半分日本人

モハメド・オマル・アブディン

半分日本人

写真:森 豊

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トイレ大臣にもの申す 

 日本の公衆トイレは世界トップ水準だと思う。
 いたるところに設置されているうえ、清潔だ。来日する前まで、ぼくは公衆トイレ恐怖症で、学校などでもよっぽど切羽詰まらないかぎり行かないことにしていた。ところが日本に来ると、尋常でない頻度でトイレへ行くようになった。

 こんなにトイレが近くなったのは、スーダンに比べて発汗の少ない、日本の穏やかな気候のせいもあるだろう。あるいは、大の甘党だったぼくの体に異変が起きたのかもしれない。
 しかし、なんといっても一番の理由は、世界トップ水準の清潔さのおかげだと思う。どんな経緯で日本の公衆トイレがここまでの水準に到達したのかについて、リサーチして論文を書きたいぐらいだ。2015年、閣僚のどなたかが「私をトイレ大臣と呼んでください」と名言を残したことも記憶に新しい。

 ただ、日本におけるトイレへの強いこだわりの弊害もあることをぼくは身をもって体験している。
 それは、肢体不自由や子連れの人への配慮から生まれた、いわゆる「だれでもトイレ」である。よく見かけるようになったのは2000年代に入ってからだろうか。きっと駅や公共施設で目にしたり、実際に利用している方も多いだろう。

 広々としていて、ボタンや、さまざまなタイプのセンサーが設置されており、だれにとっても使いやすいというコンセプトらしい。

 しかし、正直にいうと「だれでもトイレ」は僕にとってすごく使い勝手の悪いものだ。まぁ、おまえは変わり者だから「だれでも」の範疇に含まれないんだよと言われればそれまでだけど、ぼくから言わせてもらうと、あのタイプのトイレは視覚障碍者全般にとって使いづらいものだ。なんて、視覚障碍者全体を巻き込んで主張してみたりして。

 ある日、ぼくは円滑にミッションを済ませると、流すためのレバーを探した。普通は便器の後ろあたりに設置してあることが多いのだが、いくら探ってみても見つからない。

 レバーをあきらめたぼくは、もしかして壁側にボタンがついているかもと思って、黒板を消すかのごとく側面の壁を手でなでまわした。

 余談だが、ボタンには点字が書いてある場合もあればそうでないこともある。数年前、ドバイ空港のトイレに入ったら日本語の点字で「ながす」と書いてあるのを発見した。こんなところに日本語表示があってもなんの自慢にもならないよ、エミレーツ航空。

 話を戻す。ぼくはあちらこちらをなでまくったあげく、それらしきボタンをようやく探しあてた。「これだ」と思い押してみると、ボタンの奥からぼくのこめかみめがけて低い声が放たれた。

「どうしましたか」

 まさかこんなところに人の声が入ってくるとは思わず、ひっくり返りそうになった。

「だ、だ、だいじょうぶ」
 
 慌てて言葉を絞り出しながら、「どうしましたかって、用を足しているに決まってるじゃないか」と心の中で抗議した。

「だれでもトイレ」の問題は、「流すボタン」の設置場所が統一されていないことだ。しかも、もっと厄介なのは、ボタンではなくセンサーで流れるタイプだ。あっちこっち触りまくっても一向に流れないことがあり、

「時限爆弾を仕込んで去ってしまおうか」

 と思うことも多々ある。
 その日も努力むなしく失敗に終わった。暗い気持ちでトイレを出ようとした瞬間、なんと勝手に流れ出したのである。なかなか手ごわいスマートな輩だ。

 近頃、車いすユーザーが楽にアクセスできたり、子連れの家族が安心して使えるトイレが増えたのは、文句なくすばらしいことだ。

 しかし、「だれでもトイレ」って、そう簡単に呼んでもいいものだろうか?
 機会があれば、ぜひトイレ大臣にお尋ねしてみたい。

Profile

モハメド・オマル・アブディン

1978年、スーダンの首都ハルツームに生まれる。生まれたときから弱視で、12歳のときに視力を失う。19歳のとき来日、福井県立盲学校で点字や鍼灸を学ぶ。その後、母国スーダンの紛争問題と平和について学びたいという思いから、東京外国語大学に入学。同大学の特任助教を経て、現在は学習院大学法学部政治学科特別客員教授。熱烈な広島カープファン。昨年、長年の夢だった優勝が実現して脱力状態にある。著書に自らの半生と、見たことのない日本をどのように感じてきたかを描いた『わが盲想』(ポプラ社)がある。

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