない状況だったのだが、それも不道徳ということになってしまうのだろうか。大体、楽しいか楽しくないかなどということは憲法で保障された内面の自由ではないか。
 そもそも「道徳」とは何なのか?
 おのずと疑問がわいてくるのだが、それは教科書の冒頭に説明されていた。

  「どうとく」では
  よりよく いきる ために
  たいせつな ことに ついて、
  みんなで かんがえるよ。
          (前出『しょうがく どうとく いきる ちから1』)

 よりよく生きるために、大切なことを考える。
 定年後か?
 と私は思った。「よりよく」というくらいだから、すでにある程度はよく生きているわけで、さらなる充実を目指しているみたいである。この「よりよく生きる」とは『学習指導要領』にも記されているフレーズなのだが、日本語としてどこか奇妙だ。「よく笑い」「よく学び」「よく遊ぶ」ならわかるのだが、「よく生きる」とは具体的に何を「よく」やるのか今ひとつピンとこない。これはむしろ「よく生きているなあ」などと呆れる場合に使われるのではないだろうか。教科書には「よりよく いきる ために たいせつな こと」として、次のことが挙げられていた。

  きそくただしい せいかつ
  ありがとうの きもち
  まわりの ひとに しんせつに
  かぞくの やくに たつ
  すききらい しないで
  みんなの ために はたらく
  ともだちと なかよくし、たすけあう
  ......。

 早い話、「節度」「節制」「感謝」「親切」「家族愛」などといった徳目で、そのまま実践すればよさそうなのだが、それらを「みんなで かんがえる」のが道徳らしい。徳目と違って道徳は「考え、議論する道徳」(文部科学省)なのだそうだ。
 教科書にはその素材として、人に親切なことをしたり、仲間外れになっていた子供と遊んだりする物語などが掲載されている。しかし結末は決まって「まえより ずっと いい きもちでした」「みんなは、にっこり えがおに なりました」「いままでの 中で いちばん たのしいと おもったよ」「そんな ふたりを 見て、おにいさんは、にこにこして いました」という具合で、徳目を実践すれば報われるという訓話になっている。あらかじめタイトルに「しんせつは いい きもち」などと明示されているくらいで、そこから何を考えるのかよくわからない。議論となると、善行の実益について話し合うのだろうか。
 さらに私がひるんだのは各教科書に共通する「わたしの よい ところ」というテーマだった。自分の長所に気がつくということらしく、『新しい どうとく2』(東京書籍)では「じぶんへの しょうじょう(賞状)」をつくらされる。シートに「じぶんの すきな ところ、いい ところ」を記入する。何も思いつかない場合は「ともだちに そうだんしましょう」とのこと。出来上がった賞状は順番に発表し、「はっぴょうを きいたら、ほかの人は、はくしゅを しましょう」というのだ。
 イヤです。
 私ならそう言うだろう。大体、自分のよいところなどはいまだにまったく思いつかないし、人に「僕のよいところって何?」などと訊きたくない。ましてやそれを発表するというのは自画自賛を裁かれるようではないか。そう考えたのか、『小学どうとく 生きる力4』(日本文教出版)などはこれをゲーム化していた。その名も「『友達のよいところさがし』ビンゴゲーム」。まず3×3のマス目の中央に自分の名前を書き、そのまわりの8マスに「自分のよいと思うところ」を記入する。それを持って教室内を歩き、相手を見つけてじゃんけんをする。そして負けたほうが相手の「よいところ」を1つ言う。言われたことがカードの中にあったら、そのマスに〇をつける。〇が縦、横、斜めの一列に揃ったらビンゴ。たとえビンゴになっても「どんどん進めて」、時間が来たら終了とのことで、その結果を次のように分類する。

  A 自分のカードに書いていて、友達が見つけてくれた。
  B 自分のカードに書いていたけれど、友達には見つけられなかった。
  C 自分のカードには書いていなかったことを、友達が見つけた。

 そして「A・B・Cについて友達と話し合ってみましょう」というのである。
 一体、何を話し合うのか。議論によって承認願望を育てるのだろうか。
 私などは自分の長所を8つ書くこと自体が難しく、書いた人がいたら、まずその人の人格を疑う。おそらく子供たちも相手の自意識を見抜くはずで、わざと外したり、迎合したりするのではないか。「よいところ」を探すというより、「よいところ」という傲慢を暴く結果となり、ゲームに夢中になれば、「よいところ」が「わるいところ」に転じて、中傷合戦に展開しかねないのではないだろうか。
 その点、『道徳5 きみがいちばん ひかるとき』(光村図書)の「『自分らしさ』のまど」は冷静に思えた。「友達のいいところ」をカードに書き、自分については「好きなことや得意なこと」「変えたいと思っていること」を記入する。それらを「自分らしさのまど」に貼りつけ、「気がついたことや考えたことをまとめよう」というものだ。「『自分らしさ』を見つめよう」と題されたこんな説明――。

  「わたし」には、いくつものまどがある。
  友達から見えるまどには、友達が思う「わたし」がいる。
  明るくて、がんこで、友達思い。それが友達から見た「わたし」。
  自分から見えるまどには、自分が思う「わたし」がいる。
  少し意地っ張りで、さびしがりや。それが「わたし」だと思っている。
  一つ一つのまどが、わたしのもつ「自分らしさ」の一部。
  あなたには、どんなまどがある?
  そのまどに、とっておきの「わたし」が見つかるかもしれない。

「自分らしさ」をめぐる抒情詩のようだが、私にはよく理解できなかった。友達が窓越しに自分を見ているというのはわかるのだが、私から窓越しに見れば、そこに見えるのは外の風景、あるいは友達ではないだろうか。そこに自分が見えたとするなら、それは窓ではなくマジックミラーで私は監視下に置かれていることになる。「とっておきの『わたし』」どころか囚われの「わたし」のようで、私などは「自分らしさ」より、置かれた状況をじっと見つめてしまいそうなのである。
 教科書には随所に「考えてみよう」という問いかけが出されているのだが、どれも難問ばかりだった。例えば、

  自分のよいところを見つけ、のばすためには、どんな気持ちが大切なのでしょう。
            (『どうとく3 きみが いちばん ひかるとき』以下同)

 長所を発見するのではなく、発見する際の「気持ち」を問われるのである。同様に人に対して「分けへだてしないで」というテーマでも、こんな問いかけ。

  公平にせっするためには、どんな気持ちをもてばいいでしょう。

 公平に接しよう、と呼びかければよいのに、やはり「気持ち」が問われている。そもそも公平に接するというのは行為である。気持ちがあって行為をするのではなく、行為の先に様々な気持ちが生じるのではないかと私は思うのだが、「道徳」の世界では「気持ち」や「考え」が優先するようなのだ。しかし「だれにでも公正で公平な態度でいるために必要なのは、どんな気持ちだろう」(『道徳6 きみが いちばん ひかるとき』光村図書)とまで追及されると、なにも誰彼構わず公正で公平になる必要はなく、相手を選ぶべきだという気持ちがわいてくる。他にも「人にやさしくするときには、どのような考えをもつことが大切だと思いますか」(前出『どうとく3』)、誠実さについても「誠実に生きるには、どんな心が大切なんだろう」(前出『道徳5』)と問われたりする。「誠実」自体、心のあり様のように思えるのだが、違うとなると元の心には「不誠実」が大切なような気がしてくるのだ。
 考えないほうがよいのではないだろうか。
 私はふと思った。かつてカントが指摘したように、道徳はやはり意図を条件としない「定言的命法」であるべきではないかと。日本でいえば戦前の「修身」のように「よく学び」「よく遊べ」「時刻を守れ」「怠けるな」「友達は助け合え」「喧嘩をするな」「元気よくあれ」「食べ物に気をつけよ」「行儀をよくせよ」「物を粗末に扱うな」「親を大切にせよ」「兄弟仲良くせよ」等と呼びかけるだけで必要十分ではないだろうか。
 なぜ考えることにこだわるのか、とあらためて文部科学省の『学習指導要領』を調べてみると、道徳教育の「目標」は次のようなことだった。

  よりよく生きるための基盤となる道徳性を養うこと

 ではその「道徳性」とは何かというと、「人間としてよりよく生きようとする人格的特性」(『小学校学習指導要領解説 特別の教科 道徳編』文部科学省 平成29年7月)とのこと。同語が反復しており、まとめると「よりよく生きるためによりよく生きようとする人格的特性を養う」という辻褄を合わせただけの無内容になっている。ちなみに「道徳教育」とは「道徳性を構成する諸様相である道徳的判断力、道徳的心情、道徳的実践意欲と態度を養うこと」(同前)らしい。この定義から「道徳」の2字を抜いたほうが、文章はすっきりと意味が通るわけで、はっきり言って「道徳」は無意味。「道徳」は必要性ばかりが優先しているようで、もしかすると文部科学省でも理解されていないのかもしれない。
 そういえば、明治時代に道徳界の偉人と呼ばれた西村茂樹(元文部省編輯局長)も、「我國獨り道德の標準となる者を亡失した」(『日本道徳論』岩波文庫 1935年)と嘆いていた。武士の没落とともに儒道も廃れ、神道も広まらず、仏教は「下等の民の間」(同前)だけに信じられている。それゆえ国民が団結できるような「標準」がないとぼやき、ついにはこう宣言した。

  道德の一事に至りては、我國は世界中一種特別の國となれり。

 日本は世界で唯一、道徳の標準がない国。「特別の教科」ならぬ「特別の国」だったわけで、彼は「生徒を聚(あつ)めて講義を爲(な)したりとて、其及ぶ所は甚だ狹し」(同前)と匙を投げるくらいだった。誇っているのか嘆いているのかよくわからないが、もともと「道徳」には拠り所がないのである。
 教えられないから考えさせる、ということか。
 自主性の尊重という大義のもとに、内容が丸投げされているようで、私はしばし呆気にとられた。しかし小学校1年生の頃からよく呆気にとられていたので、私はなにやらすっかり童心に返ったような気がする。せっかくなので「正直な心で」(『どうとく4 きみが いちばん ひかるとき』光村図書)ニッポンの「道徳」に向き合うことにしよう。

Profile

髙橋秀実

たかはし・ひでみね。1961年横浜市生まれ。東京外国語大学モンゴル語学科卒業。テレビ番組制作会社を経て、ノンフィクション作家に。『ご先祖様はどちら様』で第10回小林秀雄賞、『「弱くても勝てます」開成高校野球部のセオリー』で第23回ミズノ スポーツライター賞優秀賞を受賞。その他の著書に『TOKYO外国人裁判』『ゴングまであと30秒』『素晴らしきラジオ体操』『からくり民主主義』『トラウマの国ニッポン』『はい、泳げません』『趣味は何ですか?』『おすもうさん』『損したくないニッポン人』『不明解日本語辞典』『やせれば美人』『人生はマナーでできている』『日本男子♂余れるところ』『定年入門 イキイキしなくちゃダメですか』など。近著に『悩む人 人生相談のフィロソフィー』がある。

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