エンディングドレス

蛭田亜紗子

エンディングドレス

終末の洋裁教室(1)

蛭田亜紗子さんの最新小説『エンディングドレス』が6月9日、ポプラ社より刊行されます。第一章「終末の洋裁教室」をぜひお読みください。

 最初にしたのは、健康保険証の裏の臓器提供意思表示欄に丸をつけることだった。
 
1.私は、脳死後及び心臓が停止した死後のいずれでも、移植の為に臓器を提供します。
2.私は、心臓が停止した死後に限り、移植の為に臓器を提供します。
3.私は、臓器を提供しません。

 ひと文字ずつ眼で追って唾を呑み込み、「1」をボールペンで丸く囲む。脳死後及び心臓が停止した死後。まどろっこしい文字列の意味が迫ってきて鼓動が速まり、ボールペンを持つ指さきが震えそうになる。わたしの肉体がその状態になったとき、魂はどうなっているのだろう。天国なり地獄なり、この世とは違う世界に移動しているんだろうか。肉体の横にちょこんととどまって、かつて自分だったものが切り刻まれるのを見ているんだろうか。それとも魂なんてものはなくて、きれいさっぱり消えてしまうのか。できれば望んでいる場所へ、と思う。
「提供したくない臓器があれば×をつけてください。」とその下に書かれているものの、思い入れのある臓器なんてとくになかった。眼は左右両方とも近眼だけど、ほかの臓器は去年受けた健康診断ではまったく問題がなかったので、発見が早ければ再利用できるかもしれない。スマートフォンで今日の日付を確認し、年月日と自分の名前を書く。最後に「家族署名(自筆)」という欄があって、手が止まった。
 家族、という言葉からとっさに浮かんだのは弦一郎(げんいちろう)の横顔だった。下へ向かって生えている長い睫毛がつくる影、へこんだ眉間から伸びているあまり高くない鼻、薄いくちびるにあるちいさな茶色いほくろ――。肩が震え、息が乱れた。カードタイプの保険証を床に落としてソファに身を投げ出す。いつから着ているのかわからない灰色のスウェット上下は動物園みたいなにおいを発散していて、腹のあたりに染みがついている。
 しばらくそのままの姿勢でいたが、朝からなにも食べていないことを思い出した。のろのろと起き上がり、キッチンへ向かう。冷蔵庫の冷凍室からレモン味のアイスキャンディを出し、袋を裂いた。これがいまの主食だ。もっと冷えろ、わたしのからだ。かちかちに凍ってなにも感じなくなるぐらいに。歯に沁みるアイスキャンディを齧りながら思う。
 食べ終わるとふたたびソファに横たわり、スマホのメモ帳アプリを開いた。「ToDoリスト」とタイトルがつけられたメモには、箇条書きで六つの項目が並んでいる。

 ・連絡先リストを目立つところに貼る
 ・SNSの退会
 ・パソコンの破壊
 ・スマホの破壊
 ・預金を全額引き出す
 ・所有物の処分

 咥えていたアイスの棒を口から出してセンターテーブルに置く。べとついた頭皮を搔きむしりながら少し考えて、ひとつ書き足した。

 ・ロープを購入する

「......それじゃ、順番に片付けますか」
 スマホをスウェットパンツのポケットに入れると、この一年と二か月でめっきり増えた独りごとを呟いて立ち上がった。プリンタからA4 の用紙を一枚取り出して、空のペットボトルが乱立しているダイニングテーブルに置く。サインペンで「緊急連絡先」と書いた。その下に父の名前と実家の住所と電話番号を記入する。紙を持ってしばらく室内を歩きまわって思案し、玄関ドアの内側にマグネットで貼りつけることにした。ここなら確実に目につくだろう。入室時には気付かなくても、出るときには必ず見るはずだ。
 ふたつめの項目、SNSの退会。自分の部屋のノートパソコンを起動し、手垢だらけの眼鏡をかけた。数か月ぶりにFacebookを開くと、たちまち知人たちのしあわせ自慢が無数の矢のように降り注ぎわたしを射貫く。『娘の三歳のバースデーをお祝いしました。ケーキのクリームがゆるすぎてちょっと失敗。陽菜、生まれてきてくれてありがとう。半年後にはお姉ちゃんだね』『オットとフルマラソン初挑戦! 後半はほとんど歩いたけどなんとかゴールできました♪ つぎはホノルルに出てみたい!』
 被害妄想や僻みだとわかっているけど、わたしへの当てつけに感じて濁った汚水のようなものがどろりと胸にあふれる。なんでわたしだけ、と思う。なんでわたしだけ独りなんだ。でも、わたしだって以前は無意識にだれかを傷つけていたかもしれない。Facebookはほとんど活用していなかったけれど、たとえばふたりで外を歩いているだけで、それを見ただれかをつらい気持ちにさせていたかもしれない。
 どうすればアカウント削除と退会ができるのかわからなくて手こずった。このまま放置しようかとも考えたけれど、「友達」のところに数年前に自殺した以前の職場の先輩の名前が表示されているのを見て、やっぱり消すべきだと思い直す。このひとはどうやって死んだんだっけ。飛び降りだったか、首吊りだったか、だれかから聞いたはずなのに憶えていない。この世から去ってもSNSに痕跡が残り続けるのはなんとなく厭だ。あれこれ検索して方法を調べてアカウントを削除できたが、完全に消えるまでは日数がかかるらしい。
 もう何年もログインしていないmixiは登録したメールアドレスもパスワードもすっかり忘れていて、思い当たる単語の組み合わせを片っ端から試すはめになった。なんとかログインすると、大学二年生になったばかりのころの日記が当時のまま残っていた。十数年前、弦一郎と出会う直前。かさついたくちびるの皮をむしりながらつい読みふけってしまう。レポートが書き終わらない愚痴、サークルの人間関係の悩み、友だちにどんどん彼氏ができていく焦り。もしもこの半年後、弦一郎に出会わなかったら。いまごろほかの男と結婚して子どももいて、自分の生活の充実ぶりを確認するために、さりげなく見えるけれど時間をかけて撮った写真をFacebookやInstagramに投稿しているんだろうか。
 SNSの退会の手続きが終わると、どっと疲れが出た。ここしばらくなにもしていなかったので体力が極度に落ちている。ずるずると這うようにソファに戻り、毛布を引っ張って横になった。初日からわりと作業が進んだので、この調子なら二、三週間もあればすべての準備が終わるかもしれない。
 夢を見た。
 わたしはもこもこしたルームウェアを着てこたつに入っている。弦一郎の脚のあいだに挟まり、弦一郎の胸に頭を預けて、漫画を読んでいる。つまさきに当たっているのはやわらかな猫の毛と肉球だ。わたしは見ていないが、テレビでは白黒の古い日本映画が流れている。なにかが弦一郎のツボに嵌まったらしく、きひひひひ、と息が洩れる感じの独特の笑い声を上げた。
「いまどこ?」笑い終えた弦一郎が訊ねてくる。
「『女海賊ビアンカ』のところ」わたしは漫画から顔を上げずに答えた。
「あー、学校の体育倉庫で独り芝居やるやつ?」
「そうそう」
 こたつの天板には『ガラスの仮面』全巻が積み上げられていた。これから読む巻は右の塔、読んだ巻は左の塔。耐熱ガラスのマグカップに手を伸ばし、シナモンスティックが沈んでいる濃い赤紫色の液体を口に含んだ。息で湯気が揺れ、カップが白く曇る。
「どうよ、今日のホットワインの出来は」
「いい感じじゃない? 八角が効いてて前回よりもおいしいよ。今度は生姜入れてみたらどう?」
「生姜? 麻緒(あさお)はなんにでも生姜入れたがるよな」
「いいじゃん、あったまるんだから」
「でもこのあいだの生姜入りクリームシチューは正直微妙だった」
「はいはい、もうつくりません」
 マグカップをこたつの上に戻し、ふたたび漫画の単行本を手に取る。穏やかな夜だ。外は雪がしんしんと降り積もっている。のぼせた猫がこたつから出てきて、しばらくわたしの腹をうっとりとした顔で揉んでから丸くなった。みかんの皮を剝いている弦一郎の手が漫画本の向こうに見える。その手がみかんをひと房ちぎり、二人羽織のような体勢でわたしの口に差し入れた。甘酸っぱい果汁が口内で弾ける。柑橘が苦手な猫がみかんのにおいに気付いて顔をしかめた。
 弦一郎は残りのみかんをまるごと自分の口に放り込んだ。咀嚼する音が頭のすぐ上で聞こえる。
「あ、ごめん、麻緒の頭にみかんの汁が垂れた」
「やめてよー」自分の髪に触れる。「どこ?」
「ここ」
 言葉と同時に、あたたかく湿った感触が頭のてっぺんに伝わった。弦一郎のくちびるだ。顔を上げるとキスは額に眉に目蓋に降ってくる。銀杏に似た色をした猫の大きな眼がふたりを見ている。
 ――目覚めたあと、猫のぬくもりも弦一郎の感触も残っていたから、どちらももうここにはいないことを理解するのに少し時間がかかった。

<6月8日更新 終末の洋裁教室(2)へ続く>

書籍の詳細はこちらよりご覧いただけます。

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Profile

蛭田亜紗子

1979年北海道札幌市生まれ、在住。2008年第7回「女による女のためのR-18 文学賞」大賞を受賞。10年、『自縄自縛の私』を刊行しデビュー。著書に『人肌ショコラリキュール』『愛を振り込む』『フィッターXの異常な愛情』『凛』などがある。
twitter @funeko_

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