裁判で「不幸な境遇」はどこまで考慮されるのか?

犯罪の社会化という視点から考える

裁判で「不幸な境遇」はどこまで考慮されるのか?

カンヌのパルムドールを受賞した是枝裕和監督『万引き家族』が話題を呼んでいる。貧困や伝統的な家族の崩壊などが根本原因としてあるにせよ、「万引き」という犯罪を家族ぐるみで行う一家を描いた本作に対する反応は様々だ。しかし、こうした出来事はフィクションの世界に限らず、現実でもまま起こる。私たちは、不幸な境遇や恵まれない家庭環境から生じた「犯罪」に対して、どのように向き合っていけばいいのだろうか。今回はそのヒントとして、2015年に出版された『名作裁判 あの犯人をどう裁く?』(ポプラ社)から、吉田修一『悪人』で描かれた犯罪について論じた箇所を全文公開したい。著者の森炎さんは東京地裁、大阪地裁などの裁判官を経て、現在は弁護士として活躍している(なお本稿には議論の性質上、作品のあらすじ紹介や多少のネタバレも含まれています。未読の方は、まず作品を一読されることをお勧めします)。

小説『悪人』の中の古典的司法問題

 2007年1月まで朝日新聞紙上に連載されていた吉田修一『悪人は、極めて現代的なシチュエーションの中で、殺人犯の生い立ち、境遇、家庭の状況、潜在心理など、「犯罪と環境」という裁判的には古典的なテーマを描いています。

 行きずりの情事を求めて出会い系サイトで知り合った男女が、ふとしたことから、殺人者と被害者となり、殺人者となった男は、大罪を犯してしまった直後に、自分が本当に愛していると思える女性とめぐり会って、二人で逃避行を繰り広げるという物語ですが、主人公が二度目の女性と出会うのも、出会い系サイトを通じてという設定になっています。

 この小説の魅力の一つは、主人公をはじめとする登場人物が、まるで、その息遣いが聞こえるかと思えるほど、リアルに描き出されていることでしょう。逃避行を続ける二人はもとより、軽はずみな行動のために主人公に殺されることになる今どきギャルの被害者、殺された被害者の父親で地道に床屋を営む街の理髪店店主、今は殺人者となってしまった主人公を育てた祖母、幼いころに主人公を捨て、その後は仲居をしながら細々と暮らしている母親、さまざまな登場人物が、いわば手を伸ばせば届くような距離から、話し出し、動きはじめます。そして、殺人という出来事に揺れ動き、絡み合いながら、物語は進行していきます。

 主人公は、最後には、一緒に逃避行を続けていた女性の首にも手をかけ、二件目の殺人を犯そうとします。そこへ間一髪、警察が踏み込んで、この殺人は未遂に終わりますが、主人公の潜在心理が色濃く投影された結末には、自らを加害者、相手を被害者と規定することでしか、対人関係を築くことのできなかった人間のありようが示唆されています。深いところで他人との触れ合いを求めながら、その不器用さゆえに、社会的行動においては犯罪という形で現れることになった一人の人間の内面が、フラッシュバックのように浮かび上がります。

 読者は、最後の最後で、それまでに描かれてきた主人公の生い立ち、境遇、性格、母親との関係、祖父母との関係などのすべてが、この一点に収斂されていくのを感じることになります。そのため、この物語は深い余韻を伴って終わります。

 実際の裁判でも、凶悪重大事件の犯人が思ったほど「悪人」でなかったということは、よくあります。中には、審理が進むにつれて、次第次第にそういった感が深まり、むしろ、「善人」ではないかと思えてくるケースさえあります。この小説のように。

 ここでは、小説『悪人』で描かれた犯罪と犯人像を、法と裁判に重ね合わせて見ていきましょう。


056_hyo1+obi.jpg森 炎『名作裁判 あの犯人をどう裁く?』


法と裁判のもとでは「やっぱり悪人」

 小説『悪人』では、物語の進行とともに、無口な主人公の実像が次第に、はっきりとした輪郭を現していきます。髪を金髪に染めて一見すると車にしか興味がないように見える主人公が、土木作業員としてきつい労働をして祖父母を養っていることや、幼いころ、一人フェリー乗り場に置き去りにされて母親に捨てられた過去を持つことなどが明かされます。

 裁判では、しばしば、被告人の側から「不幸な境遇にあった」とか「恵まれない環境で育った」などということが声高に主張されます。ウェブサイトなどでこの種の問題に対する市民の反応を見ると、「結果に対する責任が死刑や懲役なのだから、自分がしたことを棚に上げて、こういうことを言い立てるのは本当に嫌になる」「人間は善か悪かで割り切れるほど単純ではない。まるっきりの悪人などいない。もっと深く考える必要がある」といった意見に二分されるようです。どちらが土台になるのでしょうか。

 刑事裁判には、行為責任という考え方があります。裁判では、行為(犯罪行為)と直接関係ないことを重大視することはできません。ですから、犯人の不幸な境遇や恵まれない家庭環境などを重視することはできません。これが基本になります。

 このような法と裁判の基本的観点からすれば、小説『悪人』の主人公の犯罪は、さしずめ、次のようにまとめられるでしょう。

「被告人は、些細なことに立腹して、出会い系サイトを通じて知り合った女性の首を絞めて殺害し、殺害後は、その女性の死体を崖下に遺棄して逃亡を企て、逃亡の道づれとして、またしても出会い系サイトを通して別の女性を誘い出し、その女性を伴って逃亡を続けた挙句、再び些細なことから、道づれの女性に対しても殺意を生じ、その女性の首に手をかけ、殺人を繰り返そうとした。二件目の殺害については、幸い、被告人らの行方を追っていた警察が間一髪で、その場に踏み込み、女性を救助したが、被告人が二人目の女性殺害の目的を遂げなかったのは、まったくの偶然の事情によるものである」と。

 これが、行為責任の中核をなす「行為と結果」から見た場合の犯罪の評価になります。つまり、本当の悪人とみなされます。


不幸な境遇や恵まれない家庭環境はどこまで考慮されるか

 けれども、犯罪という人間的な現象の一部だけを法律という一つの約束事からだけ見て終わりとしていたのでは、「本当に、それでいいのか」という疑問も出てくるでしょう。環境も背景も見ず、社会的な要因も見ず、人間も見ずでは、あまりに近視眼的な裁きになりはしないかという反問です。

 では、この二つはどうやって調和されるのでしょうか。

 これを解決するキーも、行為責任の考え方にあります。行為責任の考え方は、行為や結果を中心にして考えるということであって、それ以外のものを無視するということではありません。というより、それは、行為を中心にして、すべての事柄を見ようとするものです。行為を通して、関連するものをすべて見ていくという考え方です。

 たとえて言えば、住宅情報などで、首都圏からの何キロ圏というのを示す図表がありますが、それに似ています。マンションや建売住宅の情報誌に、東京駅を中心として何キロ圏というのがよく載っています。

 この同心円を使った図表で言えば、犯罪における「行為と結果」あるいは「故意」などは、東京駅至近のところにあります。「犯罪の動機」や「被害者の落ち度」などは、その次に重要性が高く、それに近いところ、いわば、横浜や浦和あたりになります。「犯行に至る経緯」やきっかけなどは、犯罪の意味合いを明らかにするためには必須ですが、やや遠いところにあるもので、大船や大宮あたりでしょうか。

 被告人の境遇や家庭環境となると、ずっと遠く、熱海や宇都宮の先といったところになります。さらに、被告人の性格や普段の生活態度などという事柄になると、行為との確たる関連性は疑わしく、行なわれたこととまったく無関係とは言えないという程度ですから、もう東海や東北に入ってしまいます。

 行為責任という考え方からは、こうして、「東京駅」を中心に放射線状に点在する様々な事実を中心からの視点で見ていくことになるのです。そこでは、至近距離にある「行為と結果」、つまり、殺害された被害者の数や、犯行の計画性・残虐性・執拗性・凶悪性などが中心となりますが、その他の事実も、その位置付けの中で、一応は全部見ていきます。そして、その位置付けに応じた評価をします。その結果、遠いところにある事柄は、あまり結論に影響しないことにもなります。

 裁判では、不幸な境遇、恵まれない家庭環境なども考慮されますが、これらの事柄は、その位置付けに応じた評価しかされないということです。そのようにして下される裁きこそが、行為責任という考え方に立ったあるべき姿とされています。


小説『悪人』の主人公は死刑の一歩手前

 こういう観点から、小説『悪人』の場合はどうなるかを見てみましょう。

 まず、行為責任の基本的枠組みからすると、『悪人』の主人公の罪は、殺人既遂プラス殺人未遂の重罪併合で、些細なことで殺意を生じているうえ、それを短期間に繰り返していますから、現実の刑としては、死刑の一歩手前までいきます。つまり、無期懲役ということにならざるを得ません。

 もとより、これは基本的枠組みとしてであって、最終的な結論を出すまでには、これ以外にも、様々なことが考慮されます。小説『悪人』に沿って言えば、主人公が幼いころ母親に捨てられたこと、それも一人フェリー乗り場に置き去りにされるという目に遭っていて、それが幼い心に癒しがたい傷を残したであろうこと、その後は、祖父母に育てられ、長じてからは土木作業員としてまじめに働き、祖父母の面倒を見てきたこと、無口で内向的な性格から対人関係がうまくいっていなかったこと、そのため友人もなく、女性との関係も金銭を通じてしか形成することができず、それが出会い系サイトの利用にもつながったこと、そして、これが事件の遠因となっていること......等々が考慮されます。

 けれども、その結果どうなるかと言えば、短期間に繰り返された「殺人既遂プラス殺人未遂」のような重大事案では、おそらく、結論が変わることはないでしょう。あるいは、もしかしたら無期懲役がギリギリ有期懲役に落ちるかもしれませんが、そういったところなのです。


裁判による犯罪の社会化とは

 ここまで読んできたところで、「せっかく審理しても、そんなに少ししか結論に影響しないのか」とか、「結論が変わらないなら審理しても無駄ではないか」と思った人もいるかもしれません。

 しかし、決してそうではありません。

 たとえ結論が変わらなくとも、不幸な境遇や恵まれない家庭環境、その他もろもろの事情を審理し、犯罪の全体像を明らかにすることは、犯罪の社会化という観点からは重要なことです。その犯罪は、なぜ起きたのか、その犯罪の背景には何があるのか、その犯罪は犯人の深層心理上どういう意味を持つのか、そして、被害者側から見た場合、どういう意味を持つのかなどを明らかにして、起きた犯罪を社会内において正しく位置付け、社会全体として消化していくことは、市民社会にとって必要不可欠なことです。

 具体的には、そうすることで、犯罪被害者(遺族)の気持ちの整理に役立つことがあります。それが、今後の再出発のために寄与することにもなるでしょう。犯人の家族にとっても同じことが言えます。そして何より、被告人にとって、自分を見つめ直し、極限まで罪と向き合っていくことにつながります。

 これは、たとえ結論が死刑であっても同じです。

 死刑の結論は変わらないとしても、ただ「悪人」として死刑にされるのと、自身が生まれ変わって命をもって償おうとして死刑になるのでは、大きな違いがあります。日本の死刑には、生まれ変わって死んでいくことこそが最高の償いだという考え方が含まれています。実際、わが国では、死刑が確定した後も執行までにかなりの期間が取られ(通常数年)、その間には、教誨師と呼ばれる篤志家の宗教家による援助や教化が行なわれます。

 死刑囚が「生まれ変わって命をもって償おう」という考えになるためには、その不幸な境遇や恵まれない家庭環境などについて、十分に審理が尽くされなければなりません。そのうえで、それでも死刑しかなかったのだとして下された死刑判決でなければなりません。

 刑事裁判には、法秩序の維持や無実の発見という役割のほかにも、犯罪の社会化(犯罪事象の社会内共有化)という重要な使命があるのです。

 小説『悪人』の中では、殺人者となった主人公と彼を蔑視して被害者となってしまった若い娘とが、実は幼いころに一度だけ出会っていたというエピソードが出てきます。

 主人公が母親にフェリー乗り場に置き去りにされて捨てられた時に、一人ぽつねんと立ちつくす男の子のところに、よちよち歩きの女児がやってきて、「ちくわ」を差し出します。主人公が翌朝保護されるまでに口にすることができたのは、この「ちくわ」だけでしたが、そのよちよち歩きの女児は、たまたま父親に埠頭に連れて来られていた後の被害者でした。ここでは、まさに、天からの視点で犯罪がとらえられています。

 願わくば、裁判をとおして、これと同じようなことが行なわれる必要があるのです。


※この原稿は2015年3月に刊行された『名作裁判 あの犯人をどう裁く?』(ポプラ社)の「14 吉田修一『悪人』 それほど悪人とは思えない凶悪犯の扱い」を再編集の上、転載したものです。

Profile

森 炎

1959年東京都生まれ。東京大学法学部卒。東京地裁、大阪地裁などの裁判官を経て、弁護士。裁判官時代には、官民交流で民間企業に1年間出向勤務した。著書に『死刑肯定論』『司法権力の内幕』(いずれもちくま新書)、『死刑と正義』(講談社現代新書)、『なぜ日本人は世界の中で死刑を是とするのか』『量刑相場』(いずれも幻冬舎新書)、『裁く技術』(小学館101新書)、『裁判員のためのかみくだき刑法』(学研新書)、『教養としての冤罪論』(岩波書店)、『司法殺人』(講談社)、『虚構の法治国家』(共著、講談社)など。

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