龍神様のお嫁さん…のはずですが!?

佐々木禎子

龍神様のお嫁さん…のはずですが!?

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<冒頭お試し読み!>龍神に選ばれし娘。


「おまえ──死にたいのか」
 物騒な言葉が闇のなかに大きく響いた。
 怒りをはらんだ男の声に呼応するかのように窓の外で風がうなった。
 続いて稲光が闇を引き裂いて室内を照らす。
 だだっ広い日本家屋の畳が敷かれた和室で、ふたりの男が対峙している。
 ひとりは薄くつぶれた布団に伏して、もうひとりはその枕元で胡座をかいて座っている。
 横たわる男は白銀の長髪に金色の双眸。整った柔和な面差しが銀月を思わせる、まばゆいくらいな美貌の主である。
 一方、座した男は黒髪と漆黒の双眸の、ぎらぎらと滾る熱さと苛烈さが印象的な美男子だ。
 男の胡座の上にあるのは綴られた部厚い紙束。
 紙束の一番上には達筆な筆文字で『所縁帖』としるされていた。
「死にたいわけじゃないよ。それにそもそも僕たちにあるのは消滅で、それはきっと生き物の死とは違うものだ」
 柔らかくゆったりとした声がそう応じた。見た目そのままの穏和な話し方だ。
 遅れて届いた轟音の後で雨が降りはじめる。バラバラと屋根を叩く雨は、あっというまにどしゃ降りになった。
「またおまえはそうだ。消えてなくなるってのと死ぬってのは似たようなもんだ。似てるってことは同じってこと」
「似てるっていうのと同じっていうのは違うよ。相変わらずおおざっぱなんだから」
「おまえが細かすぎるんだ。しかも頭でっかちで概念的すぎる。そんなにいっぱい頭にものを詰めてるから重たくなって枕から持ち上げられなくなって寝込むんだ」
「きみは ......また、目茶苦茶なことを言う」
 優しげな笑いと共にそう返す。
「いいから早くここからひとり選べよ。おまえに元気になってもらわないと俺はなかなかうちに帰れなくて、困るんだ」
「ここにいてくれなんて頼んでないよ?」
「帰れとも言われてない。帰れと言われてないってことは、いてくれって頼まれたようなもんだ。──この部屋、暗いな。辛気くさい」
 胡座座りの男はふと気づいたかのようにそうつぶやいて片手を軽く掲げた。
 バチンッと音がして部屋の明かりが灯る。
 照明のせいで透かし彫りの飾り欄間に陰影が生じ、かぎ爪に珠を掴んだ龍が波のまにまにゆっくりとのたうったかのように見えた。
「こいつは?」
 胡座の足のあいだの『所縁帖』をぺらりと捲り、指でさししめして男が言う。
 一枚一枚に、人の名前とおぼしきものが墨で黒々と書きだされている。
「その人は駄目だよ。お世話をしなくちゃならない相手がすでにいる人だからね」
「さっきからあの人も駄目、この人も駄目って......。いいか。とにかくここからひとり選べ。選ばない限り今宵はおまえを眠らせないからな!!」
「安静が大切だって言いながら、すぐそういうことになる。きみは看病というものに向いてない」
「向いてないのにおまえのために精一杯やってやってるんだ」
 威張って言われ、銀月に似た男は布団のなかで仕方なさそうな微笑を浮かべ「僕のためなら黙って寝込ませてくれればそれでいいのに」と嘆息を漏らした。
「黙って寝込ませていたら、おまえはそのまま......」
 ......弱って、消えてしまうかもしれないじゃないか。
 しゅんと萎れた小声だった。
「馬鹿だなあ。そんなにたやすく消えたりしないって」
 微笑んで返すが、男はへの字口のままだ。
 さっきまで放っていた怒りが解け、見知らぬ土地にひとりぼっちで置いていかれた子どもみたいな途方に暮れた表情になっている。
「またそういう顔をする。きみは、寂しがり屋で心配性だからなあ」
 ため息と一緒に、布団から白い指がすっとのびた。
「......この子なら」
 指は、紙にしるされたひとりの名前をさしていた。


     1


 この世界には世の中にちゃんと縫い止められている人と、そうでもない人がいるような気がしてならない。
 頼りなくてすぐに切れてしまうしつけ糸で、その場しのぎみたいなゆるさの仮縫いでつながれているだけの人間と、しっかりとした強い糸で本気で縫い止められている人間と。
 見た目の儚さとか、生きづらそうにしているとかそういうのとは別な話だ。これはたぶん本人の感覚の問題だ。
 ──で、私はどっちかっていうと仮縫いされてる側かもしれないなあ。
 宍戸琴音は、札幌市営地下鉄の南北線真駒内駅の改札を通り抜けながらぼんやりとそう思う。
 生まれて十八年目の秋が来た。
 琴音は、これといった特徴のない、普通の高校三年生の女の子である。
 癖のないセミロングの黒い髪。くるっとした丸い目に低めの鼻。ブレザーにスカートの制服姿に指定のスクールバッグを抱えた姿は集団のなかに見事に埋没する。
 人の記憶からすり抜けがちな見た目の持ち主の自覚はある。容姿だけではなく話すことも趣味も凡庸だから、ひと言、ふた言会話しただけでは他者に強い印象を与えることはない。
 そしてそんなふうにとことん普通だからこそ「どうやったら自分は世界に本気で縫い止められていると信じられるのか」などとは誰にも言えない。そんなことを言ったものならまわりの大人たちが心配して大変だ。
 ──なんてことを考えちゃうってことは、私はきっと寂しいんだ。
 うん。寂しいし、疲れてるし、やっとなにかを悲しんでもいいみたいに思えてきているってことなのかもしれない。
 だったらこれは前進だ。
 麻痺したようになにも考えられないのが一番問題なはずで。
 いまの琴音の境遇なら、寂しさや孤独を感じたり、自分だけが世界とうまく融合していないと不安を覚えたりしても不思議じゃない。
 だって。
「......お母さん、もうこの世にいないわけだし」
 口から出たのは、思っていたよりずっと頼りなげな声だった。

 琴音は父の名前も顔も知らない。物心ついたときから母ひとり子ひとりで、母娘で寄り添うようにして暮らしていた。それでも不満を覚えたことはない。母からの愛だけで充分に満ち足りていた。
 介護の仕事に就いていた母はしっかり者で優しくて、暮らしも大変だったろうに琴音にピアノの習い事までさせてくれて、朝から晩まで働きづめで。
 ──なのに笑顔はたやさない人で。
 だが──その母はもうこの世にいないのだ。
 半年前に出先で交通事故で亡くなった。夕ご飯のオムライスに使うケチャップが切れてるから『ちょっと買ってくるね』と言って、財布とエコバッグを片手に近所のスーパーにいった後ろ姿が琴音が見た母の生前の最後の姿だ。
警察からの電話を受けてからずっと、琴音の足もとはいまだになんだかふわふわとしている。夢のなかで生きているみたい。一度もちゃんと泣けないまま、それでもきちんと夜に寝て、朝に起きて、ご飯を食べて、学校にいっている。
 仮縫いのままの気持ちでも、現実っていうやつにかろうじてしがみついているのは、母の親戚だというおじさん一家が琴音を心配して引き取って一緒に過ごしてくれているからだ。

 駅から出た途端、ポツリと冷たい滴を受ける。目に見えるくらいの大粒の水玉がアスファルトや歩く人を濡らしていく。
 雨だ。 
 バス待ちの人びとが路線ごとに並んでいる。待合室の椅子は満席だ。 
 制服のブレザーのポケットがぶるっと振動する。音は切っているけどスマホに着信が入ったのだ。取りだして、眺める。『家族』でくくられたグループ LINEを確認する。琴音を引き取ってくれたおじさん一家のグループに、半年前に琴音も加入した。
 家族。  
『帰りはタクシーで帰っておいで。国道に熊が出たってニュースでやってる。パトカーも走ってるよ』
 熊って......。 
 ここのところ札幌市市街地によく熊が出る。気候がよくないときは山に食べ物が少なくて街までやって来るし、気候がよくて山に食べ物が多いとたくさん繁殖してやっぱり街までやって来るらしい。
 近所の人が深夜に国道を車で走っていたときに同じスピードで横を走る黒い影の気配を感じ「すわ、オカルト的なものか」とおそるおそる見ると、なんとそれが熊だったと言っていた。オカルトな化け物に併走されるよりもっと怖かったから、猛スピードで振り切って逃げたらしい。
 少し考えてから、琴音は『了解』の絵文字スタンプをくいっと押した。 
 バスなら定期券があるのにタクシーなんてもったいないし贅沢だと思うけれど。最寄りのバス停から家までは、国道をしばらく歩かないといけないのだ。
 ──運命ってどこでどうなるかわかんないじゃない?
 もしここで自分になにかあったら、その後に残された人たちが切ないだろうと思う。優しいおじさんとおばさん、それにまだ小学一年生のはとこのけんちゃんの人生に『よりによって熊って』みたいな悲しみを与えたくない。
 そんな可能性は低いとしても、運命はときどきとんでもないことを人にもたらすから。
 母みたいにケチャップ買いにいったままみたいなこともあるから。
 琴音は横断歩道を渡りタクシー乗り場で車を待つ。
 すーっとタクシーが停車してドアが開く。なにも考えずに乗り込んで、行き先を告げると、
「はい。石山ですね」
 と運転手がうなずきドアが閉まった。
 運転手の制帽が妙に小さいように感じられたが、よく見てみるとなんのことはない運転手の頭が大きいだけであった。
 爆発させて焦げさせたみたいなもしゃもしゃの髪の毛の上にちょこんと制帽が載っている。
 さらに観察すると、頭だけではなく身体も大きかった。
 普通の大きさの車にちんまりとコンパクトに身を縮めている運転手は、変な話だがかわいらしかった。
 全体に民芸品みたいな愛嬌がある。
「シートベルトお願いします」
 振り返ってそう言った運転手の目の瞳孔がぴかっと一瞬だけ赤く光ったような気がした。琴音はきょとんと相手を見返す。
「なんでしょうか。そんな真剣に見られちゃうと照れますな。なにか私、おかしいですか」
 木訥そうな運転手に真顔でそう言われ、琴音は赤面した。
「え ......あ......いや。すみません」
 あまりじっくり見ては相手に失礼だよなと琴音はシートに身体を沈める。
 走りだした車の運転は、予想外に手荒なものだった。映画でたまに見るカーチェイスみたいに混んでいる道の車線変更が頻繁だ。
 琴音はひやひやしながら後部座席で固まっている。
 バックミラー越しに運転手と何度か目が合った。後ろを確認しているだけか、それとも琴音のことを見ているのか。琴音が最初にしげしげと見たから、見返されているのかなと思う。どっちにしろ少し居心地が悪い。
 小さく身体を縮こまらせて、視線を逸らし、窓の外を眺める。
 窓を叩く雨粒と、濡れた景色がびゅんびゅん後ろに流れていく。
 街に灯がともりはじめる。信号機の点滅と車のテールランプ。並ぶ店先や家屋の窓の明かり。半年前に南区に越してきたばかりの琴音には、まだこの道筋の光景はどこかよそよそしく見える。
「......琴音ちゃん、でしたよね。お母様に似てらっしゃいますね」
 聞き逃しそうな小声で運転手が告げた。
「え? 母をご存じなんですか?」
 窓から視線を戻し運転手を見た。
「昔、お世話になりました。お母様のやってらした『けいちょうや』は札幌の孤独なものたちのオアシスでしたよ」
 一般的ではない言葉すぎて、車窓の光景みたいに言葉がしゅっと脳の後ろに流れていきかけた。
 が、思いだす。
 ──傾聴って大切なんだよってお母さん、昔、言ってたような。
 もとはカウンセリングの手法らしい。否定せず、ただ相手の気持ちに寄り添って熱心に耳を傾けて相手の話を聞くこと。それが傾聴。
「傾聴って、介護の人がお年寄りのお話を聞くときに気をつけてるっていう......あの傾聴ですか?」
「そうです」
「母は訪問介護の仕事をしていたのですが『傾聴屋』なんてしてなかったと思います。人違いじゃないですか?」
「本業の仕事の合間に『傾聴屋』もやってらしたんですよ。たしか最初は人間のお年寄りに頼まれたんじゃなかったかな。『ただ話を聞いて欲しいんだ。なんならお金は別に払うから』ってね。宍戸さんは真面目な人だから『本職以外でバイトでお金をもらうのは困る』って断って │でも結局は、その人の話を傾聴したんだ」
 優しい人だったから、相手が本気で話を聞いてもらいたがってるのをほうっておけなかったんでしょうね。
ハンドルをくるっと回して運転手がつぶやく。 
「あれ? いまの道、まっすぐいくんじゃ......」
 曲がらなくてもいいところを右折した。 
「この時間帯、国道が混むから裏道を走りますよ。距離はちょっとのびますけど時間考えたらこっちのほうが絶対にいいです」
「そうですか」
 時間によってものすごく渋滞するので有名な国道だ。それに母の知り合いならば悪い人ではないのだろうしと、納得する。
 でも──。
 ──こんな道、あったっけ?
 車は琴音が見たことのない道を走っていく。 
「あの ......裏道っていっても、ここ ......舗装もされてない山道で」
 舗装路が途切れ砂利道になる。道の幅が狭くなる。名前もわからない川が流れている。そこにかかる橋を渡る。
 がたごとと車体が揺れる。タイヤが砂利を飛ばす音がする。細いつづらおりの道には行き交う車もなく、走るタクシーのヘッドライトだけがずっと先を照らしている。
 うねうねと蛇行する道の先は街灯もなく、進むにつれてあたりは闇色の幕を何枚も上に重ねていくかのように暗くなっていく。
 道沿いに建物がない。信号機もない。それに琴音が告げた住所の付近にこんな山も川もない。いくらなんでもおかしいと気づいたときには、もうすでに山道をかなり上ってしまっていた。
 唐突に恐怖がこみ上げてきた。 
 親しげに話しかけてくれていた母の知り合いの運転手は、普通の運転手なんだろうか。そもそも本当に母の知り合いなんだろうか。だとしてもいままで会ったこともないのにどうして琴音の顔を見てすぐに、自分が母の娘だとわかったのだろう。葬式にも通夜にも来ていなかった。こんな独特の容姿の人は、絶対に記憶に残るからそこは間違いない。
 厚ぼったく重たげな夜のなか、見たことのないトンネルをくぐる。
 なにもかもが漆黒に塗りつぶされて、息が詰まるような心地に身がすくむ。 
 けれど──。
 トンネルを抜けた先は、明るかった。
 車窓の向こう側にちかちかとした光が瞬いている。 
 灯火が琴音を少しだけ安心させた。知らないあいだに止めていた息を、ほうっと吐きだす。
 車の横をなにかが併走している。もしかして熊だろうかと怖々と覗く。
 なんだかわからないただひたすらに大きい黒い影に見えたそれは、琴音の視線に気づいたかのようにピカッと目とおぼしきものを光らせた。
「わっ」
 のけぞって窓から手を離す。車と同じくらいの大きさの影は光ったあとで霧みたいに形を崩してさーっと消えていく。
 ──なに!?
 いまのはいったいなんだ!?
 指先が冷たくなる。
 唇をぎゅっと引き結び、いま一度、窓に近づいてそーっと外を見た琴音は目を大きく見開き固まった。
「......待って。えー、ちょっと待って、これって」
 炎のタイヤをつけた車がふわっと浮き上がりすぐ側を疾走して空へと上っていった。
 それだけじゃない。流れ星みたいに長い尾を引いて飛翔する蒼い小さな光の珠や、それを追いかけて空を走る頭に角のある鬼の子のようなものも見える。すべてが光の粒を身に纏ってきらめいて、とても綺麗ではあるのだけれど。
 街灯だと思い込んでいた道沿いの光も、よく見てみると木に下げられた提灯だった。懐かしさを感じる橙の明かりがぽわっと闇に滲むように光っている。
「うん。やっぱりこっちの裏道のほうが近い。国道230号線はいつも混んでるからね。縫い止めている道の糸を解いて、こちら側のトンネルにボタンをつけてつなげた『あやかし街道』が一番の近道だ。間違いない」
 運転手が制帽をこくこくと縦に揺らして、つぶやく。 
 なんだかとんでもない話を聞いている気がする。 
 琴音は呆然として運転手を見てから車窓を見た。続いて、運転手の座るシートの後ろに貼ってあるタクシーの社名を凝視した。
「......とこよ交通。聞いたことのないタクシー会社......」
 タクシー会社に詳しいわけではないのだが、それにしたって初見だ。
 さらに、座席のビニールポケットに『お忘れ物にお気をつけください』という注意書きと共に入っている乗務員紹介カードに気づき、ぽかんと口があいた。
『私は、とこよ交通の、ようかい 朧くるま です』
 ようかいって......妖怪? 朧くるまって、たしか車の妖怪だった気がする。
 母がどういうわけか妖怪が好きで、妖怪の出てくる小説や漫画ばかりを読んでいたものだから琴音はそこそこ妖怪の名前を知っているのだ。
 琴音はとりあえず自分の頬を軽く抓ってみた。夢かなと思ったときに人がやってみる行動である。
「どうしよう。普通に痛い。困ったな」
 バックミラー越しに琴音の様子を見て運転手が朗らかに笑った。
「琴音ちゃん、そういうところもお母さんにそっくりだ。お母さんもはじめて私たちと会ったときにまったく同じことをしたんだって聞いてますよ。ほっぺた抓って『どうしよう。普通に痛い。困ったな』って。肝が据わってるっていうか、柔軟っていうか、とぼけているっていうか ......。きゃあーって、叫ぶ人じゃなかったんだ」
 母に似ていると言われるのは嬉しい。
 嬉しいのだが、しかし。
 そういえばさっき母の話をしてくれたときに"最初は人間のお年寄りに頼まれたんじゃなかったかな"と言っていた。"人間の"ってわざわざつけるのは、不思議な言い方だなと思いながら聞き流していたのだが──。
 考え込む琴音の目の前で、運転手の頭がふくれあがって巨大になっていく。後部座席まではみ出てきそうに大きくなっていく頭は、もう絶対に「人間の」ものではない。
「母と会ったことが......あるんですよね? 『私たち』っておっしゃってるってことは......つまり複数の......あなたのような人たちが?」
「そうですよ。たくさんの仲間が宍戸さんに傾聴してもらって安定したんだ。血は争えないっていうやつかなあ。私もいま琴音ちゃんと話してて、なんだか気持ちが落ち着いてくるっていうか」
 ──私はまったく落ち着けないよ!? ざわざわするよ!?
 提灯の並ぶその先に──ひときわ大きな提灯がぼてっと揺れている。
 あたたかみのある橙の大提灯に書かれているのは『ようこそ たつ屋旅館へ』の文字だ。タクシーは提灯の手前で止まる。
「はい。着きました。お代はもうもらっているので、けっこうですよ」
「着いたって? どこに? お代もはもらっているって、誰から?」
「たつ屋旅館さんからですよ。旅館は、そこの大きな提灯をまっすぐいって鳥居を抜けるとすぐですよ。あの鳥居はタクシーごとくぐるには小さすぎるから、いつもここでお客さんを降ろしてるんです。あ、そうそう。琴音ちゃんのお母さんには鳥居の向こうにもけっこう世話になっている奴が多いから、いろいろと話を聞いてごらんなさいな。琴音ちゃんが知らないお母さんのことがわかるかもしれないですよ」
「私の ......知らないお母さんのこと?」
 後部座席のドアがあいた途端──生き物が口のなかからぺっとものを吐きだすように、車が琴音を外に押しだした。
 降りようとしていなかったのに見えない力で無理に降車させられ、琴音は「ふゃっ」という変な声と共につんのめるようにして路上に立った。
 もじゃもじゃ頭の運転手は、親指を立てるサムズアップのジェスチャーを寄越し「ファイトッ」とエールの言葉を投げた。そうしているまに、運転手はどんどん人の輪郭を失って、身体と頭が一体化し、巨大な顔に車輪のついた得体の知れないものに変化してサムズアップの親指もなくなった。
 ──これ、妖怪の出てくる漫画で見たやつ。本当に朧くるまだ。
 ぎょろりと目を剥いた妖怪は満足げに大きくうなずくと琴音を置いて走っていく。
 なにをどうファイトするのか不明なまま琴音はぼんやりと車を見送った。
「......妖怪もサムズアップするんだ。ファイトとか言っちゃうんだ。現代だなあ」
 いや、そういう問題じゃない。もっといろいろと考えるべき。
 ──仮縫いされてる気持ちなんていう話を超えちゃったよ。
 現代日本の現実に琴音をつないでくれていたしつけ糸が解け、異界へと縫い直されてしまうとは。
 ふと見下ろした自分の右足首からキラキラとした輝きが零れているのに気づき、屈み込んでしげしげと見る。
「なに、これ。 ......糸」
 掴もうとしたけれど、掴めずに指のあいだをすり抜ける。
 痛くはないし、感触もない。
 足首をくるりと巻いた赤い糸は光の加減で瞬いて、長くのびたその先は前に立つ鳥居の向こうにつづいているように見えた。
「運命の赤い糸が誰かとつながっているっていうの、なんだったっけ。伝説みたいなのであったわよね。でも足首からだったっけ?」
 そのあたりはうろ覚えだ。
「いまの話からすると『たつ屋旅館』にいけばいいってことなんだろうし、この糸もきっとそっちの方向につながってるよね。いっちゃって大丈夫なのかな。とんでもないことになりそうな気も」
 あたりを見回し琴音は口に出してつぶやいた。独り言が思いのほか大きく響く。
 雨はいつのまにかもう止んでいる。
 降り立った場所から来た道を振り返る。空と地面の境界は遠ざかるにつれ曖昧に混じりあって溶け、道沿いに下げられた提灯の橙だけが道の形を教えてくれた。
 風が吹いて大きな提灯と小さな提灯がゆらゆらと一斉に同じ方向に揺れる。
 見上げると、墨汁を流したような空を蒼や赤の灯火が疾走している。琴音を降ろしたタクシーのテールランプも遥か遠くの赤い瞬きとなり、すっと流れて消えていった。
 夜の底をスノードームに閉じ込めたようなその光景は──。
「......綺麗」
 怖いと思うより先に美しさに感嘆する。
 見とれてぼうっとしていた琴音は、つんつんとスカートの裾を後ろに引っ張られ、驚いて跳ねた。
「なっ」
 咄嗟にその手を振り払い、慌てて後ろを向いた琴音の視線の先にいたのは──もふもふした小さな動物だった。
 ──狸。
 赤いちゃんちゃんこを着た狸が後ろ足で立ち上がり琴音を見上げて耳をひくひくと動かしている。
「......ピシッてされちゃった」
 琴音に払われたところを撫でながら狸が言う。
「あ、前足。ごめんなさい。驚いたから」
「前足じゃないんだもん。お手々なんだもん」
 涙ぐみながら地団駄を踏み、ぷんすかと狸が訴えてきた。狸の手は人と同じように指が五本で小さい。ぎゅむぎゅむと指を閉じたり開いたりして「手である」という主張をくり返す狸に、琴音はうなずいた。
「うん。お手々。そうか。お手々だ。そうだよね。二本足で立ってるし」
「おぶって。おぶって」
 狸が言った。
「はい?」
 きらきらと期待に満ちたつぶらな目と、小首を傾げて、前足をお腹の前であわせてもじもじしている仕草が愛らしい。
「ボクのこと嫌い?」
 すくい上げるようにして下から琴音の顔を覗き込み、うるうるした黒い目でそれまでとは反対の側に首を傾げ狸が言う。
「嫌いじゃない。かわいいと思う」
 つかの間逡巡したが素直に伝えた。
 かわいいのだけはたしかだ。
 赤いちゃんちゃんこを着て立って、会話が可能なんだから、普通の狸ではない。はたしてこんな妖怪はいただろうか。もっと真面目に母の蔵書を読み込むべきだった。
「じゃあ好き? だったら、おぶって、おぶって」
 こういうのは定番として背負ったらそのあとに石になったり重たくなったりして、大変な目に遭うのではないだろうか。妖怪とはだいたいそういうものだったはずだけれど。
 琴音はじりじりと後ずさった。
「どうしておぶってくれないの? おぶっておぶって」
 くるくると琴音の足にまとわりついて、甘えてくる。
「うう。どうしよう。でもその目で見られると、こう、抵抗できないっていうか。 ──ねえ、おぶったあとで重たくなったりしないって約束してくれる?」
「うんっ」
 元気よくぶんぶんと首を縦に振った。
 仕方がないと琴音はスクールバッグを片手に持ち、狸に背中を向け、中腰になった。狸は「やったー」と笑い声をあげ琴音の背中によじのぼってくる。しがみついたのを確認し、手を回して背負い、立ち上がる。
「うん。重くはないね。さて──どうしよう」
 むしろ軽い。 
 おぶわれた狸はなんだかやたら無邪気に歓声を上げている。 
「おぶってくれたー。ありがとう。ありがとう。高いなあ。高いぞお。よく見えるぞお」
「そう。それはよかったわね。そこまで喜ばれると私も嬉しいわ」
「嬉しいー。楽しいー」
 狸は琴音の肩をぽこんぽこんと小さな拳で優しく叩いてくれた。重たくなるどころか肩叩きをしてくれている。
 そして機嫌のいい子どもみたいに謎の歌をうたいはじめた。たぶん即興なのだろう。肩叩きのリズムで、高くて楽しいということをくり返し歌い続ける。
「嬉しいぞー高いぞー楽しいっぞー」
 あまりに元気すぎるので、琴音もつられた。  
 琴音は狸の歓声にひとつひとつ「嬉しいねー高いねー楽しいっねーーよかったねー」とリズムをつけて返す。
 目の前には赤い立派な鳥居がある。 
 ──ここを進むしかないんだろうな。 
 狸を背負って異界の鳥居をくぐるなんて。 
 ものすごく妙なことになっている。 
「狸ちゃん、名前はなんていうの?」
「アカデンチュウだよ」
「アカ ......デ?」
「狸でいいよ。みんなそう呼ぶよ」
「じゃあ、狸ちゃん、たつ屋旅館って知ってる?」
「知ってるよ。温泉があるんだよ。でもね、ものすごーくボロボロで、怒ると怖いクズがいるの」
 ぽこぽことんとん。 
 琴音の肩を叩きながら狸が答えた。絶妙な力加減なので気持ちがいい。 
「ボロボロで、怒ると怖いクズがいるのか」
 いきたくないなあと心底、思った。
「でもお姉ちゃんずっとここにいると危ないから、早く鳥居を抜けたほうがいいよ」
「え?」
「お姉ちゃん、人の匂いするもん。怖いやつが来て食べられたりするよ。たつ屋旅館には、人間食べる怖いやつはいないんだ。弱いものだけがお客なんだ。それでもたまに強くて怖くて意地悪なのもいるけど、人喰いはいないの。だから」
 首をひねって背負った狸の様子を見ようとしたら──ずっと後ろに潜んでいる、人間の頭をつけた巨大な蜘蛛と目が合った。
 赤い口と白い牙が凶暴だ。
 どうやら琴音たちの様子を窺っていたらしいが、琴音が相手に気づいたことで先方も気持ちを定めたようだ。八本の足を忙しなく動かし、ニタニタと舌なめずりをしながらすごい勢いでこちらに駆けてくる。
 まごうことのない異形であった。
「......人の匂い。うまそうだなあ」
 声がした。
 ──うまそうって言った。本当に食べられちゃうの!?
「うわあっ。そういう大事なことは早く言って! 逃げるわよ」
 走りだした琴音の背中で狸が「早い早いー。高い高いー」ときゃらきゃら笑って喜んでいた。

 

※この続きはポプラ文庫ピュアフル3月新刊『あやかし温泉郷 龍神様のお嫁さん...のはずですが!?』でお楽しみください。

Profile

佐々木禎子

北海道札幌市出身。BLやファンタジー、あやかしものなどのジャンルで活躍中。著書に「ばんぱいやのパフェ屋さん」シリーズ、『札幌あやかしスープカレー』(以上、ポプラ文庫ピュアフル)、「薔薇十字叢書」シリーズ、「暁花薬殿物語」シリーズ(富士見L文庫)などがある。

Pick Up Book

  • かがみの孤城
  • i
  • 私のスポットライト
  • ビオレタ
ポプラ社一般書通信 note

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