花のお江戸で粗茶一服

松村栄子

花のお江戸で粗茶一服

画:柴田ゆう

2

風太郎勿食の段

一、風太郎勿食(はたらかざるものくうべからず)の段

 死んだ? 誰がだ。
「俺は生きてるぞ!」
 がばっと布団をはねのけ遊馬(あすま)は起き直った。と同時に胸を突かれてげほっと咳き込む。目の前に仁王立ちした秀馬(ほつま)がおり、その腕からまっすぐに木刀が伸びていた。さっきまで息子を誉めてくれていたはずなのに、今は殺気立っている。
「だったら、さっさと起きやがれ! 二日も三日も寝こけやがって。このなまくらもんが」
 木刀を握ったまま踵(きびす)を返し、大きな音を立てて襖(ふすま)を閉めた。どすどすと階段を降りる音がする。あれはたしか父親だ。するとここはどこだ、家か、東京の実家か。ゆっくりと右を見、左を見る。自分の部屋らしい。二年前まで毎日寝起きしていたベッドの上だ。ようやく視覚と記憶が重なってくる。
 閉まった襖がまた開いて、今度はカンナが入ってくる。
「やっとお目覚めですか。全然起きて下さらないので、ほんとうに死んでしまったのかと思いましたよ」
 三十路(みそじ)半ばの彼女は、すでに弓も剣も茶も師範の免許を持っている。武張った袴姿、高く結わえたポニーテールもいつものままだが、妙に優しく微笑んでいるのはどうも遊馬の記憶と違う。結婚が近づくと女性はこうも変わるものか。
「今、何時? 俺、そんなに寝てた?」
「覚えてらっしゃらないんですか」
 遊馬は二年前、大学受験の失敗を含むさまざまなことを咎められて出奔し、ようやく帰ってきたところだ。久しぶりに帰宅すると、とにかく空腹だったので出されるものを片端から平らげ、ゆっくり湯につかったら気持ちよくて眠くなり、少し昼寝するといったまま夜になっても起きてこなかった。
「昨夜は、遊(あす)ぼっちゃんのためのご馳走だったのですよ、みなさんお待ちだったのに」
 二年も放浪に等しい旅をしていたのだから、疲れも溜まっていることでしょう、しばらく休ませてやりましょうと母親の公子(きみこ)が言ったので、それもそうかと父も祖父も箸をとりあげ惣領(そうりょう)息子のいない夕餉(ゆうげ)を済ませた。明朝も息子のいない朝餉を、そして昼餉、夕餉。このあたりまでにジリジリした秀馬が何度も遊馬の部屋の襖を開けようとしたのだが、公子が必死でたしなめ、しかしいよいよ今朝は堪忍袋の緒が切れた。二日も三日もは大袈裟だが、三十時間以上は寝ていたことになる。顎を触ると髭が伸びていた。


 友衛(ともえ)家の人間はいつも朝を茶室で食べる。その四畳半に父の姿はなかった。代わりに、佐保(さほ)が向かいに坐っている。よぉと声を掛けると、おはようございますと殊勝に返してくる。
「そんな敬語使わなくていいよ、いまさら」
 うんと頷きかけてあかんあかんと首を振る。
「ケジメが大事やし、このおうちでは遊馬様て呼ぶ。カンナさんかてそう呼んではる」
「あいつはぼっちゃんよばわりだよ。あれだけは真似すんなよな」
 呼ばれ方より何より、佐保と向かい合って朝食をとるという状況がそもそもくすぐったくて物言いが粗野になる。照れ隠しにかぱかぱと飯を平らげると、ささっと寄ってきておかわりをつけてくれたりするからなおさら照れくさい。なんだか新婚のふたりのようではないか。
 京都で知り合ったとき女子高生だった佐保は、遊馬が比叡山(ひえいざん)のボロ寺に籠もっている間に上京、進学し、いつの間にやら友衛家の内弟子になっていた。久しぶりに踏んだ我が家の玄関で佐保に迎えられたあたりから、どうも遊馬の現実感覚は揺らいでいる。足の裏できちんと地面を踏んでいる気がしない。ひょっとしてまだ夢の続きかとも思う。
「ひと月前からいるって......?」
 うんと頷く。
「カンナさんのお部屋もろてん。カンナさんはお嫁に行くまで行馬さんのお部屋使(つこ)てはる」
「ふーん、カンナの部屋じゃ狭いだろ。俺の部屋使ってたらよかったのに」
 そう言うと、頰を染めてふるふると首を横に振る。
「うち、慣れた? 変だろ、こんなとこで箱膳(はこぜん)の朝飯って」
 まだ首を振っている。慣れないという意味か、変ではないという意味か、よくわからない。借りてきた猫のようだ。
そこへ汁を替えに公子が入ってくる。
「お父様は茶の間でお待ちですよ。あなた、お父さんが帰ってきたときにはぐーぐー寝ていて、まだ『ただいま』も言ってないんですからね。きちんと御挨拶なさいよ。黙って家を出たこともちゃんと謝るのよ。もちろんお祖父様にもです。どちらも済んだら、わたしの部屋へいらっしゃい。わたしにも言いたいことはありますからね。わかりましたか」
 どうやら夢からは覚めているらしい。この家での自分の立場はこんなものだ。弥一(やいち)やカンナ以外にも、父、母、祖父と、馬には調教師がやたらたくさんついている。つい数日前まで暮らしていた比叡山の山深い景色が懐かしい。ベッドもなく自分で煮炊きしない限り永久に食事もできなかったが、そこでは自分が自分の手の内にあった。
 厳しいことを言いながらも、公子は遊馬の食事の終わるのを見計らい、茶を一服点ててくれた。飲み干す息子の姿をじっと見つめている。そうして、飲み終わったとみるや思い切るようにパンパンと手を叩く。
「さ、遊馬は茶の間、佐保さんは学校。ぐずぐずしないで行ってらっしゃい」

(つづく)

Profile

松村栄子

1961年静岡県生まれ、福島県育ち。1990年「僕はかぐや姫」で海燕新人文学賞、1992年「至高聖所(アバトーン)」で芥川賞を受賞。著書に『雨にもまけず粗茶一服』『風にもまけず粗茶一服』『ひよっこ茶人、茶会へまいる。』などがある。

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