わたしの美しい庭

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書評『世界は〈きらきら〉に満ちている』 池澤春菜

 食べ物を美味しく書ける人を、わたしは信用する。全面的に、諸手を挙げて、無条件に信用する。だって食べ物を美味しいと思ったり、何かを体の中に取り込んで心と体を養ったり、人と分かち合ったり、懐かしい味を大事だと思う人の書く物語は、やっぱりちゃんと人の心の栄養になると思うのだ。
 だから、11ページ目にしてベーコンのお味噌汁にバタートーストを浸して食べる描写が出てきた時、この物語は絶対信用できるし、この組み合わせは絶対試してみなければ、と思ったのだ。
 物語に寄せた信頼は裏切られなかった。ベーコンのお味噌汁とバタートーストは人生の新発見だった。わたしが今住んでいる国の燻製のきいた生ベーコンと、肉食の国ならではのコクのあるバター、日本から持ってきた貴重な出汁と味噌、週に一回自分で焼く軽く口の中で溶けるパン。この本とこのタイミングで出会わなければ、知ることができなかった味だ。
 良い物語との出会いも、新しい味覚の発見も、どちらも人生を豊かにする。

 物語は屋上に神社のあるマンションを中心に、ゆるやかに結びついた人々を描く。
 神主で翻訳家の統理、移動式のバーを営む路有、統理の別れた妻の遺した小学生の百音は3人で暮らしている。マンションに住む医療事務の桃子、桃子の亡くなった恋人の弟・基。そしてさらにそれを取り巻く人々。誰もが痛みと失ったものと手に入らない何かを抱えている。そして、痛みを知るもの同士、けして踏み込みすぎず、程よい距離感で相手を気遣う。神社を中心に、お互いの引力を感じながら、遠くを回る衛星のような人間関係だ。
 登場人物たちは、何度も世間の無理解や、思い通りに行かない人生に傷つく。噂話に興じる不特定多数のおばさま、口さがない同僚、無意識の線引きをするクラスメイトたち、家族や親戚の心遣いに見せかけた押しつけ。それらは、やすりのように、心の柔らかな部分を削り、その傷はなかなか癒えない。でもそんな時に、繭のようにそっと傷を包み、治るまでの時間をくれる人もいる。

 統理の管理する神社は、縁切りで有名だ。
 お参りに来る人たちは、それぞれが決別したいものを抱えている。幸せや満足は、祈って与えられるものではない。でも、ネガティヴなものを意図せず押しつけられることはある。自分にとって何がいらないものなのか、それを見つめ直すことは心の自浄作用だ。未練や執着、心にこびりついた澱を引きはがし、捨てる。そして空いた隙間は、温かな人たちと美味しい食べ物で埋める。
 そう、みんなとてもよく食べる! 気になって抜き出してみたら、屋上で食べるおやつ、お見合いのスーパーショートケーキ、カクテルに、餃子、お店中華、トマトのお粥、昔ながらのケーキ、ぬるい西瓜、茄子素麺......登場人物たちは折に触れ、ひとりで、または誰かと食事をしている。
「誰かと分け合った食べ物は、ひとり分の食事をひとりで食べるよりもずっと心を温めてくれる」
 そうして、少しだけ元気になり、前に進む力を、もしくは後ろを振り返る勇気を得る。

 その全部が、なんだかきらきらしている。甘酸っぱいとか、尊いとか、言い方は色々あるかもしれないが、きらきらしているのだ。
 身内の言葉になるが、昔、父が「傷ついたガラスの方が、外の景色は綺麗に見える」と書いていた。この物語の中に反射しているきらきらは、たぶんまっさらで、透明度の高いガラスからは見えない景色だ。日の光を、統理が撒く水を、緑を、花を、そして人々を覆う乱反射。
 それはもしかしたら、縁切りの神様がみんなに振りかけている、魔法の粉なのかもしれない。もしかしたら、百音の見る世界、あるいは早くしてこの世を去った坂口くんが、あの世からみんなを見守っているのかも。
 そのきらきらは、けしてそれぞれの抱えている問題を解決はしないけれど、少しだけ世界を美しいものにしてくれる。向き合うべき問題を残しながらも、確かに進んでいく彼らの歩みを、水脈のようにきらきらが取り巻いている。
 だから、読み終わった時、わたしたちにも少しだけそのきらきらが移っているのだ。最後のページから目を上げた時、きっと世界は少し違って見える。美味しいものを食べたくなるかもしれない。誰かと話したくなるかもしれない。昔のことを思い返せるかもしれない。明日が、少し明るく見えるかもしれない。
 これはそんな魔法に満ちた物語だ。

 未だ描かれていない人たちがいる。統理の過去も、路有の未来も、百音ちゃんがマドモアゼル・ノンのワンピースを手に入れることができたのかも知りたい。マンションには他の住民もいるはずだ。
 ぜひ続きを書いていただきたいなぁ。食い意地が3割くらいあるけれど、残り7割はこのきらきらにもう少し浸りたい、という純粋な思いだ。美しい庭にまた戻れる日を、待っています。

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*池澤春菜(いけざわ・はるな)

*声優・文筆家。著書に『乙女の読書道』『SFのSは、ステキのS』『台湾市場あちこち散歩』などがある。

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