晴れたら空に骨まいて

川内有緒

晴れたら空に骨まいて

お花畑で捕まえた

 そこから、北京の中日友好病院を経由して、福岡の病院を目指した。東京の病院を選ばなかったのは、理由がある。結局、北京にも内視鏡検査の機材がなく、食道静脈瘤があるかどうかは、最後まで分からなかったからだ。成田から東京の病院へは車で二時間以上。しかし、福岡空港ならば市街地から十五分。最短の時間で行ける最高の病院として九州大学病院を選んだ。しかも、平川さんの実家はその病院まで車で一時間で、平川さんの兄弟や親戚も「こっちで看病できるから連れて来て」と言ってくれた。
 北京から福岡に向かう飛行機の中で、平川さんは意識が混濁して、突然、「帰る、帰る!」と大きな声を出した。畠中さんは、優しく「うん、そうねー、おうちに帰ろうね」と応えた。
 そう、一緒に帰ろう。絶対に帰ろう。彼女は祈るような気持ちだったという。
 その話を聞いている私も、祈るような気持ちになった。

「よかったですね、静脈瘤はないです」と九州大学病院の医師は切り出したが、その後のニュースは明るいものではなかった。「ただ、肝臓がいっさい機能していません。もう明日死んでもおかしくないです。覚悟してください」
 それが、第二ラウンドのゴングだった。
 文字通り死を宣告された平川さんだったが、翌朝はぶじに目を覚ました。その翌朝も、その次もずっと目を覚まし続けた。そのかわり、新薬による治療ですさまじい額の医療費が飛んでいく。請求書は時として月二百万円にも上り、畠中さんは次々と定期預金を解約した。その一方で、看病に時間が取られてしまい仕事もできない。
 このままでは遅かれ早かれ破綻すると判断した畠中さんは、再びバカ力を出すことに決めた。看病は平川さんの兄弟に任せ、畠中さんは東京で仕事をして稼ぎまくり、月に一度だけ医療費の支払いがてら見舞いに行くという生活に切り替えた。
 そういえば、フフホトに現れた謎の「サインして」男には後日談がある。北京の病院に着くなり、日本人の医師が飛んで来て、「奥さん、なにか書類にサインしませんでしたか?」と聞いたのだ。
「サイン? そういえば誰か来たけど、ごめんなさい、まだサインしてないんです」
 そう答えると、医師は心底ほっとした顔をした。
「最近ツアーで中国を旅行していた年配のご夫婦がいたんですが、だんなさんが倒れてしまって医療ジェットでこの病院に運ばれてきたんです。その直前に奥さんが保険会社の書類にサインしてしまっていた。あれは、医療ジェット機の費用は自己負担にする、と承諾する書類なんです」
 もしサインをしていたらジェット機代は自分持ちで、その額なんと二千万円!
 話を聞きながら、私はおもわずのけぞった。
「そりゃ、会社ぐるみの詐欺じゃないですか!」
「そうなのよー、ありえないでしょ。さすが中国よね!」
 畠中さんは大らかな笑顔を浮かべた。今、その夫婦は保険会社を訴えて、係争中だという。

 話を元に戻そう。
 しばらくは容態が安定していたある日、九州の病院から電話があった。
「容態が急変し、かなり危ない状態です」
 畠中さんは東京で西武百貨店の担当者と打ち合わせをしていたが、みんなすぐに事情を察して、「早く行ってください」と言ってくれたので、あわてて席を立った。
 飛行機で駆けつけると、平川さんの顔は土のように黒ずんで、人工呼吸器に繋がれている。顔がまんまるにむくんでいて、医学用語でいうムーンフェースという状態だ。
 ああ、これは本当に死んじゃうのかもしれない。
 それまで、心のどこかでこの人は死なないんじゃないか、と感じていたが、今度ばかりはむりなのかもしれないと思った。
 医師は、「今晩、一晩です。この一晩を乗り切れば、どうにかなります」と告げた。もう何回目かわからない長い夜の間、畠中さんは無言で闘い続ける彼の名前を呼び続けた。それは呼ぶというより、リング脇で叫ぶような声だった。
 その長い夜。
 彼の心臓は止まらなかった。
 そして、カーテンの向こう側の街に、いつもどおりの朝がやってきたのだった。
 医師も「すごい生命力がある人ですね。この人は、本当に生きたくてしかたがないんですね」と驚いた。
 数日後にはむくみが引き、一週間後には人工呼吸器が外れた。その途端、かすれた声で、必死になにかを訴え始めた。
「お花畑は黄色だったよ」
「へ? なに?」
「うん。だから、一面に黄色いお花畑が見えたんだ」
 彼が夢の話をしているのだと気づいた。
「お花畑の向こうには川が流れていて、たくさんの人が向こう岸にいたな。気持ちがよさそうだから行こうかなあ。向こう側の人も、おいで、おいでと呼んでたんだよね」
「......じゃあ、なんで行かなかったの?」
「道がなかったんだよ。それに誰かが呼んでたんだ。それが、畠中さんだったんだなあ」
「平川さん......」
「畠中さん......」
 ふたりは、しばらく無言で見つめ合っていた。

 その生命力の強さを目の当たりにした医師は、「このままいけば、完治はしなくても、生き延びられるかもしれない」と言い始めた。
 そして六ヶ月が経ち、平川さんは病院を退院し、久しぶりに東京の自宅に帰ってきた。畠中さんは、部屋の模様替えをして、自宅で看病できる態勢を整えた。
 すると、どうだろう。糸のない凧の本領を発揮し、彼は仕事を再開してしまった。その時代、映像業界はアナログからデジタルへの移行期で、彼もそれに乗り遅れまいとスタジオや機材のデジタル化を進めた。また中国の会社と組みたいと、ついには中国出張にも出かけたいと言い出す。心配した畠中さんは彼についていった。
「止めても聞かないからさ、一緒に行くしかなかったわよね」
 そしてふたりは、短い国内旅行に出かけることもあった。再び、平穏な日々が訪れていた。
 しかし、肝硬変は完治しない病気の代表例だ。死んで硬くなった細胞は沈黙する石の如く柔らかくなることはない。一見すると元気に見えた平川さんは、実は崖っぷちスレスレをつま先で歩いているような状態だった。調子の良い時は動き回れたが、悪い時は崖から転落するように体調が急変して入院、ということを繰り返していた。
「お酒は飲んでなかったんですよね、さすがに」
「どうだろう、さすがに飲んでないって言ってたけど、外にいる時のことまではわかんないわよね」
 入退院を繰り返すたびに、素人目にも少しずつ悪くなっていった。それでも平川さんは、「僕は絶対に生きるよ。死なないよ。心配しないで」とことあるごとに繰り返した。
 しかし、奇跡は再びは起こらなかった。
 ある日、入院中の彼を見舞って病室に入ると、なにかが違った。
「あれ、息してない」
 彼は、誰にも気づかれないままに、グローブを脱いでリングから降りていた。

旅の準備

 その一年後のことである。
 トントンと低い音が畠中さんのマンションに響いていた。手にしているのは、洋裁で使う金属の重りだ。中身が詰まった木綿の袋を、優しく丁寧に叩く。
 トン、トン。
 畠中さんにとって、洋裁用の重りはハンマーより使い慣れた道具だ。何度か叩くうちに細かくなり、最後は粗い粉末になった。
 ふう、と軽く息をつく。
 砕き終わると、袋の中身を慎重にフィルムケースに移した。傍らのクッキー缶の中には、まだかなりの量の白い物体が残っている。まだしばらくは大丈夫ね。それにしても、フィルムケースって便利。小さくて目立たないけど、密封性があるし......。
 クッキー缶の中に入っているのは、平川さんの遺骨だった。

 あの後、一通りの葬儀が済んで遺骨が自宅に帰ってくると、畠中さんは呆然とした日々を過ごしていた。仏壇も作らず、遺品も整理せず、ただ骨壺と遺影を食卓の上に置き、それを見ながら夕飯を食べた。
 半年前、彼がふと漏らした言葉が何度も思い出される。

 ─ねえ、僕、畠中さんと結婚してよかったよ

 あんなこと、絶対に言う人じゃなかったのに。心のどこかでこんな日が来るってわかっていたのかなあ。
 私もだよ、平川さん。本当にあなたでよかったよ。
 彼女は、いつまでも遺骨を手元に置いておきたかった。
「でもねえ、私はよくても、九州の兄弟はちゃんとお墓に入れて供養したかったみたい。あの人たちは、一周忌、三回忌、命日、とかきちんと弔う人たちなのね。でも私はそんな感覚なかった。だって、こうして私が毎日あの人を思っているのが一番の供養でしょう?」
 しかし、「一周忌には実家の墓に入れてやりたい」という兄弟の気持ちを無視することもできなかった。本当は手放したくなかったが、「そうですね、ありがたいです。お願いします」と、遺骨を九州に持っていった。
 出発の直前に、「そうだ」と思いつき、こっそり一部の遺骨を骨壺から抜きとった。ちょうどいい入れ物が見当たらなかったので、台所にあったクッキーの缶に入れた。
 これを、いろんなところにばら撒いてやろう。彼が好きだったところに全部行ってやろう。何年かかってもいいや。
 だって、あれだけ旅が好きな人だったんだもの。

 熱い紅茶を飲みながら話を聞いていた私は、別のことが気になっていた。
「あの畠中さん。自分で骨を砕くって、かなり勇気ありますね」
「そう? 彼って自分の一部みたいな感じだったから、抵抗なかったわね」
「硬くないんですか、骨」
「そりゃ硬いけど、抜き取る時にさ、パッと見て柔らかそうなところを選んだのよー」
「柔らかそうなところって?」
「要するに、でっかい塊じゃないところね。粉々になりかけてる部分」と畠中さんは、クッキーかなにかの話みたいに言った。
 そう、当然のことながら火葬場で渡された骨をそのまま外に撒くことはできない。日本の場合は、いかにも「人の骨」とわかる状態で手渡される(ちなみに、ヨーロッパでは粉末状だそうだ)。だからこそ、骨上げの儀式では、「あ、ここが喉仏だわ」「立派な骨ですねえ」などと会話のネタにもできる。しかし、散骨という視点から見ると、これはとても不便だ。太陽の下、公共の場所に撒くとなると、「人骨」と分かってしまうのは問題である(例えば、海に撒いた骨が波にのって海岸に流れ着いたら大騒ぎになる)。というわけで、あらかじめ骨は細かく粉末状に砕いておくのが散骨のマナーでもある。
 しかし、骨を砕くって、どうしたらいいのか?
 肉親の死を経験した人なら想像がつくと思うが、火葬後に手渡される遺骨は大きな骨壺にドッサリである。私たち家族の場合は、いざ散骨の準備をしようと遺骨を前にした時、その大量さに途方にくれてしまった。
 最終的には、葬儀屋さんが紹介してくれた専門業者に依頼して細かく砕いてもらった。骨壺にいれたまま送ると、砕いて送り返してもらえる便利なシステムだ。その後は東急ハンズで買ってきた水溶紙で小さな袋を手作りし、扱いやすいようにとその中に小分けにした。
 たぶん、ほとんどの人はこうした専門サービスを利用して散骨の準備をするが、畠中さんはいともあっさりと自宅で、しかも身の回りの道具のみで準備を終えた。

パリは恋人たちの傍で

 天童荒太の長編小説、『悼む人』に登場する静人は、身近な人の死をきっかけに全国を行脚するが、畠中さんは、そんなドラマチックに旅立ったりはしなかった。むしろ、焦らず、そして形式張らず、これからの旅行や出張に少しずつ持っていけばいいやと考えていた。
 初めてのチャンスは、その年の秋にやってきた。パリで開催されるテキスタイルの見本市「プルミエール・ビジョン」のために出張することになったのだ。
 よし、やろう、と彼女は決めた。
 パリと散骨。まあ、妙な組み合わせである。しかも平川さんはパリを一度も訪れたことがなく、縁のある地というわけでもない。しかし、ファッション業界に生きる畠中さんにとって、パリは一番好きな場所だった。いつか一緒に来たいと思い続けていたから、叶わぬ願いを叶えるようなものだった。
 薄手のコートやマフラーを詰めたスーツケースの奥に、フィルムケースを忍ばせる。出発の朝、リビングでスーツケースを引っ張りながら、食卓の上に飾られた平川さんの写真に話しかけた。
 じゃあ、一緒に行こうね。

 彼女は、「パリだったらポン・デ・ザール(芸術橋)にしようって決めてた」という。セーヌ川にかかる橋で、対岸にはルーブル美術館、そして遠くにはエッフェル塔も見える。
「派手な橋ではないけど、雰囲気があって大好きなのよねー」
 歩行者専用の橋なので、多くのパリジャンがワインとチーズでピクニックをしていて、公園のように愛されている。
「ポン・デ・ザールですか......!」
 私は、ちょっと驚いた。パリは私にとって、五年半という歳月を過ごした第二の故郷ともいえる街なのだが、中でもポン・デ・ザールは特別だった。四年間、この橋から徒歩三分のアパルトマンに住み、夏も冬もこの橋から大きな空を眺めた。ある雑誌のアンケートで、「あなたの一番好きな場所はどこですか」と聞かれた時も、ポン・デ・ザールと答えたほどだ。だから私には、どんな風に彼女がことを進めたのか、鮮やかに想像できる。

 それは、秋の高い青空が広がる日だった。
 畠中さんは、一緒に出張に来ていたパタンナーの友人と連れだって、ホテルを出発した。おしゃべりをしながらセーヌ川に向かうそのポケットにはフィルムケースが入っていた。数分で目指す橋に着くと、セーヌ川の中州のシテ島が一望できる場所で立ち止まった。
 あたりを見回した。観光客が写真を撮っている。恋人たちがキスをしている。画家が絵を描いている。遊覧船がゆったりと行き交う。
 いつも通りの風景だ。
 いい日だな、と思った。
 フィルムケースのフタを開け、風向きを確かめた。友人は、そんな畠中さんを優しく見守っている。
 強い追い風が吹いたとき、中身をパッと勢いよく川に向かって投げた。白い粉は、風にのって広がり、吸い込まれるように見えなくなった。ほんの一瞬のできごとだった。そしてふたりは、「じゃあ、行こう」とすぐに仕事に向かった。この一分間が、地図のない世界旅行の静かな幕開けだった。

Profile

Pick Up Book

  • i
  • 私のスポットライト
  • ビオレタ
  • ムーとたすく

Pick Up Book

  • i
  • 私のスポットライト
  • ビオレタ
  • ムーとたすく