半分日本人

モハメド・オマル・アブディン

半分日本人

写真:森 豊

25年遅れの「ドーハの悲劇」


 翌日、寝不足をなんとかやり過ごして用事をすべて済ませ、夜の8時にホテルに戻った。そこから大量にたまったメールに返信していたら、あっという間に時計の針が新しい一日を迎え入れた。

「そろそろ寝なくちゃ」

 翌朝は7時にホテル近くのレストランで朝食を兼ねたミーティングをすることになっていた。一寸たりとも無駄にせず眠ってやるぞと無意味な決意を固めて布団にもぐりこむと、気絶するようにたちまち意識が遠ざかった。幸いなことに、昨夜すさまじいバトルを繰り広げた隣室の男女の気配はなかった。

 しかし、世の中そんなに甘くない。しばらくすると、突然「むー、むー」と猛獣のうなり声に似た音が、鼓膜を破らんばかりの勢いで襲ってきた。

 昨夜と違って、その音は間違いなくぼくから半径1メートルの範囲内で発生している。ぼくはあおむけの姿勢から一瞬にしてベッドの上に立ち上がると、その勢いで2、3回ベッドの上に弾んだ。

 そうこうしているうちにも、音は収まるどころかどんどんボリュームを増していく。ふと、それは聞いたことのある音だということに気づいた。寝ぼけた頭を懸命に働かせる。

 やばい。火事や地震の際に鳴る、あの警報音だ。
 慌てて机の上に置いたパスポートを両手で探し、次に両足を動かしながら靴を探し当てると、廊下に出た。部屋の前に、友人の共同研究者がもう来ていた。

「階段を使って逃げよう」

 ぼくが火事を想定して伝えると、

「間違いじゃないかなと思うんだけど」

 と希望的観測を述べる彼。

 ベッドに戻りたいがためにそう言いたくなる気持ちに共感しつつも、「万が一」が頭をよぎって避難を推すぼく。

「部屋に戻っても、この音が鳴りやまないと、どうせ寝られんだろ」

 というと、彼は「そうね」とあっさりあきらめた。そうして12階からの数百段の旅が始まったのだ。

 避難中、他の宿泊客と一人も会わないのがすごく気になったし、館内放送がないのも不安を増幅させた。不安が高まるとともに、眠気は不可逆的に消えていく。だが、今起きていることは、どちらかというと現実というより悪夢に近い。足は確かに階段を踏み続けている。そこには、0.075トンの重さがのしかかっているのだから、夢の中のふわふわ感は微塵もない。だが、昨夜のことといい、今夜の出来事といい、なにもわざわざ、まとめてこの身に起きなくてもいいだろうに。

 悪夢と現実の狭間でも、ぼくの「根拠のない前向き思考」は健在であった。どっさどっさと階段を降りながら、

「もしも今回、一人で出張に来ていたらどうなっていただろう? ホテル職員が助けに来てくれたのかな? 日本だったらどうだったろう?」

 3.11の震災で多くの障がい者が逃げ遅れ、犠牲になってしまったことを考えると、今このように一緒に避難してくれる人がいるだけでもありがたいと思えた。

 3階に差し掛かったあたりで、かすかに火の匂いを感じた。しかし、気のせいだったのかもしれない。友人に、煙がないし、匂いもしないよと反論されて、自慢の嗅覚を否定された格好となった。

 1階に到着すると、当直のレセプション職員が、あたかも何事もなかったかのようにインドなまりの英語で、"technical problem"といいはなち、12階から降りてきた我らに対するねぎらいはまるでなかった。

 とりあえず息が上がっていたので、しばらくの間、ロビーのソファに身を預けることにした。そして、事の重要性に見合わない職員の対応に対して、ぽそぽそと友人に不満を漏らし始めた。

「日本だったらまず避難させるか、館内放送で間違いだったことをアナウンスするよね」

「うんうん。でも、何もなくてよかったね。いっただろう、間違いだって」

 友人はぼくが避難を押し通したことに対するいら立ちと、自分の直観が的中した自慢が入り混じった口調で、やんわりとぼくを咎めた。

 すると、弁解の言葉を探す間もなく、重々しい気配がして、ホテルのロビーに消防隊員が入ってきた。どうやら、ホテルの職員に火事の場所を聞いているようだ。やがて、10人近い職員が地下に下りて消火活動を始めた。なんと、"technical problem"ではなかったようだ。

 火は消し止められたが、客で避難していたのは、結局、僕と友人のほか、ジョージアの観光PRに来ていた若い男性二人のみだった。
 消防隊員が火を消している間も、フロントには客室からの電話がひっきりなしにかかってきていたのだが、対応した職員は"It's OK"を連発していた。なんてひどい対応だろう。

 レビューもよい4つ星ホテルなのに、非常事態にこのような対応しかできないとは、夜も安心して寝られない。

 火事がおさまって消防隊員が帰っても、ぼくと友人は部屋に戻る気になれず、サービスで出されていたコーヒーとナツメヤシを朝の6時まで消費し続けたのである。

 出張が決まってから、母語のアラビア語が通じる地域に久しぶりに行けることをひそかに楽しみにしていた。文化も近いし、故郷からも近いので、風にのった母親の香りだって届くだろう。それをいっぱいに吸って、体のすみずみに届けられたらなと、高ぶる胸の鼓動を抑えきれなかった。ところが、最初の3日間は期待通りだったが、ラストの2日間が、そのホームの雰囲気を跡形もなくふっとばしてしまった。

 帰りの飛行機に搭乗して、

「あの出来事はなんだったんだろ」

 と声にならない声でつぶやくと、隣に座った友人が、

「あれは、25年遅れのドーハの悲劇だったんじゃないかな」

 といって、高笑いを上げた。
 ぼくもつられて、それまでのいらいらを洗い流すかのように、終わりの見えない思い出し笑いの洪水をほとばしらせたのであった。

Profile

モハメド・オマル・アブディン

1978年、スーダンの首都ハルツームに生まれる。生まれたときから弱視で、12歳のときに視力を失う。19歳のとき来日、福井県立盲学校で点字や鍼灸を学ぶ。その後、母国スーダンの紛争問題と平和について学びたいという思いから、東京外国語大学に入学。同大学の特任助教を経て、現在は学習院大学法学部政治学科特別客員教授。熱烈な広島カープファン。昨年、長年の夢だった優勝が実現して脱力状態にある。著書に自らの半生と、見たことのない日本をどのように感じてきたかを描いた『わが盲想』(ポプラ社)がある。

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