メゾン刻の湯

小野美由紀

メゾン刻の湯

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「わたしは光をにぎっている」公開記念トークイベント

対談:中川龍一郎(映画監督)×小野美由紀(作家)

「わたしは光をにぎっている」公開記念トークイベント

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映画「わたしは光をにぎっている」公開を記念して、トークイベントが行われました。

その中で、映画監督の中川龍一郎さんと作家の小野美由紀さんの対談部分を抜粋してお届けします。

お二人共に手掛けた作品が「下町の古い銭湯が舞台」という縁があり実現したイベント。場所を描くことについて、様々語ってくださいました。

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映画「わたしは光をにぎっている」概要

<物語>

亡き両親に代わって育ててくれた祖母・久仁子の入院を機に東京へ出てくることになった澪。都会の空気に馴染めないでいたが「目の前のできることから、ひとつずつ」という久仁子の言葉をきっかけに、居候先の銭湯を手伝うようになる。昔ながらの商店街の人たちとの交流も生まれ、都会の暮らしの中に喜びを見出し始めたある日、その場所が区画整理によりもうすぐなくなることを聞かされる。その事実に戸惑いながらも澪は、「しゃんと終わらせる」決意をする――。

小説「メゾン刻の湯」概要

<物語>

どうしても就職活動をする気になれず、内定のないまま卒業式を迎えたマヒコ。

住むところも危うくなりかけたところを、東京の下町にある築100年の銭湯「刻(とき)の湯」に住もうと幼馴染の蝶子に誘われる。

そこにはマヒコに負けず劣らず"正しい社会"からはみ出した、くせものばかりがいて――。

寄る辺なさを抱きながらも、真摯に生きる人々を描く

確かな希望に満ちた傑作青春小説!

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司会:ここからは中川監督と作家の小野美由紀先生のお二人にお話いただきます。

小野さんは『メゾン刻の湯』という小説を書かれていて、この作品が銭湯の中にあるシェアハウスを舞台にされています。映画と小説、お互いに銭湯を舞台にするというところからそれぞれの作品についてお話していただけたら面白いんじゃないかなということでお呼びさせていただきました。よろしくお願いします。

小野:軽く自己紹介すると、メインに小説を書いている作家です。

近著の『メゾン刻の湯』という小説が、町や銭湯の良さみたいなものを伝えたいという気持ちで書いたものだったので、今回の映画も中川監督が同じ想いを伝えたいんだろうだなあと感じられたのがすごいびっくりしました。

『メゾン刻の湯』も、大学を卒業して仕事も決まってないマヒコという若者が築百年くらいの銭湯に偶然住むことになって、障害を持っている子とかLGBTの男の子とか親がいなくて置き去りにされた子どもとか、いろんな人と一緒に共同生活しながら銭湯を運営していくというお話です。

中川:拝読しましたが、本当によく出来ていてエピソ-ドがすごく豊かでした。出版されたのは僕が脚本を書いてたのと同じぐらいだと思います。去年の頭ぐらいですよね?

小野:2018年の2月ですね。

中川:もし僕が当時これを読んでいたら、いくつかのエピソードを自作でも取り入れたいと思ってしまっただろうな、と感じました。そういう意味では今読めてよかったです。そうでないとこの映画の形も変わっていたかもしれません。

小野:今日初めて「わたしは光をにぎっている」を見させていただいたんですけど、映像を見てすごく驚きました。私がこういう風に書けたらいいなと思っていた、銭湯の青の天井に水が反射してゆらゆらする感じとか、町のちょっと古びてるんだけどいい感じの空気とかが、想像した更に上をいく美しさで描かれてて、本当にびっくりしましたし、すごく素敵な作品だなと思いました。ロケ地はどちらなんですか?

中川:清瀬の伸光湯(しんこうゆ)です。

いい名前ですよね。ここはおじいちゃんとおばあちゃんがやっていたんですが、閉店することになってしまいました。今回のロケ地のお店の幾つかはすでに閉店してしまっています。

小野:フィクションの物語にしすぎると、「場所」が主人公ではなくなる。物語にしなさすぎると、ドキュメンタリーでやればいいとなってしまう。ドキュメンタリーでやらなかった理由はなんですか?

中川:ドキュメンタリーとして描いたら、「町を取り壊す」という行政の在り方に対しての僕の意見が、バイアスとして絶対に入ってきます。それを一般公開した場合、それを見に来るお客さんの層は、場所づくりという社会課題にアンテナのある人に限られると考えました。それをフィクションという別の枠組みの中で作ることで客層に多様性を持たせることができます。その方が現実的にほんの少しでも社会にアプローチする上で効果的ではないかと思い、フィクションでありながら、ドラマに偏りすぎない物語を構想しました。

小野:町や主人公の個性を強くしなかったのは、町が主役、町が主人公という意図だったのかなと思ったんですけども。

中川:そうですね。

小野:町を撮る、という意欲はどこから生まれてきたのですか?

中川:この作品に限らず、いつも自分が作品を作るときは「場所」と「人」を等分で考えています。普通は、〇〇さん主演でやってください、というところから逆算して作られることが多いですが、僕の場合は「この場所に誰がいるか」というところから物語を作ります。

小野:町を撮ることに対してのこだわりはどこから生まれたんですか?

中川:映画が持っている「アーカイブ性」というものがすごくあると思います。60年代のパリの街並みは今の僕らに体験として残ることは難しい。でも60年代の映画を観ると、5月革命をやっていたころのパリが映っているわけです。

戦前の日本の建物は都市開発があったりしてほとんど残っていませんが、一部の戦後間もないころの映画などで映像として残されている。

すごく意識したのは、映像の中でもいいから過去にあって未来に失われるものと今の観客を接続することでした。未来の人たちに対しても、これは絶対にやらなくてはいけないなという意識がありました。

人類は永い年月、住んでいる家や田畑など、自分自身の寿命よりも場所の寿命が長かったはすでした。でも20世紀という急激な変化の時代を経て、僕らよりも場所の方が速く死ぬようになった。

僕の大学時代の友人が亡くなってしばらくして、友人と行っていたお店が軒並み無くなっていきました。そうすると、一度僕の中から奪われた彼という生が、大袈裟ですが再び死んでしまったような気がしたんです。逆に彼と行っていたお店で残っているところもあります。そこに新しくできた友人といくと、かつての彼とその友人が接続したような気持ちが生まれます。場所は言葉を超えて過去と現在、それから未来を接続する依代だと思います。をなくしてしまうと、言葉だけで話していても、切断されたままな感じがします。

小野:映画を拝見して思いましたが・・・監督、すごく場所フェチですね(笑)。

中川:場所フェチ、本当にそうです。

小野:たしかに、場所に残る記憶というのはありますね。『メゾン刻の湯』の舞台は文京区で、昔は銭湯がすごくたくさんあったんですけど、この3、4年でバタバタとなくなってしまっいました。

銭湯を保存しようという活動をしている建築家の女の子を取材したんですけど、銭湯は人間関係のハブだから、いまだにお風呂のないおばあちゃんや、家に住んでいるおじいちゃんがくるし、そういう人は銭湯が一つ無くなると500m先の他の銭湯まで行かなければいけない。そもそも生活に困るし、そこに行けば顔見知りの人と会うことができたのが会えなくなってしまう。生きがいを失ってしまう。常にそこで培ってきた人間関係がなくなってしまう、ということを彼女は言っていました。場所に募る人間関係みたいなものが失われるのは社会の流れかもしれないけれども、本当はあったほうが良いものがなくなってしまうことがすごく残念だなと思う。そうした思いがあり、今回の小説のテーマにしました。

今回のロケ地は全部伸光湯さんなんですか?

中川:薪だけは伸光湯で撮っています。居住スペースは伸光湯では撮れなかったので銀泉湯という豊島区にある場所で撮りました。そこは廃業されていたので、居住スペースの撮影に使わせていただきました。

小野:町のロケはどこですか?

中川:町は葛飾区の立石で全部撮ろうと思ったんですが、なかなか許可が下りないところもあってすべてというわけにはいきませんでした。

小野:そうなんですか。

中川:ですので、東京の「架空の下町」として描くために、商店街は撮影は立石だけではなく横浜の六角橋など様々な場所を取り入れています。

小野:そういうロケは簡単にやらせてくれるイメージでした。

中川:実はそうでもなく、繊細な面が結構あります。

司会:先ほども話にあがりましたが、ドキュメンタリーにすると一部にしか届かないけど、フィクションにすることで、問題意識をもっていない人にもこういう現実があるんだよと伝えられる手段になります。

一方で、小野さんもフィクションの小説だけでなく、noteなど他のメディアでコラムを書かれて、そのなかで社会に対する問題提起をされていたりもします。

そのお二人にお伺いしたいのですが、フィクションだからこそ語られるものとノンフィクションだからこそ語られるものの使い分けなど意識されているものがあったら教えてください。

小野:書くことは仕事だし、だから小説は仕事だし。でも『メゾン刻の湯』はふにゃふにゃした童貞が大人になってく話だと最初からストーリーを作っていたので、そのために必要な場所と素材と通過となるものはなにかを考えたときに、たまたま私は銭湯が好きだなと思ったんです。

駆け出しのフリーライターを始めたときにお金があまりにもなかったから代々木八幡にあるぼろい4万5千円の風呂なしアパートを借りて、近くに八幡湯という銭湯があったので、そこに毎日通ってました。フリーライターってお金もないし、コネもないし、仕事もないから暇なんですよ。そういうときに銭湯に行くと、知っているわけではないんだけど、あの人この前もいたな、みたいな人がいるんです。無言なんだけどお互いのこと認識していて、その場を共用できる仲間みたいな感じの地域のコミュニティがあるという安心感がありました。

主人公が全然つながりがない中でそういう場所に入っていく。そういうことはかけがえのないことだし、現代の人間関係ぽいなと思ったんです。そうやって場所を選ぶと、その時、私がマイノリティや多様性に関心があったから、じゃあ登場人物はこういう人でこういう人でと決めていったら話ができたという感じなんですよね。

中川:普段、エッセイも書かれているからこそ、主人公や他の登場人物を作れた可能性もあり得ますよね。エッセイの題材などが潜在的に素材になりえている。

小野:そうだと思います。普段から見ているものが全部素材になる。おそらく監督も同じだと思うのですが、そうやって作っていったとこはありますか?

中川:そうですね。多分どちらもリンクしているというか、今の社会に生きてる以上、全然それを無視したものは作れないですね。

最近『刻の湯』が漫画化されて、連載が始まりましたよね。

小野:KADOKAWAさんのCOMIC BRIDGE onlineさんですね。

https://comic-walker.com/contents/detail/KDCW_CB01201084010000_68/

中川:あれが漫画化される意味もすごく大きいなと思っていて、小説は読まない方も漫画の中で義足や性的マイノリティのキャラクターと出会えるのは意味があると感じます。そういったテーマは関心がないと気づきにくいものだから、どこでどうそれを見られるかなどの場所が大事になってくるということを感じていて、漫画を応援したいと思っています。

小野:『刻の湯』も映像化されるといいなと思い、映像が目の前でイメージできるような書き方をしていました。

中川さんも小説を書かれるそうですが、小説と映像は表現が違うと思うんですけれど、今どうお感じになっていますか?

中川:僕は小説をこれから書く段階なんですが、エッセイや詩などを高校時代に書いていたのがキャリアのスタートなので、今の自分の中で「書くこと」は心の作業という印象です。映画は心だけでなく、頭を使った創作という意識もあります。自分が社会で感じた要素をためて、ためたものをどう解釈しているのか再認識するために映画を撮るイメージです。そういう意味では、まず書くことがあって、その先に映像があるといえるかもしれません。

小野:映像の手前に書くということがあるんですね。

中川:と言っていいかもしれません。だからこそある意味で「書くこと」は映像よりも本質的にクリエイティブな作業で、より純粋な段階の創造だと感じています。映画を作れなくても死ぬことはないけれども、書くことが禁止されたら、生きることはきつくなるだろうなと思っています。

司会:お二人ともありがとうございました。

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