「一鬼夜行」余聞

小松エメル

「一鬼夜行」余聞

イラスト:森川侑

3

姫たちの城(3)――「一鬼夜行」余聞

「......何をしてるの」

 何なのよ、これは――正の家に戻った前差櫛姫は、畳の上で端座していた貞に問うた。 貞の膝の上には、胸に短刀が突き刺さり、血を流した正の姿があった。

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「あんた......あんたが殺したの⁉」

 変化したことにも気づかず、前差櫛姫は貞の近くに跳びながら、怒鳴った。生気が抜けた表情の貞は、前差櫛姫を一瞥し、すぐに正に視線を戻した。穴が空くほど、貞はひたすら正を見つめつづけた。精巧にできた人形のような様に、前差櫛姫はぞっとした。

 やがて、貞は見目とは不釣り合いの、低く掠れた声音で言った。

「姫さまは、自ら死を選ばれた。私がここへ来た時には、すでに――」

(自ら死を......選んだ?)

 つい四半刻前まで、正は生きていた。彼女の懐に入り、時には肩に乗った前差櫛姫は、目の前で起きた事実が受け入れられず、茫然とした。

「何でよ......その娘は自分で選んでここに来たんでしょ? 皆が引き留める中、我儘を言ってここに――」

 前差櫛姫の呟きを、貞は鼻で笑った。

「自らここに来た? この方がそうおっしゃったのか? 偽りに決まっているだろうに」

「噓なの?......どこからどこまでが噓だって言うの!」

 前差櫛姫は貞を見上げて、怒鳴った。返事をしない貞に、前差櫛姫は正が語ったすべてを伝えた。

「姫さまが噓を吐いたとおっしゃったことこそが、偽りだ」

 前差櫛姫の話が終わるなり、貞はぽつりと言った。

「......最初に語ったのが、まことだと言うの? そんな......そんなのって――」

 正の話は、あまりにも残酷だった。正に少しも非はないのに、責は彼女がすべて負うことになった。

「でも、それじゃあ何であたしに噓を吐いたの?」

 正がそんなことをする必要など、どこにもない。眉を顰め、首を傾げた前差櫛姫に、貞は苦笑交じりに答えた。

「姫さまはお優しい方だ。大方、真実を述べた時、お主の反応を見て、とっさに作り話をしたのだろう。幼子を傷つけるわけにはいかぬ、と」

「失礼ね......あたしは立派な付喪神よ! 幼くもないし、未熟でもない。あんたたち人間などより、よほど力があるんだから!......だから、真実を語っていたら、復讐を手伝ってやったのに! 何で自ら命を絶つ必要があるのよ......!」

 前差櫛姫は悲鳴交じりに叫んだ。ぐっと奥歯を嚙みしめ、俯いた貞は、やがて口を開いた。

「......まことか?」

「え?」

「お前は神なのか?」

 前差櫛姫は黙り込み、微かに顎を引いた。付喪神は、妖怪の一種に分類されることが多いが、名には神と付く。「己は妖怪ではなく、神だ」と主張する付喪神も、いなくはない。

 再び前差櫛姫に視線を向けた貞は、昏い目をして言った。

「私を殺してくれ」

 貞の思わぬ言葉に、前差櫛姫は、はっと息を吞んだ。

「......馬鹿殿を殺してくれの間違いじゃないの?」

 表情を引き締め、前差櫛姫は問うた。正が自死したのは、満のせいだ。その満は、すでにこの世にいない。しかし、母の罪を子に負わせた相手は、まだ生きている。憎悪の矛先は、当然そちらに向くものと思ったが、貞はなぜか自分を罰して欲しいらしい。

「それとも――あんた、お正に何かしたの?」

 前差櫛姫は、鋭い声音で問うた。

「......数年前、私は母に勧められ、姫さまのお付きとなった」

 貞は垂らしていた腕を持ち上げ、乱れた正の髪を優しく整えながら答えた。

「容姿の良さを買われたのね。それで、あんたは自分よりも見目がよくない女が姫さまだったので、腹が立って虐めてたの?」

「愚かなことを......しかし、この見目であったからこそ、侍女になれたのはまことだ。私はどうしても侍女にならねばならなかった。姫さまのお近くに行かねば、本願が叶わぬ」

「本願?......一体何を企んでいたの?」

 目を見張って言った前差櫛姫に、貞は正の髪を撫でつけながら述べた。

「......父には、好いた女がいた。どうやら、女も父を好いていたらしい。だが、その女は城に上がった。想いを告げ合うことなく別れた二人は、数年後再会し、互いに捨てきれなかった恋心をぶつけあった」

「それって......」

 前差櫛姫は、また息を呑んだ。貞の話は、数刻前に聞いた話によく似ていた。

「たった一夜の過ちで、その女は不義の子を身ごもった。女が殿の子を懐妊したという噂を聞きつけた父は、それが自分の子であると確信した。......その重みに耐えきれなくなった父は、あろうことか、母に打ち明けた。父と女が密通したのは、母と夫婦になる前のことだ。黙っていれば、誰にも知られずに済んだ話だったというのに......父は、馬鹿正直に過去の過ちを告白した。苛烈な気性の母は、般若のごとく激怒し、父を詰った。その様を見て、父はこんな台詞を吐き捨てたそうだ」

 ――お前は、顔は仏のように美しいが、心は鬼のようだ。夫婦にと勧められた時から、今日に至るまで、俺はお前を愛したことはない......お前のように心根の醜い女を、どうやって愛したらよいのだ!

「蒼褪めた母を見て、父はようやく我に返り、平身低頭詫びた。だが、一度口からこぼれ落ちた言葉は、取り返せぬ」

 元から遠慮のあった夫婦仲は、それを契機に冷め切った。はじめの頃こそ、貞の父は妻を気遣っていたが、どうやっても反応が返ってこぬと悟ってからは、それもなくなった。

「私の家には、いつも寒風が吹いていた。母は父だけでなく、私へも愛情らしい愛情を見せなかった。そのくせ、寝る前には床の横に居座り、耳元にこう語りかけてきた」

 ――私たち母子を不幸に追いやった女とその娘に、仕返ししてやるのだ。お前は私に似て美しい。その美しさは、全てを壊す力になる......壊しておくれ。あの女狐を......その忌まわしい娘を!

 母の真似をして叫んだ貞は、正の髪から手を離し、固く握りしめた。血が滲んだ拳から目を逸らしながら、前差櫛姫はぽつりと言った。

「......お満を恨むのは分かるわ。けれど、お正は関係ないじゃない」

「母は、そうは思わなかった」

 私も――と貞は小さく続けた。前差櫛姫は唇を嚙み、溜息を吞み込んだ。

 母が呪詛のごとく語りつづけていたせいか、すっかりそれが真実と考えた貞は、一度親類の家に入り、そこから正の侍女として城に上がった。内密に事を進めていたため、貞の父がそのことを知ったのは、貞が家を出てからだった。

「父がどう思ったか、私には分からない。それ以来、家には帰っていないのでな......だが、大方びくびくしていたのだろう。いつ露見してしまうのか、気が気ではなかったはずだ」

「......そんな小心者のくせに、不貞を働くなんて馬鹿な男!」

「ああ、大馬鹿者さ」

 前差櫛姫が吐き捨てると、貞は小さく笑い声を上げて同意した。皮肉たっぷりな表情を浮かべても、その顔ははっとするほど美しい。

「あんたはお満に気づかれないために、齢も偽ったのね。本当はお正より下なんでしょう? 顔立ちが幼いもの。......それで? 母の目論見通り、城に上がった後は? ずっと憎んできた相手と対峙して、どう思ったのよ」

 貞は寸の間黙し、小声で答えた。

「......地味で大人しい女だった。美しくもなければ、艶っぽくもない。母親も子も、どこにでもいるような、目立ったところのない女たちだった」

 父はどうしてこんな女に惚れたのだろう。数多の女たちの中から、殿はなぜ彼女を選んだのか。考えれば考えるほど分からなくなり、貞は深く思い悩んだ。そんな時、気づかわしげに声を掛けてきたのが、正だった。

 ――あなた、ここに来てからずっと顔色が悪いわ。......お家に帰りたいの?

 帰してあげましょうか? と首を傾げて問うた正を、貞はきつく睨み据えた。

 ――......帰る場所があるあなたとは違う。

 固まった正を見て、自分が何を言ったか気づいた貞は、ますます顔色を悪くした。姫君に無礼な振る舞いをしたと露見すれば、貞は家に帰される。平身低頭詫びるしかないと膝を折ろうとした時、正は深々と頭を下げて言った。

――ごめんなさい。あなたにそんな顔をして欲しくて言ったわけではないの。

 姫君が自分の非を認め、出自のよくない者に頭を垂れる――そんな噓のような出来事が、目の前で起きた。貞はそれを中々受け入れられず、言葉が出てこなかった。

 頭をお上げくださいと言ったのは、随分と経ってからだった。正はゆっくり面を上げた。

「あの時の、夕日のように真っ赤に染まった顔が、未だに忘れられぬ......本当は蒼褪めていたのだろう。私よりもずっと顔色は悪かった。だが、頭に血が上って、あんな色に......あまりにもみっともない様に、私は気が抜けた。それが伝わったのか、姫さまは安堵したように笑みを浮かべた。美しい笑みだった......あれほど地味で不器量だというのに、私には一等の美人に思えた。だから、忘れられぬのだろう。もう何年も前のことなのにな......」

 ぽつりと言った貞は、ようやく聞こえるような小声で、正と過ごした日々を語った。そばに控え、世話をするだけではなく、ままごとや鬼ごっこといった遊びに興じ、時には喧嘩もした。朝から晩まで、いつも共にいた二人は、いつしか主従を超えた関係となった。

「姫さまはお見かけに寄らず、はっきりと物を言う娘だった。しとやかな性格ではなかったため、殿中の評判はあまりよくなかった。分別のある、聡明な女は、愚かな男から嫌われるものだ。しかし、殿は姫さまを好いておられた。あの方は決して頭のよい方ではなかったが、見る目はあったのだろう......あの女も、見目こそよくはなかったが、姫さまの産みの母だけあって、聡明だった。......我が母とは正反対だ」

 自嘲の笑みを浮かべて吐き捨てた貞に、前差櫛姫は問うた。

「あなたがお満に、父親の死期が近いと伝えたの?」

 いつの間にか正の髪を撫でる手を再開させていた貞は、動きを止めて「......そうだ」と押し殺した声を発した。

 父の名を出した時、満は何の反応も示さなかった。よその家庭を壊しておきながら、すべて忘れたのか――腹が立った貞は、その場で洗いざらいぶちまけた。

 ――私がここに来たのは、お前たち母子を地獄に落とすため......お正は私を信じきっている。お前のことよりも、よほどな!

 正の名を出した途端、顔色を変えた満は、貞に摑みかかった。

 ――あの子は何も悪くありません。どうか......どうか、お正だけは許してください......!

 摑んだ肩を揺らしながら言った満に、貞は冷ややかな声で命じた。

 ――病床の父の枕元で、我が母に詫びよ。

「それじゃあ、お満は、あんたの言うことを聞いて、城を抜け出たと言うの?......でも、話が違うじゃない。だって、お満は、あんたの父親を......」

 額を手で押さえながら、前差櫛姫はおろおろと言った。唇を嚙みしめた貞は、優に百は数えた頃、正の頰をするりと撫でて答えた。

「......父を殺したのは、母だ。お満がやって来たのを見て、逆上したのだろう。まだ繫がっていたのかと誤解したのかもしれぬ――私のせいだ」

 はっと息を吞んだ前差櫛姫に、貞はゆっくりと美しい顔を向けながら続けた。

「お満は、母から短刀を奪い、自害した。母の罪を負って死ぬことで、自身の罪を贖おうとしたのだろう」

「馬鹿ね......そんなことしたって、罪は消えないじゃない。それに、お正はどうなるのよ......母がそんなことをしでかしたせいで、こんなところに閉じこめられて......お正も馬鹿よ! 何であんたが死ななきゃならないの!」

 立ち竦んでいた前差櫛姫は、叫びながら正の胸に飛び乗った。身じろぎ一つしない身にぴたりと耳を寄せても、鼓動は聞こえなかった。じわりと涙が滲み、前差櫛姫はよろめいた。いつの間にか貞の膝の上に座り込んでいた前差櫛姫は、ふっと笑い交じりに呟いた。

「あんたの膝、男みたいに硬いわね......こんな膝枕じゃ、この子も痛いでしょうに」

「......昔から、時折こうしてくれとせがまれた。そのたび、文句を言われたものだ」

 そう言って、貞はくすりと笑みを漏らした。くぐもった笑い声は、次第に嗚咽へと変じ、前差櫛姫は顔を上げた。

「これだから、あばら家は嫌なのよ。雨漏りなんて......」

 天井よりずっと近い場所から降る雨に打たれながら、前差櫛姫はしゃくり上げつつ言った。

          *

 ほらね、やっぱり雨漏りしてるじゃない。あんたの頰にも、雨が伝ってるわよ。そんなに雨が降ってるってことは、後悔してるわね? こんな話を聞いたら、誰だって......ふうん、あんたって本当に変な女ね。......あの子たちといい勝負よ。

 ......あのねえ、続きはもっと陰惨よ。それでも聞きたいの? はいはい、分かったわよ。あとちょっとだけ教えてやるわ。

 そりゃあもう、陰惨だったわよ。だってね、蟄居させられてた女が自害したかと思ったら、あっさりその家を抜け出して、侍女と駆け落ちしたんですもの。

 ふふ......そうよ。お正は生きてたの。あたしたちをあんなに泣かせておいて、死んでなかったのよ! まあ、刺した場所が良かったのよ。上手いこと急所が外れていたおかげで、あんなに血を流したのに、無事だったの。そうね、心の臓は止まってたわ。でも、息を吹き返したの。あれを奇跡というんでしょうね......あんたたち人間の中では。

 とはいえ、相当深い傷には変わりなかったから、お正はしばらく療養生活を送ったわ。お正が自害しかけたことで、馬鹿殿は慌てて医者を寄こして、手厚く看護させたの。お婆も改心して、優しい声を掛けながら世話を焼いてきたわ。お貞も蟄居先に来ることになって、お正は見る間に回復したの。でも、あまり元気な姿を見せると、お貞が城に戻されちゃうかもしれないから、医者やお婆がいる時には、死にかけみたいな演技をしてたわ。それが結構上手いのよ。「地味なあんたにも特技があるのねえ」って褒めたら、お正は笑ってたわ。怒ったのはお貞の方よ。「姫さまを悪く言うな」なんて言うから、あたし笑っちゃった。地味で不器量とか言ってたのは、誰だったかしらってね。それを指摘すると、顔を真っ赤にして「そんなことは申しておらぬ!」と喚いてたっけ。

 傷がすっかり癒えた頃、お正とお貞は蟄居先を逃げ出したの。あたしもついていったわ。本当は行きたくなんてなかったけど、お正が毎日あたしを髪に挿すから、逃げられなかったのよ。本当にいい迷惑......何笑ってるの? 変な女ね、あんたって。今日だけで何回言ったか、もう分かんないわ。何であんたみたいな変な女を、喜蔵は選んだのかしら......これも何回も言ったわね。だって、人生を共に歩む相手は、そりゃあもう重要でしょう?......ええ、そうね。だから、お正は息を吹き返したのね。自分の片割れのような相手を、自分と同じ目に遭わせたくなかったんでしょう。ああ、片割れっていうのは、父親が同じだからという意味ではないわよ。血の繫がりなんて希薄な絆じゃなくて、もっと深いものがあったの。それは多分、一生目に見えないものだけど......でも、あの子たちの目には、きっと見えたんじゃない? あれだけ一緒にいたんですもの。きっと、最後の最後には......。

 ええ、二人は死ぬまで共にいたみたいよ。あたしは途中で二人の許から離れたから、最期はよく知らないの。離れた理由まで知りたいの? あんたって本当に......はあ、もういいわよ。ここまで来たら何でも教えてあげるわよ。

 老いたのよ。あたしがじゃないわ。あの二人がね。年老いて髪が減って、髷に櫛が上手いこと挿せなくなったの。面白いことに、二人揃ってだったのよ。お貞なんて、「いっそのこと剃髪するか」とぼやいてたわ。出家したわけでもないのに、変な奴よね。お正も負けず劣らず変だったけど。正反対に見えて、よく似た二人だったのよ。別れの時なんて、二人とも同じことを言ってきたわ。

 何て言ったかは......忘れちゃったわ。そんな昔の話。

 さ、話はこれでおしまい。だって、ほら。往来から、元色惚け絵師とお惚け記録本屋の声が聞こえてきたわよ。昼行燈な大家に話しかけられて、外で立ち話しているみたい。じきにこっちに来るわね。彦次(ひこじ)か高市(たかいち)のどっちかに、深雪(みゆき)を連れ帰ってきてもらわなきゃ。あんたの探してる相手なら、また庭に落ちてきたわよってね。

 あら、素早い......鈍そうに見えるのに、意外と身のこなしがいいのよね。裏戸を開け放ったまま出て行くのは、感心しないけど。本当に抜けてるのよね、綾子(あやこ)って。危なっかしくて、見てらんないわ。だから喜蔵は、俺が守ってやらねばとでも思ったんでしょうね。実は、綾子に負けず劣らず、お人好しで世話焼きな男だもの。......喜蔵の馬鹿。あたしの方が可愛くて献身的なのに、見る目がないんだから。

 でも......いいわ。許してあげる――だって、今日はハレの日だもの。おめでたい日に、哀しいことなんて駄目よ。

 だから、噓を吐いたのかって......あんたねえ。話の途中で出て行ったふりをして、こっそり聞いてたわね? 妖聞きの悪いこと言わないでよ。噓なんて吐いてないわ。本当よ......本当の本当。ハレの日に噓なんて吐くわけないでしょ? あんたなら簡単にしそうだけど、あたしは苦手なのよ。だから、全部本当よ。今日語ったことは、ぜーんぶ本当......。

 本当の本当なんだから――。

          *

「......勿体ないわね。綺麗な髪だったのに」

 つるりと光る頭部を見上げて、前差櫛姫はぽつりと言った。墓の前に屈み込み、一心に祈っていた貞は、目を閉じたまま答えた。

「私たちには必要のないものだ」

 お前も――そう言って、貞はちらりと前差櫛姫に視線をやった。前差櫛姫は腰に手を当てて、ふんと鼻を鳴らして答えた。

「馬鹿ねえ。髪さえあれば、あんたが死ぬまで一緒にいてやろうかと思ってたのに。本当に、あたしったら、物凄く優しいわよねえ。......本当にいいの? このあたしが一緒にいてあげるって言ってるのに、後悔するわよ? どうしてもって言うなら、もう一度だけ考えてあげるけど」

 正の死から、四十九日が過ぎた。あの日、自身の胸に短刀を突き刺した正は、息を吹き返すことなくこの世を去った。「お婆」がいつも通り夕餉を運んでこなければ、貞はずっと正を膝の上で寝かせたままだっただろう。変わり果てた正の姿を見た婆は、畳の上に頭を擦りつけ、泣きながら詫び言を繰り返した。

 ――あなたさまがあまりにも不憫で......ひとたび口を利けば、ここから逃がして差し上げたくなると分かっていたから! こんなことになるなら、そうして差し上げればよかった......あなたはいつも私に優しい声を掛けてくださったのに......私はなんてことを――

 年老いた女の悔悟の叫びを、前差櫛姫は今でも忘れられずにいる。

 ――なぜ、お前は私と共にいるのだ。

 貞が問うたのは、正の弔いを終えた日だった。死に装束も棺も大層立派なものだったが、葬儀は密やかに行われた。参列者は、貞と婆、それに前差櫛姫の二人と一妖。棺が墓に納められて間もなく、婆は深々と頭を下げて去った。何の反応も返さぬ貞を、前差櫛姫はじっと見下ろしていた。正を見送る支度以外は、昏い瞳で虚空を眺めるだけだった貞は、げっそりと痩せ細っていた。

 ――あたしがそばにいないと、あんたお正の許へ行こうとするでしょ? あんたが生きようと死のうとどうでもいいけど、お正があんたのことよろしくって言ったから、仕方なく共にいるのよ。

 前差櫛姫は平気な顔で噓を吐いた。正の話を持ちだせば、貞が否と言えぬのは分かっていた。貞は頷かなかったが、思った通り、拒否はしなかった。それをいいことに、前差櫛姫は朝から晩まで、貞の髪に挿さっていた。

 貞の表情がにわかに明るくなったのは、初七日を過ぎた頃だった。

――思ったよりも、傷が深くなくて、よかった......これなら、すぐによくなりましょう。

 貞は、まるで隣に誰かいるかのように話しだした。

 ――姫さまは、ここから出るおつもりですね。無論、私もついてまいります。私たちは、二人で一人――ええ、はじめて会った時から、そうと決まっていたのですよ。

 貞が、自身の作りだした正の亡霊に話しかけていると知った前差櫛姫は、貞の頭上から何度も声を掛けた。

 ――お正はもう死んでるのよ! 現実を受け入れられないのは分かるけど......それじゃあ、お正も浮かばれないわ!

 偶然出会っただけの女たちだ。返す恩義もなければ、寄せる同情もない。だが、前差櫛姫は、貞から離れられなかった。

 貞が見ている光景と、現は時の流れが違うようだった。四十九日の間に、話の中の貞たちは六十過ぎの老婆になっていた。それに合わせたかのように、貞の髪は白くなり、その量も減った。染みや皺は出なかったが、背は曲がり、足腰も悪くなった。自身の妄想通り、急激に老け込んだ貞は、正と共に尼寺で晩年を過ごすと言いだした。

 ――明朝、剃髪し、寺に参りましょう。あの寺の庭には、それは見事な桃の花が咲くそうです。とてもよき香りがすると、寺の者が申しておりました。楽しみですね、姫さま。

 ふふふと笑った貞は、隣に敷いた空っぽの布団に手を伸ばして、笑って言った。無人の布団を見つめて、前差櫛姫はぽつりと問うた。

 ――お貞......あんた、本当は分かってるんでしょう?

 答えが返ってこぬまま、朝を迎えた。

 尼寺に行く前、貞が向かったのは、うらぶれた寺の無縁仏だった。父上行ってまいります――貞がそう呟いたおかげで、前差櫛姫はここに彼女の父が眠っていることに気づいた。

「......ねえ、お正の墓には行かないの?」

 前差櫛姫の問いに、貞は立ち上がりながら答えた。

「妙なことを言う櫛だ。姫さまは、私の隣にいらっしゃるというのに」

 ねえ、姫さま――小首を傾げて横を見遣った貞は、頰を染めて嬉しそうに笑った。小さな手をそっと伸ばし、優しく空を摑むと、ゆっくり前に進みはじめた。

(......この子も彼岸に行ってしまったのね)

 正と一緒に――それが、貞の幸せなのだろう。現世に引き戻せるとしたら、相手は死んだ正しかいない。前差櫛姫の横を通り過ぎていった貞は、優しい表情を浮かべていた。これ以上にないほど、美しく、幸せそうだった。

 前差櫛姫が踵を返そうとした時、貞はふと振り返って言った。

「銭なしと哀れまれ、団子屋から恵んでもらった団子が、これまで食したものの中で一等美味かったそうだ。味はそうでもないのに、なぜと思っていたが、お前と半分こしたから美味かったのだと、今になってようやく気づかれたらしい。半日にも満たぬ旅だったが、お前のおかげで大成したと喜んでおられる」

「あんた、何でそれを――」

 前差櫛姫と正しか知らぬ話を、なぜ貞が知っているのか。

(......まさか、本当に?)

 息を吞んで固まった前差櫛姫を笑って、貞はまた前を向いて歩きだした。

 遠ざかっていく後ろ姿を、前差櫛姫はじっと見つめつづけた。そのうち、もう一人の姿が見えることを願って――。

          *

 見えたのかって? さあ、どうだったかしら......忘れちゃったわ。煩いわね、あんたも妖怪なら分かるでしょ。長く生きてると、昔のことほど忘れちゃうってことをよ! あたし、結構忘れっぽいの。だから、今日話したことも、ほとんどは作り話よ。可哀想なお姫さまも、哀れな侍女も、馬鹿な殿さまも、身勝手な女や男も、だーれもいなかったかもしれないわ。どれがまことで噓なのか、あんたが好きなように考えればいいわ。それを、旦那に話してもいいわよ? 旦那は旦那よ。ほら、記録本屋の――あら、怒ったの? 短気な鮫ねえ。血の気が多くて暑苦しいから、神無川でも行って、頭を冷やしてきたら? もう水は結構? 一体東の方で何してきたのよ......? 

 ふふ......何よ。別段、楽しくなんてないわ。でも、何だか無性に笑いたくなったの。こうやって、あんたと喧嘩してるのも、何だかいいものだなと思ったのよ。......熱なんてないわ。失礼ね。神無川に行くのは、あんたの方でしょ!

 ......ああ、煩い。ほら、よく耳を澄ましてみてよ。外の騒ぎが、さっきよりも大きくなってる。歓声まで上がってるわよ。まだ始まってもないのに泣いてるのは、元色惚け絵師ね......あ、喜蔵が頭を殴ったみたい。すごいわね、ここまで空っぽの頭の音が聞こえてきたわよ。嫌ねえ、空から不気味な鳥の声がするじゃない。七夜(しち)? あら、あの烏もどき、そんな上等な名だったかしら? また泣き声......今度は、爺さんね。百年ぶりに会ったみたいな様子だけど、一体何なの? 

 あっちもこっちも、本当に煩いわねえ。......でも、嫌いじゃないわ。あんたも? ふうん......はじめてあんたと気が合ったわね、撞木。今日だけは休戦して、一緒に喜蔵たちを祝ってあげてもいいわよ? どうしてって......ハレの日ですもの。それに、あたしの心の中にいるお姫さまたちが、そうしろって煩いのよ。ええ、あたしが作った話の、あの娘たちよ。もっとも、もう娘って歳じゃあないけれど。お婆もびっくりの老婆なのに、城の中で暴れまわってるわ。あの頃のまま、元気いっぱいにね。

 そんなことより、いいわね? 喜蔵と綾子が店の中に入ってきたら、一緒に叫ぶのよ。 

 さあ、来たわ!

Profile

小松エメル

1984年東京都生まれ。母方にトルコ人の祖父を持つ。國學院大學文学部史学科卒業。2008年、ジャイブ小説大賞初の「大賞」を受賞した『一鬼夜行』でデビュー。著書に、「一鬼夜行」「うわん」「蘭学塾幻幽堂青春記」の各シリーズ、『夢の燈影』『総司の夢』『梟の月』などがある。

Pick Up Book

  • かがみの孤城
  • i
  • 私のスポットライト
  • ビオレタ

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