「一鬼夜行」余聞

小松エメル

「一鬼夜行」余聞

イラスト:森川侑

3

付喪神会議(3)――「一鬼夜行」余聞

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 寸の間の沈黙後、喜蔵は口を開いて七夜に詰めよった。

「それはまことか。嘘だったらただではおかぬ」

「う、嘘やない! ご主人の残り少ない毛に誓ってほんまや!」

 今次郎は狐や!――そう言い張る七夜は、嘘を吐いているようには見えなかった。

「......元から狐? 今は確かに薄っすら妖気が漂っているけれど、ふだんの今次郎さんにはほとんど感じられなかったわよねえ。数度見かけたうち、ただの一度も」

「よほど力の弱い妖怪でなければ、もう少しくらい妖気が醸し出されているものね。......もしかして、そんなに弱い妖怪なの?」

 青行灯は首を傾げて言い、前差櫛姫は肩をすくめて笑った。

「......その通りですよ」

 呻くように言った今次郎に、付喪神たちは息を呑み、喜蔵は眉をぴくりと動かした。四つん這いで俯いたまま、今次郎は自嘲気味に語った。

「七夜殿のおっしゃる通り、私は元々妖怪――妖狐と名乗れば、同胞に笑われてしまうでしょうね。生まれてからずっと私はほとんど妖力がないのです......修行云々で強くなりようがないほど、ひどいものなのです」

「うーん......そんなことないでて庇ってやりたいところやけど、ほんまのことやからなあ。まあ、しゃあない。才っちゅーのは、生まれながらに持ってる奴もいれば、死ぬまで得られん奴もいる。小春坊なんか見れば分かるやろ? 猫から化けるだけでも大した才やいうのに、猫股から鬼、鬼から猫股鬼――一度力を失っても、修行すればまた妖怪の頂点に近いところまで行くんや。あない才のある奴と比べたら誰でもあかんけど、今は......顔が恐ろしいだけの非力な人間にあっさり負けてしまうくらいあかんのや」

 七夜は哀れむようにしみじみと言った。今屋の付喪神たちが茫然とするなか、古道具屋の面々がはたと我に返った様子で七夜に問うた。

「な、なぜ狐が骨董屋に⁉ 七夜殿はどこでこの狐と知り合われた⁉」

「それに、変よ。妖力がほとんどないのに、何で人間に化けられるの?」

「人間に化けたことも、骨董屋になったことも妙だが、そもそも何でそいつは閻魔商人を毛嫌いしているんだ?」

「さすが兄者。それを聞きたいと思ってた!」

 どんどん土瓶、前差櫛姫、釜の怪、しゃもじもじと続いた質問に、七夜はもったいつけてから話しだした。

 七夜と今次郎の出会いは、数十年前に遡るという。

 ある夜、七夜は浅草、上野界隈の上空を散歩していた。又七が眠りについた後なので、往来には人っ子一人歩いていなかった。

「鳥目には辛いけど、わては頑張ったんや。何をて、散歩をや。大事やろ、散歩は。長生きしたいなら、栄養あるもん食って、よう動いて、ぐっすり寝なあかん。わては妖怪の長寿記録狙うてんねん――て、話が横に逸れたな。すまんすまん」

 散歩に繰りだした七夜が今次郎に会ったのは、すすきが生い茂る草原だった。すすり泣く声がする――そう思い、声をたどって向かった先には、傷だらけで倒れている者がいた。

「ちょうど今みたいに四つん這いになってたわ。のし蛙か思うたけど、耳と毛と尾が生えてたんで、狐や分かったんや。狐に知己などおらへんから、そのまま去ろう思うたんやけどな......」

 ――......そこのお方――私は今次郎と申します。どうか、この今を殺してください。

 七夜をその場に留まらせたのは、狐の悲痛な叫びだった。

 ――あんた傷だらけやけど、死ぬほどやないやろ。助けてくれの間違いやないか?

 不思議に思って問い返した七夜に、今次郎は苦笑交じりに答えた。

 ――この傷は、同胞の妖狐たちがつけたもの......昔から、彼らは私の非力さを嫌い、修行と偽り、私を折檻してきました。私には抗う術などありません......彼らが私を忌み嫌うのはもっともです。妖怪は力こそすべて――なのに、私はそれをほんの少しも持ち合わせていない。......もう嫌だ......傷つけられるのも、恨むのも......。

 いっそ死んでしまいたい――今次郎の想いが伝わった七夜は、ばさりと翼を羽ばたかせた。次の瞬間、人間の姿に変化した七夜は、今次郎の傍らにしゃがみこみ、肩を叩いた。

 ――あんた、生まれ変わったらどうや? こうやって人間に変化して生きるんや。

 ――......私には変化する力さえありません。

 ――お月さんに頼めばええ。月の光には特別な力があってな、毎日かかさず数刻月明かりを浴びとったら、変化できるようになるんや。わての知己にも非力な奴がおったけど、お月さんのおかげで今では立派に変化の術使いや。せやけど、一日も欠かしたらあかんで? その途端、化けられへんようになるからな。

 ――しかし......月は毎日出ていません。

 ――出てへんように見えるだけや。お月さんはえらいから、毎日空にいる。ちゃんと心を込めて「どうかお願いします、助けてください」と願うて月明かりを浴びとったら、そのうち必ず化けられるようになるから、死ぬのはもっと後でもええんちゃう?

 七夜の言葉に、今次郎は何も返さなかったが、微かに頷いたようにも見えた。

「まあ、そないな縁があってな......正直、忘れとったんやけど、ある時ご主人を訪ねてきた人間が、ご主人が席を離した隙にわてに話しかけたきたんや。『その節はご助言いただき、ありがとうございました。無事こうして化けられました』てな」

 なあ、今――七夜の呼びかけに、今次郎はうっそりと顔を上げた。その顔も、姿も、狐のままだったが、不思議と人間の時の見目と重なって見えた。項垂れた様子で唇を噛みしめている今次郎に、ずっと黙していた硯の精が言った。

「お主......どこかで見たことがあると思ったが、もしやあの時の男か?」

 硯の精の言葉に、今次郎はぴくりと身を震わせた。

「あの時の男って何よ?」

「ふむ......あれは今から数十年前のこと――喜蔵が生まれるずっと前だ。まだ逸馬が荻の屋の主人だった頃、店を訪ねてきた男がいたのさ」

 忙しく動く視線に、そわそわとした態度は、見た瞬間に怪しいと分かるものだった。

「盗みを働きにきたのか――我はそう確信した。だが、逸馬は鈍い男だ。相手がどれほど不審な挙動をしようとも、にこにこしているばかりで疑いもしない。それどころか、盗まれた後でさえ気づかない――そう思っていたのだが......」

 男が商品に手を伸ばし、懐の中に入れようとした時、逸馬は言った。

 ――何かとお間違いではありませんか? あなたが今手にしている物は、私の大事なもの――友のような存在なのです。

 一瞬固まった男は、慌てて手にしていた硯を棚に戻した。卒倒しそうなほど青ざめた男は、駆け足で出入り口の方に向かった。

 ――あの......またいらしてください! あなたもどうやら道具が好きなご様子......私には友が少ないので、お話しできたら嬉しいです。

 男が表戸から飛び出す瞬間、逸馬は照れたような声で言った。男は振り返らず走り去ったが、硯の精には分かった。

「あの男は、逸馬の言葉を聞いた時、妖気を放ったのだ。人間にしか見えぬのになぜ......と思っていたが、結局その後その男は荻の屋を訪れなかった。我は逸馬が亡くなってからしばらく蔵の中にいたので、その間にすっかり忘れてしまったが......うむ、やはり。お主の顔は、あの時の男に間違いない」

 硯の精の語りが終わるや否や、喜蔵は今次郎の傍らに行き、冷たい目で見下ろした。

「うちの店から盗みを働こうとしたとは......曾祖父さんの情けで見逃してもらったというのに、俺に嫌みを言いにきたのはなぜだ? ただの逆恨みか? 無様にもほどがある」

 喜蔵の叱責に、今次郎は細い目からぼろぼろと涙をこぼしながら言った。

「......人間になったはいいものの、どうやって生きていけばいいのか、皆目分かりませんでした。このままでは野垂れ死んでしまう――盗みを働いて、その品をよそに売ってしまおうと魔が差したのは、まことです。たまたま選んだのが、荻の屋さんでした。上手くやれると思ったのに、いざやろうとしたら、罪の意識に苛まれ、震えてしまいました。それでも、死ぬよりはマシだと決行したら、あのざまです......」

それから今次郎は、自身も道具を扱う商いをすることを決意した。古道具屋でなく、骨董屋になったのは、浅草を出て弟子入りした先がそうだったためだ。師匠に当たる骨董商は、今次郎が弟子入りして十数年後、病で亡くなった。その店は、彼の子が継ぐことになり、今次郎は晴れて独立し、自分の店を持つことになった。

「私は、浅草に戻ってきました。店を開くなら、私と助けてくれた方々がいる土地だろうと......まず、七夜さんにお礼に行きました。その後は、荻の屋さんの元へ......」

 しかし、逸馬はすでに亡くなり、喜蔵の祖父の代になっていた。詫びも礼も、二度とすることが叶わない――それに気づいた今次郎は、哀しみよりも怒りを覚えた。

「なぜお前が怒るのだ。やはり逆恨みではないか」

「ええ......ええ、そうです。その通りです! 私だって分かっているのです......どれほど勝手なことを言っているのかくらいは......色々話してみたかったんです。お詫びとお礼をして、許してもらえたら、道具のことなどを語りあって、友のように笑い合って......そんな未来を夢想していたんです、勝手に――」

 泣きながら言った今次郎に、喜蔵は押し黙った。

「......はじめての友を作り損ねたせいか、その後も私には友ができませんでした。あなたのお祖父さまとは少々話したこともありますが、ひどい無口で、友になどなれる様子ではありませんでした。あなたのお父さまは出奔癖があったし、そもそも道具に興味などなかった。私はあまりこの世のことを知りません......道具のことくらいしか分からないのです。あなたも同じだと思っていました。人を寄せつけず、たった一人で生きている。人と妖怪の違いはあるが、抱く孤独は同じだと......だからきっと友になれると信じていたのです」

 あの日までは――喜蔵を睨むように見上げて言った今次郎に、喜蔵はむっと顔を顰めた。

 ――荻の屋の主人を紹介してほしい? なんや、妖怪の困りごとでも起きたんか? 妖怪事なら、小春坊の方がええんとちゃう? たまにこっちの世に来てるさかい......今いるか分からへんけど。いないなら、付喪神たちに相談したらええ。付喪神は付喪神や。荻の屋の道具には、ぎょうさん付喪神が混じってるんや。喜蔵坊は、小春坊とも付喪神や妖怪たちともよう喧嘩してるけど、ほんまは仲良しでな。友......いや、無二の親友や! 義兄弟の契りを交わしてるかも分からん。あの人と妖怪たちには深ーい絆があるさかい、「友はこれ以上いらん。こ奴らだけいればいい」言うてたような言うてなかったような―― 

 それが、今次郎が喜蔵への紹介を頼んだ時、七夜が語った言葉だった。

「......誰が友だ?」

 低い声音で言った喜蔵は、横目で七夜を睨んだ。

「あ、あはは......冗談や、冗談! そないなこと本気にすると思わなかったさかい......ああ! ご主人の呼ぶ声が聞こえたわ! はよ行かな!」

 喜蔵が止める言葉を発する前に、七夜は凄まじい速さで部屋から飛び去った。

「......私と同じだと思っていたあなたには、大勢の友たちがいた。腹が立って仕方がなかった。この世でたった一人――一妖なのは、私だけだったんです。悔しくて、悲しくて、この気持ちをどこかにぶつけてやりたかった。......あなたの許を訪ねたのは、あなたにも私の絶望を味わせたかったから。でも、私にできることなど、嫌みを言うくらいなものです。人間を殺すどころか、心を傷つけることすらできない妖怪など、私の他にはいないでしょう。あなたのおっしゃる通りですね......私はどうしてこんなにも無様なのでしょう。妖怪としても、人間としても、価値などない......」

 乾いた笑い交じりに言った今次郎の目から、また涙が流れた。

「.........」

 じっと今次郎を見下ろした喜蔵が、ようやく口を開こうとした時、

「今次郎さまは無様などではありません!」

「そうですとも......!」

 叫び声が響いた。喜蔵と古道具の付喪神たちは、声を発した琴古主たちに視線を向けた。彼らは、今次郎に歩みよりながら語りだした。

「今次郎さまは、私たちをとても大事にしてくださいました。興味はないのに、価値を目当てにして買いに来たお客には、決して私たちを売らなかった。その反対に、大事にしてくれそうな人には、値を下げてまで渡してくださって......過去に売られていった同胞たちは、今次郎さまのおかげでとても幸せそうでした」

「売られていった者たちだけではありませんわ! いつまで経ってもいい買い手がつかない品も、今次郎さまは平等に慈しんでくださった......私たちと同じように、あなたも私たちの本性には気づいていなかったのでしょう。それなのに、あなたは私たちに毎日優しく語りかけてくれた......うふふ。話し方から、この世の常識、浅草のこと、そこに住まう人たち――私たちに色々なことを教えてくださったのは、あなたではありませんか!」

 差江と水瀬が必死に説けば、洟を啜りながら鳥兜丸が言った。

「この者たちが言うことは、もっとも......俺たちは、いつもあなたと共にあった。あなたのおかげで、よい道生、よい妖生が送れている......!」

「荻の屋への愚痴を聞き、勝手に喜蔵殿への復讐を果たそうとして、申し訳ありません......今次郎さまを哀しませる存在が許せなかったのです。今後は決してこのような真似はいたしません......だから、今次郎さま――」

 嗚咽で先を続けられなかった鈴王子に代わり、琴古主が口を開いた。

「価値がないなどとおっしゃらないでください。私たちにとって今次郎さまは、誰よりも価値のある方なんですから。私たちではさみしさを癒せぬかもしれませんが、今次郎さまがいいと許してくださるなら、これからも共にいさせてください......!」

 叫ぶように言うなり、うわーんと泣きだした琴古主につられて、今屋の付喪神たちは大泣きした。

「......確かに不足ですね」

 今次郎は小声で言った。眉を顰めた喜蔵は、前に足を踏みだしかけたが、三味長老に袴の裾を引っ張られて、思いとどまった。皆が不安な表情を浮かべるなか、三味長老だけは穏やかな表情で今次郎たちを見つめている。

「あなたたちのように心優しく、道具としても妖怪としても優れた者たちの主人が私のようなものだなんて......あまりにも力不足です」

 ふっと笑った今次郎は、「でも」と続けて顔を上げた。

「もしそれでも許してくれるなら......私のそばにいてくれませんか」

「......今次郎さま!」

 琴古主たちは主の名を叫びながら、今次郎に飛びかかった。ちょうど半身を起こした今次郎は、胸に飛び込んできた道具たちに目を白黒させながら、やがて泣き笑いをした。

「......うう、ぐす」

「何でお前まで泣くんだ、弟よ......ひっく」

「そういう兄者こそ......ぐすんっ」

 釜の怪としゃもじもじはもらい泣きをした。硯の精と前差櫛姫、三味長老以外の面々は、涙こそ流さぬものの、泣きそうな表情をしていた。

「ふん......何よ。良い話でまとめちゃってるけど、逸馬へのお詫びとお礼、それに喜蔵へのお詫びもしていないじゃないの」

 今次郎たちを遠巻きに眺めながら、前差櫛姫は鼻を鳴らした。

「まあ、よいではないか。はじめて友ができたのだ。きっと、今次郎もすっかり改心して、そのうち改めて喜蔵に詫びに来るさ」

「硯の精って、本当にお人好しねえ......喜蔵はそれでいいの?――あら?」

 前差櫛姫は首を傾げて辺りを見回した。そこにはすでに喜蔵の姿はない。

「......妖怪のあたしが言うのも何だけど、ここは喜蔵が今次郎に、『俺に友などいない。......だが、話し相手くらいならばなってやってもよい』とか何とか言って、めでたしめでたしなんじゃないの?」

「なんだ、前差。お主は結局今次郎を許してやれという意見なのか?」

「別段どっちだっていいわよ! 見ず知らずの商人だもの」

 唇を尖らせた前差櫛姫は文句を言いつつ、荻の屋の仲間の許へ近づいていった。

「ちょっと! いつまで泣いてるのよ! 妖怪のくせにみっともないわねえ。皆、根性が足りないのよ。ほら、皆あたしの前に並びなさい。ここにいる全員まとめて、この前差櫛姫さまが鍛えてあげるわ!」

 前差櫛姫の発言と高笑いを聞いた一同は、さっと顔色を蒼褪め、慌てて逃げだした。

「待ちなさい! 逃げれば逃げるほどひどい目に遭わせるわよ⁉」

 その言を聞いて立ち止まる者はいなかった。座敷の中で鬼ごっこがはじまる前に、三味長老はいそいそと小走りして、襖の壊れた出入口を潜った。廊下に出て歩きだした三味長老は、ある部屋の前で足を止めると、微かに襖を開いた。

 そこには、壁際に追い詰められた七夜と、壁に手をついて七夜を凄む喜蔵の姿があった。

「月明かりを浴びるのを止めたら、狐に戻ってしまうと言ったな。今日はほんの少ししか浴びていないはずだが、支障はないのか。自ら狐に戻った今次郎は、まさかこのまま人間に変化できぬなんてわけがあるまいな?」

「いやいや、そない怖い顔で迫らんといてくれる⁉ ほんまおっそろしい面なんやから、もっと気をつけてもらわな......ゴホン! ええっと、質問何やったっけ? ああ、月や月。大丈夫や、まるで問題あらへん。望めばすぐにまた人間に変化できるやろうし」

だって、丸っと嘘やから――七夜はからからと笑った。

「......嘘、だと?」

「そうや。月明かりを浴びつづければ、人間に変化できるようになるなんて真っ赤な嘘や。お月さんに特別な力があるかは分からへんけど、あったとしても、妖怪や人には関係あらへん。月のもんは月のもんや。わてらの力がわてら自身のものであるようにな」

 怪訝な顔で呟いた喜蔵に、七夜はいつもより翼を大きく羽ばたかせながら答えた。満足げな様子に、喜蔵は常にも増して仏頂面で言った。

「......つまり、今次郎は月の力をもらって変化しているつもりで、自らの才や努力で変化できるようになったと」

 うむ、というように頷いた七夜は、「ぎゃっ」と悲鳴を上げた。

「せやから、その閻魔顔止めてもらえへん⁉」

「煩い、鳥頭」

「そうそう、ちょっと煮込んだらいい出汁が取れる――って、何やと⁉......あ、こら!」

 話は終わってへん――七夜がすべて言いきる前に、喜蔵は素早く廊下に出た。襖の近くに立っていた三味長老をちらりと見たものの、何も言わず表に向かって歩きだした。三味長老は、姿勢のいい後ろ姿に声をかけた。

「大丈夫だと伝えてやればいい。お主の口から聞いたら、喜ぶだろう」

 そして、深く感謝もするはずだ。そうすれば、今次郎も「これまでの非礼を」と言いやすくなるだろう。しかし――

「なぜ俺が奴を喜ばせてあげなければならぬのだ。お前が代わりに伝えてやればいい。俺にはかかわりない」

 ふんと鼻を鳴らして、喜蔵はそのまま歩き去ってしまった。

「......素直でない御仁だ。私のご主人とは正反対だが、心根が優しいところはよく似ている。ああ、いかん......たった数刻離れていただけなのに、もう会いたくなってしまった。だがあの方は今頃、夢の中で私を奏でておられるかな」

 くすりと笑った三味長老は、茶と菓子を盆に載せてこちらに向かってくる又七の姿を認めて、慌てて部屋に戻った。

「あ、足の生えた三味線が走っていたような......いや、気のせいだ! きっとまだ夢を見てるんだろう......それにしては妙に意識がはっきりしているなあ......お迎えが近いのだろうか? 困るなあ、『急に死ぬなんて迷惑です!』と怒られてしまう」

 又七が廊下で独り言ちるなか、三味長老は皆に「急いで変化しろ!」と大声を張った。

Profile

小松エメル

1984年東京都生まれ。母方にトルコ人の祖父を持つ。國學院大學文学部史学科卒業。2008年、ジャイブ小説大賞初の「大賞」を受賞した『一鬼夜行』でデビュー。著書に、「一鬼夜行」「うわん」「蘭学塾幻幽堂青春記」の各シリーズ、『夢の燈影』『総司の夢』『梟の月』などがある。

Pick Up Book

  • かがみの孤城
  • i
  • 私のスポットライト
  • ビオレタ

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