この夏のこともどうせ忘れる

この夏のこともどうせ忘れる

1

空と窒息

何もかもが色濃くなる夏休みの時間を共有する、高校生の二人。
様々な二人を描いた5篇より、「空と窒息」の途中まで試し読みいただけます。

夏になると母がとる不可解な行動。
むせるような暑さのなか、次第に音が遠のいていく......
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 母が初めて僕の首を絞めたのは僕が小学四年生のときで、夏休みのことだった。
 僕はリビングでソリティアをやっていた。庭の松の木でセミが鳴いていた。エアコンの調子が悪くて室内は蒸し暑く、肌がべたつき、指が何度もトランプのカードにくっついて遊ぶのに苦労したのを覚えている。あの頃使っていた飛行機柄の青いトランプ──。それを綺麗に並べ、一枚一枚めくっていくのが好きだった。家の中に青空を広げているみたいだったから。
 母が近づいてきたのは気配で察していたが、顔をあげることはしなかった。外の洗濯物でも取りにいくのかと思った。彼女がふっと目の前に膝をつき、トランプの列がぐちゃぐちゃに崩れたときに初めて、抗議のためというよりは困惑して彼女を見上げた。
 次の瞬間、母の両手が、僕の首をぎゅっと掴んだ。
 最初は意味がわからなくて、ただ反射的に息を止めた。それまで母に暴力を振るわれたことはなかったので、なにが始まったのか理解できなかった。ぬるい温度の彼女の手、自分の汗ばんだ首筋。手からカードが滑り落ちた。それで、これはすぐに終わるものではない、と気づいた。
 死ななかったし、そのときは痕もつかなかったから、込められたのはたいした力ではなく、せいぜい十秒程度の出来事だった、はずだ。
 でも僕にとって、その時間はそれまでに経験したなによりも永遠にちかかった。呼吸がうまくいかないのは、なぜ? 目の端に映るレースカーテン、窓の向こうではためく白いシーツ、よく知っている母親の匂い、湿った肌、すべての音が途絶えた家の中と鳴き続けるセミの声、そこにあることを知らなかった暗闇が急に現れて自分を覆う、吸い込まれる──、どこに?
 終わりも、始まりとおなじように唐突だった。
 ぱっと手が離れる。知らぬ間に膝立ちにちかい格好になっていた僕は尻餅をついて解放される。急に自分だけのものに戻ってきた身体を持て余した。母は無表情だった。こちらを見下ろしていたが、その瞳に僕が映っていたのかはよくわからない。見たことのない目をしていた。
 それから相手はぱっと立ち上がり、近所に出かけるとき用のトートバッグを肩にかけて家を出ていった。僕はなにが起こったのかまだわからないままだった。とりあえず──、とりあえず、トランプをまとめて、カードをきった。そしてソリティアをやり直した。母はわりとすぐに帰ってきて、おやつ買ってきたから食べたら、と言った。うん、と僕は返事をし、テーブルに座ってミルク味のアイスキャンディーを開けた。
 家の中をさまよっていた暗闇は居場所をなくし、そそくさと元いた場所──それがどこであれ──に消えた。いつもどおり、どこにでもある、ごく普通の家庭。あれは夢だったのかな、と思い始めた二週間後、二度目があった。翌年に三度目もあったし、その後は毎年の恒例行事になった。夏休みになると、彼女は僕の首を絞めにくる。きまってうんざりするような暑い日に。
 その間いつも、長い夢をみているような気分に僕はなる。
 あるいはすべての夢が消え去って、ゆいいつ正しい現実に?み込まれていくように。
「何泊だって?」父が目玉焼きに?油をかけながら訊く。
「三泊よ」と母はコーヒーを注ぎながら答える。「水曜日に帰ってくるの」
「大変だなあ、いまどきの高校生は。三年生にもなると勉強漬けだな」
「うちなんて甘いほうよ」母は笑って僕を見る。「もっと厳しい塾なんていくらでもあるし。二年生から参加する子もたくさんいるのよ、ねえ?」
 うん、と僕は頷く。僕は朝食をとっくに終えていて、身支度も済んでいる。夏期合宿の荷造りも。あと十分で家を出る、というときに、父が起きてきたのだ。日曜日の朝。真夏日になります、とテレビのニュースキャスターが言っている。海やプールが家族連れで混み合いそうですね。皆さん日焼け止めを忘れずに......。
「三十度超えるっていうのに、お前、なんだって半袖じゃないんだ」
 僕は紺色のシャツを着ていた。長袖だが、袖を折っているから七分袖くらい。「暑くないのか」と眉をひそめられて、僕は首を横に振る。
「バスの中、寒いらしいし」
「バスで行くのか。どこに?」
「もう、言ったでしょう」母が呆れる。「西区の山のほうに、こういう合宿とかセミナー用のホテルがあるのよ」
「ホテル! 一人部屋か?」
「いや、二人」
 一人がよかったんだけど、と続けると、ぜいたく言わないの、とすかさず母が突っ込む。四人部屋だってあるんだから、それよりはマシでしょう。
「部屋は知らないやつと?」
「さあ。学力がおなじくらいのやつと、なはず」
「圭人、そろそろ準備したら」
 母の声はいつもどおりだ。「体調に気をつけるんだぞ」父が笑いながら新聞を広げる。僕は返事して立ち上がり、トイレを済ませて手を洗った。ちいさな鏡に向き合い、一番上まで留めているシャツのボタンを外す。首筋に内出血の赤い痕が覗く。首の後ろが痛むのは、たぶん爪痕が残っているからだ。
 この夏の第一回目は、一昨日の夜だった。僕はリビングのソファでテレビを観ていて、母は洗い物をしていた。暗闇が間近で息を潜めているのに、僕はたしかに気づいていた。もう九年目なのだ。水の流れる音、それが止まり、母が食器の最後の一枚を置く音。彼女はタオルで両手を拭き、こちらに来る。僕の瞳はテレビ画面に向いているが、そこからの情報はほとんど入ってこない。全身で暗闇の気配を窺っている。
「いつまでそんなの観てるの。勉強しないならさっさと寝なさい」
 こちらにやってきてそう言ったときまでは、母は正気だった。だが、その手をリモコンに伸ばしてテレビの電源を切り、リビングが静かになった途端に、切り替わったようだった。
 そして僕はそうなることを予感していた。
 だから座ったままでいた。母の身長はとうに超えているので、そうしなければ彼女は僕の首をうまく絞められないからだ。振り返った相手の両手が僕の首に伸びてくる。僕は最後かもしれない息を吸う。目を閉じる。力の加減はそのときによってちがうが、この日は強いほうだと思った。痕が残る。爪が立てられ、首の後ろがちりちりと痛む。もうすぐ合宿なのに。
 永遠について、考える。
 この時間が、いつもあまりに長いから。
「──っ」
 解放され、僕はソファにもたれる。母は母で、少しの間喘ぐように呼吸した。それからシャワーを浴びに風呂場に消えた。僕は自室に戻って寝た。翌朝、いつもそうするようにトイレで首の状態を確認した。なにかの染みのように広がる赤い痕は、パジャマのボタンを閉めたままにしておけば目立たない位置にあった。
 土曜日だったが、父は家にいなかった。
 母の行為とそれが関係しているのかはわからない。首を絞められるのは彼の帰らない日が多いが、必ずしもそうとは限らない。それに、そんな日は夏以外にもいくらでもある。たとえばそれが浮気なり不倫なりの結果だとして、どうして母が僕の夏休みにだけそれに耐えられなくなるのか、そして僕の首を絞めてなにが解消するのかも、わからない。こうして日常に戻った後、僕に残る痕とどう折り合いをつけているのかも理解できない。
 なにも確かめたことはない。だれに言ったこともない。
「いってきます」
 いってらっしゃい、と玄関に立った母が笑顔になる。気をつけてね、真面目に頑張るのよ。僕は黒いダッフルバッグを肩にかけて家を出る。│暑い。むわっとした空気に包まれて、駅まで十分ほどの距離で汗をかいた。首の後ろに少し滲みる、ような。電車で二駅先の塾まで行き、そこから高校二年生と三年生、三十人弱の参加者が専用バスに乗り込んだ。中にはすでに別の教場の生徒が座っている。おなじ高校のやつもいて、何人かが気づいて「あ」という顔をした。全員私服だから変な感じがする。女子は集団で座っており、その中には早希もいた。僕は窓際の席を選び、隣にはおなじ教場の男子が座った。
「可宮、お前なんか今日暗くない」
「そう? バス嫌いだからな」
「三時間は辛ぇよなあ」相手は言う。「俺寝るから、昼飯になったら起こして」
 いいよ、と僕は返す。大丈夫だよ、ホテルも教室もでかいし、向こう着いたら可宮と会う機会なんてあんまりないよ......。だれかが早希を慰めている声がする。イヤホンをつけたからそれから後はもう聞こえない。急速に引いていく汗、窓の向こうで日傘をさす人たち。雲ひとつない青空の下、寒いほどに空調の効いた巨大なバスに詰め込まれてホテルに向かう僕らは、幸福だろうか不幸だろうか。イヤホンには日本史の解説が流れている。まばたきすると、早希の制汗剤の匂いが一瞬だけ浮かんだ。


 参加者は、たしか二年生が百五十人くらい、三年生が二百人くらいだったはずだ。最初に大きなホールで開会式、その後は学年ごとに分かれて実力テストが行われた。僕はいつもどおり、社会科以外はできた。たぶん。テストが終わって初めて、自分の部屋に行く時間が与えられた。509号室。同室は知らないやつがいい、面倒くさくないやつがいい、と思いながらカードキーでドアを開ける。
「うわ」
 聞き覚えのある声だった。入り口側のベッドに座っているのは、学校でおなじクラスの香乃だった。「あ、いや、可宮」向こうは弁解するように笑顔を浮かべ、「よろしく」と続ける。
「こちらこそ」
 相手を責める気にはなれない。僕だって、いまの心情を言葉にすれば「うわ」というのがちかい。
「ベッド、どっちがいいとかある?」
「ないよ」
「じゃこのままでいいか」
 うん、と頷き、僕は窓際のベッドの上に座った。「俺、便所ちかいからさ」香乃は笑い、それから黙った。ベッドが二つ、デスクも二つ、窓からはホテルの反対側の棟が見えるだけで、景色というほどのものはない。どのみち、ここは風呂と寝るためくらいにしか使わないのだ。
「──じゃ、あとでな」
 ほんの数分の沈黙に耐えられなくなったのか、香乃はつぶやいて出ていった。この合宿には神田や津山やも参加しているはずだから、そこらへんに合流するんだろう。元サッカー部の連中だ。三人の中から選ぶなら、香乃でよかった、と僕は思った。残りの二人よりはずいぶんマシなはず──。今年おなじクラスになったばかりだから、よく知らないけど。津山は去年もおなじクラスだった。あいつは早希に告白したことがある、らしい。去年の今頃。そして振られた。僕は秋の文化祭後から早希と付き合い始めて、その話をされた。早希はとにかくよく喋べる子だった。僕はどちらかといえば無口だから、付き合っている間はそれでよかったが、彼女は別れてからもずっと喋っていて、そうなると少し問題だった。僕が彼女をいかに「突然、なんの説明もなく冷たく振った」のか、いまでは学年中に知れ渡っている。女子はだいたい早希に同情していて、男子にはあまり関係ないものの、一部は僕のことを「調子に乗っている」と思っている。
 ベッドに寝転ぶ。
 腕時計は五時半を指していた。夕食は六時。それまでは自由時間。七時四十五分からは夜の授業があり、五十分が三コマ続く。消灯は十一時半、朝食は八時から。明日から始まる日中のクラスは学力別だが、夜の授業はセンター対策で、教室は乗ったバスごとに分けられるらしい。つまり、うちの高校の生徒はだいたいいるということだ。
 薄いグレイの天井を見上げ、まだ明るい外に目を向ける。
 夏休み──。
 三泊四日も夏にひとりで家を離れるのは、今回が初めてだった。合宿の間は、わずかな自由時間にわざわざ中庭に出ない限り、ずっとホテルの中にいることになる。青空も、セミの声も、立っているだけで湧き出てくる汗とも無縁な空間。この合宿に申し込めと言ったのは母だった。あなたはマイペースすぎるから、最後の年くらいこういうのでみっちり勉強してみたら。気は進まなかったが、断る理由も浮かばずに申し込んだ。五月の終わりだった。夏の気配がまだ遠かった時期。
 ノックの音が割り込んだ。
 僕は顔をあげる。「可宮」と聞こえたちいさな声は香乃のものだった。ベッドサイドに彼の分のカードキーが置いてある。僕は立ち上がってドアを開けてやった。
「ごめん、鍵忘れた。ってかぜんぶ」
 廊下には例の二人が立っていて、「お前可宮とおなじ部屋なの? 最悪じゃん」と津山が言い、神田が笑った。香乃は軽く眉をしかめたがなにも言わずに荷物をまとめた。鍵と勉強道具一式。夕食後、ここには戻らずに授業に行くつもりなんだろう。
 出ていくとき、すれ違いざま香乃は「わり」と短く言った。


 食堂は自分でトレーを持って並ぶカフェテリア方式だった。とはいえメニューはみんないっしょで、初日はトンカツだった。「空席作るな、詰めて座れ」長いテーブルの間に講師が立って指導している。席は自由だが、学年というよりは、騒がしさに応じてなんとなくテーブルが分かれているようだった。エアコンは効いているものの、人がぎゅうぎゅうと増えていくせいか室内は少し蒸し暑い。男子はほとんどが半袖だった。僕は食べながらも勉強している生徒の多いテーブルについてひとりで食事をした。二十分くらいで終え、授業までは部屋で日本史の暗記をする。いつもは目を通すだけで眠くなる内容が、そう退屈じゃないと思える。ここにあるのは、ぜんぶ、過去のこと。そう考えると安らかな気分になった。逆に言えば、日本史の教科書に頼らなければいけないほど、ここに来てから落ち着けていないのだ。
 自分が夏から逃げ出して、そして夏に追われているような錯覚。
 このホテルの中で、壁越しに夏に取り囲まれている。
 窓から外を見ても、気温はわからない。虫の声も聞こえないし、少し湿ったような空気も、それに混ざった夏の匂いも届かない。ホテルの窓は開かない仕組みになっているようだった。地上を見下ろすと、中庭のベンチには人の影もある。女子のグループやカップルたち。あそこに行けば、夏を感じられるんだろうか。──感じたいのか? お前は?
 夜の授業は、数学、英語、国語の順だった。生徒の中には夕食後にシャワーを浴びた人もいたようで、教室にはかすかに石?の香りが漂っていた。いまが夜だという事実を 縁取る匂い。いつもなら家に帰って寝支度をしている時間帯に、赤の他人といっしょにいる。
 僕は前から二番目の列に座った。授業中は何事もなかった。休み時間も立ち上がらず、スマホを開くこともしなかった。......嫌な予感がしたから。三コマ目が終わり、「大浴場で風呂に入るのは結構だが、十一時半までには部屋に戻ること。特に女子!」国語の講師が言い、女子は悲鳴をあげたり文句を言ったりしながらばたばたと出ていく。
「圭人」
 早希だ。筆記用具をまとめていた僕は振り返る。早希のほかに、顔見知りの女子が三人後ろに控えている。
「なに?」
「メール見た?」
「見てないよ」
 既読かどうかなんて、わかっているのに。
 早希は一瞬拗ねたような顔をする。
「読んどいて。返事、待ってるから」
「わかった」
 断っても無視しても、どう返しても、事態は悪化するにちがいなかった。夏。すべてが滞る季節。早希はほかにもなにか言いたそうだった。髪が長いんだから、と僕は思う。早く風呂に行ったほうがいい、乾かす時間がなくなるよ。だが、口には出さずに荷物を片付けた。早希、行こうよう。お風呂混んじゃう。女友達に言われ、彼女はようやく教室を出ていった。僕は少し時間を空けてから部屋に戻る。十一時。香乃はすでに大浴場に行ったらしい。自分のベッドに座って早希からのメッセージを読む。「話す時間ある?」ない、と返したら、また身内に晒されるのだ。僕はスマホを放り出してバスルームに入る。ちいさなユニットバスなら部屋にもついているから。
 一日着ていたシャツを脱ぎ、洗面台にある鏡と向き合う。
 首元はまだ赤い。
 シミひとつない鏡の向こうにも、夏が潜んでいる気がする。
 目を閉じて、それから服を脱いだ。シャワーを浴びると、首の後ろはまだ痛んだ。備え付けの石?は髪も顔も身体もぜんぶ洗えるという代物だった。なんだっていい。ほんの五分くらいでバスタブを出、タオルで身体を拭く。ドアを締め切ったバスルームはサウナのように蒸している。曇った鏡と不快感。洗面台の上に「入浴の際はドアを開け、換気をなさるようお願い致します」と書かれているのをいまさら見つけた。頭からタオルをかぶり、トイレの蓋の上に置いた着替えに手を伸ばす。
 部屋のドアの開く音がしたのはそのときだった。
 香乃が帰ってきた──、だけであればよかったが、足音はそれより多かった。
「お前の部屋、あっつ」
 神田だ。「可宮、ここで入ってるんだ」香乃が気づき、津山がそれになにかを返して、忍び笑いが起こった。
 すぐそこから。
 僕はドアノブを凝視する。
 まだ上半身はなにも着ていなかった。トイレの蓋の上にあるシャツに視線を向け、着る時間はない、と判断する。時間? なんの? ドアノブががちゃがちゃ音を立てる。開くことはない。鍵がかかっているから。でも、十円玉でもあれば開くような単純な鍵だ。
 やめとけよ、と香乃が言う。津山の笑い声がかぶさる。
 かち、と目の前で鍵が回る。
 僕はタオルを頭からかぶったまま、咄嗟にドアを中から押さえた。
 ──暑い。
 このバスルームの中は、夏のように暑い。
 首筋を垂れるのが水滴なのか汗なのか判然としなかった。どん、どん、とドアを叩く音。笑い声。笑い声。ざらざらと、うるさくて、しつこい。窓の向こうにあったはずのものが押し寄せてくる。「可宮が中から押さえてんだって」神田がげらげら笑う。もっとちゃんと押せよ、お前、馬鹿力なんだから。あいつ細いし勝てるだろ──。
 ドアが撓んだ。
 勢いよく開いたドアに撥ね飛ばされ、洗面台にぶつかった。床にタオルが落ちる。僕は両手で首元を押さえた。ただ赤い痕を隠しただけだったが、半裸を恥じるような格好に見える、と遅れて気づいた。神田が爆笑し、津山が「ってか、パジャマって、ださっ」とでかい声をあげる。写真、写真撮れ。
「やめろって!」
 津山が取り出したスマホを叩き落としたのは香乃だった。ドアの陰にいた香乃がこっちを覗き込み、すぐに津山と神田を睨んだ。
「なにしに来てんだよお前らは。もうすぐ見回りだってあるんだぞ」そう言いながら神田に白いケーブルを押し付ける。充電器だ。「ほら、これ返すから。さっさと部屋戻れ」
 津山はまだ腹を抱えて笑っていた。神田がスマホを拾いながら「なんだよ、真面目か」と不満を漏らす。だが香乃に押し出されるようにして、とにかく二人は視界から消えた。開けっ放しのドアの向こうには部屋のクローゼットの扉が見える。そこに嵌め込まれた全身鏡。映っている蒼い顔をした自分。
「可宮」
 香乃が戻ってくる。僕はまだ首を押さえていた。「......ドア」短く言うと、香乃は閉めてくれた。僕はタオルを拾い上げてドアにかけ、パジャマの上を着る。仕方ない。Tシャ
ツにジャージでは、なかなか首元が隠れないのだ。ボタンを留める指先が震えているのが、自分でも意味がわからなかった。なにがそんなに怖かったのか。バレるのが? 備え付けのドライヤーで髪を乾かす。最低限の水滴だけ飛ばすと、暑くてあとはやめた。深呼吸してからドアを開ける。
 エアコンで冷えた空気と、バスルームの湿気が一瞬にして混ざる。
 部屋は薄暗かった。ついているのはベッドサイドの照明だけだ。香乃はベッドの端に腰掛けていた。気遣わしげな目を向けられる。
「悪い」
「別に」
「ケガとかは?」
「してない。大げさだな」
 僕はちいさく笑い、自分の荷物から歯ブラシを取り出す。夜だからか、互いに寝間着だからか、夕食前に会ったときに比べれば距離をちかく感じた。ほとんど話したこともないクラスメイト。これから三泊四日おなじ部屋で過ごす相手。
「大丈夫だって。お前は別になにもやってないだろ」
 香乃がじっと動かないので、僕は言った。いやまあ、でも。香乃は言い淀む。僕は放っておいて歯を磨く。鏡の中の自分とまた向き合う。まったくホテルというのは鏡を避けられない空間だ。旅行用サイズの歯磨き粉はいつも使っているやつと味がちがって、それがまた奇妙な感覚のズレを引き起こした。──自分はいま、どこにいて、なにをしてるんだ
ろう。
 口をゆすいでバスルームを出ると、香乃が自分の歯ブラシを持って立ち上がった。僕はベッドに潜り込み、自分の側の照明を消した。もう片方のベッドに背を向ける体勢で。香乃は最後にうがいしてから戻ってきて、しばらくごそごそ動いてから、「......おやすみ」と言って照明を消した。
 こんなふうに他人のいる部屋で眠るのは、修学旅行以来だ。あれは秋だった。だから平気だった。
 背中越しに、香乃が何度か寝返りを打っているのを感じる。やがて眠ったことも。僕はときどき眠った、かもしれない。ずっとカーテンを眺めていただけな気もする。クリーム色の厚いカーテン、窓の向こうにある夏の夜。自分からは見知らぬ石?の香りがする。夜明け頃、まだ香乃が眠っている間に着替えた。そして朝食の時間まで、デスクの前で日本史の参考書を読んだ。
「可宮?」
 アラームを鳴らすスマホに手を伸ばしながら、香乃がくぐもった声を出す。僕はキリのいいところまで数行読み進めてから振り返った。
「──おはよう」
「お前、寝たの?」
「なんで?」
 香乃はやっとアラームを消した。寝ぼけた様子で室内をぐるりと見まわし、最後にまたこっちを見た。
「いや、なんとなく。顔色が......」
 僕は教科書に視線を戻す。すべすべの紙に印刷された戦争の歴史。眠ったのか眠っていないのか、自分でもわからない。ただ、指先がひどく冷たい。
「大丈夫だよ」
 そう言って立ち上がる。顔を洗うとき、その日初めて自分を見た。笑ってしまうくらいはっきりと目の下に隈が浮かんでいた。気づかないふりをして、香乃よりも先に部屋を出た。

続きは7月2日(火)に更新します。

Profile

深沢 仁

ふかざわ じん。第2回「このライトノベルがすごい!」大賞優秀賞受賞作『R.I.P. 天使は鏡と弾丸を抱く』でデビュー。他の作品に、『睦笠神社と神さまじゃない人たち』(このライトノベルがすごい!文庫)、ボカロ小説『Dear』(PHP研究所)などがある。趣味はさんぽ、旅。音楽を聴きながら、遠いところに行くのが好き。「英国幻視の少年たち」シリーズ(ポプラ文庫ピュアフル)最終巻6巻が5月9日発売。

Pick Up Book

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