京都はんなり、かりそめ婚

華藤えれな

京都はんなり、かりそめ婚

京都はんなり、かりそめ婚


「─―おれと結婚してください」

 出会ったばかりのイケメンに、突然、プロポーズされてしまった。正確には、その前に一回会ったことのあるひとだけど─。
「これは人助けです。お金も払います」
「え......ええーっ」
 びっくりしすぎて声をあげるしかない。
 今、わたし、結婚、もうしこまれなかった?
 しかもお金? どうして? どういうこと? 人助けって?
 頭が真っ白になり、ただただぽかんと口をあけることしかできない。
 ここにくるまで、不運の連続だった。
 仕事を失い、住んでいた家を失い、荷物もなくし、お金はなく、さらには怪我をして動けなくなって。
 そんなときにいきなりの求婚。しかも、かなりの美しい和風顔の男子から......。
 これって、人生の大逆転?
 それともなにかの間違い? 不運の続き? なにかの悪い夢? 

 誰か答えを教えて─―。


                             ◇◇◇
         

 その半日前。
 朝から細い路地の奥にある小さな公園のベンチに座り、遠野沙耶は猫のケージを抱きしめながら、寒さにふるえ、とほうにくれていた。
 まずい、どうしよう、住むところがない。
 真冬の京都で家がないって、どんな罰ゲーム?
 季節は、二月の中旬。京都で最も寒いといわれている時期だ。見あげると、今にも雪が降り出しそうな空が広がっている。
 あたたかい南国土佐出身の沙耶には、ことさらこの寒さが身に沁みる。
「ソラくん、どうしよう......困ったね」
 今にも死にそうな声で沙耶が話しかけているのは、ケージのなかにいる愛猫のソラくん。

 もちろん返事はない。
 マイペースな彼は飼い主の窮地などまったく気にせず、のんびりした顔でぐっすり眠っている。
 グレーまじりの白い毛の感触がふわふわとして心地がいい男のコだ。

 ─まあ、なんて平和そうな猫ちゃん。
 ─この猫、いつも笑ってはるねぇ。飼い主さんにお顔がそっくりやねえ。
 ─天下泰平って感じやなあ。

 会うひと会うひと、そんなふうに言う。
 だけどこんな顔をしていながらソラくんは意外と気むずかしい。それにかなりの人見知りで、沙耶以外には決してさわらせない。
 誰に話しかけられても、どれだけ褒められても、フードを差しだされても完全無視。
 そこが飼い主としてはたまらなく愛おしいのだけれど、自分がいなくなったらどうなるのだろうと心配でもある。
「あーあ、猫連れで泊まれるとこ、ないかな」
 さっきからスマートフォンで、猫連れOKの宿泊施設がないか検索しているのだが、なかなか見つからない。この寒さのせいか、バッテリーの減りが早くて不安になってきた。

 家なし、職なし、貯金なし、コネなし、彼氏なし、美貌なし。猫あり。アラサーという年齢あり。
 客観的に見ても、いや、見なくても完全に負け組に属している女子である。
 ううん、違う、負け組どころか、どん底女子だ、わたし......。
 いっそこのままここで野宿する? それともスタンダードに鴨川の橋の下?
(そういえば、昔、新聞紙とか段ボールに包まれると、あたたかい......と、聞いたことがあるけど)
 だとしても鴨川のそばはダメだ。まわりに壁があるこんな場所でも死にそうな寒さなのに、水辺なんて考えられない。
 明け方、凍りついている自分とソラくんの姿がふと頭に浮かぶ。
「ダメだ、野宿はダメ。そんなこと絶対にできないよね、ソラくん」
 話しかけ、沙耶はハッとした。
 あ、そうか、ソラくんはこのケージもあるし、なかに毛布も入れてあるから、実質的な野宿は自分だけだ。
 冷たい冬の風が公園のなかを吹きぬけ、ちょっとだけくせのある沙耶の髪をふわあっとかきあげていく。首に巻いたマフラーが風になびき、うなじがひんやりとした。
 とにかく今夜の寝場所をさがさないと。
 もう一度スマートフォンで検索しようとしたとき、ふっと後ろの建物からあたたかな空気がただよってきた。

 ふわっ、ふわっ......と、蒸気をふくんだ空気が建物のすきまからもれてくる。
(なに、なに......この空気)
 沙耶は目を大きくひらいて公園の裏の建物を見あげた。
 でんと黒い木造の建物。どうやらあたたかい空気はそこからきているようだ。
 屋根は三角形。グレーの瓦。上のほうに和風の天窓があり、土蔵のような風情のある外観だ。
 古めかしい煙突がのびているから、お風呂屋さんなのかもしれない。
 ううん、でもちょっと煙突の形が違うように思う。
 それにこの音。さっきから、ザザ、ザザ、ザザという不思議な音がひっきりなしに聞こえてくるのはなんだろう。
 きっとなにか物作りをしている作業所だ。
 上京区には三年間住んでいたけれど、このあたりの奥のほうまできたことはなかった。
 あたたかな蒸気まじりの空気と、心地いい音。
 すごく癒される。とってもいい感じだ。
 なんとなくなつかしい気配がしてほんわかした気持ちになってきた。
 波の音に似ているのかな。沙耶が育った土佐の海もいつもそんな音がしていた。
 ううん、もっと別の音だ。なんだったのだろう、どこで聞いた音だったのかな。

思いだそうとしながら、沙耶はハッとした。
「ダメだ、ダメダメ、今、そんなこと考えてどうすんの。今日をどう乗りきるかが問題なのに」
 沙耶は自分のほおをペンペンと軽くはたき、先日の上司の言葉を頭のなかでよみがえらせた。
『遠野さん、正社員採用の件ですが......なかったことになりました。理由はわかっていますよね?』
 突然のクビ切り宣告。
 えっ......。なかったこと? どうして? 理由って?
 訊きかえす間もなく、追いうちをかけるように住んでいた場所からも出ていってほしいと言われてしまった。
『明日から新しい契約社員がきます。引き継ぎ、よろしくお願いします。半月後、社宅の鍵もおかえしください』
 あのときのショックは忘れられない。
 三年間、正社員を目指して一生懸命働いてきて、いよいよ......というところでの、まさかの契約打ち切り。
 しかももう次の契約社員が決まっているとは。
(頭を下げてお願いすればよかったのかな。まだ次の仕事も住む場所も見つかっていない。もう少しだけ住まわせてください......って)

 おとといの契約期間が終わる日までは、新しい契約社員さんに引き継ぎをするだけで精一杯だった。
 新しい住居をさがす時間なんてまったくなかった。
 一応、広告を見たり、ネットで検索をしたりしてみたものの、ペットと一緒に住める手ごろな物件は見つからなかった。
 昨日は、一日かけて荷物の整理と掃除で寝る時間もなかったくらいだ。
「さて、ソラくん、どうしようか」
 一年前、社宅の前の茂みで拾ったオス猫。あまりにも小さくて、もう絶対助からないと思った。
 少しでも大きくなるようにソラくんと名づけたのだが、今では名前の効果もあり、かなり大きな座布団猫になってしまった。
 このソラくんと自分とが今日から暮らしていける場所を探す─というのが、今の沙耶の課題だった。
 いつのまにか後ろの建物からの音は消えていた。あたたかい空気もなくなっている。
 そのせいか首筋や足もとのあたりがだんだん冷えてきた。
 いわゆる京の底冷えというやつだ。寒いというよりも痛い。むしろ冷たいというほうが正しい。骨の芯まで冷えこみ、足の指先にチクチク針を刺されているような、そんな痛みを感じさせる冷たさだ。

 京都にきてから三回目の冬。夏の暑さも死にそうだけど、これにもなかなか慣れそうにない。いいのは春と秋だけだ。
 このままだと凍死する。
 鴨川の土手で凍りついて発見される自分。真っ白な霜が髪の毛や服にはりつき、眉毛やまつ毛までカチコチになっている。
 そんな自分のまわりに警察官とおおぜいの野次馬。スマホで写真を撮っている人たちもいる。
 アラサー女子、職にあぶれて凍死─。ワイドショーでは「果たして彼女になにがあったのか」「クビになったアラサー女子の悲劇」「婚活に失敗か?」等々、ちょっとだけ話題にされる。そして気づけばプライベートが晒され、SNSで昔の同級生が追悼コメントとともに、学生時代の写真をアップしてしまう。
 あの世にいっても成仏できないような、みっともないものがいっぱい出て、『そういえば、あのひと、昔から要領が悪くて......あ、いえ、とってもいいひとだったんですけど......』などと、誰かがインタビューに答える。
(ダメだ、想像したら、絶望しかない)
 早く行き先を見つけなければ。ずっとここにいたら、そのうち不審者と通報される。
 ベージュのフードつきのモコモコしたダウンを着て、ひざに猫のケージをかかえているアラサー女子。目の前にはスーツケースと大きなリュックがあるが、観光客......には見えないと思う。

(路上生活している貧乏ガール......とまでは、まだいってないと思うけれど)
 ため息をついていると、みゃおん、みゃおんと、ケージのなかのソラくんがせつなそうな声をあげはじめる。目を覚ましたらしい。
「ごめん......ごはんの時間だったね」
 沙耶は背負ったままだったリュックを下ろし、ソラくんのフードを取りだした。
 ゴロゴロと喉の音を立て、ソラくんがおいしそうにドライフードを食べていく。
(がんばろう、一刻も早く、どこかで......住みこみの仕事、さがさないとな)
 あと一歩で正社員だったのに。
 大好きな京都。あこがれの京都。
 勤めていた老舗のリフォーム会社で、大好きな町家をリノベーションする仕事に参加する─予定だったのに。
 古い建物がどんどん壊されていくなか、京都の町家は、今、古き良き時代の雰囲気を生かしたままリフォームし、個人経営のお店にしたり、民泊にしたりするのがブームになっている。
 歴史のある京町家を自分たちの手で残していく。それを手助けする仕事がしたい。と思ってきたのだけど。

(また一からやり直しか)
 いいかげん耐えられないほど寒くなってきた。
 ふるっと沙耶が身をふるわせたそのとき、公園の入り口に上品な和服姿のおばあさんが現れ、こっちを見た。
「ちょっとちょっと、そこのお嬢さん」
 まずい、不審者あつかい? 通報......された?
 ドキドキしながら沙耶が身をちぢませていると、おばあさんはなにやら手に紙コップのようなものを持って近づいてきた。
「すみません、あの......わたし、すぐに」
 ここを出ていきますから......と、言いかけたそのとき、おばあさんがさっと紙コップを差しだしてきた。
 ふわっと香ってくる甘い匂い。それにあたたかな湯気が心地いい。さっき後ろの建物からただよってきた空気ととても似ていた。
「あの、これ」
 じっと見つめると、おばあさんはふわりと目を細めてほほえんだ。
「お嬢さん、さっきからずいぶん長くここに居てはるみたいやから、さぞ冷えてはるやろうと思って持ってきたんどす」
 はんなりとした京言葉で話しかけられ、沙耶は目をパチクリさせた。

「それ、甘酒ですわ。となりの久遠寺の境内で、いま、ちょうど配っている甘酒やけどよかったらどうぞ。あたたまりますえ」
 ふわふわとした優しい話し方に心がほんわかしてくる。
「あ......あの......わわ、わたし......もらっていいんですか」
 寒さのせいか、歯が嚙みあっていないことに今ごろ気づいた。
「どうぞどうぞ。きちんとコップにお寺さんの名前も書いてありますやろ。あやしいもんと違うから、安心して飲んでくれやす」
 ほんとだ。ちゃんと「紫光山・久遠寺」と印刷されている。
「ありがとうございます」
 寒さにほおがひきつっていたけれど、沙耶は思わずほほえんでいた。
 久遠寺......。聞いたことがない名前だけれど、よく見れば、この公園の真横にお寺のような建物が建っている。そこが久遠寺だろうか。
「ほんなら、また」
 ニコニコと笑いながらおばあさんが去ったあと、沙耶は紙コップに口をつけた。
 なんておいしい。口のなかに広がる柚子の香りとぬくもり。
「すごい。なに、このおいしさ」
 この柚子の皮の苦味と甘酒の甘さ、それからほんの少しのアルコールが心地よく口のなかで溶けあって、身体の芯まであたたかくしてくれる。

「......」
 目の奥が熱くなってきた。ささくれていた心が癒されていく。
 沙耶は、もう一口、柚子の甘酒を口にふくんだ。
 うわあ、すごい、ほんとにおいしい。
 じわじわと血管のすみずみまで血が通っていくような、そんな気がして沙耶は思わず笑みを浮かべた。
 そういえば、ここ最近、こんな気持ちになったことはなかった。
 おいしさ、優しさ、あたたかさがこんなにも幸せな気持ちにさせてくれるとは。
 身体の奥がじんわりとあたたかくなり、人心地がついて、なんか負けてちゃいけないという気持ちになるから不思議だ。
(ああ、あたたかい部屋でソラくんとぬくぬくしながら、こんなおいしいものを延々と味わっていたい)
 想像しただけで、未来が明るく感じられてきた。
「よーし、やるぞ」
 思わず声に出していた。
 人間というのは、なんと単純だろう。
 おいしいものを口にすると元気になってくる。たった一杯の甘酒なのに、一気にエネルギーチャージできてしまった。

 やっぱり目標があって京都に来たんだから、一度や二度の失敗で負けるわけにはいかない。そうだそうだ、と自分に言い聞かせる。
 ありがとう、おばあさん。
「ソラくん、がんばるからね」
 沙耶がソラくんのお皿にフードを足そうとしたそのときだった。
 みゃおん。
 ソラくんがなにかに気づいたように、沙耶のひざから飛び降りていった。
「ソラくん、どこ行くの」
 トコトコと足音を立てて道路へと向かう。公園の前は一方通行の細い通りだ。でもけっこう車が多い。
「危ないよ、ソラくん」
 沙耶はケージを手にあとを追った。
 公園の入り口まできたとき、ソラくんが足を止める。
 よかった......と彼を抱きあげてケージに入れたそのとき、バシッと誰かが叩かれるような音が聞こえた。
「......っ!」
 びっくりして顔をあげると、久遠寺の裏口前で犬のリードを手にした男性が綺麗な女のひとにほおを叩かれていた。

「あんたって、ほんま、最低の京男やな」
 美女が大きな声でののしった瞬間、沙耶はその前にいる「最低の京男」と形容された男性の横顔を見て息を呑んだ。
「あ......っ」
 あれは─知っている。あのひと、知っている。黒い作務衣に若草色のマフラーをつけた職人風の男性。彼の手にはまだ小さな秋田犬のリード。あの男性は、ちょうど半月ほど前、沙耶が働いていた会社にリフォームの相談にやってきたお客さんだ。
 古い自宅をリフォームしたいので、見積もりをたててほしい、と。
 すらっと細くて背が高い。涼しげな顔立ちと武道でもやっていそうな姿勢の良さが印象的だった。凜々しい感じではあるものの、ちょっと繊細そうな優しげなイケメンだった。
(そうだ、あの男のせいで......正社員になれなかったんだ)
 沙耶がクビになった原因。その張本人だ。
 そのイケメンのほおを美人がもう一度ぴしゃりと叩く。
「......っ!」
 うわっ。あまりの音に、思わず硬直してしまう。
 沙耶が近くにいることにも気づかず、数メートル先で美人がなおも彼を責めたてていた。
「ほんまにひどいわ、あんたみたいなひと、まわりにおらんわ」

もう一度女性がバシッと男のほおを叩く。どうしてよけないのだろう。彼女とは対照的に、彼のほうはとても冷静なようだ。
「すみません、往来ですし、どうか落ちついてください」
 とても静かで、おだやかな京言葉のイントネーション。一方、女のひとはめちゃくちゃ怒っている。
「落ちつけへんっ。あんたなんか、絶対、地獄みるで。そこのえんまさんに奉納したいくらいや」
 地獄? そこの? ああ、千本ゑんま堂のことか。ここから北にむかったところにこの世とあの世の境にいる閻魔大王を本尊にしている寺がある。
「それなら大丈夫でしょう。閻魔さまもそう暇じゃないですからね。でも、おおきに。冷たくて大嫌いな男にそんな心配してくれて」
 優しげな笑み。はんなりとした、ていねいな話し方。ただし心がこもっている感じはしない。「おおきに」と言いながら、絶対、本気でありがとうなんて思っていないのが伝わってくる。裏の意味がこめられた、イケズな言動。
 あれには覚えがある。
 つい先日、沙耶も会社で経験したけれど、ああいうお礼の言い方は、相手にはむしろ地雷。ムカつかせること間違いなし。
 以前に会ったとき、蹴っ飛ばしたくなったのを思いだす。

 あのときのことは思い出しても足が小刻みに震え、心臓が激しく乱打する。
 優しい笑顔できついお言葉をつらつらと。
『その遠野さんという社員さんの意見......ありがたいんですけど、今、そんなことを言われたら、契約するの、ためらってしまいますよ?』
『もったいないんじゃないんですか? その社員さんを、わざわざここで雇うのって』
『おおきにどうも。遠野さんでしたっけ? あなたの意見のおかげで考え直すことができました。迷ってたんです。ほんまにおおきに』
 おおきにじゃなーいって、と叫びたくなった記憶。
 名前は、たしか......新堂......何とか......という名前だ。
(思いだした、新堂すぐる......忘れもしないその名前......)
 さんざんわたしのことをひどく言って、契約もせず......。
 ああああ、思い出してもムカムカしてくる。どうして初対面のクライアントにあんな言われ方をしなければいけなかったのか。
 おかげで契約打ち切り、いわば、クビよ、クビ。
 あんな男、もっと叩かれたらいいのよ、そうだ、どんどんやっちゃえ。
 公園の前にある掲示板のかげに隠れ、心のなかで女性を応援していると、さらに彼女は男を非難しはじめた。
「新堂ちゃんて、ほんまにひとをムカつかせんの、うまいわ。わたしには一ミリも造って柚子の甘酒。隣のお寺のおばあさんにあげたりして」

 えっ......柚子の甘酒─?
 沙耶は思わずソラくんを抱いたまま、公園の茂みの後ろにしゃがみこんでさらに聞き耳を立てた。
「あれは久遠寺さんからの依頼で造った商品です。柚子の数が少なかったから余分に作れなかった。それだけですよ」
「でもお寺のおばあさんに言ってなかった? 公園の寒そうなひとにも分けてあげて欲しいって」
「言いました」
 えっ、公園の寒そうなひと? それってわたし?
「それなのに、わたしにはくれないってのはどういうこと?」
「欲しかったら、欲しいと言えばいいんです」
「えっ、ふつうは、知りあいなら、どうぞって自分からすすめるもんと違うの?」
「......そう......ですか?」
 新堂はわけがわからないと言った様子で小首をかしげる。
「そうや、彼女を優先するもんとちがう?」
「彼女って?」
「わたしのことや!」

 どんっと彼女が新堂を突きとばす。
 彼女の声が怖いのだろうか。シュンとした様子で耳と尻尾を垂らし、秋田犬があとずさりはじめる。
 ちょっとちょっと待って。もしかしてわたしがもらった甘酒が原因で喧嘩してるの?
 わけがわからない。ただあのツンツンしたイケズ男がこのへんに住んでいるのだけはわかった。
 と思ったとき、沙耶はハッとした。
 そうだ、蔵元だと言っていた。古い酒蔵をリノベーションしたいという依頼だった。
 だとしたら、もしかして、この公園の裏の建物が新堂さんの家?
 ふりかえろうとしたそのとき、トコトコと子犬が道路を横切ろうとしているのが沙耶の視界をかすめた。
 さっき彼女が新堂をつきとばした反動で秋田犬のリードがはずれたようだ。一歩、二歩と犬が離れて歩いている。でも二人は気づいていない。
「あっ!」
 一方通行の道路のむこうからバイクがきている。けっこうなスピードだ。このままだと、犬がひかれてしまう。
「ソラくん、ここにいてっ!」
 ケージを花壇の前に置き、沙耶は思わず走りだして、秋田犬を助けようとした。

「そこのお兄さんっ、犬、犬、危ないっ、ダメでしょ、リード、離したら」
「え......」
 新堂がふりむくが、すでに秋田犬は道路の真ん中に。
 ダメだ、ひかれてしまう─!
 とっさに秋田犬を抱きあげたそこに、バイクが突進してくる。
 ぶつかるっ!
 身をちぢませたそのとき、追いかけてきた新堂が反射的に沙耶に手を伸ばしてくる。
「危ないっ!」
 背中に腕がまわり、秋田犬ごと、新堂が沙耶を抱きよせようとする。その瞬間、二人を避けるようにしてバイクが通りぬけていった。
「この野郎っ、飛びだしてくんなっ」
 捨てゼリフを吐いてバイクが遠ざかっていく。
 よかった、大丈夫だった─と思ったのも束の間、勢いあまって二人の身体のバランスがくずれてしまう。
「うわ......っ」
 運悪く倒れこんでいったそのとき、後頭部にゴチンとなにかが当たった。衝撃がはしった瞬間、沙耶はアスファルトのうえで意識を失っていた。


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続きは発売中の『京都はんなり、かりそめ婚』にてお楽しみください!

Profile

華藤えれな

京都市出身・在住。BL小説家として人気を博す。近年、一般ライト文芸にも活動の幅を広げており、他著作に「寺嫁さんのおもてなし」シリーズ(KADOKAWA)がある。

Pick Up Book

  • かがみの孤城
  • i
  • 私のスポットライト
  • ビオレタ
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