「一鬼夜行」余聞

小松エメル

「一鬼夜行」余聞

イラスト:森川侑

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緑の手ーー「一鬼夜行」余聞

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 色鮮やかな魚が、群れをなすように泳ぐ海の中、ごつごつした岩に腰掛ける二妖がいた。

「俺はどこかの岬で生まれたんだ」

 ぷかぷかと口から水泡を出しながら、岬(みさき)は言った。頭の上には皿があり、手には水かきがついている。絵草紙に出てくる河童そのものの見目をした彼の横には、蝦蟇王(がまおう)という大きな蛙の形をした水の怪がいた。

「だから岬という名なのか。実に安易な名づけ方だ」

 呆れたように述べた蝦蟇王に、岬は「それは名付け親に言ってくれ」と肩を竦めた。

「おや、親が付けたんじゃないのか」

「俺は親を知らないんだ」

 蝦蟇王はふうんと気のない返事をしつつ、近くを泳いでいる魚を目で追った。親を知らぬ妖怪など珍しくないので、こういう時は皆同じ反応をする。

(いや......あの怪だけは違ったか)

 ――親がいない?......へえ、すごいじゃないか。だって、あんたみたいな甘ちゃんがたった一妖で生きてきたってことだろ? 案外根性あるじゃないか......まあ、ご苦労さん。

 くすりと笑った岬に、蝦蟇王は首を傾げた。

「知己に妖怪らしくない妖怪がいてね。そんなこと当妖には言えないが、皆そう思ってるのさ」

「それは難儀な奴だな」

 蝦蟇王はそう言うと同時に舌を伸ばし、目の前を通過した魚を絡めとった。岬の話にまるで興味がないのだろう。それでも返事をしてくるだけ優しいと岬は思った。

(大抵の奴は無視するもんなあ......でも、それが妖怪だ。そいつの過去や、思ってることなんて知っても意味がない)

 どうせ死ぬんだから――そう呟いた時、蝦蟇王は取った魚を咀嚼しながら、「うん?」と不思議そうにまた首を傾げた。

「何だか間抜けな最期だなあ......あんたもついてないね」

 まあ、俺ほどじゃないか――岬はぼやきながら、蝦蟇王の胸に手を当てた。次の瞬間、蝦蟇王は静かに頽れた。自身の手の平をじっと見てから、岬はゆっくり腰を上げた。岩場の陰にいた小さな鮫の怪と目が合ったのは、その時だった。相手は震えながら、岬を指差して叫んだ。

「今の今まであれほど親しげに話していたのに......卑怯さは妖怪にとっての美徳だが、あんまりではないか。こ、この妖怪殺し......!」

「うん、あんたの言う通りさ」

 岬はにこりとして頷いた。とても今妖怪を殺したばかりとは思えぬ穏やかな様子の岬を見て、小鮫の怪は自分が見た光景が幻だとでも思ったのかもしれぬ。ぼうっと立ち泳ぎしていた彼の横を通り過ぎた岬は、ちらりと振り返って言った。

「あんたは俺の次についてない妖怪かもなあ」

 すれ違いざま、小鮫の怪の胸に伸ばした手をすっと引く。前を向いて泳ぎながらまた手の平を確かめた岬は、眉を顰めて文句を垂れた。

「こっちも汚え......もっといい生き方をしろよな」

 そうすれば、岬が盗る魂も、美しく光り輝くだろう。

河童には人間の尻から尻子玉を抜く力があるが、岬は別の能力を有していた。それが、他妖の魂を盗むというものだった。妖怪の世は広いが、同じ能力を持つ者に、岬は会ったことがない。命を取るという意味では、死神と同義と捉えられそうだが、岬と死神には明確に違う点があった。

(あいつらは予定通り寿命を終える奴らの魂をもらう。俺はそういうのにかかわりなくだからなあ......ただ盗妖(ぬすっと)と言われても仕方ないが、俺にそんなこと言う奴はいないか)

 そう言われる前に、岬は相手の魂を奪った。これまで数え切れぬほど魂を盗んだが、それを良いとも悪いとも考えたことはない。魂を盗るのが、岬に課せられた使命だった。

(どうせ盗るなら、綺麗な魂の方がいいとは思うがね)

醜い魂で穢されるよりも、美しい魂で綺麗に彩られた方が心地よいに決まっている。しかし、相手は妖怪だ。

「そうそう綺麗な魂をしてる者などいないよなあ。あのアマビエくらい光ってたらいいのに......」

 赤青赤青赤――点滅するように光り輝く人間の世の海を眺めて、岬は呟いた。今、あちらではアマビエを巡って、水の怪たちの間で争いが起きている。妖怪の世にいる岬にはかかわりのない話だったが、逐一様子を気にしていた。

(だって、あの中にはあの怪がいるからね)

 ふふと笑った岬は、泳ぐ勢いを速めて、人間と妖怪の世の境に向かった。人間の世に近づくにつれ、アマビエの発する光が鮮明になった。そこで戦う水の怪たちの中に目当ての妖怪を見つけた岬は、相手に届かぬと知りつつも、声を掛けた。

「待っててくれよな、弥々子(ややこ)姐さん! もう少ししたら、あんたの魂をもらいに行くからさ‼」

          *

 水の世に生まれた水の怪は、その後妖怪の世に行く――妖怪なら誰でも知っている話だが、なぜと問われて答えられる者はほとんどいない。岬がその数少ない中に入っているのは、水の世を司る者から直接話を聞いたからだ。

――水の怪が懐妊すると、その魂はまずこの水の世に姿を現し、じっと生まれおちる時を待つ。臨月を迎えた頃はじめて、その魂は水の怪の腹に戻る。子を産む時、水の怪は大抵妖怪の世にいるから、水の世に生まれし水の怪が、妖怪の世に行くと言われるのはそういう所以だ。

 妖怪の世で一生を終える者もいれば、人間の世に向かう者もいた。稀に水の世に戻る変わり者もいるが、そこで長期間過ごす者はほとんどいなかった。

「零ではないのは、お前がいるからだ――岬」

 凛とした声音で言ったのは、水の世の支配者である須万(すま)だった。巨大な白い魚の姿をしているが、本性は全身真っ白な人間の形をした妖怪だ。

(いや......あれが仮の姿で、こちらが本性かもしれん。妖怪は噓吐きだから分からんなあ)

 須万の横に控えながら、岬はぼんやりと考えていた。

「お前も他妖のことは言えぬだろうに」

「おおっと......須万さまには何でもお見通しだあ」

 岬は笑って答えた。須万に頭の中を読まれることは、日常茶飯事だ。今さらそれを気にすることはなかった。

「水の怪のことならばな――もっとも、あの者以外だが」

 須万は笑い声を漏らしたが、目には昏い光が宿っている。

「まあ......あいつは謎の妖怪ですからねえ」

「未来の予言をし、災害を振りまき、永遠の命を与える――謎ではなく、迷惑の間違いだ。生きているのが罪なほどにな」

「......ごもっともです」

 岬は笑みを引き、須万の言に頷いた。

(この穏やかな方をこれほど怒らせるのは、奴しかいねえな)

 奴ことアマビエは、岬が言った通り、謎の妖怪だった。人間の中にも、彼の妖怪を知る者がいるのは、ひとえにアマビエの習性による。水の怪であるアマビエは、妖怪の世や人間の世を行き来し、方々で騒動を起こしている。当妖が何を思ってそんな真似をしているのかは不明だ。アマビエは、口が利けぬ妖怪だった。しかし、他妖や他人の言葉は分かるらしく、身振り手振りや砂浜に文字を書いて意思を示すこともあった。岬はその場面に遭遇したことはない。

(この須万さまさえないくらいだものな)

 アマビエを生みだした張本妖だというのに――そう思った瞬間、射貫くような須万の視線を受けた岬はびくりと身を震わせ、固まったまま小声で詫びた。

「何を謝る必要がある。お前の言ったことは、ただの真実だ」

 そう言いつつも、須万は立腹しているようだ。身体から漏れだしている威圧感と妖気に、岬は気圧された。ここに他の妖怪がいたら、恐怖を共有できたが、彼らが水の世を訪れるのは、一生に一度か、多くて二度だ。例外である岬も、ずっと水の世にいるわけではない。つまり、水の世のすべては、須万のものと言えるだろう。

 それほど強大な力を持ちながら、須万は自身の出生を知らなかった。気づけばこの世にいて、身体中に走る痛みに苦しみ悶えていたという。やがて、パンッと何かが破裂したような音が響いた。それが自身の身が裂けた音だと気づいた須万は、海の底に臥せながら、近くに浮いている者を見た。青と赤に染まったその怪は、須万の身を突き破って出てきたとは思えぬほど、間抜けな顔をしていた。

 ワレ アマビエ――声は発さず、心で伝えてきた相手に、須万はヒレを伸ばした。しかし、須万の身から生まれでたアマビエはひらりと躱して、水の世を去ってしまった。

 瀕死の重傷を負った須万は、やがて周囲にたくさんの水の怪の魂が漂っていることに気づいた。試しに一つ喰らってみたところ、須万の身は大分癒えた。自身が、水の怪の魂を摂取して生きる怪だと気づいた須万は、他の魂を捕らえようとして、止めた。それらはまだ生まれる前の不完全な魂だ、母の腹に戻って生まれた後喰らうべきだ、と囁く声がした。しかし、水の世には須万以外誰もいない。とりあえず、水の世から出てみようとした須万だったが、また声が響いた。

「ここで魂を育てよ、さもなければお前が食すべきものが消えてなくなるぞ――そう脅してきたのは、誰とも知らぬ相手......否、あれはアマビエに違いない。私の身から生まれた者だからこそ、声ではなく、心で意思を伝えてくる。もっとも、近くにいなければそれも叶わぬが......奴の考えを聞くまで、私は死ねぬ。我が身を死の淵に誘いながら、よその世を遊び歩いている奴には、きつい仕置きが必要だ――そうは思わぬか、岬」

 じろりとねめつけながら述べた須万に、岬は慌てて膝を折り、手を差しだした。

「......すべて須万さまのおっしゃる通り――水の世を離れるわけにはいかぬ須万さまに代わり、この岬が必ずやアマビエを捕まえてしんぜましょう!」

 岬の宣言に満足そうに頷いた須万は、岬の差し伸べた手に、自身のヒレを重ねた。触れ合った瞬間、須万は眩い光を発した。岬が盗ってきた魂を、自分の体内に呑みこんだのだ。

(あんな汚い魂でも、須万さまのものになったら、にわかに美しく光りだすんだものなあ)

 須万は妖怪だが、能力は神に近い。その力を持ってすれば、アマビエは捕られただろうし、食料である水の怪の魂もたやすく手に入れられるはずだが、彼女はこの水の世から出ることができない。だから、須万の僕である岬が、須万の代わりによその世に行き、仕事をこなしていた。

 従順な子よ、期待しておるぞ――須万の声が響いた時、辺りが白光に満ちた。瞬きをしたほんのわずかな間に、岬はどこかの川を漂っていた。

(期待してるなら、もっといい場所に飛ばしてくれりゃあいいのに......こりゃあひどい!)

 濁流と言ってもよいほど、その川の流れは速く、荒れていた。大雨で氾濫したのだろう。水位が高く、様々なものが流されている。周囲を見回しつつ泳いでいた岬は、少し先の岸にいた相手を認めて、ぴくりと顔の筋肉を緊張させた。

(中々強い力を持った女河童だな......神無川の弥々子か!)

 河童でなくとも一度は耳にしたことがあるというほど、女河童弥々子の名は、水の怪たちの間で知れ渡っていた。

(いい面と悪い面でだけどな)

 岬はふっと笑って、近くを流れていた木片と布きれを摑み取り、弥々子の方へ泳ぎだした。

 ――弥々子は強い。全河童の中でも、一二を争う才を持つ......持っていたというべきか。昔は人間を見たら襲い掛かり、嬲り殺してその身や尻子玉を喰らってたが、三十年ほど前に急に変わった。人間に惚れたんだよ! そいつに義理立てて、人間を喰らうのをやめた。あんな馬鹿な真似しなけりゃあ、いつか水の怪の頂点に立てたかもしれないのに――。

 いつだったか、岬にそんなことを教えてくれたのは、弥々子の元配下だった河童だった。

(名は何と言ったか......魂をいただく前に聞いたのに、忘れちまった。あいつこそ、弥々子河童に惚れてたんだろう。未練たらたらだったものなあ。馬鹿なのはどっちかねえ)

 岬はぶくぶくと水泡を吹き、ばたばたと手足を動かした。そのうち、何かが川に飛びこむ音がした。こちらに近づいてくる妖怪の気配を感じながら、岬は笑いを漏らした。

(......より馬鹿なのはこっちだったか)

 岬に手を伸ばしたのは弥々子だった。溺れている妖怪がいたらどうするかと試してみたのだが、想像以上にお人好しらしい。

(変わった河童だなあ。俺も他妖のことは言えないがね)

 河童は本来、群れを作って生きる妖怪だ。岬が一目して変わり者と確信した弥々子でさえ、その中で生きている。しかし、岬は生まれてこの方一度も群れに入ったことがなかった。

 水の世で生を受けた時、岬は周りにたくさんの魂がふよふよと浮いているのを目にした。眠って起きるたび、その数は減っていったため、いつかは自分もここから旅立つのだろうと思っていた。幾度目かに目を覚ました時、岬は己に身体があることに気づいた。驚いて飛び起きた瞬間、岬の前に現れたのは須万だった。

 ――お前の魂が水の世から妖怪の世にいる母の腹に戻り、生れ落ちんとした時、お前の母親は岬で津波に巻き込まれて死んだ。父親も兄弟も親類も、同じ群れの知己たちも皆同じ目に遭い、絶命した。半分生まれかけていたお前を救ったのは、私だ。私の魂を少し分けてやり、こちらに無理やり引き戻したのだ。しかし、成功するとは思わなんだ......この水の世には、時折水の怪が訪れるが、お前のような変わり種ははじめて――否、たった一妖だけいた。我が身が分裂し、この世に生まれし、アマビエ――珊瑚と海に反射する日の光でその身を彩り、どこかに旅立ったまま帰ってこぬ放蕩者。お前はその代わりなのかもしれぬ――みなしごの岬、お前は今日からこの須万に仕えよ。その無防備な身ではすぐに死んでしまうゆえ、魂と力を分けてやろう......これで、お前の身は守られた。

 須万が授けたのは、他妖の魂を奪う力だった。

(あの方も大概だ。俺の力は誰かを殺すだけで、自分の身なんてちっとも守れやしないじゃないか)

 現に今、岬は溺れて死にそうになっている――ふりだったが、傍からすればそうとしか見えなかった。だから、弥々子が助けようとしてくれているのだ。力を与えるだけで救いの手など伸ばしてくれぬ須万ではなく、一度も話したこともない、見ず知らずの河童が――岬は首を傾げた。

(何だ? 何で俺は泣きそうになってるんだ......?)

 不思議に思った時、岬は強く腕を摑まれて、はっとした。

(......綺麗だな)

 岬が思わず見惚れたのは、岬を見つめる弥々子の目だった。そこに宿っている光は、魂の輝きに他ならない。その眩しさに目を細めた岬は、思わず弥々子の目に手を伸ばしたが――

「馬鹿! 岸に着くまで大人しくしてろ!」

 溺れていると勘違いしたままの弥々子は、岬が苦しみのあまりもがいていると思ったらしい。岬の身を拘束するように腕の中に抱きこむと、猛烈な勢いで岸に向かって泳ぎだした。濁流に逆らい、ひたすら上を向いて泳ぐ様は、水の怪たちの間に名を馳せた妖怪らしかったが、岬は残念に思った。

(こっちを見てくれなきゃ、綺麗な魂が見えないじゃないか)

 早く見たい。早く盗りたい――そう思いながら、岬は大人しく弥々子に従い、岸に運ばれた。

「あんた、何で溺れたんだい。泳ぎが不得手なら、こんな時に川に入るんじゃないよ」

 岸に上がって岬を適当に転がした弥々子は、岬を見下ろしながら言った。岬は「猫が溺れてたんだ」と言って、布を木片に被せたものを見せた。

「......これのどこが猫なんだい」

 弥々子は問うた。思いきり怪訝な顔をしていたが、それでも一応理由を聞いてくれるらしい。岬はこみあげてくる笑いを必死に堪えながら、さっき考えた噓を語りはじめた。

「流れてきた木片にこれが被さったものが、猫にそっくりだったんだ。川に飛びこんで、やっとのことで猫を摑んだと思ったら......いやあ、驚いたの何のって。あんまりびっくりしたせいか、なぜか足がつっちまってね......」

 えへへと笑うと、弥々子は眉を顰めた。妖気が強まったのを感じ、岬はわくわくした。さあ、どうする――ぐっと屈みこんだ弥々子は、強い力で岬の広い額を叩いた。目を瞬いている隙に、弥々子はくるりと踵を返し、歩きだした。そのままもののけ道を開いて中に入った弥々子を、岬は慌てて追いかけた。声を掛けたが、弥々子は前を向いたまま振り向きもしない。

(俺が噓吐いたから怒ったのか? いや、噓だと気づいちゃいないか......あまりに間抜けな言い訳だから、呆れたのか?)

 そのどちらでもないと気づいたのは、もののけ道から出て神無川に着いた時だった。川の中に入った弥々子を、岬は岸からぼうっと眺めていた。やがて、弥々子は川から顔だけ出すと、鋭い目つきで言った。

「何をぼうっと突っ立ってるんだい。あんた河童だろ? 河童なら、そこに川があるならさっさと中に入るべきだ」

 つい川に飛びこんだ岬だったが、水の中で首を傾げた。

(勝手についてきたよそ者を、自分の川にほいほい招き入れるなんて......本当に変な奴だなあ)

 弥々子は岬に川へ入るように促したものの、その後は一切構おうとしない。困惑した岬にこそりと声を掛けてきたのは、銛(もり)という弥々子の配下の河童だった。

「あんたも棟梁に助けてもらった口かい? 俺もそうなんだ。元々は隅田川にいたんだが、諍いが起きてね。危うく殺されそうになって反撃したら、相手が死んじまったのさ。俺は身を守っただけだったんだが、他の奴らに『銛が先に手を出した!』と罪を着せられて......制裁を受けた俺は虫の息で川を漂ってた。半ば死体のような有様だったから、皆に見て見ぬふりをされたよ。唯一声を掛けてくれたのが棟梁だったんだ」

 ――あんた......まだ生きてるね? これからも生きる気があるなら、あたしの川まで連れてってやろう。手当ても世話もしないから、生きたいなら、自分で頑張りな。

 突き放すように言った弥々子を見て、銛は弥々子の下で生きることを誓ったという。

「......お人好しなんだか、冷たいんだか、よく分からんなあ」

「棟梁はお優しいが、優しいだけじゃ妖怪は務まらんよ」

 あははと笑った銛は、岬の胸を拳で小突いて離れた。優しく叩かれた胸を手で触りながら、岬は水の中にたゆたう弥々子をじっと見つめた。

 西日が差し、水の中が朱に染まった頃、岬は弥々子のそばに近づき、すっと手を伸ばした。弥々子の胸の前で動きを止めた自身の手に、岬は苦笑した。

(......はじめてだなあ、お前が言うことを聞かねえのは)

 言うことを聞かぬのは、手なのか、心なのか――自分でもよく分からないまま、岬はさらに手を伸ばし、弥々子の手を摑んでぶんぶんと振った。

「命が助かった俺はなんと幸運なのだろう! すべてあんたのおかげだ、弥々子姐さん! 俺の心の師よ!」

「......はあ?」

 怪訝な顔をした弥々子は、呆れきった声を出した。岬の言が、調子のいい台詞に聞こえたのだろう。だが岬は、心から今生きていることに感謝していた。

 この妖怪の魂は俺のものだ――そう思った岬は、いつか弥々子の魂を盗ることを心に決めた。

Profile

小松エメル

1984年東京都生まれ。母方にトルコ人の祖父を持つ。國學院大學文学部史学科卒業。2008年、ジャイブ小説大賞初の「大賞」を受賞した『一鬼夜行』でデビュー。著書に、「一鬼夜行」「うわん」「蘭学塾幻幽堂青春記」の各シリーズ、『夢の燈影』『総司の夢』『梟の月』などがある。

Pick Up Book

  • かがみの孤城
  • i
  • 私のスポットライト
  • ビオレタ

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