魔法なんてここにはない

寺地はるな

魔法なんてここにはない

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魔法なんてここにはない


 図書室ではじめて言葉を交わして以来校内での行動を共にするようになった高校時代の花岡とかし子だったが、距離が縮まったのはやはりあの体育の授業だった、と花岡は思っている。
 三学期にはじまったマラソンの授業で、体育のアカイという先生にふたりは怒られたのだった。アカイという名字ではなかったかもしれないが、いつも赤いジャージ姿だったのでアカイと呼んでいた。
 怒られたのは授業に二分遅れたせいなのだが、遅れた原因はその前の地理の授業に使った巨大な地図の後片づけを地理の先生に頼まれて手伝っていたことだった。花岡の説明をろくに聞かずにその他の生徒の前で遅刻を叱

責するアカイは、やがて花岡の運動靴の紐の色が華美であるとか、かし子の髪の色は明る過ぎるので染髪をしているに違いないというようなことまで言い、そのあげく花岡とかし子が住んでいる町名を訊ねて、ぼそぼそとふたりが答えると、「どっちも治安が悪いからな」とまるでふたりの遅刻の原因に居住地の治安の悪さが関係しているような口ぶりで盛大に嘆息し、花岡はなにを言うかアカイめ、と憤った。
 ひとしきり治安の悪さを嘆いたのちに「お前らだけ、二周追加」とグラウンドを指さした。「先に二周」と指定されたので、級友たちが見ている中ふたりで走りはじめた。白い息を吐きながらその場で足踏みして、迷惑そうな顔をしている者もいた。
 かし子が泣きそうな顔で「私たちそこまで悪いことしたかな?」と呟いた時に、花岡の中でなにかが切れた。大きな声で「してない!」と花岡は叫ぶと、かし子の手首を摑んでグラウンドの外に向かって走り出した。背後でアカイの怒号が聞こえたが振り返らなかった。
 その日の最後の授業だったので制服に着替えてそのまま帰ってしまったのだが、もちろん翌日にはアカイから職員室に呼び出されて更に怒られた。地理の先生がとりなしてくれたので、三十分ほどで解放された。
「でも、これはおかしいと思ったら、いち抜けた、してもいいと私は思う」
 職員室を出てから花岡が言うと、かし子はそうだね、と答えて笑っていた。
 かし子は責任感が強く、まじめな生徒ということで教師からの信頼も厚かったが、その一件でアカイからは目をつけられて、後々までしつこく嫌みを言われ続けていた。そのことを花岡は自分が軽率な行動をしたせいで、と反省していたがかし子のほうは「あの時、花岡と友だちになって良かったってすごく思った」と言って、むしろ嬉しそうだった。
 親友、というような言葉は、花岡は使わない。かし子もそうだと思う。だいじな友だち。それで充分だった。

 かし子の家は、閑静な住宅街の一角にある。母が持たせてくれた渋皮煮はわりあい大きな瓶に入っていて重く、花岡は瓶が入った紙袋を両手で抱えるようにして持たねばならなかった。
 電車に乗る前にかし子に「お母さんが栗の渋皮煮つくったから、家まで持っていくよ」とメールをした。返信はなかったが、留守でもかし子の母に預ければよいと思った。お勤めはしていないはずだから、と高校時代に会ったのが最後の、その人の顔を思い浮かべる。かし子とは似ていない、尖った顎をしていた。
 電車を降りて改札を通ったところで、かし子から電話がかかってきた。受け取りに行くよ、どっか店に入っててよ、などと言う。
「かし子こそ、家で待っててよ。もう近くまで来てるから」
 花岡は携帯電話を頰と肩で挟んで歩きながら答える。渋皮煮の瓶があまりに重いので、外で会って渡すのは申し訳なくて、だから家まで届けようと思ったのだ。かし子は自分に比べると非力なほうであると、長年のつきあいで花岡は感じている。
「いやほんと、私行くから、ねえ今どこ? どのへん?」
 かし子は声を上ずらせている。なにをそんなに焦っているのだ、と花岡は訝しく思う。持っていくから待っていろ、いや受け取るから場所を教えろ、というやりとりを数回繰り返しているうちに、家の前に到着した。
 かし子が携帯電話を片手に、玄関から出てきたところだった。仕事から帰ってきたばかりらしく、スーツを着ている。花岡の顔を見ると、慌てた様子で後ろ手に扉を閉める。
 かし子は早口で「あの、ありがとうね」と言って、花岡の手からひったくるようにして袋を受けとる。花岡が瓶を開けた後は三日ぐらいで食べきってねって、と母からの伝達事項を口にすると、うんうんうん、と小刻みに頷く。はやく帰ってほしそうな様子だった。どうしたんだろう、と花岡が思っていると扉の向こうから「誰か来てるの?」という、かし子の母らしき声がした。途端に、かし子の表情が曇る。
「莉子、ねえ誰なの?」
「いつまで喋ってるの?」
「ねえちょっと聞いてるの? そこでなにやってるの、ちょっと、ちゃんと答えなさいよ」
「莉子!」
 扉越しに、かし子の母が甲高く叫んでいる。ヒステリック、と表現してもいいぐらいだ。内側から扉が強く叩かれて、かし子が身を竦ませた。花岡が到着して、数分も経過していない。かし子の目が泳いでいる。なにかがおかしい。
 玄関の脇に、植木鉢がいくつか置かれている。いずれも枯れて、しなびた茶色い茎が乾いた土の上を這っている。玄関の左側はガレージになっているが、そこには乗用車はなく、どうしてだか古雑誌を紐でくくったものがいくつも置かれていた。その横にテレビ。破れて中身のスポンジが零れ出ている座椅子。骨が曲がっている傘や古びた靴も雑然とそこに転がっている。いずれも捨てるためにそこに準備をしてあるというよりは、適当にその空間に放り投げたように見える。こんなに荒れた家だったか、と記憶を辿る。そんなはずは、ない。
 ねえ、と呼びかけた花岡に向かってかし子が「ごめんね」と泣きそうな顔で両手を合わせる。なにがごめんね、なのだろう。ごめんねもう帰って、ということなのだろうか。帰って、と言われたら帰るべきなのだろうか、でも、と思う。逡巡しているあいだにもかし子の母は扉を叩き、娘の名を呼び続ける。すでに喚き声に近くなっている。
 かし子のこの顔を、以前にも見たことがある。あの体育の授業の時だ。がちゃがちゃ、とドアノブをまわす音がした。かし子の手首を摑んで、引き寄せる。
「ちょっと来て」
 やめてよ、と抵抗するかし子の手を、絶対に放してはいけないと思った。走り出した花岡の耳に、かし子の母の喚く声がまた聞こえたが、なんと言ったのかはよくわからなかった。

 数メートル走ったところで「花岡ちょっと、止まって!」とかし子が叫んだ。つっかけていたゴム製のサンダルが脱げたらしかった。ちょっと引き返して道路に転がったサンダルを履いている。
「なんで急に走り出すのよ」
 かし子は息を切らせながら、困惑している様子だった。
「かし子はなんで一緒に走ってきたの?」
 確かに私は強くかし子の腕を摑んでいたけれども、と思う。振り払うこともできたはずだ。でもかし子は、そうしなかった。花岡が咄嗟に、かし子をここから連れ去らねばならない、と思ったのは先ほどのかし子の母の声や口調に尋常ならざるものを感じたからだ。なにかがおかしい。絶対に。
「かし子」
 なんか、困ってるんじゃない? 花岡が顔を覗きこむと、かし子は首を横に振る。振って、しばらくして頷いた。また首を激しく振る。その、と言いかけてやめる。困っているのだ、とその様子を見ていて思う。友人とはいえ、首を突っこまれたくない領域というのはある。たぶん私は、今それを侵している。しかも「おかしいと思った」という完全に自分の側の理由のみで。と花岡がいたたまれない気持ちになった時、かし子が口を開いた。
「どこから話していいかわからないんだけど」
 長くなるかもしれないけど、いいの? かし子が息を吸って、吐く。いいよ、もちろん。花岡は頷く。
 無理やり引っ張ってきてしまったので、かし子はスーツにゴム製のつっかけという妙な格好をしていたが、このままでいいと言う。家に戻ったら、きっともう話せなくなると。
「どこで話そう」
 誰にも聞かれたくない話なのだと呟きながら、かし子はしきりに背後を振り返る。母が後を追ってくることを案じているらしかった。だったらあそこしかない、と花岡は思う。ミナトホテルしか。

 駅まで歩いて、電車には乗らずにタクシーを使った。派遣の仕事が途切れている花岡にとっては痛い出費だったのだが、すこしでもはやくミナトホテルへ行きたかったので、そうした。車の中から湊さんに電話をして、ひと部屋空いてますか、と訊ねると「空いてるよ」という返事だった。「どうしたの」とか「なにかあったの」とか、そういうことは一切訊ねられなかった。ミナトホテルに到着してからも同じで、部屋の鍵を渡されて、代金を告げられただけだった。結構高いな、と思ったが、今はそれについてなにか言うだけの余裕はなかった。
 ミナトホテルは二階建ての古いビルで、客室は二階にしかない。階段をのぼるあいだ、かし子は口をきかなかった。本人が口を開くまで待とう、と花岡は思っていたが、部屋に入って、窓際に置かれた椅子に腰をおろしてからも、かし子はずいぶん長いあいだ黙ってうつむいている。手持ち無沙汰な花岡は、喉渇いたな、ここってポットとかお茶の葉とかないんだろうか、などと思いながら通常の宿泊施設には設置されているそれらを探したが、どうやら置いていないらしかった。外に買いに行こうかな、と思った時ようやくかし子が「お母さんは時々、子どもになる」と呟いた。
 花岡の、かし子の母に対する第一印象は「教育熱心そうな人」だった。事実、そうだったという。おもに、兄に対して。
 熱心に育てた息子は母の望み通りに地元の大学を卒業し、母の望み通り地元で公務員として就職した。息子がずっと自分の傍にいてくれること。それが母の望みだったとかし子は言う。娘のほうは、失敗作だからね、と自嘲するように笑う。そんなかし子を見たのははじめてだった。
「失敗作なんかじゃないでしょ」
 お母さんはそう思ってんの。かし子は俯く。あんたにできるわけがない。いつもそう言われてきたそうだ。なにかしてみたいとか、どこかに行ってみたいとか、そんなことを口にするたびに。
 兄のほうは、いつもほめられていた。さすが、お兄ちゃん。その後には絶対、さすがお母さんの子だね、と続く。
「でも、お兄ちゃんは出ていった」
 わりあい唐突な別離だったらしかった。両親にも、妹にも、「家出るから」の一言で通して、なにも説明してくれなかったという。公務員は辞めて、今は一般の企業に勤めているのだという。むろん至極まっとうな企業ではあるが、母の望みとは違う。なにより母は息子に「捨てられた」「ごみくずでも放り投げるみたいに置いていかれた」と思ったらしく、その後しばらく泣いたり周囲にあたり散らして暮らしていたらしかった。
「でもまあ、お母さんは昔から結構そんな感じだったから。慣れてたけど」
 自分の思い通りにならないと大声を出したり、泣き喚いたりするのだという。母の中に子どもがいる。わりあい小さい頃から、かし子はそう感じていたらしかった。
 父は母のそういう性格に辟易していたのか、昔から不在がちだったという。相談できるような相手じゃなかったというか、はなから「この人はだめだ」っていう気持ちがあったんだよね、とかし子は言う。そうして心を通い合わせられぬまま、父は死んでしまった、と。
 兄が家を出てまもなくして、かし子の母の関心は次第に、娘に向けられるようになった。かし子が大学生の頃だ。かし子の母は、娘に家を出ることを禁じたという。就職は、家から通える範囲内で。そのような条件を出された。あんたにひとり暮らしなんかできるわけない、というのがその理由だった。
「できるよって言い返せばよかったのに」
「花岡にはわかんないよ!」
 突然かし子が声を荒らげた。
「あんたを産んで、育てたのは私だよ、あんた以上にあんたのこと知ってるんだから。......そんなふうに言う人に、なんて返せばいいの? あんたは私がいないとなんにもできない子なんだからって、その通りだよ、だってほんとにその通りなんだから。家のこととかさ、お母さんにまかせっきりだったし。料理もできないし」
 花岡にはさ、そういうのわかんないでしょ、たぶん。かし子はなぜか笑い声を上げる。悲鳴のようにも聞こえた。
「花岡の家に遊びに行った時にさ、花岡のお母さん、私になんて言ったか知ってる? 『仕事仕事でろくに躾もしてやれなかったけど、いつのまにかちゃんと大きくなってた。世間様に育ててもらったようなもんだから』だって。いい友だちにも恵まれてるし、だって」
 かし子ちゃんありがとうね。花岡の母にそう言われて、嬉しかったという。苦しかったという。妬ましくて泣いたという。
「だから花岡には言いたくなかったんだ、ずっと。知られたくなかった。花岡にわかるはずないとも思ったし。家の話をする時、嘘ついてたわけじゃないよ。なるべく楽しそうな部分を抜き出して話してただけ」
 知らなかった、と花岡は呟く。かし子の家庭がそのようであったことも、かし子が自分に対してそんなふうに思っていたことも知らなかった。
 父の死後、母のかし子への関心は、はっきりとした執着に変わっていったらしかった。ひとりで寝たくないと言い出し、娘の部屋に布団を持ちこんで寝るようになった。娘が休日に出かけるのを厭うようになった。花岡が誘っても平日の昼休みを指定することが多くなったのは、仕事が忙しいからではなかったのだった。
 とにかくかし子の母は、ひとりになることを怖がるのだという。そのくせ、近所づきあいは避けるという。かつての友人とも疎遠のようだという。「あんたさえいてくれればいいの、お母さんは」と、繰り返し言うらしい。
「そんなふうに言われてさ、最初ね、ちょっとだけ嬉しかったんだ」
 バカみたいでしょ、と言われて、花岡は首を横に振る。
 母が自分を頼りにしている。あれほど、お前はだめな子だ、と自分に言った母が。寄りかかられることの重みと同時に、ほの暗い喜びも確かにあったと。
 しっかりしなきゃ、とかし子は思ったという。お母さんを支えてあげなきゃ。私が。
 身体の不調を感じはじめたのは、それから数か月してからのことだった。慢性的な頭痛。夜中に何度も目が覚めてその後寝つけなくなる。そのせいか、日中耳鳴りがする。めまいなども、頻繁に起こす。どこかで無理をしているのだ、という自覚はあったという。
「でも親は大切にしなきゃ。そうでしょ?」
 かし子は泣き笑いのような、へんな顔をしている。唇が奇妙なかたちに歪んでいた。
「親を捨てたいなんて思うのは、いけないことでしょ?」
 兄は悪い人じゃない、でも親を捨てた、それはいけないことだ、とかし子は言う。
「......いけないことじゃないよ」
 いけないことになっているのかもしれない。世間では。でも世間がなんだというのだろう。世間なんか、と思う。自分自身より大切な世間なんかあるか。花岡がそんなふうなことを言うと、かし子は肩を震わせる。
 震えているその肩を抱こうと伸ばした手を振り払われる。立ちすくんだ。行き場を失った手が、だらりと下がる。
 かし子は両方のこぶしを握り締めて、歯を食いしばるようにして、静かに涙を流していた。
「ひとりにして」
 食いしばった歯の奥から、声を発する。
「ひとりになりたい」
「......わかった」
 部屋を出て、扉を閉める。息を吐いたら、しんとした廊下に重く沈んだ。
 階段をおりていくと、一階のロビーに湊さんがいた。いつもはカウンターの奥に座っているが、外側に出て立ち、カウンターに寄りかかっている。花岡の足音に気づいて振り返ったが、なにも言わずにすぐ前を向いた。
「ひとりになりたい、と言われてしまいました」
 花岡は隣に立って同じようにカウンターに身体を預ける。
 湊さんはちらりと花岡を見て、客の事情を詳しく聞き過ぎるのは好きじゃないんだよ、と呟いた。
「家族のことで、苦しんでて」
 それに構わず、花岡は続ける。ちょっとぐらい聞いてくれたっていいじゃないか、と思う。
「体調も悪いって」
 でもひとりになりたいって、手を振り払われてしまいました。言いながら、涙が出そうになった。
「やっぱり私は、余計なことをしてしまったんでしょうか」
 ずかずか踏みこんで、隠しごとをあばき立てた。自分がしたことは、そういう類のことなのかもしれない、と思われてならない。
「そうしたかったんだろ、でも」
 湊さんは花岡のほうを見ない。君がそうしたかったんなら、そうしてよかったんだろう。あの子は君の手を取ることもできるし、振り払うこともできる。選ぶのは本人だ。お節介をやくのは自由だが、せっかく手を差し伸べてやったのにあいつはそれを拒んだ、と怒ったりかなしんだりするのは、それは違う。というようなことを、聞き取りづらいもそもそとした口調で言った。
「家族のことは家族と解決するしかないし、体調のことは病院にかかるしかないと思う」
「......そうですね」
「なんでも解決できる魔法なんてここにはない」
 そうですね、と同じことを、また答える。湊さんはほんとうは、こういう人なんだな、と思う。湊さんは、花岡のほうを見なかった。

 それから一週間が過ぎて、花岡は新しい派遣先の会社での初日の勤務を終えた。帰りにミナトホテルに立ち寄ると、湊さんは以前とまったく同じように「やあ月子ちゃんじゃないか」と挨拶をした。
「おひさしぶりです」
「先週も来た気がするけど」
「ああ、そうでしたよね。そうでした」
 花岡は頷く。湊さんってば、「あの子、あれからどうなった?」とか訊いてくれないのかな、訊かないよね、だって客の事情は詳しく知りたくない人だもん、とひそかに唇を尖らせる。
「髪切った?」
 どうでもいいことはちゃんと訊ねてくる。あーはい、とすこぶる適当に頷いた。
 あの日、花岡を部屋から出した後、かし子は一時間ほどして階段を降りてきた。「もう家に帰る」と言い出したので、だからまたタクシーで送っていった。
 翌日に、電話がかかってきた。かし子の兄が家に来たという。
「私が呼んだから、だけどね」
 かし子は、今までのことをあらいざらい、兄に話したという。
 すると兄は、いつかこんなことになると思っていた、と言ったそうだ。
 それから、悪かった、とかし子に向かって頭を下げたらしかった。母さんがお前を縛りつけていることはわかっていた、でも見て見ぬふりをしていた、と。家の中でどんなことが起こっているかわかっていたくせに、かし子が助けを求めないことを理由に、見て見ぬふりをしてきた。結局自分が母さんから逃げるために、お前を犠牲にしてしまったのだと思う、と。
「こいつをもう、自由にしてやってくれ」
 息子に頭を下げられて、かし子の母はやはり泣き喚き、こんな仕打ちをされるなら、子どもなんか産まなきゃよかった、と言ったそうだ。どんな思いでふたりがそれを聞いたのか。それを想像すると花岡の心は重く沈む。
 兄はかし子に、家を出るなら俺のところに来てもいいけど、と言ったが、かし子はそれを断ったらしかった。
「難しいかもしれないけど、時間がかかるかもしれないけど、でもひとりで、自分の力で家を出なきゃ、と思う」
 兄のところへ身を寄せたら、今度はきっと兄に依存してしまう、とかし子は言った。そんなことはしたくないのだと。
「花岡にも依存したくない」
 あの日、花岡の手を振り払ったことについて、そんなふうにも言った。
「そっか」
「でも、ありがとう」
 手を引いて走ってくれて、嬉しかった。けど、この先はひとりで走る。かし子はきっぱりと、そう言った。
「花岡、覚えてる? あのマラソンの授業の時」
「うん」
 覚えているとも。花岡は呟く。走るたびに、アカイに明る過ぎる、と言われたかし子の髪は、冬の弱々しい太陽の光の中でも輝いていた。運動靴が踏むグラウンドの砂の感触さえも、まだ残っている。
「引っ張られて走りながら、あの時のこと思い出してた。あれから何年も経つのに、私はまだ花岡に引っ張ってもらってるって」
 このままじゃいけない、と、ようやく思ったと、だからちゃんと花岡にも話して、前に進もうと思ったと、かし子はまた言った。
「わかった」
 でもひとりで走るのに耐えられなくなったら、言ってよ。私、後ろから自転車でついていくし。メガホン持って、かし子しっかりーって叫ぶよ。花岡が言うと、かし子は「熱血コーチかよ」と笑っていた。
 けれどもどうか母を悪く思わないでほしい、とかし子は電話を切る直前、そうも言った。お母さんにはお母さんの抱える問題があるのだと。
「もちろんだよ、わかってる」
 そう答えながら、すこしだけ胸が痛んだ。かし子が「全部お母さんのせいだ」と言える娘であれば、またいろいろなことが違っていたのだろうな、と思ったから。
 かし子は、でもお母さんの問題はお母さん自身がどうにかすべきで、それに私は巻きこまれてはいけないと思った、私の問題に花岡を巻きこんではいけないように、と続けた。懸命に、自分にそう言い聞かせているようにも聞こえた。
 私もそう思うよ、と花岡は答えた。他人に頼ってはならない、助けを求めてはいけない、という意味ではもちろんない。
「それにしても、やっぱり『お兄ちゃん』っていいですよね」
 カウンターに頰杖をついて、花岡は目を閉じる。
「俺のところに来てもいい」と言ってくれるような兄がいるなんてやっぱり素敵だよなあ、とうっとりしていると、湊さんがひとつ咳払いをした。
「月子ちゃん」
 なんですか、と目を開けて訊ねる。
「今日だけ『篤彦兄さん』って呼んでもいいよ」
 君がどうしてもというならば、と言いたげな湊さんの顔をしばらく眺めた後、花岡はきっぱりと「いえ、結構です」とそれを拒む。
「あ、そう」
 そうなんだ、と呟いた湊さんは、残念そうな顔をしている。
「え、もしかして呼ばれたかったんですか」
「うん」
 ちょっとだけね、ほんとちょっとだけ、だって俺ひとりっ子だから、ちょっとだけね。と言われて花岡の心はかすかに痛んだが、だからといってこの湊さんを「お兄さん」と呼ぶのは、どうしても抵抗があった。
 そういうんじゃなくて、と言いたい。ファンタジーとしての「お兄ちゃん」というのは、湊さんみたいな人じゃなくて、なんていうかもっとこう、と言いたいのであるが、さすがに失礼過ぎて、絶対に言えない。
 カウンターの奥に置かれた電話が鳴った。湊さんが受話器を取る。
 明日ですか。ええ。空いていますよ。いつでも、どうぞ。そんなことを答えている。誰かがまた、ここへやって来るのだろうと思う。つかのまの休息を求めて。電話を切った湊さんが存外丁寧な字でノートに電話の相手の名前を書きつけているのを、頰杖をついて眺める。
「湊さんは、このホテルが好きですか?」
 花岡の唐突な問いに、湊さんはすこし考えて、無表情のまま頷く。
「嫌いなら継いだりしない」
 そうですか、と花岡は短く答えて、下を向く。良かった、と思った。どうしてそう思うのか、誰のためになにが「良かった」のかわからないけれども、そう思った。湊さんが、ミナトホテルのことを好きで、良かった。
 魔法なんてここにはないのだと、あの時湊さんは言った。ここだけではなく、どこにもないのだ。そんなものは。でも私たちには、自分の足がある。手もある。目が耳が、言葉がある。花岡も、かし子も、それを知っている。それしか知らないけれども、それだけ知っていればじゅうぶんだと知っている。

Profile

寺地はるな

1977年佐賀県生まれ。大阪府在住。第四回ポプラ社小説新人賞を受賞した『ビオレタ』でデビュー。第二作目となる『ミナトホテルの裏庭には』が発売中。

Pick Up Book

  • かがみの孤城
  • i
  • 私のスポットライト
  • ビオレタ

お知らせ

Cov_shigotoba_R.jpg佐藤ジュンコさんのコミックエッセイ『仕事場のちょっと奥までよろしいですか?』が刊行になりました。作家・伊坂幸太郎さん、漫画家・いがらしみきおさんから伝統工芸の職人さんまで「作ること」のプロ15名の仕事術をイラストでルポ!

達人たちの仕事場にお邪魔したら、楽しい驚きがいっぱい。まさに大人の社会科見学!ふむふむ、へーと読んでいるうちに、むくむくとやる気が湧いてくるお仕事エッセイです。

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本サイト連載「お父さんクエスト」が大人気の小山健さんがイラストを担当した『左利きあるある 右利きないない』が2月8日に発売!

「あるある本」のヒットは多いが、ありそうでなかった「左利きあるある」! 左利きの人は「日常のすべてが不便」と言っても過言ではありません。

(本書より)
・缶切は無理、急須も無理
・リコーダーで一番下の小さい穴を押さえづらい
・自動販売機で小銭を入れづらい
・握手するとき左手を出しかけ一瞬挙動不審になる
・定規で線を引くと目盛りが逆
・アルミホイルやラップが切れない
・習字の止め、ハネができない
・スポーツの部活などから勧誘される...ほか多数

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