魔法なんてここにはない

寺地はるな

魔法なんてここにはない

魔法なんてここにはない

 君はこの本を知っているか。読んだことがあるか、とね、こう来たわけよ。紅茶がなみなみと注がれたカップをやや乱暴にソーサーの上におろし、かし子は言った。ソーサー上に紅い水たまりができる。花岡は頷く。かし子の背後の壁には鏡があって、そこに自分の顔が映る。髪伸びたなあ、と思う。毛先が肩に届きそうだ。派遣社員としての契約がすこし前に切れて、来週から新しい会社に行くことになっている。その前に美容院に行っておいたほうがいいよね、とも思い、心の隅にメモをとる。近日中に、髪を切ること。それから意識を、目の前の友人に集中させた。
 かし子というのは、本当の名前ではない。高校に入学してまもない頃、図書室で花岡が『誰にも訊けない手紙の書きかた文例集』という本を読んでいた時に、その呼び名は生まれた。
 なぜそんな本が高校の図書室にあったのかもなぜそれを読もうとしたのかも忘れたが、『誰にも訊けない手紙の書きかた文例集』には「借金の返済期間の延長を頼む際の手紙」とか「上司の妻と関係を持ってしまった際の詫び状」とか、確かにそれは誰にも訊けないだろうと思うケースが満載で、花岡がたいへん興味深くそれを読んでいると背後から覗きこんでくる者がいた。首をねじまげ、同じクラスの人だ、と確認した。目が大きくて、ちょっとそばかすがあって、なんだか外国の女の子みたいだなと思ったから、よく覚えていた。
 花岡の肩越しに細い指を伸ばして手紙の文例の最後に書かれた「かしこ」という文字に触れ、「これ名前?」と訊ねてきた。花岡が違うと言うと、そうなんだ、と勘違いを恥じるふうでもなく頷き、ほら私香椎莉子っていう名前でしょ、と花岡が自分の名を知っていると確信しているような口調で言い、花岡は名前までは覚えていなかったけれども一応頷き、香椎かしこっていう名前だったら嫌だなと思ったんだよね、と続く彼女の言葉には、なんだそれは、と思った。へんな子だなとも思った。それ以来の呼び名だった。
 現在の職場では香椎ちゃんと呼ばれたり、時にはカッシーニと呼ばれたりしているらしいが、花岡は二十四歳になった現在でもかし子と呼び続けている。かし子のほうは花岡、と呼ぶ。他の友人もそうだ。花岡月子という名前だが、「月子」のほうで呼ぶのは、家族以外でいうと、現在ではミナトホテルの人たちだけだ。人たち、と言っても三名だしうち一名は幼児なのだが。先ほどから花岡はかし子にミナトホテルのことを話したくてたまらないのだが、タイミングを摑めずにいる。
 君はこの本を知っているか。読んだことがあるか、と言ったのはかし子の上司で、その本というのはどこぞの有名な会社の名物社長のような人が経営者の心得を書いて去年まあまあ話題になったというものらしい。社員も経営者目線で仕事をしなければだめだよ、と言われたらしかった。それを聞いたかし子は、なるほど、と思ったが家に帰ってから、いやどうだろう、と思い直したという。
「おかしくない?」
 うん、経営者目線を望むなら経営者と同じように扱ってほしいよね、と花岡が言うと、かし子は「それ」と大きく頷いた。経営者目線がみんなに標準装備されてるなら経営者いらないよね、と言うと「それそれ」と更に大きく頷いた。それから、目をごしごしとこする。花岡はそれを見て、マスカラが落ちる、と危ぶんだ。案の定、目の下に黒い点がいくつか散らばる。花岡が手鏡を貸してやると、かし子は「あ」と呟いて、テーブルの上の紙ナプキンで顔を拭いた。
 最近、朝まで寝られたためしがない、とこのあいだ電話で話した時に言っていた。夜中から朝方にかけて、何度も目が覚めるのだと。目覚めてからしばらくは眠れないから、だから布団に入っている時間は長いのに、いつも睡眠不足なのだと。
 その話がなんとなく気になって、今日は花岡のほうから会おうと誘ったのだった。最後に会ったのは二か月前のことだった。
 かし子が「土日はちょっと......」となにやら語尾を濁すので、平日の昼休みの時間に待ち合わせた。恋人でもできたのか、と一瞬思ったが、そういうわけでもなさそうだった。花岡のほうは現在仕事をしていないから、かし子の都合に合わせることはなんでもなかった。
 日頃からカフェより断然純喫茶派と主張してやまないかし子が指定した店に花岡が行ってみると、通りに面したその店の窓際の席でかし子が気怠そうに頰杖をついているのが見えた。かし子は花岡に気づくと、ちょっと笑ってガラス越しに手を振った。
 最近どう、という挨拶からはじまって、かし子は会社の上司の「腹が立つというほどではないがなんとなく引っかかる言動」について立て板に水のごとく話しはじめ、花岡は相槌を打つのに忙しく、運ばれてきたサンドイッチはおろか紅茶に口をつけるタイミングさえ摑めないまま、三十分が経過していた。
「あーでもなんか、喋ったらすっきりしたかもしれない」
 かし子がそう言って冷めた紅茶を飲むので、「それはよかった」と答えて花岡も急いで自分の紅茶に口をつける。
「仕事が嫌いってわけじゃないし、その上司のことも嫌いなわけじゃないけど、夜中に目が覚めて明日のこと考えると、寝つけなくなる」
 かし子はちょっと疲れているようだ。
「寝つけなくて、会社燃えろって思う」
 ずいぶんお疲れのようだ。かし子は、まあ実際燃えたらすごく困るんだけどね、と続けながら鞄をごそごそやり、頭痛薬の箱を取り出した。ボリボリとラムネ菓子のように嚙み砕き、水を飲んでいる。先々月に会った時も同じように頭痛薬を飲んでいたような気がする。
「頭、痛いの?」
「まだ痛くないけど、痛くなりそうだから」
 よくない薬の飲みかたであるとわかっているのか、かし子は花岡と目を合わせずに答える。
「かし子みたいな人がたぶん、ミナトホテルを利用すべき人なんだと思うんだよね」
 やっとミナトホテルの話を切り出すことができた。ミナトホテルという宿泊施設の存在を、つい最近知った。裏通りに、看板を出さずにひっそりとある。ずいぶん古い時代からあるらしい、レトロなビルだ。いつ行っても、しんとしている。なんでこんなにひっそり商売してるんですか、と経営者である湊篤彦さんに訊いたら、ひっそり利用する人がいるからだよ、という答えが返って来た。子どもはよく押し入れとかピアノの裏とか、木の上とかに隠れるだろう、それと同じだよ、とも。家に帰りたくないとか、家に帰れないとか、家ではゆっくり寝られないとか、そういう人たちがやって来るのだそうだ。そういう人、はそれなりにいるようだった。湊さんはミナトホテルの四代目の経営者である。二代目まではごく普通のホテルだったという。三代目は湊さんのお母さんだ。
 自分の母親が「そういう人」相手の商売をしようと思った理由を、湊さん本人は「ただのすきま産業」だと言う。正確なところはわからない。湊さんのお母さんはもう亡くなっていて、花岡は一度もその人に会ったことがない。
「別に私、家でゆっくり寝られないわけじゃないから」
 家のせいじゃないから、となぜかかし子は気色ばんでいる。かし子は現在、母親とふたりで暮らしている。寝室が母親と一緒だ、と以前聞いたことがある。ものすごく歯ぎしりをする、とも。
「お母さんのせいでもないよ、寝られないのは」
 かし子は、花岡の視線に気づくと、急いで目を逸らす。
「とにかく、私は大丈夫だから」
 あんたのほうこそ最近どうよ、とかし子は窓のほうに視線を向けたまま言う。
「仕事についてなら、来週から新しい派遣先に行く。恋愛についてなら、もう大丈夫」
 すこし前に恋人と別れた。別れさせられた、というべきか。六月の上旬のことで、今は九月の下旬で、それほど長い時間が過ぎたというわけでもないのにずいぶん昔のことのように感じられる。この数か月、それなりにいろいろあったのだ。
 別れ(させられ)た当時はずいぶん泣き、かし子にも連日電話で愚痴を聞かせるなどした。今はもうすっかり平気、とまでは言わないが「まあ、いつまでも落ちこんでもいられないでしょ」という程度には気持ちが落ちついている。
「それならいいけど」と呟くかし子に「その節はどうも」と頭を下げたら、かし子は照れたらしく「よせよ」と乱暴に吐き捨てて、顔ごと窓のほうを向いた。つられて同じ方向に顔を向けた花岡の目が、通りを歩くスーツ姿の男を捉えた。思わず「あ」と呟く。
「どうしたの?」
「......あ、仕事で、前に、一緒だった人。ミヤムラ総合経営研究所ってとこの」
 木山さん、と心の中で思う。歩きかたに特徴があるから、すぐわかる。上半身をほとんど動かさない。定規で線を引くように、まっすぐに歩く。木山芯輔という名の人。花岡とは逆に、職場以外では名字で呼ばれることがほとんどないのだそうだ。たしかにミナトホテルの湊さんも「芯くん」と呼んでいる。
 電話がかかってきたらしく、木山さんは上着の胸ポケットから携帯電話を取り出し、立ち止まって喋りはじめた。背筋も、携帯電話を持つ手も、もう片方の鞄を持っている手も、ぴしっとしている。あの子すっごい几帳面でさ、とミヤムラ総合経営研究所の従業員が話していた。今度こっそりデスクの抽斗開けてみなよ、ふせんからクリップから、もうほんとにきっちりきっちり整理整頓されてるから、あはは、と、整理整頓はおかしなことではないはずなのになぜか滑稽なことのように笑われていた、あの木山さん。
「手振ったら気づくかもよ」
 かし子の言葉に、花岡は慌てて首を振る。いいんだよ気づかれなくて、と呟く。木山さんの電話はまだ終わらない。車道を挟んだ向こう側の純喫茶から見られていることなど、おそらく想像もしていないだろう。はい、はい、というかたちに唇が動いている。
「良いんじゃない」
 先ほどからしげしげとガラス越しに観察していたかし子は木山さんの外見についてそのように評する。木山さんはやや中性的というか、光の加減と角度によっては美青年と言えなくもないような外見をしていて、そのことをかし子は「良いんじゃない」と感じたらしかった。あの人にしとけば、などとも言う。
「花岡、今彼氏いないんでしょ」
「......だめだよ」
「なんで? 性格悪いとか?」
「悪くないよ!」
 なぜか大きな声で否定してしまい、通りかかった店員がちら、と視線を投げてくる。
「あの人にしとけば」とか、そんな妥協案みたいに適当に扱っていい人ではないのだ、木山さんは。そのことは、かし子には言わない。適当に扱っていい人ではないという思いを隠したいわけではない。そう思うに至った経緯を、どのように説明すればいいのかわからないからだ。だから花岡は「まあそのミナトホテルを知ったのも、もとはといえばあの人経由なんだけどね」と話題を変えた。
「ていうか大丈夫なの、そのミナトホテルって」
 なんか胡散臭いよ、とかし子は眉をひそめる。胡散臭くないよ、と答えたが、ほんとうにそうか、と再度問われたら頷く自信はなかった。だいたいあの湊さんという人のことが、まだよくわからない。でも悪い人ではないと思う。なぜならばあの人は、猫が好きだから。猫好きに悪い人はいない、という自分の母親の主張を、全面的にとは言わないまでもそれなりに肯定したい気持ちが、花岡にはある。自身も猫が好きだから。

「胡散臭いと言われてしまいました」
 会社に戻るかし子と別れてミナトホテルに立ち寄った花岡が言うと、湊さんは「そりゃそうだろうね」と頷いていて、なんというか経営者自ら認めるならもうしかたないよなあ、という気持ちになる。
 このホテルのカウンターには、いつも花が活けてある。今日は白い薔薇だった。湊はカウンターの内側に座ってなにか書きものをしていて、花岡が入っていくと「やあ月子ちゃんじゃないか」となにかのセリフのように挨拶をした。
 ここに遊びに来るのは、猫を愛でるためだ。ミナトホテルで飼われている猫、平田カラメル。しかし今日、その猫はいない。健康診断のために、動物病院に預けているのだという。
 花岡ががっくりと肩を落として「そうなんですか......」と呟くと、湊は慌てて「飴......じゃあ飴をあげよう」などと子ども相手のようなことを言い、ポケットを探り出した。渡された飴は花岡の嫌いなパイナップル味のものだったので、いらないです、と断った。
「気持ちはありがたいけど、このホテルのことならそんなに宣伝しなくても大丈夫だよ」
 看板なんか出してなくても、必要とする客は見つけてくれるから大丈夫だよ、ふしぎなもんで、と湊は言う。
「宣伝したかったんじゃなくて。その友人のためなんですって」
 前に、不眠症で定期的に通ってくるお客さんがいるって言ってたでしょう? ここだとぐっすり眠れるからって、と言う花岡の言葉に、湊は首を振る。それはたまたまその人がそうだってだけだろう、とのことだった。
「そうなんですか?」
「そうだよ。別に『どんな不眠もたちどころに解消する魔法のベッド』とか設置してるわけじゃないんだから」
「えっ、そうなんですか?」
 そうなんですかって。湊は笑い出す。
「月子ちゃんはおもしろいな」
 親戚の子どもに言うような口調だった。三十代後半の男性が二十代前半の女子に用いる口調ではないと思う。まるっきり異性として認識されていないに違いなかった。
 花岡が十歳、姉が十二歳の時に両親が離婚した。父は酒乱、違法な賭けごとが好き、浪費家、浮気性、短気、というろくでなしのロイヤル・ストレート・フラッシュみたいな人だった。他人に、だからあなたは男に頼りがいを、はっきり言うと父親の役割を求めているのだ、と言われることがよくある。だから年上の男の人ばっかり、好きになるんでしょう、と。
 別に年上が好きというわけではないのだ、好きになる相手がたまたま年上続きなだけだ、と辛抱強く説明してもそう言われるので、最近はあきらめている。
「湊さんは、あんまり年上、って感じがしません」
 花岡の発言には「私もあなたを恋愛対象として認識しておりませんので」という意味が含まれていたのだが、湊は自分の髪や頰にひとしきり触りながら照れくさそうに「若く見えるって言われたことあんまりないんだけど」などと言う。
「そういう意味じゃないです」
「え、そういう意味じゃないんだ」
 残念そうだ。喋りやすいって意味です、と言うと、ああ、と完全に興味を失った様子で頷く。
「じゃあ芯くんは?」
「え」
 花岡はたじろいで、一歩後ろに下がる。なぜここで木山さんの名が出てくるのだろう。木山さんは年上ではあるが、花岡とひとつしか違わない。だからこの話の流れで出てくるのはおかしい、と言いたいのだが、いやそんなこと言うのってどうなの? 逆に意識してるみたいじゃない? まるで私が木山さんのことをめちゃくちゃ意識してるみたいじゃない? 正直にさらっと答えればいいんじゃないの? と逡巡した結果、咳払いをひとつしてから答えた。
「......喋りやすくはないです」
「あ、そう」
「決して、きっ、嫌いという意味ではないです」
 花岡が言い添えると、湊さんは「そこまで訊いてないよ」と笑う。湊さんの笑いかたは、花岡を不安にさせる。自分には見えていない自分が、この人には見えているのではないかという気がする。

 家に帰ると、母が台所のほうから「おかえり」と声をかけてきた。栗がたくさん入ったボウルを流し台に置き、せっせと皮を剥いている。花岡が「ただいま」と答えると無表情に頷く。機嫌が悪いわけではない。いつもこうなのだ。
「今日、栗ごはん?」
 期待をこめて訊ねると、頷く。
「腱鞘炎になりそう」
 栗の皮を剥く際にこぼす愚痴を、例年通り口にした。めんどくさいったら、と言いながら毎年、大量の栗を買ってくる。母の好物なのだった。
「がんばって」
「手伝って」
 すかさずそう返されたので、しぶしぶ手を洗う。数年前に栗の皮を剥く専用の道具というのをテレビで紹介していた。便利そうなので母に買ってやろうと思いながら、いつのまにか忘れていた。その翌年に思い出したが、また忘れた。今年こそ、と美容院の予定と同様、心の隅にメモをとる。母がボウルを居間のテーブルに移動させたので、向かい合って座った。しばらくのあいだ正座した姿勢で、無言で包丁を動かした。
 女三人で暮らす居間は雑然としている。五人組のアイドルの熱心なファンである姉がテレビの脇にDVDなどを積み上げているし、花岡が座る位置の後ろにある棚には、母が去年から習いはじめたプリザーブドフラワーがいくつも飾ってある。花岡はというと便利な文房具やへんな雑貨が好きなので、寿司のかたちをしたクッションや猫の肉球のかたちに穴を空けられるパンチなどをどんどん買ってきてしまう。誰かが誰かの所有物を邪魔だとか捨てろだとか言うことはない。各人の趣味を否定することもない。
 いつも三人、ひとかたまりになって暮らしてきた。それはあのろくでなしのロイヤル・ストレート・フラッシュの父を共通の敵として生まれた団結力であるように思う。あいつ抜きで、幸せに生きてみせるぞ、とでもいうような。
「かし子ちゃん、元気だった?」
 出がけに花岡が「かし子とお茶飲んでくる」と言ったので、母はそう訊ねる。すこし迷ってから「ちょっと疲れてるみたいだった」と答える。
「そう。まあ、楽な仕事はないからね」
 離婚後、生命保険の外交員の仕事をしながら娘ふたりを育てた母の口癖だった。うん、と花岡は短く相槌を打つ。
 よく身体を壊さなかったな、と今になって思う。母は長いこと、働きづめだった。保険会社を退勤した後にコンビニで夜勤をしていた時期もあったし、内職を引き受けてきて娘ふたりに手伝わせていた時期もある。娘がふたりとも就職して、ようやく暮らしが楽になったと口にする母を見ていると、時々ふいに泣きそうになる。突然泣かれても困るだろうから、肩でもお揉みしましょうか? というようなことを訊ねてみるのだが、そんな時の母はたいてい「肩揉みより、ケーキ食べたいから買ってきてほしいなァ」などと答えるのだった。
「......あっちの栗は、渋皮煮にするから」
 母は、台所の床に置いてある白いビニール袋のほうを指さす。まだまだ大量に入っているようだった。
「うん」
「かし子ちゃんのところに、ちょっとおすそわけしておいで」
「うん。ありがとう」
 あの子も渋皮煮好きだったよね、確か。と言う母は勘違いをしている。渋皮煮が好きなのは、かし子ではなくかし子の兄だ。ずっと前にかし子がここに遊びに来て、母が紅茶と共にそれを出した時に「お兄ちゃんが大好きなんだよね、これ」と言っていたのを、花岡はちゃんと覚えている。でもかし子はその時「おいしい、すごくおいしい」とにこにこしておかわりまでしていたから、母が勘違いするのも無理はなかった。
 かし子とその兄とは十一歳の年の差がある。だから結構、可愛がってもらったよ、という話を、よだれが出そうなほどうらやましがりながら聞いた。姉と不仲なわけではないし、姉がいて良かったとも思っているが、それでも「兄」というものは花岡にとってのファンタジーなのだった。しかもかし子の兄はしょっちゅう妹をからかったり意地悪なことを言うけれども「基本的にはやさしい」のだそうだ。勉強を教えてくれたりもしたのだそうだ。趣味はフットサルだそうだ。ファンタジーとしての兄要素を凝縮したような存在で、うらやまし過ぎると思う。
 かし子の兄は、現在は他県でひとり暮らしをしていると聞く。仕事の都合で、と聞いた。そういえばかし子は、最近兄の話をしない。やはり離れて暮らしていて、あまり会えないから話せるエピソードが少ないのだろうか。花岡は兄にまつわるエピソードならどんな些細なものでも楽しんで聞く自信があるのだが。
 三年程前に、かし子たちの父は病死している。母とのふたり暮らしになってから、かし子はほとんど家族の話をしなくなった。
 高校生の頃、かし子はよく家に遊びに来たけれども、花岡がかし子の家に行ったことは数回しかない。築三十年のマンションで暮らしている花岡には、香椎宅はたいへん広く感じた。そこまで思い出してから「ん?」と思う。
 部屋はたくさんあるだろうに、なぜかし子たちはひとつの部屋で寝ているのだろうか。その話を聞いた当時は、深く考えなかった。防犯とかいろいろ、とかし子が言ったから。お父さんが亡くなった直後だったから、女だけで暮らしてると怖いこともあるからなあ、と思って軽く流して、次の話題へ移ってしまっていた。しかしあらためて考えると同じ部屋で寝ることが防犯になるというのは、なんだかへんだ。鍵を二重にした、とか窓を開けて寝ない、というならまだしも。
 昼間に見た、かし子の疲れた顔を思い出して、ふいに不安な気持ちになった。なにか忘れものをした気がするのに、それがなんであったか思い出せない、という時の感覚に似ていた。まあいい、と思う。まあ、いい。忘れてきたのなら、取りに行けばいい。来週にでも、渋皮煮を携えて、香椎宅を訪ねてみようと決める。

<つづく>

Profile

寺地はるな

1977年佐賀県生まれ。大阪府在住。第四回ポプラ社小説新人賞を受賞した『ビオレタ』でデビュー。第二作目となる『ミナトホテルの裏庭には』が発売中。

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お知らせ

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