「一鬼夜行」余聞

小松エメル

「一鬼夜行」余聞

イラスト:森川侑

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姫たちの城――「一鬼夜行」余聞

姫たちの城.jpg

ここに来る前、何してたかって? 

あのねえ......何でそんなこと言わなくちゃならないの? あんたと仲良しこよしになった覚えなんてないんだけど。そうなりたいって......本気で言ってるの? あたしは妖怪よ? 単なる好奇心なら止めておきなさい。妖怪の真実を知りたいなんて、よほどの覚悟がないと駄目よ。面白そうと首を突っこんだら最後――ばくっと喰われて死んじゃうんだから......心配してるわけじゃないわよ! まったく、おめでたい人間ねえ。何であたしがあんたの心配なんか......いいわ、話してあげる。勘違いしないでよね。あんたなんてどうなったっていいから、話してあげるのよ。ありがとうって、あんたねえ......。

 ......あたしは、南の暖かい国で生まれたの。勿論、最初はただの櫛として――いいえ、ただのじゃないわね。ほら、あたしってとっても美しいでしょう? あまりにも素晴らしい出来だったから、ある藩のお姫さまに献上されたのよ。何よ、硯の精......「我と似てる」ですって? 全然違うわよ! 悔しいけど、そっちは一子きりの世継ぎでしょ? こっちは何人もいるうちの末子。それに、そのお姫さまを産んだのは側室で、元々はただの侍女だったの。つまり、正室の子たちとは、まるで価値が違ったのよ。人の価値は皆同じ? 生きてるだけで価値がある?......あんたもおめでたいわねえ。世間はね、優劣を競い合って、それぞれに価値をつけて成り立ってるの。妖怪の世も人の世も、そういうところは変わらないわよね。

あたしが付喪神として目覚めたのは、城に来てすぐのことよ。ほら、これも硯の精と違うでしょう? あんたは城に行ってからも、長い間眠ってたんですものね。あたしはすぐ目が覚めたわ。櫛として作られてから五年と経ってない時よ。付喪神になるには百年はかかるっていうのに、あたしったら本当に優秀よねえ。こんなに可愛くて、優しくて、力もある妖怪なんて、あたししかいないんじゃないかしら? 「力がある以外は丸っと噓じゃないか」ね......しゃもじもじ、しかと聞こえたわよ。夜になって、人間が寝静まった頃にお仕置きしてあげるから、楽しみに待ってるのね。

泣いて詫びるくらいなら、最初から言わなきゃいいのよ。一度口から出た言葉は、元には戻らないって知らないの? 一度失った信頼も......ああ、あんたには元から抱いてなかったから、朝方に数回櫛で引っかいてやるだけで許してあげるわ。「この前寝ている時に引っかいたのは、お前か!」? そういえば、ご飯をすくう部分に引っかき傷があるわねえ。寝ぼけて自分でやったんでしょ。他妖のせいにするなんて図々しい。......何よ、撞木(しょうぎ)。にやにやして気味が悪いわね。ここ数か月見かけなかったと思ったら、旅してたの? あの記録本屋に偶々会った? 随分と縁があるのねえ。いっそ祝言を挙げたらどう? 肥えた男は嫌って、向こうも鮫女は嫌でしょうに。......あたしはちょっと小さいだけで、姿は愛らしいでしょ! 力だって強い――そりゃあ、あの小鬼に比べたら誰だって......もう、そのまま東に住んでいればよかったのに! こんな面白い日に、戻ってこないわけがない?......どこが面白いのよ! あたしにとっては、妖生最悪の日よ!

......ううん、二番目だわ。一番目?......あのお姫さまと出会った日よ! これからどんな妖生を送ったって、あの日を更新することなんてないわ。

あれは、あたしが城に来た日よ―― 

          *

「殿が、こちらのお櫛を姫さまにと......」

 低く掠れた女の声を聞きながら、前差櫛(まえさぐし)は内心ほくそ笑んだ。

(「お姫さま」に会う時に付喪神として目覚めるなんて、あたしったら流石ねえ)

 喜びのあまり変化しそうになって、前差櫛は慌てて留まった。城にはおそらく大勢の人間がいるのだろう。そんなところで正体が露見してしまったら、大変なことになるはずだ。

 ――あんたが付喪神になるかは分からんが、もしそうなったら、間違っても人前に姿を現さんことだ。それまでいかに大事にされてきたとしても、本性を現した途端、すべてなかったことになるのさ......あんたも付喪神になったら、分かるよ。人間という生き物がいかに身勝手で、冷酷で、情がないってことをな。

 二年前、前差櫛にそう語りかけてきたのは、簪の付喪神だった。彼は、目にした者がこぞって感嘆の息を漏らすほど、優美な簪だったそうだ。前差櫛が作られるずっと前に付喪神として目覚めた簪の付喪神は、さる公家の姫君の許へ献上され、そこで大層重用されていた。しかし、ある時、うっかり本性を現してしまったという。

 ――......身重の姫さまが、石段で転びかけたのを、思わず助けた。そんなにひどい転び方でもなかったんだから、放っておけばよかったのさ。そうしたら、俺の本性を見て、姫さまが驚き、にわかに産気づくこともなかっただろう。姫さまと赤子がどうなったのか、俺には分からない。その前に、お付きの者たちに捕らえられて、この様さ。

 簪の付喪神の身は、あちこちにヒビが入り、砕ける寸前だった。

 ――殺されるのが恐ろしくて、つい逃げたが......どうせ散るなら、あの場で散った方がよかったのかもしれん。俺はもうあの方のものだった。そばで死ねたなら、本望......――。

 ぱきっという音が響き、真っ二つに折れた簪は、二度と言葉を発することはなかった。

(同じ職人に作られたという縁しかなかったけれど、あんたのことは忘れないわ)

 それまで前差櫛は、いつか付喪神になるのを夢見ていた。ただの櫛で一生を終えるよりも、妖怪として動き回って生きる方が、価値がある気がしていたのだ。しかし、簪の付喪神の話を聞いた限り、変化したからといって、いいことはなさそうだった。ともすると、殺されてしまうという話は、前差櫛の夢を打ち砕くには、覿面(てきめん)だった。

 簪の付喪神のおかげで、期待してはいけぬことを知った前差櫛は、自身がどこぞの姫君に献上されると知った時も、心は冷めていた。

(ここの職人が作った飾りは化ける――簪の付喪神の時に流れた噂はすっかり消えたのね)

あれ以来減った客足は、いつの間にか元に戻っていた。怪しい噂に負けぬほど、職人の腕が確かだったためだろう。手入れをしてから渡す約束をした職人は、前差櫛を丹念に磨き、彼女を納める箱も作った。約束の日までの数日、職人は前差櫛にかかりっきりだった。それを面白く思わなかったのが、前差櫛と同じく、彼によってこの世に生みだされた他の櫛や簪だった。

――何であんな素朴で地味な櫛が選ばれたんだろうな。

――櫛を求めに来たのは、とても美しい女だった。あの女に見惚れたうちの主人が、気もそぞろになって、身近にあったものを勧めたのだろう。

――なるほど、それならば得心が行く。何しろ、あの櫛は駄作だものなあ。我らのような華やかさはなく、形も至って平凡だ。あれを作った時、ご主人は嬉しそうに笑っていたが、本当はあまりの不出来ぶりを誤魔化しただけではないか?

彼らは、職人が寝静まった頃を見計らって、前差櫛の悪口を囁き合った。稀代の職人と名高い男に作られたおかげか、彼らは前差櫛と同様、変化しかけている者が多かった。心の声が聞こえたのは、そのためだろう。皆の嫉妬を一身に受けた前差櫛は、ふんと鼻を鳴らし、心の中で言い返した。

(櫛や簪なのに、負け犬の遠吠えなんて、みっともないわねえ。あの人は、これまで沢山華やかなものを作ってきたけど、満足はしてなかった。だから、あたしのように、余計なものを削ぎ落とした櫛を作ったの。よおく御覧なさい。研ぎ澄まされた、この美しさを。あんたたちも同じ職人に作られたんですもの。見目は悪くないはずなのに、誰にも選んでもらえないのは、心の醜さが表に出てるからよ。あたしみたいに、比類なく美しい櫛に嫉妬を覚えるのなんて、百年早いわ。あたしは、ここの中では一番新しい櫛だけど、きっとあたしの方がずっと早く付喪神として目覚めるでしょうね。ここを出る前にそうなったら、面白いわよねえ......あたしはきっと妖力も強いはずよ。散々嫌なことを言われたんですもの。やられっぱなしは性に合わないわ。......どんな仕返しをしようかしら?)

 それからというもの、前差櫛への悪口はぴたりと止まった。心の中でも悪態がつけぬほど彼らが怯えたのは、その時すでに前差櫛から妖気が発されていたからだ。

数日後、箱に納められた前差櫛は職人の家から持ちだされ、どこかに運ばれた。

(これから城に行くのね。......近いのかしら? 人を運ぶ駕籠とやらは、乗るとひどく揺れるって誰かが言ってた覚えがあるけど、あんまり揺れないわね......歩いて運ぶ気?)

 不思議に思いながらも、前差櫛はいい気分だった。簪の付喪神に話を聞いた後、付喪神への憧れは薄れたが、櫛としての本分は忘れていなかった。美しい櫛として生まれた以上、美しい姫をさらに美しく輝かせるために生きる――それが、前差櫛の夢の一つだった。

(お姫さまはどんな顔をしているのかしら? あたしほど美人じゃないでしょうけど、まあまあ美しいといいわね。造作は綺麗じゃなくても、仕草や声が可愛らしいなら許してあげる。醜女だったら......お姫さまだもの、そんなわけないわよね。でも、万が一醜女だったとしても、あたしがいるから大丈夫。あたしを髪に飾れば、どんな醜い女だって輝くんだから。どんな姿かたちのお姫さまでも、あたしが何とかしてあげる!)

 城に到着し、姫の前に箱ごと差し出された瞬間、前差櫛は付喪神として目覚めた。箱から取りだされ、誰かの手の平の上に乗せられたのに気づいた前差櫛は、薄く目を開いた。

(このくらいの目の開きなら、分かりっこないわよね。さて、お姫さまのご尊顔は――)

 前差櫛は驚愕のあまり、目を見開いた。

(......この女のどこが姫なのよ⁉)

 自身を手にした姫を見て、前差櫛は心の中で叫んだ。醜女というほどひどくはなかったが、とにかく地味であか抜けなかった。肌の色は浅黒く、顔は四角い。目も鼻も唇も貧相なつくりのため、白粉を塗って紅を差しても、それほど印象は変わらぬだろう。

(ま、まあ、顔はとにかくとして......何でお姫さまのくせに、こんなにみすぼらしいの⁉)

 姫の髪はぼさぼさで、簪や櫛の一つもなく、簡単にまとめてあるだけだった。肌寒い季節だというのに、まだ単衣を纏っており、それがまたつぎはぎだらけの襤褸着(ぼろぎ)で、ほつれた足袋からは足の親指が覗いている。臭っていないのが不思議というありさまに、前差櫛は啞然とした。

「......この櫛」

 前差櫛が我に返ったのは、姫がぽつりと声を出したせいだった。

(あたし、目を見開いて......嫌だわ、手足も伸ばしかけてる!)

 姫の怪訝な視線に気づいた前差櫛は、慌てて元に戻ろうとしたが――

「なんて地味でみすぼらしいのかしら......こんなもの、いりません!」

 冷たく吐き捨てた姫は、前差櫛を後ろに放った。

(......何すんのよ!)

 たまさかそこにあった座布団の上に落下したため、何の痛みも感じなかったが、前差櫛は櫛の表面に浮かび上がった顔を真っ赤に染めて怒った。

「ぞんざいな扱いをされますな」

 渋い声を発したのは、前差櫛を姫に渡した女のようだった。身なりからして、侍女だろう。もっとも、姫と比べたら、こちらの方がよほど上等な着物を纏っていた。そろりと身を起こした前差櫛は、姫の背に隠れながら、女の様子を窺った。

 均等な幅の二重瞼に、大きすぎない澄んだ瞳。こじんまりとした鼻と桜色に染まった唇、珠のように艶やかで白い肌。姫よりも大分華奢で、上背も低い。歳の頃は、姫より二、三歳下に見えた。

(こっちの方がよほどお姫さまじゃない)

 侍女らしき女は、表情も仕草も洗練されており、いかにも育ちがよさそうだった。前差櫛に見られていることなどまるで気づいていない彼女は、唇を尖らせて言った。

「それは、あなたの亡きお母上の形見――肌身離さずお持ちにとは申しませんが、もう少し丁重に扱ってもらわねば」

「私に寄こしたものならば、どう扱おうと私の自由です。用が済んだのなら、早くお帰りなさい」

「......ご機嫌伺いをしておりません」

「見て分かりませんか? 機嫌が悪い理由が分からないなら、教えて差し上げましょう」

 あなたがいるからです――姫はそう述べると、顔の前まで上げた手をひらりと払った。

「さっさとお帰りください。皆も、あなたをこんなところに長居させたくはないでしょう」

「姫さま......」

 ぐっと詰まった声で言った侍女を、姫はぎろりと睨んだ。

「私のことを未だに姫と呼ぶのは、お貞(さだ)――あなたくらいなものでしょうね......本当に憎らしい人――早くお帰り!」

 そう叫び、後ろに手を伸ばした姫は、前差櫛を手に摑んだ。

(ちょっと! あたしをあの人に投げつける気⁉)

 ただの櫛の時だったら、何の問題もなかったが、付喪神として目覚めたばかりだ。まだ身体の扱いが上手くいかぬため、顔も手足も浮かべかけたままだった。今度こそ正体が露見する――そう思って目を瞑ったものの、一向に衝撃は来なかった。不審に思い、薄目を開いた前差櫛は、いつの間にかまた座布団の上に乗っていることに気づいた。前差櫛を摑んでいたはずの姫の手には、お手玉が握られており、それがちょうど貞に投げつけられたところだった。貞の頭上を掠めたお手玉は、小さな音を立てて古ぼけた畳の上に落ちた。

(......変ね)

 お手玉を投げつけたところで、ぶつかってもさほどの衝撃はない。現に、貞は眉間の皺をやや深めただけで、痛くもかゆくもなさそうだった。

(あたしを投げつけた方がよほどその人の顔に傷がつきそうだけれど)

 不思議に思っているうちに、いつの間にか貞は部屋の外に下がり、叩頭していた。

「すぐに、また参ります」

「必要ありません。あちらに報告が必要なら、あなたが考えた話を聞かせて差し上げて」

 すげなく返した姫に、貞はややあって同じ台詞を繰り返した。

襖が閉まり、廊下を歩く音が止んだ後、姫はごろりと横になった。

「......ああ、やっと帰ってくれた!」

 突如響いた大声にびくりとしつつ、前差櫛は座布団に深く身を沈めた。このまま大人しくしていれば、先ほどのは見間違いで、ただの櫛だと思うに違いない。正体が露見する前に逃げるべきと考え、きょろきょろと見回した前差櫛姫は、(何よ、ここ......)と絶句した。

 雨漏りを防ぐためか、天井には木板が打ちつけられ、建付けの悪い襖はつぎはぎだらけ。狭い部屋の中には、簡素な文机と行李が置いてあるだけで、年頃の女子らしい調度品は一つもなかった。北側にある小さな庭には、苔むした枯れ木が生えている。どこもかしこもみすぼらしいくせに、家の周囲を囲むように設えられた鉄格子だけは、大層立派だった。

(......まるで、牢屋じゃないの!)

城に行くと思い込んでいた前差櫛姫は、心の中で喚いた。

「この家に来て三月――その間に、あの子は一体何度ここを訪れたかしら。お目付け役など不要なのに、律儀なのだから......いいえ、ただの馬鹿ね。主の言うことなら、何でも聞くんですもの。嫌なら、嫌と言えばいいのに」

(そんなの無理に決まってるでしょう)

 姫の言に、前差櫛は心の中で反論した。嫌なことを嫌と言って、その通り聞き入れられることは、ほとんどない。ましてや、それが主従関係ならば、皆無といってもいいだろう。そんなことは、付喪神である前差櫛でも分かることだった。

「生真面目で融通が利かないし、あんな幼い顔立ちをしているのに、私よりも歳上だなんて――未だに信じられないわ」

 姫の笑い交じりの言に、前差櫛は思わず「へ」と言いかけ、慌てて口を手で覆った。自身の笑い声で聞こえなかったのだろう。姫は、笑いながら続けた。

「私がお貞のような姿で生まれていたら、皆も惜しがって、捨てられることはなかったのでしょうね」

 捨てられた――その言葉に、前差櫛はびくりと身を震わせた。

 ――......この櫛はいかがですか。これまでで、一等よく出来た櫛と自負しております。

 櫛が欲しいと訪ねてきた貞に、職人は前差櫛を差し出した。その時は、姫への献上品に選ばれた喜びや、職人に褒められた嬉しさよりも、にわかに訪れた職人との別れの寂しさが勝った。だから、貞の稀に見る美貌にも、気づかなかったのだろう。

別れはいつか来ると分かっていた。櫛である以上、誰かの髪を飾ることが一等大事だというのも、理解していた。高貴な身分の者に献上されるのは、名誉なことだろう。哀しむ理由など一つもない――だが、前差櫛は、哀しく、寂しかった。自分を作りだした人間と、彼の手から生まれた兄妹たち――皆と離れ離れになるのが、嫌だった。

(あいつらには、その後散々嫌なことを言われたのにね)

 それでも、すでに懐かしさを覚えていた。妖怪は情なしだというが、別れの時、他の櫛や簪たちは、小声で「さらば」と呟いた。それをしっかり聞いていた前差櫛は、やはり自分たちには情があると思った。

「人も物も、見目がよくなくては選んでもらえない――分かりきったことだというのに、私は今頃気づいたようです」

 あなたもその口でしょうか――問いかける声に、前差櫛ははたと我に返った。

「......!」

 両手で口を塞いだので、声は出なかったが、櫛の表面に顔が浮かび、横から手足がひょっこり出た身では、意味がなかった。変化しかけの前差櫛をじっと見ていたのは、穏やかな笑みを浮かべた姫だった。いつの間にか振り返っていた姫は、前差櫛の腕を指で軽く突きながら、含み笑いをして言った。

「こんなあばら家に捨てられた気分はいかがです? 私と同じく、地味で素朴な醜い子――そんな見目だから、私のような偽姫に下されたのですね」

 ややあって、前差櫛は完全に変化した。親指ほどの大きさの人型になった前差櫛は、姫の手を両手足で払いのけながら、顎を吊り上げて言った。

「お生憎さま――あたしはあんたと違って美しいし、可愛いの。この華やかな姿の時も、一見地味な櫛の時もね。このあばら家をどう思うかって? どうも思わないわ。あたしはどこにいたって、光り輝くように美しいもの」

 そっぽを向いた前差櫛は、何の答えも聞こえないことを不思議に思い、ややあって顔を前に戻した。

「......ふ、ふふ」

 俯いて笑っている姫に気づき、前差櫛は「何がおかしいのよ⁉」と憤慨した。

「あたしを......この前差櫛姫を馬鹿にしたら、ただじゃおかないわよ!」

 粗末な家の中に、怒鳴り声と楽しそうな笑い声が、しばしの間響き渡った。

          *

 無口な職人が櫛に名を付けてたなんて笑える? 馬鹿ねえ、あの人がそんな可愛いことするわけないわ。こっそりしてたとしても、口になんて出すはずないわよ。喜蔵以上に何考えてるか分からない顔してたんだから。だから、あたしよ。あの時、自分で名を付けたの、前差櫛姫ってね。別段、お正(まさ)が羨ましかったわけじゃないわ。ああ......お正っていうのは、そのお姫さまの名前よ。思わず「地味な顔に合う地味な名ね」って言っちゃったんだけど、あの子ったら少しも怒らないの。にこにこして、「私も気に入っているのです」って。......ええ、変なお姫さまだったのよ。あんなあばら家に捨てられたっていうのに、ちっとも悲しんでいなかったしね。

捨てられた理由? 悪趣味ねえ、そんなの聞きたいの?

ええっと、そうね......何だったかしら――

          *

「十七年前、私は不義密通の末に生まれました。それが、ついこの前、露見したのです」

 よくある話でしょう? と笑った正に、前差櫛姫はたじろいだ。侍女であった正の母――満が殿のお手付きになった時、彼女には好いた男がいた。子を身ごもった時にはどちらの子が分からなかったが、生まれた子を見た時、満は娘が殿の子でないことに気づいた。

「好いていた男に、顔がそっくりだったそうです」

「でも......まだ赤子じゃない。大きくなったら、顔が変わるかもしれないわ」

「あの人もそう考えたようです――いいえ、そう思い込もうとしたんでしょう」

 殿の子を産んだことで、満は側室となり、部屋を与えられた。だが、子のまことの父親は、里帰りをした時に再会し、以前からの恋心が燃え上がって結ばれた、城外の人間だった。

「その男は、母の幼馴染でした。こちらもよくある話でしょう?」

 前差櫛姫はむっと唇を尖らせ、しばし黙した。

「でも......何で秘密が露見したの? 密通相手は、城の外にいたんでしょう? あんたたち親子が城の中にいる限り、誰にも気づかれることなどないと思うけど」

「その男が――私の本当の父が病で倒れたと、誰かが母に知らせたのです。病状は非常に悪く、持って半月だと......。母がその男と通じ合ったのは、十八年近く前の話ですが、まだ好いていたのでしょうね」

 彼が死ぬ前に、どうしてももう一度会いたい――そう願った満は、皆が寝静まった頃、城を出た。翌朝、満が抜けだしたことを知って、正は母を止められなかったことを悔いた。

「どうしてあんたが悔いるのよ。まさか、大昔の母親の不貞に気づいてたとでも言うの?」

「いいえ......でも、城を出たと聞いた時、母はきっと愛しい相手の許に行ったのだと思いました。母は明るい人でしたが、時折私を見て、泣きそうな顔をすることがありました。......私はそこはかとなく気づいていたのです。ああいう時はきっと、母は私を通して誰かを見ているのだと」

 申し訳程度に設えたこじんまりとした庭を眺めながら、正は遠い目をして言った。

(......この子の母親が時折見せたのは、こんな顔だったのかしら?)

 正は微笑んでいたが、前差櫛姫には泣きだしそうに見えた。

「ねえ、おまさ――」

「馬鹿な人でしょう? たかだか一度通じあっただけの相手に、わざわざ会いに行くなんて......そんなことをしたらどうなるのか分からぬほど愚かな女ではない――そう思いたいところですが、今となっては分かりません」

死人には何も聞けませんから――前差櫛姫を遮って述べた正は、ふふと嘲りが籠った笑いを漏らした。

「不義密通した相手の家に駆けつけた母は、そこで長年の想い人に会いました。生きて会えただけで充分――私だったらそう思うところですが、母は違いました。想い人に愛する妻子がいたことに、激しい怒りを覚えたのです。なんて自分勝手なのでしょうね」

「......そうね。でも、分からなくはないわ」

「あら......どうして?」

「そんなの決まってるじゃない。自分が特別に想っていた相手には、同じように想っていてほしいものだからよ」

 ここに前差櫛姫のことを知る者がいたら、「付喪神として目覚めたばかりのくせに、恋の機微など語るんじゃない」と笑ったかもしれぬ。だが、前差櫛姫は本心からそう思った。正は寸の間考え込むような顔をして、首を横に振った。

「やはり、私には分かりません。とうに終わった過去をほじくり返して、相手を責めるなんて......自分の身勝手さを棚に上げて、どうして相手を責められるのでしょう」

「あんたの言うことも分かるわ。でも、あんたが母親の気持ちが分からないのは当然よ。あんたは何不自由なく育ったんですもの。不自由に育った人間の心など分かるわけないわ」

 前差櫛姫が肩を竦めて言うと、正は開きかけた口を閉じ、きゅっと唇を嚙みしめた。

 満と、正の父に当たる幼馴染の男は、互いを思いやって、別れを選んだのだろう。男は 満の将来を考えて、想いを告げることなく身を引いた。誘いを断れば、周りに塁が及ぶと危惧し、満は城に上がった。納得ずくで別れた二人だったが、再び相まみえた時、燃え上がった恋心を止められず、駄目だと知りつつも手を取り合い、子を為した。

「でも、あんたの血が繫がった方の父親は、あんたが自分の子と知らなかったんでしょう? それなら、責められないわよねえ」

 息を吐きながら言った前差櫛姫に、正は硬い表情で「いいえ」と答えた。

「知っていたのでしょう......そうでなければ、母があんな真似をするはずがありません」

「......あんな真似って、一体何よ」

 前差櫛姫は、嫌な予感を覚えつつ、おそるおそる問うた。

「あの男は死にました」

 はっと息を吞んだ前差櫛姫に、正は静かな声音で続けた。

「逆上した母に刺されて......殺されてしまったのです」

Profile

小松エメル

1984年東京都生まれ。母方にトルコ人の祖父を持つ。國學院大學文学部史学科卒業。2008年、ジャイブ小説大賞初の「大賞」を受賞した『一鬼夜行』でデビュー。著書に、「一鬼夜行」「うわん」「蘭学塾幻幽堂青春記」の各シリーズ、『夢の燈影』『総司の夢』『梟の月』などがある。

Pick Up Book

  • かがみの孤城
  • i
  • 私のスポットライト
  • ビオレタ

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