花のお江戸で粗茶一服

松村栄子

花のお江戸で粗茶一服

画:柴田ゆう

4

風太郎勿食の段/その3

 茶の間から解放されたあと、祖父の部屋を訪ねて年寄りの繰り言を聞き、なんだかもう一度話があるからと二階の書斎に呼ばれて行くと母がひとりで待っており、またくどくど諭されて、それが終わるともう昼だった。
 武道にしても茶道にしても、遊馬は稽古する気満々で帰京したのだが、さぁと思ったところで俗っぽい就職問題など持ち出されて出鼻を挫(くじ)かれた。山の上の生活は過酷だったが、今思えば簡潔で清浄だった。山を降りて帰ってきたのが正しいことだったのかどうか自信がなくなる。
 自分の部屋を通り過ぎ、廊下の突き当たりのドアを開けると物干し台だ。子供の頃、叱られるとよくここですねていた。茶室の水屋の真上になる。家の敷地の一番隅だ。端に寄ると、茶室の屋根と庭が見える。その向こうに別棟の行空軒がある。無論、あちら側から洗濯物は見えないようになっているが...。
 先客があった。
「あれ、弥一(やいち)、何してんの」
 出奔中、何度も思い出していたそのままの顔で振り返る。
「ああ、坊ちゃん、おかえりなさい」
「うっす」
「いえね、近く、茶事があるもんですからね、洗った炭を干してんですよ」
 見ると、風炉(ふろ)に置く炭の長いのやら短いのやら丸いのやら半割れのやらが濡れて干されている。
「炭って洗うの? 真っ黒になっちゃうだろ、手とか」
 茶家に生まれた長男なのに、何も知らない。弥一は返事をする代わりに真っ黒になった掌を見つめた。
 これから火にくべようというものを水で洗うとは理不尽だ。遊馬(あすま)はそう言いかけて、いや、と思い直した。
「灰を洗うくらいだもんな、炭だって洗うかもしれないよな」
 弥一は面白そうに遊馬を見た。
「坊ちゃん、灰を洗ったことがあるんですか」
「そうなんだよ、比叡山のてっぺんで夏の真っ盛りに灰を洗うはめになったんだ。宗家の宣(せん)さんっていう爺(じい)さんのおかげで」
 ほう、と弥一は腰を下ろしたから、遊馬は天狗(てんぐ)のように山中を徘徊(はいかい)していた老人が茶人に戻るまでの一部始終を話して聞かせた。そのために遊馬は生まれて初めて灰も洗い、茶室も作った。
「すると、その御仁は、宗家巴流の古い番頭さんなんですね。今のお家元を育てたひとでしょう。へーぇ、まだお達者(たっしゃ)なんですか。じゃあ、今、向こうで行(いく)ぼっちゃんが宗家のお点前を習っているというのもそのひとからなんですかい」
 弥一は弥一でかなりの年齢のはずだが、もたつく遊馬の説明を綺麗に理解して、感慨深げに腕を組み目をつぶった。
「まあ、あたしゃ京都ってとこはどうしても好きにはなれませんが、遊ぼっちゃんも、行ぼっちゃんも、あちらではずいぶんいろんな体験をなすって、それはそれでけっこうなことかもしれませんな」
「でもさぁ、俺、茶の点前はだいたい教わってると思うんだけど、炭は全然だよね。火が熾(おこ)せないと湯も沸かないんだよね」
「それがわかっただけでも立派なもんですよ、遊ぼっちゃん」
「教えてくれる、弥一?」
「もちろんだ。一からやり直しましょ。ああ、炭を洗うのは、あれですよ、細かなクズが付いてたりすると、茶室でパチパチ爆(は)ぜんでしょ。だからね、水にくぐらせて綺麗にしときます。あんまり乾かし過ぎてもすぐに燃えてなくなっちまいますからね、適度に湿り気を残してね。まあ、灰も一緒ですわ。ま、まずは炭切りからですかね」
 俵で仕入れている長い炭を、風炉や炉中に合う寸法にのこぎりで切り揃えるのだという。いちいち定規を当てないでも正確に切れるようになったらたいしたものだ。
「え、そこから?」
「不満ですかい。なんなら炭焼きからしますか。また山に籠もらなくちゃいけませんが」
 そうして弥一はアハハと笑った。弥一が笑った。なんだかそれでようやく遊馬はホッとする。
「ときに、大事そうに何を抱えてるんですか」
 父から渡された封筒だ。〈皇宮(こうぐう)護衛官採用試験 受験案内〉と書かれている。要するに〈皇宮警察〉だ。
「ははぁ......」
 弥一は含み笑いをする。
「家元は若い頃そこに行きたかったんですよ。騎馬隊とかかっこいいですもんねぇ。憧れってやつでしょ。遊ぼっちゃんが皇宮警察に入ったら、そりゃあ家元は喜びます。親孝行ってもんですよ」
 秀馬は昔、自分でも皇宮警察の採用試験を受けたが一度では受からなかった。警視庁に籍を置きながら何度もチャレンジするという手もあったが、仕事も家の手伝いも忙しくなって断念したらしい。
 自分の夢を子供に託すなよ、ダサいな。遊馬は呟き、どうしたものかと空を仰ぐ。

(つづきは誌面のasta*でお楽しみください)

Profile

松村栄子

1961年静岡県生まれ、福島県育ち。1990年「僕はかぐや姫」で海燕新人文学賞、1992年「至高聖所(アバトーン)」で芥川賞を受賞。著書に『雨にもまけず粗茶一服』『風にもまけず粗茶一服』『ひよっこ茶人、茶会へまいる。』などがある。

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