この夏のこともどうせ忘れる

この夏のこともどうせ忘れる

空と窒息

塾の夏期合宿で眠りの浅い夜を過ごす圭人。
同室の香乃はそのことを気にしている。

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 早希が近づいてきたのは昼食時だった。そのときまで僕はメールのことなんかすっかり忘れていた。「圭人っ」そう呼んだ声は怒っていたが、僕の顔を見ると一瞬怯んだようだった。
「なに? その顔。寝てないの?」
「あんまり」
「津山たちのせい?」
 僕は箸を置いた。「知らないけど、あいつら、笑ってたから。昨日の夜、なんかあったんでしょ?」早希は言い訳するみたいに続ける。
「慣れない場所だと、寝つきが悪いだけ。メールのこと?」
 うん、と彼女は頷く。僕は腕時計に視線を落とす。一時半。午後の授業は二時からだ。僕はトレーを持って立ち上がった。早希がついてくる。返却台に戻して食堂を出、廊下を歩いた。もちろん男女は階ごとに分かれていて、互いの部屋どころか階に踏み込むのも禁止されている。自習スペースは私語厳禁。僕らに行き場所はほとんどない。
 中か、外か。
「どっちがいい?」
 僕はつぶやいた。
「え?」
「ロビーか中庭」
 早希は少し考えてロビーを選んだ。
 隣を歩く彼女を見下ろす。長い髪はひとつに結ばれ、Tシャツにスカートを穿いている。ふくらはぎ、靴下、スニーカー。ほんの数週間前まで、そのぜんぶになんの躊躇いもなく触れることができたというのが信じられない。
 首にはネックレス。
 さくらんぼのチャーム。
「私のこと嫌いになったの?」
 ロビーに着く前、エレベーターを待つ間に早希は言った。泣く直前、みたいな声で。僕は立ち止まる。
「......そういうのじゃないって、前も言った」
「でも、ちゃんとした理由も言ってくれなかったじゃん! 告白してきたの圭人だよ、それであんなふうにいきなり振るってひどくない? 意味わかんないし」
「告白って」
 僕は一瞬だけ笑う。早希の目つきが豹変して、それが間違いだったと気づく。だって、あんなのを、告白なんて。文化祭の実行委員でいっしょになってから、早希はずっと隣にいた。休み時間も放課後も、別に委員会の仕事がないときも。好きな人の有無とか好きな子のタイプとか、恋愛関係の質問を山ほどしてきて、いちいち照れた。ねえ可宮くん、もうすぐ修学旅行だね。その後はクリスマスだよ。恋人たちの季節だよ。なにか予定があるの? いっしょにどっか行く?
 可愛いと思った。そのときは。
 だから、求められているとおりに告白した。パズルの最後のピースを埋めるみたいに。
 夏はまだ遠くて、僕の指先が冷たいときは、早希の指先も冷たかった。手を繋ぐのも不快ではなかった。熟れた桃のような、彼女のハンドクリームの香り。乾いた空気の中でキスをした。
「怒るなよ」
 やっとエレベーターが来たものの、早希がこっちを睨んだまま動かないので、無人のエレベーターのドアはやがて閉まった。内側にあった鏡に映った僕らの姿が消える。閉まるのと同時に、チン、と音が鳴る。
「今年は受験本番だし、最近伸び悩んでるから、ちゃんとしようと思っただけだよ」
「なにそれ? 圭人成績いいでしょ。勉強ならいっしょにできるし、私も東京の大学目指すんだし」
「早希に教えてる時間がもったいない」
 相手の顔が赤くなり、その瞳が潤んだ。「ひどくない?」と早希は言う。
「......ほかに好きな人もいない。受験が終わるまでだれとも付き合わない。こういうのが面倒だから別れたんだ」
 早希の頬に涙が流れるたびに自分が冷めていく。いまは、夏だから。もっと冷たく、暗く、乾かないと、この季節に呑み込まれてしまう。
「なんでそんなにいきなり変わっちゃったの? あんなに優しかったのに」
 泣きながら俯いて、早希は弱々しい声を出した。「そう?」僕は訊き返し、エレベーターのボタンを押した。下向きの矢印。「私が、朋子とかにいろいろ喋ったから怒ってるの?」早希が顔をあげる。
「なんにも怒ってないよ」
 エレベーターが到着する。僕は早希を見下ろす。瞳、鼻筋、唇、それから首元に視線を落とす。最後に触れたときの感触を覚えている。手のひらが、しっとりとした。七月のはじめ。夏が来ると唐突に気づいて、肌が粟立った。毎年、あの瞬間まで、僕はあの感覚を忘れている。
「突然だったのはごめん。じゃあね、早希」
 僕はひとりでエレベーターに乗った。早希はじっとこっちを見ていた。「閉」を押すとまた、滑るようにドアが閉まり、チン、という音が鳴る。一階で降りて、ガラスの扉の前で少しだけ躊躇ってから中庭に出た。異世界に足を踏み入れたときのような気温の差。それでも外に出ているやつはほかにもいた。男子数人がふざけ合っている。女子がベンチに座ってアイスを食べている。売店で買ったんだろう。
 空はいつかのトランプのように青く、筆で撫でたような薄い雲がかかっている。だが飛行機は見当たらない。じぃーっ、じぃーっ、と喚くセミ。蒸し蒸しとした空気に昨日のバスルームを想起した。目を閉じる。瞼の裏側。光は消えず、ちかちかとする。右手の指先で額に触れた。汗ばんだ肌。喉仏まで移動し、それから半周して、首の後ろをなぞる。ちいさな引っ掻き傷のあるところ。
 午後の授業は淡々と過ぎた。英語の講師が顔見知りの先生で、寝不足なんじゃないか、と心配された。大丈夫です、今夜はきっと眠れます。僕は根拠のないことを言う。体調管理も受験生の仕事だからな。でも可宮、この訳文はよくできてるぞ。
「ありがとうございます」
 夕食には行かなかった。売店で買ったアンパンを部屋で食べる。半分だけ。眠い気がして横になったが、寝ることはどうしてもできなかった。もう一度中庭に出ようと階下に行くと、ドアは六時で施錠されていた。
 夜の授業が終わると、僕はすぐに教室を出た。まっすぐ部屋に帰り、靴を脱いでスリッパに履き替える。香乃が戻ってきて大浴場に行ったらバスルームを使うつもりだった。だが、帰ってきた香乃はやや乱暴に荷物をデスクに置くと、「今日は俺もここで入る」とつぶやいた。
「......なんで?」
「あいつらが面倒だから」
 目が合う。香乃は不機嫌そうに続けた。
「お前、島崎と神田が付き合ってるって知ってる?」
「知らない」
「お前が久保にひどいことすると、それがぜんぶ島崎に伝わって、そっから神田にいって、最後に津山の耳に入るわけ」
「へえ」
 島崎朋子は、早希のグループのひとりだ。だが、別に島崎以外にも好き勝手噂しているやつはいる。早希の周りは本人も含めて、お喋りな女子ばかりなのだ。
「だからさあ」こちらの反応の薄さに、香乃はもどかしそうに息を吐いた。「高三にもなってさ、勉強合宿で、付き合ってるやつとケンカしなくてもよくない?」
「だれの話?」
「お前だろ」
「覚えがない」
「久保が泣かされたって」
「僕はもう久保とは別れてるよ」
「でも、なんかごちゃごちゃしてるだろ」
「向こうがね。別れた理由に納得がいかないんだって」
「理由って?」
「なに」僕は薄く笑う。「ここで話しても、最終的に津山の耳に入るの?」
 香乃はむっとした表情になった。数秒黙り込むと、着替えを持ってバスルームに消える。僕は目を閉じて仰向けになった。がこっ、とシャワーをフックから外す音、水音。少しずつ、バスルームから湿った空気が漏れてくる。あの石?の匂い。今日こそ眠らなくてはいけない。寝不足だと、あらゆることに対して乱暴になってしまう。早希が泣いても、香乃が苛立っても、どうでもいいと思ってしまう。
 深呼吸して、右手を自分の首にかける。親指と人差し指の間の谷を喉仏に押し付ける。──暗闇。暗闇を。圧迫感。親指の腹で、どく、どく、というリズムを感じる。
 バスルームのドアが開いた。
 僕は手を離して顔をあげたが、香乃は出てこなかった。換気のために開けただけなんだろう。黄色っぽい光が部屋の中を照らす。その光が届かないところが急に暗くなったように見える。
「昨日、よくこんなの締め切ったまま入ったな」
 バスルームから出てきた香乃は半裸で、首にナイキのタオルをかけていた。髪は濡れたままだ。僕は「開けられたけどな」とつぶやく。相手はベッドに座って眉を寄せる。
「可宮、お前さっきから性格悪ぃぞ」
 そのとおりだ。僕は上半身を起こす。目が合うと、香乃はやや顎をひいた。相手のほうが背が高いので、それでも見下ろされることに変わりはない。
「お願いがあんだけど」
「なに」
「充電器貸してくんない?」
 僕はベッドサイドにあったのを放った。「さんきゅ」香乃がほっとした顔になる。やつは足元のコンセントに差し込んでケーブルを繋いだ。顔をあげて、ゆっくりと言う。
「津山に言おうと思って訊いたんじゃない」
「ああ」
「っていうか、別に知りたいわけでもなくて。合宿にまで来て恋愛の話してる女子とか、その女子のことしか考えてない津山が馬鹿みたいで。どうにかしろよって思っただけ」
「早希は振られたのが気に入らないだけなんだよ。津山のことは、僕にはどうしようもない。もともと合わないし」
「......ついでに言っとくと。昨日も、お前と同室なのが嫌だったわけじゃなくて。逆に、ちょっと嬉しかったんだよ。変な意味じゃなくて、ほら、だいたい学力が同レベルのやつとなるって言われてるだろ。去年までだったら絶対無理だったから。でも、久保とお前と津山のことが面倒くさくて、しかも神田とか、勉強したら裏切り者とか言うからさ。可宮とおなじくらいの成績だってバレたら──、いや俺のほうが下だと思うけど──」
 香乃はそこまで言って、両手に顔を埋めて呻いた。僕は少しだけ笑う。
「高三にもなって勉強するのがダサいとか、そっちのほうが終わってる」
 相手は指の間からこっちを見て頷いた。
「そう思う」
「もう部活も引退したんだろ。馬鹿は放っておけばいい」
「辛辣だな」
 香乃はそうつぶやき、一瞬だけ笑った。真面目な顔に戻って続ける。
「あいつらの家は金持ちだから、東京の私大ならどこでもいいんだ。でも俺の親はMARCH以上じゃなきゃ出してくれない。ひとり暮らししたいなら、ちゃんとやんなきゃヤバいんだって」
「──」
 魚の小骨を察知するみたいに、香乃の言葉のなにかに、自分が反応したのがわかった。でも、それが具体的になんなのかはわからなかった。僕は着替えを持って立ち上がる。
「可宮」バスルームに入る前に呼び止められた。
「英語の長文読解のプリント貸して?」
 カバンから出して渡してやった。「開けて入れよ、覗かないから」デスク前に座りながら香乃は笑った。僕はバスルームに入り、数秒迷った後、締め切ることはせず、かといって全開にもせず、十五センチほどドアを開けっ放しにしてシャワーを浴びた。


 そのちいさな部屋のベッドに座って、僕は窓から外を見ていた。庭がある。音はないのに夏だとわかる。自分の服装と、レースカーテンの隙間から射し込む強引な光のせい。エアコンはなく、古びた扇風機は動いていない。僕が電源を切ったのだ。トランプのカードが飛ばされないように。
 床には青空と飛行機が散らばっている。
 でも、そこにクローバーのエースがないことを僕は知っている。いつか失くしてしまったのだ。それ以来このトランプで遊ばなくなった。手を伸ばすとカードの表面はすべすべしていたが、陽が当たっているので少し熱を持っている。僕はその上に膝をつき、両手で自分の首を掴んだ。力を入れようとするがうまくいかない。──音のない、明るい部屋。暗闇が足りない。あるとすればベッドの下、と思いついたが、絶対に見てはいけないという気もした。なぜならそこには恐ろしいものがある。振り返ってはいけない。窓を、窓を、窓のほうだけを──、
 見て。
「可宮!」
「──っ」
 目を開けてびくりとした。自分を覗き込んでいるだれか。なんで、だっけ。ひとり暮らしをしているのなら、他人はここにいないはず。
 ひとり暮らし?
 そうじゃなくて──。
「大丈夫か? なんか呼吸がおかしくなってたぞ」
 僕は自分の顔を手で覆った。指の先がひどく冷たい。呼吸はたしかに速く、額に汗をかいていた。
「だいじょうぶ」
「お前、どっか悪いの?」
 ベッドとベッドの間に立っている香乃を見上げる。adidasと書かれたグリーンのTシャツ、寝癖のついた黒い髪、首、腕、僕を起こしたときに一瞬だけこちらの肩に触れた右手。手。
「香乃、お願いが──」
「うん?」
 ──首を絞めてくれないか。
 自分がそう言いかけたことに気づいて、僕は驚愕した。ばっと身体を起こす。香乃がびくりとする。香乃のベッドサイドの照明だけがついている。デジタル時計は一時二十一分を示している。ベッドに入ってからまだ二時間も経っていない。
「可宮?」
「なんでもない」
 裸足のまま立ち上がり、デスクの上に置いていたペットボトルの水を飲んだ。突っ立ったままの香乃と、三メートルほどの距離をあけて向き合う。半袖から覗く相手の腕に視線がいく。橙色の照明が香乃のベッドの枕元を照らしている。ベッドの下、は、見えない。
「体調? それとも嫌な夢とか?」
「平気」
「ぜんぜんそう見えない」
「起こして悪い」
「だから」
 香乃はため息をついて自分のベッドに座った。僕も自分のベッドに戻った。布団の中に潜り込む。自分の体温が身体を包む。香乃の視線から逃げるようにして、僕は彼側の照明を勝手に消した。
「おやすみ」
 そう言ってまた窓を向く。だが、香乃はたぶん座ったままだった。ベッドの軋む音が聞こえない。お互いに起きていることを知っていて、我慢比べをしているようだった。沈黙の部屋。僕は目を閉じる。そこに救いがないことはもう知っている。
「可宮」
 囁くように名前を呼ばれた。
「お願いって、なに?」
 すべての暗闇は誘惑を知っている。
「このままじゃ気になって眠れない──」
「首を」半ば遮るように僕は口を開いた。「首を絞めてほしい」
「お前の?」
「そう。それでたぶん眠れる」
「......気絶させろってこと?」
「そうじゃない」
 かち、と音。香乃はまた照明をつけた。そして光量をちいさく、ちいさくした。僕の呼吸はさっきとちがう理由で乱れた。寝返りを打つ。香乃はベッドに座り、こちらをじっと見つめた。引いているようには見えず、軽蔑の色も見当たらなかったことに安堵した。
 ただ、僕が本気で言っているのかどうか、確かめようとする顔。
 それから一瞬目を逸らし、眉を寄せた。
「──なんでかわかんないけど」
 そうつぶやいて立ち上がる。彼の黒い影が部屋の壁を蠢く。僕は仰向けに寝転がり、両腕で身体を支えて肩から上だけを持ち上げた。香乃は僕の左側、ベッドの端に左膝を乗せ、右足は床に着いたままで、両手をこちらの首に伸ばした。そしてぎりぎりで止めた、いつでもやめられるように。僕がなにも言わないとわかると、躊躇いがちに、そのまま掴んだ。
 いつもそうしているから、僕は目を閉じる。
 最初はほとんど力が入っておらず、ただ掴まれただけだった。母の手がちいさいのか、香乃の手がでかいのか、感触はまったくちがった。ぜんぶ、奪われる。子どもの頃みたいに。僕はけしかけるように相手の右腕を?み、自分に押し付けた。それに呼応して少しずつ力が込められる。ぎゅうっと。僕はされるがままになる。ベッドに香乃の重みが加わって、マットレスがぎぃっと音を立てる。
 こんなふうにして、永遠に過ごせる、と思う。
 繰り返すだけの遊び。
 カードの表裏、青空の反対側。
「──っ」
 最初は喉仏あたりにあった香乃の両手は、最後にはじりじりと顎ちかくに移動して、離れた。僕の頭は枕に落っこちる。合宿に来て、初めてちゃんと呼吸ができた気がした。薄く目を開けると、香乃がゆっくりとベッドをおりるのを感じた。彼はそのままこっちを見下ろした──気がしたが、僕は眠くて仕方がなかったので目を閉じた。

※続きは7月刊行の『この夏のこともどうせ忘れる』(ポプラ文庫ピュアフル)でお楽しみください。

Profile

深沢 仁

ふかざわ じん。第2回「このライトノベルがすごい!」大賞優秀賞受賞作『R.I.P. 天使は鏡と弾丸を抱く』でデビュー。他の作品に、『睦笠神社と神さまじゃない人たち』(このライトノベルがすごい!文庫)、ボカロ小説『Dear』(PHP研究所)などがある。趣味はさんぽ、旅。音楽を聴きながら、遠いところに行くのが好き。「英国幻視の少年たち」シリーズ(ポプラ文庫ピュアフル)最終巻6巻が5月9日発売。

Pick Up Book

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